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砂漠の王子1

 

 窓の外から聞こえる、シトシトという規則正しい音。

 コルタリア王国に到着して数日。昨日までの陽光が嘘のように、空は低い雲に覆われ、街は柔らかな雨に包まれていた。


(……雨だ。なんだか、ホッとする)


 実は、私は雨の日が嫌いじゃない。

 むしろ、雨音に包まれていると、身体の芯が潤いで満たされるようなワクワクした感覚になる。日本にいた頃は、お気に入りの長靴と傘を持って、あえて遠回りして通勤したこともあるくらいだ。

 けれど、今は「雨呼びの乙女」なんて仰々しい肩書きを背負わされている身。そんなはしゃいだ姿を見せるわけにはいかない。


「マリ! 雨だぞ! 行くぞ、準備しろ!」


 その時、私の静かな高揚感をぶち壊すように、扉が勢いよく開け放たれた。

 現れたのは、この国の第三王子、エミル・アルカマル・アズィーム様。

 昨夜のダンスパーティーで散々振り回され、ようやく一人の時間を満喫しようとしていた私の希望は、彼の眩しすぎる笑顔と共に散った。

 背後では、従者のナキさんが「申し訳ありません……」と言わんばかりに深いため息をついている。


「エミル様、せっかくの雨ですし、今日はお部屋で読書でもしませんか?」


「はは! 何を言っているんだ、マリ。コルタリアの雨は『特別』なんだぞ。部屋に閉じこもっているなんて、それこそ罪だ!」


 エミル様の金の瞳は、雨空の下でも爛々と輝いている。

 「とにかく行くぞ!」と強引に腕を引かれ、私は渋々廊下へと連れ出された。途中で合流した侍女のコルテも、突然の外出劇に目を白黒させている。


「ねえコルテ。……こういう強引な展開、前にもあったわよね?」


「デジャヴですね、マリ様」


 私たちは顔を見合わせ、悟ったように馬車へと乗り込んだ。



…..



 馬車が城下町の入り口に到着し、私たちは外へと踏み出した。

 ナキさんから渡されたマントは、撥水性の高い不思議な生地でできており、落ちてくる雨粒を真珠のように弾いてくれる。

 ふと横を見ると、エミル様はマントも被らず、そのままの姿で雨の中に立っていた。


「……エミル様、濡れてしまいますよ?」


「いいんだ。俺は特に気にならない。というか、この国じゃこれが『正装』みたいなもんだからな」


 エミル様が笑って指差した先。街の人々は驚くべきことに、誰一人としてマントや傘を使っていなかった。

 それどころか、わざわざ雨の中に躍り出て、天を仰いで笑い合ったり、街角の噴水の周りでリズムを刻んで踊り出したりしている。


「コルタリアじゃ、人通りの多い場所での傘の使用は『法律』で禁止されているんだ」


 ナキさんがそっと補足してくれる。


「雨が降り始めた数年前、王はこの国での傘の使用を法律で一切禁じられました。……表向きの理由は、『恵みの雨は神からの等しき贈り物であり、それを遮る行為は神への冒涜である』という神聖なものです」


 ナキさんが、静かに、けれどどこか苦い口調で補足してくれる。

 雨が滅多に降らなかった砂漠の国。彼らにとって雨は、肌を刺す砂嵐よりもずっと貴重な「神の涙」だ。それを傘という道具で弾くのは、確かに信心深いこの国の人々にとって、許しがたい不遜な態度に映るのだろう。


 ――けれど、その美しい建前には、あまりにも現実的で血なまぐさい「裏の理由」があった。


「本当の理由は……雨に不慣れな国民たちが、傘の扱いを巡っての喧嘩が絶えなかったからです。雨の日に傘の先端がぶつかった、視界を遮った、滴が隣の者にかかった……。そんな些細なことで剣を抜く者が続出し、街が混乱に陥った。ならいっそのこと、全員等しく濡れればいい――。それが、王が下した現実的な審判だったのです」


 美しい神話の裏にある、あまりに人間臭いトラブルの数々。それを聞いて、私は少しだけ呆れながらも、この国の人々の情熱の激しさを思い知らされた気がした。


「さあ、マリ。お前を連れていきたい店があるんだ。離れるなよ」


 エミル様が私の手を、指を絡めるようにして強く握りしめた。

 異世界の王子の、熱く、力強い手のひら。私は一瞬抵抗しようとしたけれど、彼の少年のような純粋な横顔を見て、そっと力を抜いた。


 レンガ造りの赤土色の建物が並ぶ街並み。雨に濡れて深みを増した街の色は、どこか日本の古都のようでもあり、不思議な懐かしさを感じさせる。

 道ゆく人々を観察すると、黒に近い髪色の人が多い。


 ――黒髪が多いのは、魔力を持たない人が多い証拠……。でも、エミル様は黒髪なのに、どうして魔法が使えるのかな。


 不思議に思い彼の髪を覗き込むと、一房だけ混じった燃えるような「赤」が、濡れた光の中でキラリと不吉に、あるいは神聖に輝いた気がした。



 商店街の賑わいの中を歩いていると、不意に雨脚が弱まった。

 エミル様が、名残惜しそうに空を仰ぐ。


「……何だ。もうやむのか」

 

 その声は、震えるほど切実だった。

 周囲の人々も同様に、動きを止めて空を、そして地面の濡れた跡を見つめている。


「マリ、いいか。この国にとって、雨はただの水じゃない。命そのものなんだ」


 エミル様が向き直る。繋がれた手に、ぎゅっと、痛いほどの力が込められた。


「雨が降り始めてからの二年で、砂漠は消え、オアシスはすべて復活した。皆、飢えと渇きの恐怖からようやく解放されたんだ」


 金の瞳が、私の視線を真っ向から捉える。その瞳の奥には、狂おしいほどの「執着」が渦巻いていた。


「俺は、この雨を手放すわけにはいかない。……何があってもだ。たとえ、どんな犠牲を払うことになっても」


「エミル様……?」


 彼の言葉の端々に、説明のつかない不穏さが滲む。

 雨を喜ぶ人々の歓声。活気づいた街。その裏側で、彼が何を背負っているのか、私はまだ知る由もなかった。


「なーんてな! 深刻な顔しすぎだぞ、マリ!」


 次の瞬間、彼はいつもの悪戯っ子の笑顔に戻り、私の眉間を人差し指でグリグリと突いた。


「悪い悪い、つい雨のことになると熱くなっちまってな」


「……驚きました。でも、それだけこの国を大切に思っていらっしゃるんですね。見直しました、エミル様」


 正直な気持ちを伝えると、エミル様の顔がみるみるうちに真っ赤に染まった。

 腕で顔を隠し、「ま、まぁな」と照れ隠しに呟く彼を見て、私は思わずクスクスと笑い声を漏らした。

 けれど、その平和な空気を切り裂くように、冷たく、滑らかな声が響いた。


「おやおやエミル。随分と楽しそうですね」


 いつの間にそこにいたのか。

 石造りの回廊の影から、一人の男性が静かに歩み出てきた。

 腰まで伸びた艶やかな黒髪。燃えるような赤い瞳。そして、エミル様と「全く同じ」骨格を持ちながら、纏う空気だけが致命的に異なる男。


「……ユミル。今、戻ったのか」


 エミル様の声が、氷のように冷え切る。

 ナキさんも、一瞬で戦闘態勢に近い緊張感を見せた。


「ふふ、僕が帰ってきて嬉しいでしょう? 寂しかったかい?」


 ユミルと呼ばれた青年は、エミル様を、まるで虫の観察でもするように面白そうに見つめている。そして、私の視線に気づくと、一瞬だけ瞳の奥を凍りつかせ、次の瞬間には完璧な微笑みを貼り付けた。


「初めまして。僕は双子の兄、ユミル。君が噂の『水呼びの乙女』マリちゃんだね。会いたかったよ」


 穏やかな口調。けれど、その目は微塵も笑っていない。

 私は本能的な恐怖で身を竦めた。エミル様が、すぐさま私を背中に隠すように一歩前に出る。


「はは。隠しても無駄だよ、エミル。もう『見つけちゃった』からね。……マリちゃん、またお城で。君とはゆっくりお話ししたいことがたくさんあるんだ」


 ユミル様が従者を引き連れ、優雅に去っていく。

 街の人々は、彼に熱狂的な賛辞を送り、中にはその足元に跪こうとする者さえいた。その光景は、どこか歪で、異様に感じられた。


「……ユミルには気をつけろ」


 エミル様が、震える拳を握りしめて囁いた。


「あいつは狡猾で、情のかけらもない男だ。……クソ、あいつのせいで気分が台無しだ!」


 エミル様は再び私の腕を掴むと、今度は逃がさないと言わんばかりの強さで、私を夕暮れの街へと連れ回した。

 その夜、王宮の部屋に戻った私は、泥のように深い眠りに落ちた。

 夢の中で、再びあの「声」が聞こえた。


"マリ……。時はきた……"


 目が覚めたのは、翌日の昼過ぎだった。

 外は、まだしとしとと雨が降り続けていた。

しばらく、アルベルトのいない話が続きます。

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