雨乞い祭り1
コルタリア最大のお祭りがあと数日で始まろうとしている。あの中庭での一件以来、ユミル様からの直接的な接触はなく、エミル様の強引なお誘いを除いては、不安になるほど穏やかな日々が過ぎていた。
私は自室の窓際で、外の景色を眺めながら思考を巡らせていた。一見平和なこの城の地下には、確実に何かが潜んでいる。制御を失った魔法、耳元で囁く孤独な声、そして城の深淵から漏れ出る、凍えるような水の魔力。
地下への潜入は、祭りの二日目の夜に決まった。あの日、私の異変に気づいたラルフが、地下室への最短ルートと警備の薄い時間を既に割り出してくれている。
「……ラルフ、調べてくれてありがとう」
「勘違いしないでください。これも全てヴェルナード王国のためです」
相変わらず冷徹な口調で彼は言う。けれど、地下への道筋を記した地図を渡された時、私は気づいていた。
本当はラルフの案内など必要ないほど、私の感覚は既に「そこ」を捉えているのだ。
お祭り当日。空には雲ひとつない、抜けるような青空が広がっていた。城の大広間は、各国から招かれた王族や貴族たちの熱気で溢れかえっている。
「さあ、祭りの始まりだ!」
コルタリア王のバハル様の開催宣言と共に、中庭の巨大な鐘が鳴り響いた。外からは地鳴りのような歓声が聞こえてくるが、密かに潜入を企てる私の心は、冷たい緊張感に支配されていた。
広間の中央でダンスが始まろうとした時、目の前に、正装に身を包んだエミル様が立ちはだかった。
「エミル様、ごきげんよう」
私は最大の笑顔を作って後ずさりしたが、彼は逃がさないと言わんばかりの歩幅で距離を詰めてくる。完全に面白がられている。
「……楽しんでいらっしゃいますか?」
「ああ。マリがいつまで逃げ回るか、見物だと思ってな」
ふと視線を感じて振り向くと、そこにはルナ様がいた。氷の魔法を象徴するような、輝くアイスブルーのドレス。彼女はその美しさで周囲の視線を独占しながらも、ただじっと、私たちを射抜くような目で見つめていた。
「マリもルナも、ドレスがよく似合っている。さすが俺の選んだ一着だ」
エミル様が満足げに鼻を鳴らし、誇らしげな手つきで私の腰をぐいと引き寄せた。彼が自信満々に断言する通り、私が纏わされているのは、パープルとピンクが混ざり合う幻想的なマーメイドドレスだった。
ドレスはしっとりと吸い付くように体幹のラインに沿いながらも、膝下から裾に向かっては泡のように優雅に広がり、私が一歩踏み出すたびに、まるで人魚の尾のようにしなやかに揺れる。
胸元から腰の曲線にかけては、コルタリア特有の細やかな金の刺繍が川の流れのように施されていた。大広間のシャンデリアが放つ光を反射し、動くたびに鱗のような煌めきを放って輝く。
「さすが俺の選んだだけあるだろう?」
「……ありがとうございます。でも、エミル様。やはりこれ、少し肌が見えすぎではありませんか?」
肩から背中、そしてデコルテにかけての露出が多すぎて、本当に恥ずかしい。この世界では当たり前なのかもしれないが、現代日本の一般人感覚からすれば、十代のルナ様ならまだしも、私にはあまりに刺激が強すぎる一着だ。
「コルタリアではこれが正装だ。文句があるなら後でゆっくり聞いてやるよ」
エミル様は私の困惑を知ってか知らずか、その金の瞳に不敵な光を浮かべて囁いた。
「はい、ありがとうございます……」
色々と言いたいことはあるが、それは後にすることにして、私はお礼を述べるとスルリとエミル様の手から逃れようとした。と思った矢先、今度は別の冷ややかな人物が、背後から私を受け止めた。
「おやおや。大胆だね、マリちゃん」
ユミル様が、獲物を狙う獣のような微笑みを浮かべて立っていた。
「ユミル、マリを離せ!」
「マリが自ら僕のところへ来たんだ。そうだね?」
エミル様の追及をかわすため、私は意を決してユミル様の腕にしがみついた。
「そ、そうなんです! 先日のお詫びをしたいので、エミル様、失礼しますね!」
私はユミル様に導かれるように、ダンスの輪の中心へと入り込んだ。王族が最初に踊るという伝統のせいで、周囲に大きな円ができる。エミル様とルナ様も、反対側でステップを踏み始めた。
「さあマリ。お手並み拝見といこうか」
ユミル様は私の返事を待たずに踊り出した。数日間、ラルフの厳しい監視の下、エミル様に叩き込まれたダンスを披露する時が来た。
「へぇ。結構上手いんだね」
「ユミル様には及びませんが」
「そうだろうね。僕とエミルに敵う者はいない。……昔はよく、二人で踊っていたよ」
懐かしむような彼の表情には、一瞬だけ、嘘のない寂しさが宿った気がした。けれど、彼はすぐに氷のような微笑みに戻り、私の耳元で毒を吐いた。
「……そういえば、もうすぐなんだ」
「何が、ですか?」
「ヴェルナード王国との、戦争だよ」
「なっ……!!」
衝撃に足がもつれ、私は自分のドレスの裾を踏み抜いた。身体が崩れ落ちそうになるが、ユミル様が床ギリギリのところで私を抱き止める。
ちょうど音楽が終わり、周囲からはそれが「高度な演出」だと思われたのか、割れんばかりの拍手が起こった。拍手の嵐の中で、私の心臓だけが早鐘を打っている。
「ふふ。危なかったね、マリちゃん。動揺しちゃったね」
ユミル様は満足げに手を振ると、何事もなかったかのように去っていった。
私は貼り付けたような笑顔でカテーシーを返しながら、ユミル様の背中を静かに見送った。
…..
「疲れた……。もう、一歩も動けません。お部屋に帰りたいです……」
私の切実な呟きに、隣に座るエミル様が呆れたように視線を向ける。
「おい、王妃になったらこんなもんじゃないぞ? 今から根を上げてどうする」
「そうですわね。私も、いずれ立つべき場所のために頑張らねばなりませんわ」
ルナ様まで各々に答えるけれど、どうも話の前提が噛み合っていない。突っ込みを入れる気力もなく、現実逃避に空を見上げれば、今夜も美しく星々が煌めいていた。
私たちは今、中庭の端にある東屋で、ダンスの喧騒を離れてテーブルを囲んでいる。エミル様が疲れきった私を見かねて誘ってくれたのだが、片時も離れようとしないルナ様をどうにかしたかったようにも見えた。
「綺麗ですね……。あちらでは、何をしているのですか?」
ふと、どこからか清らかな歌声が聞こえ始め、私はそちらを指差した。城を出てすぐの立派な噴水の陰で、純白のドレスを纏った少女たちが、交代で讃美歌のような調べを捧げている。
「……あれは水の精霊王、リアンへの祈りだ」
エミル様が興味なさげに、けれどどこか苦い表情で教えてくれた。リアン――その名を聞くたび、私の心臓が不自然に跳ねるのはこれで二度目だ。
「祭りの間、その年に選ばれた『清き乙女』が交代で雨乞いの歌を捧げている。……昔は別の方法だったがな。そんな事をさせたところで、意味などなかったが……」
蔑むようなエミル様の口調には、深い怒りと悲しみが滲んでいた。その表情を見て、私は気づいてしまう。
この世界に来てすぐ、私も経験したあの絶望。あの一瞬でさえ、心の底から竦み上がるような恐怖を感じた。アルベルト様に助けてもらえなければ、私は今頃どうなっていただろう。今でもあの時の凍りつくような感情は忘れられない。
「っごめん! お前も、あのヴェルナードの奴らに同じことをされかかったんだったな。……ごめんな」
エミル様がそっと腕を伸ばし、私の両手を温かく包み込んでくれた。
「思い出させたか? 顔色が悪いぞ」
「大丈夫です……。少し、驚いただけ。……この国でも、雨を降らせるために誰かが犠牲に……」
「……ああ。そんな馬鹿げた風習を変えたのが、先代王のじいちゃんだ」
エミル様が絞り出すような声で呟く。その横顔には、夜の静寂さえも焦がすような激しい怒りが宿っていた。
「もっと早く、俺たちの一族が王権を奪えば良かったんだ。そうすれば……サラも、あんな場所に行かずに済んだのに」
エミル様がその名を漏らした瞬間、じっと話を聞いていたルナ様の身体が、弾かれたように僅かに反応した。
――サラ。
かつてエミル様には、五つ離れた妹がいた。ラルフから事前に聞かされていたその名は、今のコルタリア王宮において、決して口にしてはならない絶対の禁忌。
コルタリアに来る前、ラルフは無表情のまま、けれど念を押すように何度も私に言い聞かせた。エミル様の妹、サラ様はこの世にはもういない。そして、不用意にその名を呼んだ者には過酷な罰が下されると。
「……平民も貴族も、時には王族さえも。魔力を持って生まれれば、等しくその狂った選別にかかってしまう。それで侯爵家だったじいちゃんはブチギレて、王室を乗っ取ったってわけだ」
コルタリア国には、魔力を持って生まれる人間がほとんどいない。代わりに発達した薬草学が人を救い、研ぎ澄まされた剣と高度な戦術が、他国からの侵略を跳ね返してきた。
魔力がないことが平和の礎だったこの国で、魔力を持つ者は「神への捧げ物」として扱われていたのだ。
「お前たち、何度も言うがユミルには気をつけろよ。あいつは今、『旧貴族派』の連中と深く繋がっている」
旧貴族派。先人の悪しき慣習を重んじる保守的な勢力、としか聞いていないが、エミル様の顔色を見る限り、相当に危険な組織なのだろう。
「あいつら、伝説の『水乙女』の復活を目論んでいる。昨年は未遂で終わったが、今年はこれ以上ない『最適な生贄』が目の前にいるからな」
エミル様はそう言って、痛ましげに私を見つめる。話の流れからして「水乙女」が生贄の別名なのは理解できたけれど、なぜ二人してそんな不憫な目で私を見るのだろう。
私だけじゃない。ルナ様だって魔力はあるし、あそこの噴水で歌っている少女たちだって危ないはずだ。というか、こんな物騒な行事が他国に漏れていない時点で、彼らの秘密工作の恐ろしさが知れるというものだ。
「おいマリ、本当にかみ合ってないのか? お前の通り名が何なのか、言ってみろよ」
「通り名? ええと……あの恥ずかしいやつですか?」
私は嫌々ながら、あの仰々しい二つ名を思い出す。
水呼びの乙女。
水の、乙女。
……水乙女。
「っ!!」
「だから、エミル様は絶えず貴女の側にいるのですよ」
ルナ様が呆れたような顔でため息をつく。いや、それならルナ様だって危ないのでは? と喉まで出かかったけれど、彼女に反論する勇気がなくて、私は心の中で突っ込みを入れるに留めた。
「それにしても、そんなに危ないと分かっている場所に、なぜ私を招待したのですか?」
危険なら、そもそもエミル様が私をここに呼ばなければ済んだ話だ。
「俺じゃない。マリの話を親父に吹き込んで、招待を進めたのは全部ユミルの仕業だ」
「え? 何でユミル様が……」
「俺たちがマリの話をしているのを偶然聞いたらしいが、そんなの嘘に決まってる。分かったか、ユミルとは絶対に二人きりで会うなよ」
エミル様が、心底心配そうな表情で私とルナ様に告げる。けれど、安心してほしい。略して「水乙女」と呼ばれようが、何だろうが。
「私、そもそも『乙女』じゃないから大丈夫ですよ~」
周囲からは若く見られているようだけれど、実年齢は二十三歳。現代ならともかく、この世界の基準で「乙女」と呼ばれるには、さすがに無理がある。
「「えっ!?」」
エミル様とルナ様の声が、驚愕と共に重なった。そんな、化け物でも見たような顔で私を見ないでほしい。特にエミル様に至っては、魂が抜けたような顔で相当なショックを受けているように見える。
一体、私はいくつだと思われていたのだろう。




