地下室へ
日付が変わったというのに城の中は慌ただしく、窓の外からは街の灯りと賑やかな音楽が微かに響いてくる。ラルフの言った通り、祭りの喧騒は絶好の隠れ蓑になっていた。
私はそっとドアを開け、人気のないことを確認すると、地下へと続く廊下を歩き始めた。水色の髪を隠すための黒いカツラを深く被り、簡素なワンピースに身を包む。傍らには、影のように静かに寄り添うラルフの姿があった。
「……マリ様、足元に気をつけて。ここからは私が結界を張ります」
ラルフが短く囁き、指先で空を切る。すると、私たちの周囲を透明な膜が覆い、足音さえも吸い込まれて消えた。地下へ下りる扉の前まで、驚くほど順調にたどり着く。けれど、扉の向こうから漏れ出る圧倒的な「冷気」に、私の身体は本能的に拒絶反応を示していた。階段を下りる足が重く、体温が急速に奪われていく。
地下室の最深部。重厚な扉をラルフが静かに押し開けた時、私の身体は震えるほど冷え切っていた。
二十畳ほどの部屋の中央には、天井まで届く巨大なガラスの球体があった。球体の中は透き通った水で満たされ、その中には、薄水色の長髪を揺らした一人の男性がつまらなそうな表情で浮いていた。
「……あぁ。やっと来たか」
水の底から響くような声。視線が私に向けられた瞬間、これまでの比ではない冷気が部屋中を吹き荒れた。私は立っていられなくなり、崩れるようにその場に膝をつく。
「マリ様……! 貴殿が水の精霊王、リアンですか。魔力を抑えていただきたい、彼女が限界だ」
ラルフが私の肩を抱き寄せ、鋭い視線で球体の中の男を射抜く。リアンと呼ばれた精霊王は、腕を組み、冷ややかな瞳で私たちを見下ろした。
「貴方が……この国の、水の王なのですか?」
「はっ、呼び捨てとは中々面白い。……いかにも。我が水の王、リアンだ」
リアン様は水掻きのある手を顎に添え、私を観察するように目を細めた。その耳にある虹色のヒレや、肌に刻まれた蒼い模様は妖艶で、神聖な存在であるはずなのに、どこか毒を孕んだ美しさがある。
「ひ弱な……。それでも、人魚の血を引く者か」
リアン様の言葉に、隣のラルフの指がピクリと動いた。ラルフは精霊王と面識はないはずだが、その存在の大きさに、眼鏡の奥の瞳をギラつかせている。
「リアン様、ヴェルナードは今、深刻な干ばつに見舞われています。このままでは国が滅び、海さえも道を閉ざす。我々は貴方の力を――」
「仕方ない。そうなる運命だ。我がここに囚われ、魔力が尽きれば、世界は乾く」
吐き捨てるようなリアン様の言葉に、私の内側で何かが弾けた。
「……運命なんて言葉で、簡単に片付けないでください!」
気づけば、私はラルフの手を振り切り、球体のすぐそばまで歩み寄っていた。
「そうならないよう、必死に抗っている人たちがいるんです! 泥水をすすってでも生きようとしている子供たちや、自分を犠牲にして国を守ろうとしている……アルベルト様のような人が!」
怒りに任せて叩いたガラスに、ピシッ、と鋭い音が響いた。分厚いガラスに、一筋の大きなヒビが入る。背後でラルフが「マリ様!?」と驚愕の声を上げたが、球体の中のリアン様もまた、蒼い瞳を大きく見開いていた。
「……なんだ。できるじゃないか。我の結界を、ただの拳で割るとはな」
リアン様の口角が、僅かに上がった。彼は私を試すような視線を向けたまま、静かに告げる。
「マリ。……蒼い石の付いた『矛』を持ってこい。それがないと、我はここから出ることも、真の力を振るうこともできぬ」
「その矛を見つければ、ヴェルナードを助けてくれますか?」
「我に取引を持ち出すか。……良い度胸だ。いいだろう、元より我もそのつもりだ」
リアン様は観念したように両手を上げた。矛がどこにあるか問う私に、彼は「分からぬ。だが、この国の国境は越えておらず、我の魔力が届かぬ場所にある」とだけ答えた。
「行きましょう、マリ様。長居は危険だ」
ラルフが私の腰を引き寄せ、半ば強引に部屋から連れ出した。階段を駆け上がり、自室のドアを閉めた瞬間、私はその場にへたり込んだ。
「……マリ様、無茶を。ですが、収穫はありましたね」
ラルフは乱れた私の髪を整えながら、眼鏡の奥で昏い光を宿した。
「蒼い石の矛……。それこそが、この国の歪みを正し、私が手に入れたかった『鍵』だ」
彼の言葉の真意を問う余裕もなく、私は激しい魔力消費による眠気に襲われた。蒼い石の矛。その行方を夢の中で追うように、私は深い眠りへと落ちていった。




