帰還
レオナルド様とアルベルト様はそのまま広間に残り、事の経緯と今後の対策を協議するという。
「私も、同席させてください」
一部記憶が欠落しているとはいえ、私も当事者だ。ここに残って一緒に考える責任がある。けれど、アルベルト様はどこか複雑な表情を浮かべ、私の提案を優しく拒んだ。
きっと、何か理由があるのだろう。
少しの寂しさを抱えながら、私はコルテと共に一度ツリーハウスへ戻ることにした。
コルテが淹れてくれたお茶をいただきながら一息つく。けれど、気づけばフォンテのことばかり考えていた。
姿を現し、そして――泉に残ると決めたフォンテ。その決断を、私の心はまだ受け入れられずにいた。喜びと悲しみが同時に押し寄せ、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
気づけば、一筋の涙が頬を伝い落ちていた。
ずっと、当たり前のようにそばにいてくれた存在。
声をかければ、いつでも応えてくれると疑いもしなかった。その不在が、これほどまでに心細いなんて。
「……マリ様」
コルテがそっと声をかけてくる。
「大丈夫ですか?」
「うん……大丈夫。ちょっと、寂しくなっただけ」
窓の外を見上げると、いつの間にか陽は傾き、森はゆっくりと濃い夜の色に染まり始めていた。
「今夜も、広場で小さな宴があります。昨日ほど賑やかではありませんが……」
気遣うような誘いに、私は静かに頷いた。
ツリーハウスを出ると、あちこちに吊るされたランタンに火が灯っていた。小さくなった焚き火を囲んで、しっとりとした空気が流れている。
エルフたちの歌声は低く、薪のはぜる音だけが静かに響く。
「一杯だけ……いただこうかな」
差し出された地酒を口に含むと、喉の奥がじんわりと熱くなった。今日は、やけに酔いが回るのが早い。隣でコルテは平然と杯を空にしている。
「私、おかわりをもらってきますね!」
元気よく席を立つ彼女の背中を見送り、私は一人、揺れる火を眺めていた。空は、もうすっかり暗くなっている。
広場にアルベルト様の姿はない。まだ話し合いが長引いているのだろうか。彼を探して視線を巡らせると、闇の中でもひときわ目を引く金色の髪が視界に入った。
レオナルド様だ。彼は一人ではなかった。
隣にいる人物は――背格好が、どこかコルテに似ている。
胸がざわつき、吸い寄せられるように距離を詰めた。
けれど、近づいてようやく分かった。そこにいたのはコルテではなく、リルさんだった。
木立の影、柔らかなランタンの灯りの下で、二人は静かに向かい合っている。
「……無事で、よかった」
レオナルド様の低い声が、夜の静寂に溶ける。
「泉はエルフの生命線だ。君のことが、本当に気がかりだった」
「ご心配をおかけしました」
リルさんは控えめに微笑み、わずかに視線を伏せた。
「泉も森も……皆さんのおかげで、持ち直しつつあります」
「あぁ……」
レオナルド様は、慈しむようにそっとリルさんの頭に手を置いた。
その仕草を見た瞬間、胸の奥で何かが静かに腑に落ちた。
なぜ、コルテを見るレオナルド様の視線が、あんなにも優しかったのか。彼が見ていたのは、コルテの向こう側にいる彼女だったのだ。
物音を立てないよう、その場を離れようとした、その時。
ふと視線を感じて顔を上げる。
闇の向こうで――一瞬だけ、レオナルド様と目が合った気がした。
ほんの刹那。驚いたようにも、すべてを悟られたと気づいたようにも見えた、その眼差し。
けれど次の瞬間には、彼は何事もなかったかのようにリルさんへと向き直っていた。
― ―気のせいよね。
そう自分に言い聞かせ、私は静かに踵を返した。
*****
一行がフォルトナの森を出発する早朝、私はひとり、フォルトナの泉へと足を運んだ。
もちろん――フォンテに会うためだ。
澄み切った水面は、差し込む朝の光を受けて、さまざまな色を映し返している。
息をのむほどに美しいその泉のほとりで、私は静かに呼びかけた。
すると、ほどなくして――
水の揺らぎの中から、フォンテが姿を現す。
“マリ、もうすぐ出発だね。
この先、辛いこともあるかもしれないけど……今のマリなら、大丈夫だよ”
「……ちょっと、その言い方は怖いなぁ」
そう言うと、フォンテはくすりと笑った。
その笑顔を見ただけで、不思議と胸の奥が軽くなる。
――あぁ、大丈夫。
きっと、私は進める。
「じゃあ……行ってきます」
“いってらっしゃい。
水の精霊たちが、マリの力になるからね”
その言葉とともに、フォンテの姿はゆらゆらと揺らぎ、朝霧のように霞んでいった。
こうして私たちは、フォルトナの森を後にし、王都へと帰還することになった。
⸻
「皆さん、思っていた以上にエルフ族と打ち解けていましたね。
アルベルト様も、ずいぶん楽しそうに話していましたし」
帰りの馬車の中で、私がそう言うと、アルベルト様は小さく笑った。
「なかなか得難い機会だったからな。
特に弓の扱いは、本当に勉強になった」
今回の件で、エルフ族との距離は確実に縮まったらしい。
至るところで、ささやかな交流が生まれていたという。
アルベルト様は、エルフから贈られた弓を、剣と並べて座席に置いた。
「その弓、とても綺麗ですね」
日本で馴染みのある弓道の弓よりも、ひと回り小さい。
白く艶やかなその弓は、角度を変えると、ほのかに青白くも見えた。
「あぁ。マリに渡した笛と同じ、一角獣の角で作られているそうだ。
出発前に教えてくれたエルフのひとりが、気前よく譲ってくれてな」
「それは……大切にしないと、ですね」
「あぁ……ところで、マリ。
『フロイレン』という言葉に、心当たりはあるか?」
「フロイレン……?
いいえ、聞いたことはないと思いますが……それは、何ですか?」
「兄上が、我々を襲った族から聞き取った言葉だそうだ。
口にした直後……その者は、息絶えたらしい」
胸の奥が、ひやりと冷える。
――呪い、だろうか。
口にすること自体が禁忌の、名のようなもの。
答えのない不安が、静かに広がった。
帰りの馬車は、コルテが同乗を遠慮したため、アルベルト様と私の二人きりだった。
行きとは違い、どこか穏やかな空気が流れている。
最初はどうなることかと思ったけれど、無事に王都へ戻れる。
その事実だけで、私は少し浮き足立っていた。
帰路でも、立ち寄る村ごとに井戸へ水を満たし、
必要に応じて雨雲を呼び、数日分の雨を降らせる。
「水呼びの乙女だ」
そう直接、感謝の言葉を向けられるたび、胸がくすぐったくなった。
確かに、雨を呼ぶことはできる。
けれど、その土地にいなければ続かない力で、根本的な解決にはならない。
それでも――
惜しみない称賛を受け、私は少しだけ、その気になってしまっていた。
この力が、誰かの役に立つのなら。
そう、素直に思えるようになっていたのだ。
―――――
城に到着する頃には王都には爽やかな風が吹き、緑一色だった木々が赤や黄色に色付き始めていた。
この国には日本と同じように四季があり、紅葉する植物もあるそうだ。
「おぉ! 皆、よくぞ戻った!」
ピピアーノからの帰還同様、王様とお妃様が城の前で待っていてくれた。
今回は応接の間に入ると、長旅を気遣ってか王は報告という形で旅に同行した騎士やメイドさんまで椅子に座らせる。
こういう所が周囲から好かれる理由なんだろう、隣に座る王妃様も気にせずニコニコしながら静かに私たちを見ている。
アルベルト様が主に話をしてくださり、私や他の人たちは頷いたり、相打ちをするだけだった。
エルフの策略にはまり危険な状態になったこと、私が泉を戻したこと、エルフ族がヴェルナード王家の元に付いたことなど色々あったがアルベルト様の功績は大きい。
それでもリッカルド王の表情は厳しかった。
「仲間を危険に晒すようではまだまだじゃな。お前は昔から甘い。今回は無事で済んだが、続くとなれば指揮を任せるわけにはいかぬ」
穏やかな王様の厳しい一言に、私は何も言えず視線を落とす。下を向くラルフやコルテの拳も、悔しさに震えているようだった。
「父上の言う通りです。私の認識の甘さが原因でした。申し訳ありません」
自責の念に沈むアルベルト様を見て、胸が締め付けられる。彼は誰よりも周囲を気遣い、自ら盾となって私たちを守ってくれたのに。
ふと王様と目が合うと、彼は私にだけ柔らかな微笑みを向けた。それは、息子への大きな期待を込めた「愛の鞭」なのだと気づく。
王妃様の言葉で報告会がお開きになりかけた、その時。王様の思いを知ってもなお、私はどうしてもこれだけは伝えたかった。
「王様、一言だけよろしいでしょうか?私は、この世界に来てから、アルベルト様に助けられ、支えられ、守ってもらいました」
「……うむ、続けよ」
王様はゆっくりと頷く。アルベルト様が驚愕に目を見開くのを感じながら、私は言葉を紡いだ。
「アルベルト様は、自分より他人を優先し、身分に関わらず誰にでも寄り添える素敵な方です。もし、それが『甘さ』だと言うのなら……私は、その甘さこそがこの国を救う慈愛になると信じています!」
広間が水を打ったような静寂に包まれる。
「痛みを知り、共に歩もうとするアルベルト様だからこそ、人は心から付いていきたいと思うのです。事実、エルフ族が心を開いたのも、彼の真摯な想いが伝わったからです」
言い切った瞬間、王様はふっと表情を緩め、楽しげに髭を撫でた。
「……そこまでお主に言わせるとは、私の見立てもまだ甘かったということかのぅ。アルベルトよ、これほど清らかな盾に守られておるのだ。お前はもう、ただの王子であることは許されぬぞ」
その言葉が投げかけられた瞬間、アルベルト様は弾かれたように顔を上げ、驚愕に目を見開いた。
驚いたのは彼だけではない。背後に控えていたラルフも、隣のコルテも、そして居合わせた騎士やメイドたちまでもが、息を呑んで固まっていた。
アルベルト様は震える唇をぎゅっと噛み締め、覚悟を決めたように深く、深く頭を下げた。
「……はい。必ず、その期待に応えてみせます」
顔を上げた彼の瞳には、これまでにないほど強く、迷いのない光が宿っていた。
その眩しいほどの熱量と、凛々しく真っ直ぐな眼差しに、私は心臓を射抜かれたように目を奪われてしまう。
そして、城を離れて三週間と数日。
ようやく辿り着いた自分の部屋の空気に安堵し、私は吸い込まれるようにフカフカのソファへ座り込んだ。
「えーっと、アルベルト様……?」
てっきり部屋の前で別れるものと思っていたのに、アルベルト様は当然のような顔をして私の隣に腰を下ろす。
あまりの距離の近さに、控え室のメイドたちが慌ててお茶の準備へと走り去っていった。
不意に、ソファの沈み込みで彼と肩が触れ合う。気まずさに身をよじって距離を置こうとしたその時、強くて熱い腕が、私の腰をぐいと引き寄せた。
「あの……アルベルト様。お疲れでしょうし、お部屋に戻られた方が……」
「せっかくメイドたちが準備をしているんだ。その労力を無駄にするのは申し訳ないだろう?」
言い訳のような言葉とは裏腹に、腰を抱く手の力はさらに強まる。彼は私の耳元に唇が触れそうなほどの至近距離まで顔を寄せ、熱を含んだ吐息と一緒に甘く囁いた。
「それに……まだ、マリと一緒にいたい」
「な、ななっ……!?」
心臓が跳ねた。「駄目か?」と、甘えるような低い声が鼓膜を震わせる。彼は私の肩にそっと顎を乗せ、潤んだスカイブルーの瞳でじっと私を射抜いてきた。
そんな風に見つめられたら、拒絶の言葉なんてどこにも見当たらない。
ふと、数日間まともにお風呂に入れていなかったことを思い出し、私は顔を真っ赤にして彼を押し返そうとした。
「だ、駄目です! 私、今すごく汚いので……そんなに近づかれたら困ります!」
「気にしないよ。むしろ、マリからは驚くほど良い香りがする」
「ひゃっ……」
私の抵抗など羽のように軽いのか、彼は私の両手を手首ごと軽々と捕らえ、そのまま熱い胸板の中へと閉じ込めた。ドクドクと伝わる、力強い鼓動。
「さっきは、かばってくれてありがとう。……本当に、嬉しかった」
「だって、あんなにアルベルト様が頑張っていたのに、……悔しくなってしまったんです」
「……ふふ、それにしても。一国の王に反論とは、なかなかやるな」
アルベルト様は柔らかく微笑むと、壊れ物を扱うような慎重さで、けれど力強く私を抱きしめてきた。
密着した部分から彼の体温がじりじりと伝わってきて、頭がどうにかなりそうだった。
「……ありがとう、マリ」
どれほどそうしていただろう。お茶の準備を終えたメイドさんが控えめに扉をノックする音で、ようやく密着が解かれた。
離れ際、アルベルト様が満足げに、けれどどこか名残惜しそうに微笑む。その色気を含んだ笑みに、私の顔はさらにボッと熱を帯びた。
「すまない、やはり私は部屋に戻ろう。……ゆっくり休んでくれ」
彼は最後に、私のこめかみに熱い唇をそっと落とした。
甘いリップ音を立てて離れた彼は、鮮やかにマントを翻し、呆然とする私を残して足早に部屋を出て行ってしまった。
一人残された私は、火照った頬を両手で押さえて立ち尽くす。
……こんな風にかき乱されて、ゆっくり休むなんてできるはずがない。
「マリ様、顔が真っ赤ですよ」
いつの間にか背後にいたコルテの、茶目っ気を含んだ声に肩が跳ねた。
言葉にならず、ただ熱を持った瞳で彼女を見つめ返すと、コルテは一転して、静かで柔らかな微笑みを浮かべた。
「……アルベルト様は、ずっとご自分を責めてこられたんです。魔力も持たず、そして自分のせいで、前王妃様――お母様を亡くしてしまったと。その劣等感を抱えたまま、今日まで生きてこられました」
コルテはどこか遠くを見るような眼差しで、言葉を紡いでいく。
「マリ様と出会ってからです。あの方が、あんなに豊かな表情を見せるようになったのは。……それに、王様の前でのあの言葉。あんな風に真っ直ぐ肯定されたこと、アルベルト様にとって、どれほどの救いだったか。……私からも、ありがとうございます」
コルテが深く、丁寧に頭を下げる。
その真摯な態度から、アルベルト様がこれまでどれほど苦しい日々を歩んできたのかが伝わってきて、胸の奥が締め付けられた。
――支えてあげたい。
私は、心の底からそう願わずにはいられなかった。




