婚約者1
最後に音を立てて離れたアルベルト様の唇から、しばらく目が離せなかった。
頭の中は真っ白で状況をまるで理解できていない。
「マリ、すまない」
アルベルト様は申し訳なさそうに私を支え、ゆっくりと立たせてくれた。その時、ちょうど面白そうに笑う王様と目が合った。
隣に座っている王妃様は顔を伏せているが、肩が微かに震えているのが見える。
一瞬の静寂の後、王様がゆっくりと私たちに近づいてきた。重々しい足音が響くたびに、私の胸が高鳴る。
「まさかアルベルトがここまでするとはな。娘よ、名をマリといったか?」
「へ? あ、はい!」
なんとも間抜けな返事をしてしまい、焦る気持ちを抑えられない。王様に対してこんな態度を取ることが不敬ではないかと、一瞬不安がよぎった。
「なるほど、なるほど……」
王様は私の顔をじっと見つめ、納得したかのようにゆっくりと頷き、口ひげを指で撫でながら満足そうに微笑む。
「さて、そなたにはアルベルトの妻として、この国を救ってもらうことになる。覚悟はよろしいかな?」
その言葉を聞いて、私は頭の中で「妻」という言葉が何度も何度も繰り返された。
理解できず目をぱちくりさせている私の様子が楽しいのか、王様はくすくすと笑いを漏らした。
アルベルト様の方を見ると、その瞳に何か複雑な思いが宿っているように見える。
「!?……やられた」
アルベルト様は短く息を吐き、悔しげに呟いた。その声には、彼がすべてを悟ったという響きがあった。
「陛下! どうかお考えをお改めください!」
先ほど生贄を提案していた栗色の髪の青年が焦った様子で王様の前にひざまずいた。だが、王様は彼に目もくれず、笑みを浮かべて声高らかに言い放つ。
「この婚約の義は覆せぬ。この娘をアルベルトの婚約者と認める!」
その瞬間、大広間に張り詰めた空気が漂った。王様の言葉が、すべての状況を一変させたことを誰もが悟ったのだ。
私以外は……。
―――――
王様が高らかに宣言してから、すでに3日が過ぎた。
アルベルト様と私が祭壇で行ったのは「婚約の儀」と呼ばれるもので、魔法契約によって私たちは結ばれたらしい。
離れていてもお互いの存在を感じ取ることができるそうで、実際に私はアルベルト様の気配を微かに感じる。正直、それが何とも不気味で落ち着かない。
宣言の後、アルベルト様は王様に連れて行かれてしまい、私はいうと、例の生贄を提案した栗色の髪の青年――ラルフに、まるで強制連行されるかのように案内され、会場を後にした。
連れて行かれた先は、私の普段の部屋の10倍はあるだろうとても豪華な部屋。
お風呂やトイレはもちろんのこと、ウォークインクローゼットには何十着もの衣装が並び、暇を持て余さないように本やボードゲームなども揃っている。
そして何よりも心踊ったのが、女子が1度は憧れる天蓋付きのベットだ。寝心地も最高でずっとゴロゴロしていたい。
そんな外に出なくともしばらく過ごせてしまう快適空間だが、時折、ふと我に帰り何とも言えない不安が胸を占めることがある。
「アルベルト様、今ごろ何をしているのかなぁ……」
そんな独り言が思わず漏れてしまった時、目の前の人物の声が返ってきた。
「随分と余裕があるご様子ですね、マリ様」
窓から差し込む陽光が心地よく、つい気が緩んでしまっていた私の前に立っていたのは、ラルフ・バルディだった。
翠の丸みを帯びた瞳と、少し癖のある栗色のマッシュショートの髪。中性的な顔立ちで、私よりもいくつか年上だそうだが、眼鏡を外せば年下に見えるかもしれない。そんな彼の鋭い目が、冷ややかに私を見下ろしている。
「す、すみません……」
つい謝ってしまうのは、私の悪い癖だ。
視線を下げると、ラルフの白い手袋が目に入った。
「謝るくらいなら、覚えてください」
冷たく言い放たれ、私は言葉に詰まる。実は私はここ3日間、ずっと缶詰状態でラルフの授業を受けていた。国の情勢やマナー、さらには淑女の作法――彼は私に、あらゆることを教え込んできた。それも付きっきりで。
部屋から一歩も出られなかったおかげで、命を狙われる心配はなかったが、まさか自分を生贄に推薦した相手に家庭教師をされるとは思わなかった。
ラルフは嫌々ながら教え方は丁寧で、知識の幅も広く、教え方は驚くほど上手い。彼が先生だったら、絶対に人気が出るタイプだ。悔しいけれど。
嫌味は相変わらずだが、責任感が強いのか、やるべきことはしっかりこなしている。
「休憩しますか?」
疲れが見えた私に、ラルフが提案する。珍しいと思いながらも私はすぐに飛びついた。
「休憩する!外に出たい!」
「その顔を見ると、家庭教師なんて引き受けなければよかったと思いますよ」
ラルフが嘆息しながらも、私を外へ連れ出してくれるようだ。ずっと部屋に閉じこもっていたから、外の空気が恋しく喜びを隠せずにいると、ラルフは冷たい口調で言った。
「本当に、貴女がアルベルト様と婚約の儀など取り交わさなければ、こんなことは引き受けませんでした」
どうやら彼は、嫌なことをハッキリ言葉にするタイプらしい。190cmはあるラルフが嫌そうに私を見下ろしてくる。
こんな状況で悔しい、悔しいのに高身長で、中性的。伏せた時の長いまつ毛が美しく、銀縁の華奢なメガネもよく似合っている美形な彼にうっかり見惚れてしまった。
もっと恋愛耐性をつけておくんだったと後悔したと同時に、絶対にラルフだけには知られたくないと思った。
「……まぁ仕事ですから、しっかりお教えいたしますが」
そう言ったラルフの目には、どこか冷ややかさが残っていたが、責任感も垣間見える。
私がドレスの裾を持ち上げて歩こうとすると、すぐに背筋が曲がっていると注意されてしまった。
そういえば今日のパステルカラーのドレスは特に華やかだが、何か理由があるのだろうか。
「そろそろお越しになる頃ですね」
「え?誰が……?」
私が尋ねた瞬間、ふわっとした感覚が胸によぎると共に廊下に繋がる扉が静かに開かれた。
「マリ、久しぶりだな。ラルフも、ご苦労」
アルベルト様が来たのだ。
彼の声に私は息を呑む。
少しやつれた顔をしていたが、優しい微笑みを浮かべていた。
「説明や手続きに時間がかかってしまった。君を部屋に閉じ込める形になって、申し訳なかった」
彼に何か文句の1つでも言おうと散々考えていたのに、目の下にくっきりと浮かぶ隈を見た瞬間、言葉が喉に詰まってしまう。
「さぁ、行こうか」
アルベルト様が急き私の腰に手を回し、エスコートしようとする。
「えぇっと、どこに行くんですか?」
「おや、ラルフから聞いていなかったか?今から父上に改めて挨拶をすることになっている」
「王様に!?」
ラルフを見ると、彼は涼しい顔で手筈は整っていると答える。
朝から侍女たちが念入りに支度をしてくれたのも、励ましの言葉を何度もくれたのも、このためだったことに私はやっと気づいた。
「ラルフゥー?」
ジロリと睨むと、ラルフは「いってらっしゃいませ」と腰を深く折り、私たちを見送る態勢を取った。
「仰々しいね、ラルフ。私にはそんなに礼儀正しくないくせに」
「アルベルト様の大切なお方ですから」
白々しい口調でそう言い、ラルフはアルベルト様に微笑みを向ける。その柔らかい表情を見た瞬間、私は彼がアルベルト様に対して抱く思いを感じ取ってしまい、彼の態度も少しだけ許してあげることにした。本当に少しだけど。
「マリ様は今朝から準備万端です。安心してお連れください」
「そうか、それは良かった」
前言撤回。やっぱりラルフは苦手だ。そう思いながらも、私はアルベルト様の腕に支えられて、重い足取りで部屋を後にした。
[マリの部屋]




