水呼びの乙女と氷の姫君
コルタリア王国への旅路は長い。
ヴェルナード城から真っ直ぐ東に進み、国境にたどり着くまでに一週間。
国境を越えるとすぐに始まる灼熱の砂漠地帯を抜けるのに、さらにもう一週間。砂漠が終わればすぐに城下町に入り、半日ほど進むとようやくコルタリア城に到着する。
順調にいけばの話だけれど、途中で雨を降らせたり、盗賊に襲われたりといったトラブルを考えると、二週間ではとても収まらないという。
季節はすっかり秋に入っていた。
空いっぱいに鱗雲が広がり、爽やかな風が吹き抜けている。
天気はもちろん晴れ。私は馬車が休憩のために村へ寄るたび、そんな空に雨雲を集めて雨を降らせている。
魔法を使うのにはそれなりに体力が必要だが、フォンテが私の魔力を返してくれたおかげか、疲れを感じることはほとんどなかった。
どれだけ水を出しても、雨を呼んでも全く問題ない。
ただ――治癒魔法だけは、まるで別物だった。
魔法を使った瞬間、ずしりと体に負荷がかかるのがはっきりと分かるのだ。
病気や怪我の程度によってその負荷の大きさが違うこと。そして、体の一部が欠損してしまった場合は再生できないこと。それが、今までに分かったことだった。
「ないものは、治せないんだ……」
だからきっと、空へ行ってしまった魂を呼び戻すことはできない。もし万が一できたとしても、それに見合う対価は自分の命に違いない。私は直感的にそう思っていた。
「マリの治癒魔法は他言無用じゃ」
私の力を知った王様は、苦悶に満ちた複雑な表情で、事情を知る者たちにそう告げた。もし口外すれば、それだけで重い罰が下される。
この国にも「治癒師」と呼ばれる魔法使いはいるけれど、初対面であの部屋にいた全員を完治させるなんて芸当、彼らには不可能らしい。
普通、治癒魔法には深い知識が必要だ。病気や体の構造を正しく理解し、適切な場所に魔法をかける。元の世界でいうお医者さんのような存在なのだ。けれど、私はどうやら、そのお医者さんたち以上に「凄い」らしい。
「マリを巡って戦争になるかもしれぬ。自分を大切にし、十分に気をつけるのじゃぞ」
戦争。その重苦しい響きに、ゾクりと背筋が寒くなった。
私の魔法は、一国の平和を揺るがすほど貴重なものなのだ。
けれど、実際に怪我や病気に苦しむ人を目の前にして、見て見ぬふりなんて私にはできない。そう考えた私は、誰にも見つからないようにこっそりと練習を重ねることにした。
部屋にあった虫食いの木の葉で何度もコツを掴み、ちょうどベランダに迷い込んできた、羽を怪我した小鳥を治してみることにした。
慌てていたのでひざまずくのを忘れてしまい、ただ胸の前で手を組んで願っただけだったけれど、小鳥は見事に完治した。
できた! という喜びを誰かと分かち合いたかったけれど、話してしまえばその人を「共犯」にしてしまう。だから、これは私だけの秘密だ。
またあんな悲しい思いをしないように。そして、いつか誰かの本当の助けになれるように、私はそっと祈りを込めた。
―――――
「いつもそうやって、雨を降らせていますの?」
出発して数日。日課になりつつある雨降らしを終えようとしたとき、背後から凛とした声が響いた。驚いて振り返ると、そこには護衛も連れず、たった一人で日傘をさして立つルナ様の姿があった。
人目に付かぬよう、いつも物陰を選んで魔法を使っていたはずなのに。周囲を警戒していたコルテの目を盗んでここまで来るとは、さすが王族というべきか。
「はい。以前は井戸に直接水を汲み上げていたので目立ちましたが、この方法なら空が見えればどこでもできますから。なるべく、ひっそりと」
「そう。謙虚なのね」
ルナ様は相変わらず鉄面皮のままで、厚い雲に覆われ始めた空をじっと見上げている。
「目立つのがどうにも苦手で……」
注目を浴びることに慣れていない身としては、影に潜んでいる方が落ち着く。もし自分がエミル様のような自信に満ちた性格だったら、広場のど真ん中で派手なパフォーマンスでも披露していたのかもしれないけれど。
「王子の婚約者が何を言っていますの。貴女はもう、十分すぎるほど目立っていましてよ」
その指摘は、ぐうの音も出ないほど正論だった。水色の髪に、神秘的な金の瞳。この世界では、その色彩だけで嫌でも人目を引いてしまう。
追い打ちをかけるように、吟遊詩人たちが私のことを『水呼びの乙女』とおもしろおかしく語り広めたおかげで、初めて訪れる村でさえ一瞬で正体がバレてしまう始末だ。
ましてや今は、王族の証である金の髪をなびかせるルナ様まで同行している。私たちの旅団は、どこへ行っても注目の的なのだ。
「ルナ様たちは、昔からずっとこういう視線に晒されてきたんですね。……凄いです」
他人の好奇心や視線が、これほどまでに重く、神経を削るものだとは知らなかった。
「そうかしら。……貴女が、いちいち真に受けすぎているだけではなくて?」
「真に受ける……?」
「羨望も妬みも、すべてをまともに受け取ってはいけませんわ。さらりと受け流すのがよろしくてよ」
幼い頃から貴族社会の荒波に揉まれてきた彼女の教えは、あまりに次元が違った。私がその域に達するのはいつになることやらと、思わず遠い目になってしまう。
「貴女……本当におもしろいわね」
ルナ様はそう言った。けれど、その端正な顔は相変わらずピクリとも動かない。冷たい氷細工のような無表情に、私はおもわず不意に吹き出してしまった。
「……どうして笑っていますの?」
「だって、おもしろいっておっしゃるのに、ルナ様の顔がちっともおもしろそうじゃないんですもの」
「あら……」
「『あら』じゃないですよ。ふふふ、あはは!」
ルナ様はじっと私を見つめている。表情は読めないけれど、その瞳の奥には困惑の色が浮かんでいるのがわかった。
それがさらにおかしくて笑いが止まらなくなってしまったけれど、彼女は私が落ち着くまで、嫌な顔一つせず静かに待っていてくれた。
「……落ち着きまして?」
「はい。すみません、失礼なことを……お許しください」
「構わないわ。私も、存外楽しかったですもの。また来ますわね」
彼女なりに楽しんでくれたらしい。けれど、一体何が彼女の心に触れたのか。優雅に去りゆくその背中を見送りながら首を傾げていると、背後から忍び寄ってきたコルテが、口をあんぐりと開けて固まっていた。
「どうしたの、コルテ。そんなに驚いて」
「どうしたもこうしたもありませんよ! ルナ様が自ら他人に声をかけに行くなんて、初めて見ました!」
「ルナ様って、実は結構フレンドリーなのかな?」
「……何とおっしゃったのか分かりませんが、その言葉は絶対にルナ様の前で使わないでくださいね。ルナ様は、マリ様を相当気に入ったのでしょう」
コルテは短くため息をつき、事情を説明してくれた。
長引く雨不足の影響で、夜会やパーティーはすべて中止。学園でも、王族という身分が壁となり、取り巻きはいても対等に話せる友人はいなかったのだという。
「お姫様も、楽じゃないんだね」
「幼い頃は、よく笑う可愛らしい方だったと聞いています。ですが、ある日を境にぱたりと表情をなくし、他人と関わることを避けるようになったとか……」
「急に……? 何があったんだろう」
私の呟きに、コルテは静かに首を振った。
『氷姫』と呼ばれる物静かな王女。けれど、本当は彼女も年相応の感情を持つ、普通の女の子なんじゃないだろうか。私はひっそりと、そう確信した。
「この旅が終わる頃には、もっと仲良くなれたらいいな」
ふと空を見上げると、先ほどまで降らせていた雨雲の切れ間から、柔らかな晴れ間が覗いている。
「あ、いいこと考えた」
西の空に向かって精神を集中させる。東西の空を覆う雲を、力強く押し退けた。
しばらくすると、遠くの村の方から地鳴りのような歓声が聞こえてくる。
「さすがマリ様!」
夕日に照らされて、東の空に巨大な七色の橋――虹がかかった。初めての試みにしては、上出来すぎるほどの仕上がりだ。
「ルナ様も、見てくれているかな」
「見ていますよ、きっと。……これだけ立派なら、城にいるアルベルト様にも見えているかもしれませんね」
「なっ……!」
予期せぬ名前を出され、動揺した瞬間に魔力の均衡が崩れた。虹はスッと、名残惜しそうに空へ溶けて消えていく。そのあまりにも分かりやすい反応に、コルテが静かに微笑むのだった。




