コルタリア王国2
「ようこそ、我が故郷、コルタリア王国へ!」
エミル様の朗々とした声と共に、大広間へと続く巨大な金の扉がゆっくりと左右に開かれた。
目に飛び込んできたのは、ヴェルナード王国の精錬とした美しさとは対極にある、圧倒的な黄金の輝きだった。
壁一面を埋め尽くす緻密な幾何学模様のレリーフ、真紅と金の刺繍が施された垂れ幕、そして香油の甘く濃密な香りが空気を支配している。
私はドレスの裾を握りしめ、心の中で深くため息をついた。
国境を越えてから今日までの1週間は、まさに「エミル様という名の嵐」に翻弄され続ける日々だった。
まず驚いたのは、国境の壁を抜けた先に広がっていた光景だ。
灼熱の砂漠を越える覚悟でいた私の目に飛び込んできたのは、地平線まで続く青々とした大草原だった。
「砂漠と聞いていたのですが……」
思わず呟いた私に、エミル様は少し気まずそうに、けれどどこか誇らしげに鼻を鳴らした。
「あー……。数年前から急に草木が生え始めてな。今じゃ、この通り緑の絨毯だ。ヴェルナードの連中には刺激が強すぎると思って、あえて黙っていたんだが」
雨の降らないヴェルナード。一方で、数年前から豊かな水に恵まれ、砂漠が緑に変わり始めたコルタリア。
この「格差」が、両国の間にどれほどの緊張感を生んでいるか、私でも肌で感じる。ラルフが「粗相があれば戦争だ」と血走った目で釘を刺してきた理由も、今ならよくわかる。
そんな緊迫した状況だというのに、エミル様の振る舞いは相変わらずだった。
砂漠はないのに「伝統だから」とラクダの相乗りを強要し(密着しすぎて心臓に悪かった)、休憩のたびに「乙女への献上物だ」と言って、市場の品物を手当たり次第に買い与えてくる。
さらに、村の子供たちが私に近づこうものなら、「俺のマリに触るな」と言わんばかりの威圧感を放って追い散らす始末だ。
何より不可解だったのは、彼が同行しているルナ様を露骨に避けていたことだ。
ルナ様もまた、エミル様を無視するように静かに歩みを進めていた。二人の間に流れる妙に冷ややかな空気の理由を尋ねる隙もないまま、私たちはこの黄金の王宮へと辿り着いたのだ。
…..
大広間の奥、一段高い場所に置かれた玉座には、一人の巨漢が鎮座していた。
褐色の肌、短く刈り込まれた髪、そして獲物を射抜くような鋭い赤の瞳。エミル様の父親であり、コルタリアを統べる王、バハル様だ。
私たちの前を行くのは、ルナ様。そして彼女を完璧にエスコートするのは、エミル様の兄であり第一王子のハサン様だった。
バハル様と同じ赤の瞳を持ち、その物腰は低く、どこか底知れない冷静さを湛えている。
「兄貴が気になるのか? 傲慢で鼻持ちならない奴だからやめとけ」
耳元でエミル様が不機嫌そうに囁く。
エミル様と一緒だと、喉元まで出かかった言葉を飲み込み、私は前を見据えた。
「ヴェルナード王国、王女ルナ。そして、第二王子アルベルトが婚約者、マリ。よくぞ参った」
王の野太い声が広間に響き渡る。その視線は、まるで獲物の値打ちを測る商人のように冷徹で、鋭い。
「コルタリア王国の重要な催しにお招きいただき、光栄に存じます」
ルナ様が、これ以上ないほど完璧な所作で頭を下げた。氷の彫刻のように気高く、美しい姿。周囲の貴族たちから、溜め息のような感嘆が漏れる。
「『氷の姫君』に、『水呼びの乙女』か……。雨乞いの行事には、これ以上ない賓客だな。ははは!」
豪快な笑い声。けれど、その瞳は微塵も笑っていない。
エミル様がさりげなく、けれど力強く私の肩を抱き寄せた。王はその様子を面白そうに眺めたが、追及はしなかった。
「長旅で疲れたであろう。祭りまでの数日間、我が国の贅を尽くしてもてなそう。さあ、宴だ!」
その声を合図に、楽団が躍動感あふれる演奏を開始した。
静かなヴェルナードの夜とは違う、熱気を孕んだ宴が幕を開ける。
ルナ様はいつの間にか、ハサン様と共に貴族たちの挨拶回りに消えてしまった。
一人取り残されそうになった私を、エミル様が逃がさない。
「おい、マリ! 立ち尽くしてないで、俺と踊るぞ!」
「ちょっと待ってください! 私、コルタリアのダンスは……っ!」
抗議する間もなく、私は大勢の貴族が踊る輪の中へと引きずり込まれた。
コルタリアのダンスは、ヴェルナードの優雅な旋律とは異なり、激しい鼓動のようなリズムを刻む。戸惑う私の腰を、エミル様が強引に引き寄せた。
「俺に任せておけ。お前は俺のリズムに乗っていればいいんだ」
密着した身体から、彼の高い体温が伝わってくる。
強引なリード。けれど、不思議と足が絡まることはない。悔しいけれど、彼のエスコートは完璧だった。
「なんだ、案外上手いじゃないか」
不意に耳元で囁かれ、首筋に彼の熱い吐息がかかる。
「……っ!」
頭から拍子が抜け、思わず彼にしがみついてしまった。
「ははは! マリ、そんなに顔を真っ赤にして。可愛い奴」
始終ご機嫌なエミル様に振り回され続け、曲が終わる頃には私は完全に息を切らしていた。
「休憩だ」と言って連れて行かれたのは、喧騒から離れた静かなバルコニーだった。
夜風が火照った肌に心地よい。
ふと見上げた夜空には、ヴェルナードの厚い雲に遮られて見ることのできなかった、零れ落ちそうなほどの満天の星空が広がっていた。
「すごい……綺麗……」
「……こんな夜空で感動するなんて、マリは単純だな」
呆れたような、けれどどこか優しい声。
隣に立つエミル様の金の瞳が、月光を受けて妖しく輝いている。
「そんなに見ないでください。落ち着きません」
「嫌だと言ったら?」
「また……子供みたいなこと言わないでください」
困ったように笑うと、エミル様の表情がふっと和らいだ。
「……お前、そんな風に笑うんだな」
「え?」
「もっと笑えよ。……その方が、可愛い」
不意打ちの言葉に心臓が跳ねる。
反論しようと見上げた瞬間、エミル様の手が私の頭を愛おしそうに撫で、そのまま、力任せに抱き寄せられた。
「やめてください、怒りますよ……!」
「怒ればいい。だがな、マリ。この国に来た時点で、お前にできることは何もないんだ」
「……確かに、お水が豊富なコルタリアでは、私の『水呼び』の力は必要ないかもしれませんが……」
私の言葉に、エミル様が突然、声を上げて笑い出した。
「お前、本当に……。この状況で本気でそんなことを言ってるのか? この国でも慈善事業でもするつもりだったのか?」
「え、そのために招かれたんじゃ……?」
「はあ……マジか。お前、自分がどれほど『危険な獲物』か、自覚なさすぎだろ」
エミル様は大きなため息をつくと、真剣な、けれど余裕に満ちた笑みを浮かべて私の顎を持ち上げた。
「まあいい。そんな無垢なままでいられるのも、今のうちだけだ」
抗う間もなく、彼の金の瞳が目前に迫る。
チュッ、と軽い音がして、頬に柔らかな熱が触れた。
「――っ!」
「その反応。たまらないな。もっと俺を愉しませてくれよ、マリ」
からかわれたのだと気づき、怒りで顔が熱くなる。
けれど、感情が乱れたその瞬間。私の内側の魔力が、バルコニーの空気を震わせた。
その時だった。
エミル様の笑い声さえも遠のくほど、澄んだ、冷たい「声」が脳裏に直接響いたのは。
"……マリ"
一滴の水が、静止した水面に落ちるような響き。
"マリ……我はここに……。早く……"
それは、若く、けれど気が遠くなるほどの孤独を抱えた男性の声だった。
「誰……? 今の声……」
「どうした、急に?」
エミル様が不思議そうに私の顔を覗き込む。彼には聞こえていない。
水の精霊の気配とは違う。もっと重く、このコルタリアの大地そのものが泣いているような、そんな声。
「……なんでもありません。少し、風に当たりすぎたみたいです」
「そうか。なら、宴に戻るぞ。今夜はまだ長いからな」
エミル様はいつもの悪戯な表情に戻り、傲慢に、けれど守るように私の手を取った。
背後で、再びあの「声」が聞こえた気がした。
黄金に輝く美食とダンスの裏側で、何かが着実に壊れ始めている。
私は得体の知れない不安を胸に抱いたまま、再び熱狂の渦へと足を踏み入れた。




