復活
あれほど飲んだはずなのに、不思議と二日酔いはなかった。
朝の光の中で目を覚ました私は、軽い頭痛すらないことに小さく首をかしげる。
アルベルト様に許可をもらい、コルテと二人でフォルトナの泉の様子を見に行くことになった。
本当はご本人も付いてくるつもりだったらしいが、過保護が過ぎる、とでも思われたのか、ラルフに「やることがあるだろ」と半ば強引に連れて行かれていた。そのやり取りが少しだけ可笑しくて、口元が緩む。
「大丈夫ですか、マリ様?」
「うん、座っていれば楽だよ。……コルテは元気そうだね?」
そう声をかけると、コルテはいつもの明るい笑顔を向けてきた。
彼女が上機嫌に鼻唄を歌い出すと、それに応えるように、泉のまわりをやさしい風がふわりと撫でていく。
「コルテ、何かいいことでもあった?」
「ふふ……実はですね」
少しだけ間を置いてから、彼女は胸を張った。
「オストロ様との婚約、無事に解消できました!」
「……!」
オストロ様から正式な謝罪があり、婚約も完全に白紙になったという。
謝って済む話ではない。それでも――長い間、彼女を縛っていた鎖が、ようやく外れたのだ。
「エルフの誓いは強固なのですが……アルベルト様とラルフ、一体何をしたんでしょう」
「知らない方がいいかもね。でも、本当に……よかった」
そう言った途端、視界がじんわりと滲んだ。
「マ、マリ様……泣かないでください」
慌てるコルテの目も、同じように潤んでいる。
その感情に呼応するかのように、泉の水面が、かすかに揺れた。
――私たちの涙に誘われたのは、彼女だけではなかった。
“もーらった!”
弾む声と同時に、水の精霊たちが姿を現し、私の頬へと寄ってくる。
涙をぺろりと舐め取ろうとする様子は、昔飼っていた犬が顔を舐めてきた時によく似ていた。
こんな状況にも、もう驚かなくなっている自分に、少しだけ可笑しくなる。
「えーと。……そろそろいいかな? 水の精霊さん」
“おっけー! 力がモリモリ”
“満足、満足。いい感じ!”
精霊たちは親指を立てるような仕草をして、楽しそうに泉へと飛び去っていった。
次の瞬間、彼らの姿は水面に溶け込み、波紋だけを残して消えていく。
――その波紋が、消えない。
一つが収まる前に、また一つ。
円は重なり、絡まり、泉全体が呼吸を始めたかのように脈打ち出す。
水面が淡く光り、光はすぐに濃淡を変え、青とも緑ともつかない色合いへと揺れた。
高まる水の魔力が、胸の奥へ静かに、しかし確実に染み込んでくる。
――やさしい。
南国の透き通った海に身を委ねた時のような、全身を包み込む感覚。
懐かしくて、少しだけ怖い。
これは、確かに――
かつて私の中にあった力だ。
「……おかえり、フォンテ」
声に出した瞬間、泉が応えるようにざわめいた。
水が跳ね上がる。
いや、跳ねたのではない。引き上げられるように、ゆっくりと宙へと浮かび上がっていく。
水の柱は安定せず、形を変えながら揺れていた。
輪郭は曖昧で、人の姿にも、ただの水の塊にも見える。
一度、腕らしき形が生まれては崩れ、
羽のようなものが現れては、霧のように散る。
――まだ、定まっていない。
私は息を詰め、ただ見守ることしかできなかった。
やがて、水の流れが一点に集まり、光がそこに絡みつく。
散っていた輝きが、何かを縫い留めるように、少しずつ形を与えていった。
羽が、羽として広がる。
身体が、身体として留まる。
それでもなお、完全ではなく、
存在そのものが水と光の境界に揺れている。
そうしてようやく、そこに“彼女”がいた。
青緑色にきらめく大きな羽を持つ、フォンテ。
泉の光をそのまま写したような姿で、彼女は宙に留まり、こちらを見つめている。
どこか気恥ずかしそうに。
そして、まだ自分がここにいていいのか、確かめるように。
――戻ってきた。
けれど、完全には、まだ。
そんな気配を残したまま、フォンテは静かに微笑んだ。
「ゆっくり休めたみたいだね。魔力が戻ってる……ううん、前より強くなってる」
“フォルトナの泉と、精霊たちが力を分けてくれたみたい”
水を滴らせた羽を広げ、フォンテはゆっくりと舞い降りてくる。
かつて掌に乗るほどだった彼女は、今では私と同じくらいの背丈になり、柔らかな白いドレスをまとっていた。
その存在は、変わらず優しく、それでいて以前よりも静かな威厳を帯びている。
「……フォンテ、すごく素敵」
“みんなのおかげだよ。マリも、目覚めたんだね。懐かしい感じがする”
フォンテは確かめるように、私の周りをくるりと一周し、匂いを嗅ぐように鼻先を寄せてきた。
その仕草は昔と変わらないのに、纏う気配だけが、以前よりずっと深く、澄んでいる。
彼女の言う通り、返してもらった以上の魔力が、確かに私の中に満ちていた。
「正直、私にもよく分からないんだけど……泉に落ちてから、魔法が増えたみたい。雨を降らせたり、病を癒したりもできるようになったんだ」
言葉にすると、少し現実味を失う。
それほど自然に、力がそこにあるのだ。
フォンテは小さく眉を寄せ、私の肩越しに、コルテと視線を交わした。
ほんの一瞬だけ。
コルテは、何も言わない。
ただ、静かに頷いただけだった。
その仕草が、偶然には見えなかった。
――ああ。
彼女は、見えていたのだ。
私と、アルベルト様以外には見えないはずの存在を。
けれど、コルテは何も明かさない。
問いもしなければ、驚きも見せない。
それが彼女の立場だった分かった。
私は泉を振り返り、肩の上のフォンテに視線を落とした。
「……ねえ。これからは、三人で話せるね」
フォンテと、私と――そして、コルテ。
その言葉に、コルテの肩が、わずかに揺れた。
「……マリ様」
声が、震えている。
顔を上げた彼女は、泣き出す寸前のような表情をしていた。
“ふふふ。じゃあ、私がいない間の話、色々聞かせてね!”
そう言って、フォンテは再び掌サイズへと姿を縮め、軽やかに私の肩へと舞い降りた。
楽しそうに耳を傾けるその様子に、張り詰めていた心が、ようやく緩んでいく。
たくさん話した。
嵐のこと、森のこと、私が怖かった夜のこと。
気づけば、泉に差し込む光は傾き、長い影を水面に落としている。
「……そろそろ、戻ろうか」
ツリーハウスの方角を示してそう言うと、フォンテは一瞬、目を伏せた。
それから、ゆっくりと顔を上げ、穏やかに微笑む。
“私は、ここに残るよ”
「……え?」
肩にいたフォンテは、再び宙へと浮かび上がった。
その視線は、私ではなく、フォルトナの泉そのものに向けられている。
“まだ、この泉は完全に戻っていない”
“ここに住む水の精霊たちも、力を失ったままなんだ”
彼女の声はやさしいけれど、揺らぎはなかった。
“だから、私がここに残って、力を注ぐ。それが――大精霊である、私の役目だから”
泉の光が、彼女の言葉に応えるように、わずかに強く瞬いた。
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
寂しい。けれど、それ以上に――納得してしまう自分がいた。
「……また、会える?」
問いかけると、フォンテは少しだけ、悪戯っぽく笑った。
“すぐに会えるよ”
そう言ってから、泉の方へと視線を移す。
“この泉の精霊たちが、ちゃんと力を取り戻したら――その時はね”
水面が、ゆるやかに揺れた。
“私が、マリのところへ行くよ! 今度は、迷わずに”
胸の奥に、じんわりと温かいものが広がる。
「……約束?」
“約束”
短く、けれど確かな言葉だった。
“だから、それまでは――マリはマリの場所で進んで”
泉の光が、彼女の言葉に応えるように、静かに強まっていく。
別れではない。
次に並び立つための、少しの時間。
フォルトナの泉は、変わらずそこに在り続け、
そしてその奥で、確かに未来を育てていた。
―――――
ツリーハウスに戻ると、差し込む夕日を背に、金髪を輝かせたアルベルト様と、オストロ様が立っていた。
「マリ、探していた」
「フォンテと、会ってきました」
私が答えると、彼はわずかに目を細めた。
「そうか。フォンテが……」
一瞬、言葉を選ぶような間があったが、やがて彼は静かに頷いた。
「力を取り戻したのだな。本当に良かった。……君を探していたのは私ではない。オストロ様だ」
名を呼ばれたオストロ様が、わずかに肩を強張らせて私の前に進み出た。
顔色は優れず、目の下には濃い疲労の影がある。嵐の後始末に追われていたせいだけではないだろう。彼自身の選択がもたらした「重さ」が、その表情に深く刻まれていた。
私たちはそのまま広間へと案内された。
そこは、あの嵐の日、エアリーナ様によって私が強引に送り込まれた場所。
精霊を象ったタペストリー、重厚な長テーブル、獣や鳥が彫られた椅子。森の威厳をそのまま形にしたような空間に足を踏み入れるなり、オストロ様は私とコルテに向かって深く頭を下げた。
「改めて、一連の件について謝罪させてほしい。……本当に、申し訳なかった」
その声に、取り繕いや言い逃れの響きは一切なかった。
「頭を上げてください」
私は静かに告げた。
「トルビネからも事情は聞いています。……許されることではありません。けれど、オストロ様がエルフ族を守るために責任を負ったのだということは、理解しています」
顔を上げたオストロ様の瞳に、微かな安堵が宿る。
けれど、傍らのアルベルト様とコルテの視線は依然として厳しい。責めるというよりは「決して忘れない」という無言の圧力が、場の空気を支配していた。
オストロ様はその重圧を受け止めるように背筋を正すと、掌の上に白く艶のある品を載せて差し出した。
「……笛?」
「一角獣の角から作られたものです。もし何かあれば、これを吹いてください。エルフの戦士が、どこにいても必ず駆けつけます」
彼はその笛を、私の首にそっと掛けた。
肌に触れるひんやりとした感触と、確かな重み。
「そして――」
今度はアルベルト様に向き直り、木製の筒を差し出す。
「ヴェルナードの王子殿下へ。我々エルフ族は今後、ヴェルナード国王に絶対的な忠誠を誓います」
中身を確かめたアルベルト様が、驚きに目を見開いた。
「……エルフ族は人と距離を置くと聞いていたが」
「これまでは、そうでした」
オストロ様は自嘲気味に、わずかに口元を緩めた。
「ですが今回、悟ったのです。我々だけでは森も、泉も、守りきれない。……今は、人と手を取り合う時代なのだと」
その声には、迷いと、逃げない覚悟が同居していた。
いつか人とエルフが自然に笑い合える日が来るかもしれない。その時、この国の各地にフォルトナの泉のような魔力が満ちたなら――。
私はそんな未来を、静かに思い描いていた。
「エルフの王が、ついに考えを変えられたとは」
感情を抑えた鋭い声が、背後から響いた。
「あ、兄上……」
アルベルト様が呟く。振り返ると、広間の入り口にはレオナルド王子が立っていた。
オストロ様が恭しく一礼する。
「これは、レオナルド王子。よくぞお越しくださいました」
「ああ……」
短く応じたレオナルド様が、こちらへと歩みを進める。
盗賊の襲撃、負傷者の保護、そして原因の特定。多くを語らずとも、彼の険しい表情が事態の深刻さを物語っていた。
周囲を射抜くようなその眼差しが、場の空気を一段と引き締める。
――だが、その視線は、王族としての責務だけを映しているようには見えなかった。
彼は、誰かの気配を探している。
あるいは、ここにいない「誰か」を。
ほんの一瞬、その瞳に宿った微かな揺らぎ。
それが何を意味しているのか。
その時の私にはまだ、知る由もなかった。
[水の大精霊ファンテ]




