守りたいもの1
一瞬にして視界が真っ白になり、思わず目を閉じる。
次に開けたとき、そこは森ではなかった。
足元には厚手の麻の絨毯。鹿や鳥、狼など森の動物たちが丁寧に織り込まれていて、踏むのがためらわれるほど美しい。
壁は磨かれた木でできており、毛皮や角が飾られ、タペストリーには耳の長い女性が描かれている。
飾りは質素に見えるのに、手入れが行き届き、ひとつひとつが存在感を放っていた。ここは住まうための部屋ではなく、誰かが集まり、大事なことを話す場所――そう感じられた。
「……マリ? なぜ君がここに……」
突然、背後から聞き覚えのある声が響く。
「アルベルト様?」
振り返った瞬間、空気が一気に張り詰めた。
アルベルト様は剣を抜き、刃先はオストロ様に向けられている。
ラルフも腰の剣に手をかけ、いつでも抜けるよう身構えていた。
オストロ様も矢を放ってはいないが、弓を構え、鋭い視線を返している。
その隣に立つコルティアナさんと目が合ったが、彼はすぐに視線を逸らした。
部屋にいるのは、この四人と私だけ。
刃が交わる直前のような緊張に、息が苦しくなる。
慌てて周りを探したが、エアリーナ様もトルビネ様も姿がなかった。
「む、無理……! 私ひとりじゃ、この空気どうにもできないってば……」
小さなつぶやきは誰にも届かず、むしろ場をさらに重くしてしまった気がする。
「どうした?」
鋭く問うアルベルト様に、私は慌てて笑みを作った。
「い、いえっ! あの……み、皆さんは一体何をしているんですか?」
どう見ても戦いの前触れ。けれど、それを言葉にしてしまうのが恐ろしく私は少しでも場を和ませようと明るく尋ねる。
「ああ……これは『エルフの誓い』だ」
「え……誓い?」
戦う前に誓いを立てるのだろうか。混乱で頭がいっぱいになる。
「嘘偽りなく話すことを、自分の武器に誓うのだ」
オストロ様の声は低く、重かった。
「だが――もう、その必要はない」
「……な、なくなったとは?」
意味が分からず、心臓が早鐘のように打ち続ける。
今にも割れてしまいそうなほど、部屋の空気は張り詰めていた。
どうやら私は、ちょうど話が始まるその場面に、最悪のタイミングで現れてしまったらしい。
「もう話し合う必要はない」とは――つまり、このまま人間とエルフの戦いが始まってしまうということなのだろうか。
胸の鼓動は苦しいほどに早くなる。
「……この雨は、マリ様のものですね。泉が復活したのも、先ほど感じ取りました」
「へっ? あ、はい……」
予想もしなかった言葉に、思わず間抜けな声が出てしまう。
慌てて咳払いをして気を取り直し、私はオストロ様をまっすぐ見据えた。
「……泉を元に戻したのは、私です」
本当は、エアリーナ様や精霊たちの力があった。
けれど少しでも戦いを避けられるのなら――ここは私が背負うべきだと思った。
オストロ様は、窓の外で激しく降りしきる雨に目をやり、しばし考えるような仕草を見せた。
そして次の瞬間、私の目の前まで来て、突然膝を折り、深く頭を下げた。
「大変申し訳ありませんでした……。謝っても済むことではないのは分かっています」
その声は先ほどまでの鋭さを失い、どこか憑き物が落ちたように聞こえた。
泉の復活のためならどんな手でも使おうとした――それだけの切迫感と重責があったのかもしれない。
けれど、彼がどれほどの思いを背負っていようとも、私には決して許せないことがあった。
「オストロ様の行いで……仲間は息をすることすらできず、あと数日の命でした」
「……はい」
「そんな死にかけていたコルティアナさんを、あなたは泉に突き落とそうとした。――そのせいで、この国の王子が命を落としかけたんです」
「……はい」
「私はあなたを裁く立場ではありません。……でも、どんな理由があっても、絶対に許しません」
言葉を重ねるうちに、胸の奥に押し込めていた感情があふれ出す。
頬を伝う熱い雫に気付いたときには、もう止められなかった。
私はその場で、声をあげて泣いてしまった。
パリンッ!
「きゃっ!」
急に雨風が強くなり、部屋の窓ガラスが割れ始める。コルティアナさんは驚き、床に座り込んだ。
建物も風の魔力で守られているらしいが、微かに揺れが伝わる。よろめきかけた私を、今まで姿を消していたエアリーナ様がそっと肩で支えてくれた。
“マリちゃん、お疲れ様。心のモヤモヤ、少しは晴れたかしら?”
「エアリーナさん! 何で……」
“だって、私がいたらオストロ坊やが素直に謝れないでしょ? はい、もう泣くのはお仕舞いよ。さもないと、この森が壊れちゃうから”
「……まさか、これも私の力……?」
“そうよ、だから落ち着いて。うん、大丈夫。負の感情に飲み込まれちゃダメよ”
エアリーナ様が手を天井に向けると、建物の揺れは収まり、割れた窓には魔法で大きな板がぴったりと張られた。
「エアリーナ様、お姿が……」
“あら、オストロ久しぶりね。積もる話は後にして、今は森を守りに行くわよ!”
力強くオストロ様の背中を叩き、魔法で立たせる。体格の良い彼が少しふらつくほどだった。
「マリちゃんも私も、嵐を遠ざける魔力は残っていない。でも、保護魔法くらいならできるわ。さあ、エルフ全員を集めてきなさい!」
普段のおっとりしたエアリーナ様とはまるで別人のような勇ましさ。
その勢いに、私たちは奮い立たされ、慌てて動き出した。
―――――
「お、終わった……」
私の魔力にもちゃんと底はあったらしい。
あれから急いでエルフや魔法を使える人を集め、森や周辺一帯に保護魔法をかけた。
初めての魔法だったが、なんとかできた……。
というか、何とかしなきゃいけなくて、強く願ったらできてしまったのだ。
ほぼ徹夜だ。
さすがエルフ族。風魔法に長けているだけでなく、魔力も相当なものだ。
人間側も負けていられない。特に騎士さんたちは、治ったばかりだというのに一生懸命に力を尽くしてくれた。
皆が一丸となったことで、嵐を耐え切ることができたのだ。
おかげでツリーハウスの家々が少し傾いたくらいで済み、森の動物たちにも大きな被害は出ていないらしい。
その話を聞いた時の喜び様は、人もエルフも関係なく抱き合うわ騒ぐわで収集がつくまで大変だった。
「もう無理……」
私とコルティアナさんは、シマリスのツリーハウスに戻ると、ベッドへ身を投げ出した。
身体の芯まで疲れ果てている。湯に浸かって汗を流したい気持ちもあったけれど、それよりも今は眠りに沈み込みたかった。
隣のベッドに横たわるコルティアナさんも、同じようにぐったりと力を失っている。
薄暗がりの中でふと視線が重なった時、彼女は気まずそうに眉を寄せたが、私が笑みを向けると、ようやくほっとしたように微笑み返してくれた。
「今日は……本当に、長い一日でしたね」
「うん。気づけば日付も変わって、昨日のことになっちゃった」
二人で顔を向け合い、疲れを滲ませながら小さく笑い合う。
けれど、眠気はすぐには訪れなかった。
瞼は重いのに、胸の奥に嵐の残響がまだ渦巻いていて、静かな夜がやけに騒がしく感じる。
やがて、闇に溶け込むようなか細い声が布越しに届いた。
「……実は、ずっとお話ししたいことがあったんです」
その響きに、眠気は一瞬で吹き飛んだ。
私は上体を起こし、ベッドの縁に身を乗り出すようにして彼女を見つめる。
「聞かせて。コルティアナさんのこと」
月明かりに照らされたコルティアナさんの瞳が、揺れる。
不安と、決意と、長く抱えてきた痛みが入り混じる光だった。
彼女は深く息を吸い込み、震える声で告げる。
「……私は、コルテ・ポルトニー。エルフと人の子です」
ハッと私は息を呑んだ。
コルティアナさんのお母様は、オストロ様の妹だったという。
兄妹仲はとても良かったらしいが、ある日――森に迷い込んだ伯爵家の若者と出会い、恋に落ちてしまった。
やがて彼女は里を出て、愛する人と共に生きる道を選んだのだ。
「……母は、私を産んですぐに亡くなりました。だから、私のせいで……」
震える声。瞳に光る涙は、長い年月の孤独と自責を映している。
それでも私は、そっと手を差し伸べた。
柔らかな温もりが伝わると、コルティアナさんは小さく顔を上げ、涙を拭いながらほろりと微笑んだ。
その笑顔に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
悲しみの中にも、優しさと希望が確かにあった。
「それは違うよ」
私は首を振る。
「誰のせいでもない。きっとお母さんは、命を懸けてもコルティアナさんを抱きしめたかったんだと思う」
言葉が零れた瞬間、堰を切ったように彼女の瞳から涙が溢れた。
私も同じように涙が込み上げてきて、気づけばふたりして声を殺しながら泣いていた。
――精霊たちは、不思議と近づいてこなかった。
いつもなら私の涙に寄ってくるのに、この時は小さな光となって遠くから見守っているだけだった。
まるで、これは私とコルティアナさんだけの時間だと心得ているかのように。
そのけなげな様子が可愛らしくて、少しだけ心が軽くなる。
やがて彼女は、伯爵家で育ちながらも人とエルフの血を継ぐため、幼い頃からずば抜けた魔法と身体能力を発揮していたことを語ってくれた。
その噂を聞きつけた城の従者に見出され、今の立場に至ったのだと。
「それで……どうしてオストロ様の婚約者に?」
問いかけると、彼女はかすかに唇を噛んで答えた。
「オストロ様から接触があったのは、国に雨が降らなくなってからです。城勤めをしていた私に、有益な情報を流すよう指示されました」
エルフの娘を連れ去り、死なせてしまった負い目を抱える伯爵家。
断る術はなかったのだろう。
“婚約者”という立場を与えられたのは、違和感なく彼女から情報を得るため。
あるいは、エルフの血を残すため……そんな思惑すら透けて見える。
「焦りました。まさかオストロ様が、人間のマリ様に興味を持つなんて……」
「だから、あなたは自分から彼のもとに行ったんだね」
「マリ様を、あんな人の嫁になんてさせません!」
その声は震えていなかった。
力強く、真っ直ぐで、彼女自身の覚悟が宿っていた。
「ありがとう。でも……私も嫌だよ。コルティアナさんが、好きでもない人のもとに行くなんて」
「私も嫌です! あんなおじさん!」
そう言い切ったコルティアナさんの顔は、涙でぐしゃぐしゃなのに、どこか晴れやかに見えた。
まるで長い間抱えてきたものを、ようやく吐き出せたかのように。
「……言えてよかった」
ぽつりとこぼしたその声に、私も胸が温かくなった。
私はベッドから手を伸ばし、彼女の手をそっと握る。
コルティアナさんも驚いたように瞬きをしたあと、ぎゅっと握り返してくれた。
「もうひとりで背負わなくていいよ。これからは、一緒に考えていこう」
「……はい」
ほんの小さな返事。けれどそれは、彼女が心を開いた証に思えた。
私の胸の奥に残っていた嵐の余韻も、少しずつ和らいでいく。
夜の森の静けさが、私たちを包み込む。
小さな精霊たちが、今度は安心したようにゆらゆらと近づいてきて、光の粒をふわりと漂わせていった。
少し間を置いて、コルティアナさんが小さく息を吸い、そっと囁いた。
「……眠る前に、一つだけよろしいですか?」
「なに?」
「私のこと……どうか“コルテ”と呼んでください。母が、そう呼んでくれていたんです」
その瞳は、どこか幼子のように心細げで、けれど温もりを求める光で満ちていた。
「わかった。コルテ」
私が名前を呼ぶと、彼女は目を閉じ、安堵したように微笑んだ。
「……ありがとうございます」
互いの手をつないだまま、まぶたを閉じる。
体中を覆っていた緊張が解け、柔らかな眠気がすぐに押し寄せてきた。
胸の奥に温かな灯りを残したまま、私は深い眠りへと沈んでいった。




