目覚め
アルベルト様を追って泉に飛び込んだ――それが最後の記憶だった。
気がつけば、私はベッドの中で眠っていた。
夢を見ていた気がする。いつもの、金髪の男の子と海で遊ぶ夢だ。
水中での記憶は、まるで嘘のようにすっかり抜け落ちている。
けれど、泉と海が近いためか、髪からは磯の香りが漂い、口の中には微かに塩気が残っていた。
服も、誰かが着替えさせてくれたのだろう。
ソファーには、アルベルト様が足を組んだまま、前屈みになって眠っていた。
深く眠っているのか、長い睫毛は影を落とし、整った横顔が静かな寝息に和らいでいる。
シャワーを浴びたのだろう、髪はまだ乾ききっておらず、滴る水が首筋に落ちてシャツの襟を濡らしていた。
普段の凛々しく隙のない姿とはまるで違い、どこか無防備で――そのギャップに、胸の奥が思わずどきっとする。
泉の毒があったはずなのに――。
私とアルベルト様は、あの状況でどうやって助かったのだろう。
目覚めた彼は「精霊のおかげだ」と言った。
それでも心から納得することはできず、つい疑ってしまう。
けれど、他に説明のつく方法はないことも分かっていた。
そして何より、薄れゆく意識の中で感じたあの感覚。
冷たく、鋭く、けれどどこか懐かしく、愛おしい――。
まるで深い海の底に抱かれているような安心感が、私の体と心を満たしていた。
それは、ただの記憶ではない――。
体の奥で、これまで感じたことのない力が静かに、そして確かに目覚め始めているのを、私は感じていた。
自分でもまだ説明できないけれど、この感覚は、どこか以前から知っていたような気がした。
―――――
目を覚ましてから、身体の奥から魔力が満ちあふれているのを感じている。
それがどう使えるのか、なぜか私はすぐに理解した。
あの本の人魚のように、今なら皆を治してあげられる。根拠はないけれど、そんな確信めいた想いが胸にあった。
「無理をしないでくれ……」
「私は大丈夫です。やります、全力で!」
アルベルト様の反対を押し切って、私は皆が眠る大部屋へ足を踏み入れた。
ここまで歩いてくるだけで息が上がってしまったことが彼にバレたら、今からやることを止められてしまうので全力で平静を装っている。
「……なんで」
部屋の中には、重苦しい空気が漂い、弱りきった姿がそこにあった。
昨日のことが、まるで夢だったかのように思えるほど、状況は一変している。
言葉にできない感情が胸を締め付けた。
普段は冷たく、悪態ばかりつくラルフも、ぐったりと横たわる姿は、さすがに可哀想で見ていられない。
これから私は、皆を救うために魔法を放つ。
成功する、そう信じている。
教わったわけでもないのに、どうしてか手順が身体に沁み込むように分かる。
ふと、学生の頃に授業で聞いた言葉を思い出す――人の身体の六割は水分でできていると。
もしかすると、私はその水に働きかけて、命を巡らせるのかもしれない。
「どうか、治りますように――」
膝を床につけ、目を閉じて両手を組み、祈るように集中する。
この姿勢が、不思議なほど落ち着きと力を与えてくれた。
すると、身体の奥から魔力が静かに立ち上り、波紋のように広がり、部屋全体を包み込む――まるで、水面に光が反射して揺れるように。
「すごい……魔力が、広がっていく」
アルベルト様の低い声が、思わず漏れるのを耳にした。
私はさらに目を閉じ、感覚を研ぎ澄ます。
すると、部屋の空気が淡い光を帯びはじめ、波紋のように広がる魔力が、一人ひとりの体に沁み込んでいくのが分かった。
届きにくい箇所には時間をかけて、けれど確かに血の流れが温かく動き出し、沈んでいた生命が目を覚ましていく。
「……まさか、こんなことが」
アルベルト様の声は驚きに微かに震え、普段の冷静さとは違う一瞬を垣間見せる。
胸の奥で、熱く澄んだ高揚が込み上げる。
誰かの頬に薄紅が差し、閉じていた瞼がわずかに震え、握られた手に力が戻る。小さな奇跡が、部屋中に静かに連鎖していく。
あとはもう、このまま静かに見守るだけでいい。
目を開けると、魔力に包まれた部屋はまるで海の底のように蒼く染まり、光の粒が煌めきながら、患者たちの身体にすっと吸い込まれていった。
「うっ……」
一番に目を覚ましたのはラルフだった。
ベッドから起き上がり、周囲を確かめると、無言のまま部屋を歩き出す。
昏睡する前よりも力強く、生気に満ちた瞳は新緑のように輝き、足取りも確かで軽やかだった
「これは……まさか、マリ様が……? それに瞳の色が……」
ラルフが呆然と周囲を見渡しながら尋ねる。
普段は真面目で小言ばかりの彼に、私は少し誇らしげに頷いた。
「驚きました。色々と尋ねたいところですが……それよりも、コルティアナはどこにいますか?」
さすがラルフ、細かいところまでよく見ている。
実は私も、目覚めてからコルティアナさんには会っていなかった。
彼女がここまで運んでくれたと言うけれど、その当人の姿が見つからなかった。
「分かりません」
「やはり……。実は、彼女のことで少し気になることがあります」
「どうした?」
ラルフと私の会話に興味を示したのか、次々に目覚めた仲間たちの介抱をしていたアルベルト様も、ゆっくりとこちらへ歩み寄った。
「アルベルト様、ご無事で何よりです。それが、出発前からコルティアナの様子がおかしかったのです」
「私には変わらないように見えましたが?」
「主人の前では気を張っていたのでしょう。それが従者というものです」
ラルフは様子の違うコルティアナさんを何度か気にかけ、声をかけていたらしい。
彼女は明るく振る舞っていたが、その裏の苦しみをラルフは見逃さなかった。
アルベルト様は腕を組み、長い睫毛を伏せながら何かを考えているようだった。
「あの……。私がコルティアナ様の所までご案内してもよろしいでしょうか?」
その場に似合わない可愛らしい声が背後から聞こえ、振り向けば、オストロ様を止めてほしいと訴えていた少女が立っていた。
ミントグリーンの髪と瞳、そして優しげな表情――コルティアナさんにそっくりだった。
「リルと申します。コルティアナ様は今、長のオストロ様の元におります」
「なんで……。すぐに助けに行かないと!」
「いえ、これは彼女自身の意思です」
「どういうことですか?」
泉に突き落とそうとした人物の元にいるということが理解できず、腹立たしさも加わり声を荒げてしまう。
しかしアルベルト様は黙って少女を見つめ、穏やかに問いかける。
「コルティアナはここに留まるつもりなのか?」
「はい。長は元々、コルティアナ様を伴侶にと考えていました。マリ様が現れてから、オストロ様の興味が貴女にうつり、それを危惧したコルティアナ様は自ら……」
理不尽な話に腹ただしさを覚える。
エルフは人間を嫌っていたはずでは……?
アルベルト様とラルフを見ると、2人とも真剣な表情で何か考えている様子だった。
「コルティアナ様に会うのは初めてでしたが、私とも母ともよく似ていますね」
険しかったリルさんの表情が少し和らいだ。
「やはり、君はコルティアナの親族か?」
「はい。母が、コルティアナ様のお母様の兄弟です」
「オストロもか?」
「ふふ、流石ですね。長は長男、コルティアナ様のお母様は末っ子でしたので、とても可愛がられたそうです」
アルベルト様はどこまで知っていたのだろうか。
驚く素振りもなく、淡々と話す姿に、私は眩暈を覚えた。
「マリ様!?」
ふらつく私を、ラルフがさっと支えてくれる。
急な話に頭が追いつかず、そして魔力の使い過ぎの反動が今になってジワジワと効いてきたらしい。
足に力が入らず、体重をラルフに預ける形になってしまうが、彼は嫌な顔ひとつせず私の肩に手を回す。
「大丈夫ですか? 少し休みま……」
ラルフが話し終える前に、体はふっと軽くなり、足が宙に浮く。
さっきまでリルさんと話していたはずのアルベルト様が、私を抱き上げてくれていた。
「ベッドに横になったほうが良い」
そっと私をベッドに下ろしてくれたが、アルベルト様の手は微かに震え、汗ばんでいることに気付く。
もしかすると、さっきからずっとそうだったのかもしれない。
シャツも少し湿り、顔色も悪い。
「ごめんなさい」
「ん?」
「淡々と話すので、アルベルト様って冷たい方なのかと思ってしまいました」
「あ、あぁ……。そう装わないと、自分を抑えきれない。暴れれば、皆が困るだろう?」
アルベルト様が暴れる姿を想像できず、つい少し笑ってしまった。
すると、私の頭をそっと優しく一度撫で、そして彼はリルさんに向き直る。
「オストロの元まで、案内してもらおうか」
その声は冷たく、感情のない音だった。
けれどその冷静さの奥に、微かな疲労と緊張が潜んでいることを、私は見逃さなかった。
そして、アルベルト様とラルフはリルさんに案内され、部屋を出て行く。
私は体力の回復を待って後を追うつもりで、今はベッドの上で大人しくすることに。
体内に漂う金の粒がいくつか入ってくるが、どうやら自分自身には効果がないようだった。
大事な人の一大事に駆けつけられず、悔しさで涙が溢れる。
この世界に来てからずっと一緒だったコルティアナさん――。
ラルフに怒られたときも、彼女はいつも励ましながら美味しいお茶を入れてくれた。
急に異世界に来て戸惑う私に優しく、同じ目線で話してくれるコルティアナさんが大好きだった。
以前、一度だけ家族のことを聞いたことがある。
「家族ですか……? えっと、母は私を産んですぐに亡くなりました。父は……私のことをすごく大事にしてくれます……」
明るくおしゃべりな彼女にしては、歯切れが悪く、表情が少し固かった。
母親が亡くなっているからかと思ったが、今思えばそれだけではなかったのかもしれない。
「コルティナさん……」
ずっと近くにいたのに変化に気付けなかったこと、そして彼女が私の身代わりになろうとしていたかもしれないことを想像すると、情けなくなり、また涙が零れた。
「なみだもーらい!」
「え?」
私の頬に、一匹の精霊が張り付き、ペロリと涙を舐め取った。
あまりの急な出来事に、私はベッドから跳ね起き、落ちそうになったところを、そばにいた騎士が鍛えられた腕で支えてくれた。
「マリ様、大丈夫ですか?」
先陣を切って戦場に向かいそうな風貌の騎士が、藍色の瞳で心配そうに見つめてくれる。
私が頷くと、彼は素朴な笑顔を返してくれた。
「良かったです。そしてこの度は、本当にありがとうございました」
そういう時、彼は深く頭を下げる。
「一時は諦めかけていましたが、マリ様のおかげで命を繋ぐことができました。心から感謝いたします」
騎士は深く頭を下げる。それを見ていた仲間の騎士たちもベッドから降り、口々にお礼を述べてくれる。
「みなさん、本当に良かったです」
皆が元気になったことに安堵し、自然と涙が溢れる。今日は泣いてばかりだと思った。
室内にはまだ魔力の余韻が残っていた。蒼く透き通る光が空気の中を漂い、そこに金の粒子がふわりと舞う。
それはまるで、夜空に散る星がゆっくりと降りてくるようで――誰もが息をするのを忘れて見入っていた。
やがてその光はそっと精霊たちのもとへと吸い込まれていく。
気づけば、部屋の中は精霊で埋め尽くされていた。壁も床も光に包まれ、淡く揺れるその姿が水面に映る月のように幻想的だった。
「これは……」
“ふふふーん。おかげで助かったよー!”
不意に、私の涙をぺろりと舐める気配がして、目の前に小さな影が現れた。
青く長い髪をなびかせ、同じ色の大きな瞳を輝かせた精霊が、まるでいたずらっ子のように微笑んでいる。
「この魔法、精霊にも効くんだ……」
思わず呟くと、消えかけていた他の精霊たちにも金の粒が次々と吸い込まれていく。
淡く透けていた体が少しずつ色づき、輝きを取り戻していく。中には、粒を大事そうに抱えてどこかへ持ち帰ろうとする者までいた。
「精霊たちも元気になって……本当に、よかった……」
ほっと息を吐くと、胸の奥の緊張がゆるみ、温かいものが込み上げてきた。
この森はまだ生きている。精霊たちは、きっとまたここで笑ってくれる――そう思えただけで、涙がこぼれそうになる。
“うーん、でもねー、まだまだ足りない!”
青い精霊が不満そうに頬をふくらませながら、私の周りをクルクルと飛び回る。
そして、するりと肩に降り立つと、金色の髪を指で撫でるように触れる。
“フォンテが待ってるよ!”
耳元で囁かれたその一言に、心臓がドクンと跳ねた。
――フォンテ。
その名を聞いた瞬間、胸の奥に熱が走る。
私を最後まで信じてくれる、あの笑顔。
手を伸ばしても届かなかった冷たい水の感触までが、今、鮮やかに蘇る。
「……フォンテ」
唇から漏れたその名は、祈りにも似ていた。
頬を伝う涙が床に落ちた瞬間、まるで応えるように空気がわずかに震える。
――生きてる。
どこかで、私を呼んでる。
そう感じた瞬間、迷いはすべて霧のように消えた。
私は立ち上がる。
もう二度と、誰も失いたくない。
彼女を――フォンテを――必ず連れ戻す。




