白鱗の人魚1
アルベルト様が私に「逃げよう」と言ってくれた。
その言葉に胸がぎゅっと熱くなる。
嬉しい――けれど、それ以上に恐ろしい気持ちも湧いてきた。
もし今ここで逃げてしまったら、皆はどうなるのだろう。
そして、何よりも怖いのは、自分の居場所を失ってしまうことだ。
ヴェルナード国がなくなったら、私は二度と元の世界には帰れない――そんなの絶対に嫌だ。
結局一番守りたいのは自分なのだと気付くと、情けない思いで胸がいっぱいになった。
けれど、この国を、そしてエルフの人たちを守りたいという気持ちも本物だ。
なぜそう思うのか振り返れば、いつも私を支え、そばにいてくれた人たちがいるからだ。
コルティアナさんに、ラルフ、そしてアルベルト様。いつも暖かく、時には厳しく、私がこの国で生きていけるよう教えてくれた。
「私は、頑張りたいです――!」
止まらなかった涙はいつの間にか乾いていた。私はアルベルト様からそっと離れ、自分の足で泉に向き直る。
「大丈夫か?」
「はい……」
アルベルト様が心配そうに私を見つめる。その瞳には、私を最優先に思う優しさしか映っていない。
この人は、本当に優しい。
今なら出来る――心の底からそう思えた。
深く息を吸い、エアリーナ様の助けを借りて放った魔法を思い出す。
体の奥から光の粒子を引き上げるように力を集める。指先まで血の熱が走り、心臓の鼓動に合わせて魔法が脈打つのを感じる。
魔法を大きく膨らませ、泉の水面へと運ぶ感覚。もう少し――そう思ったその瞬間、視界の端に動く影が映った。
ミントグリーンの髪の女性がオストロ様に腕を掴まれている。彼女はぐったりとしていて、瞳には生気がない。
「コルティアナさん……!」
駆け寄ろうとするが、オストロ様に従うエルフたちが道を塞ぐ。胸が締め付けられ、手を伸ばすことさえももどかしい。
「なんでコルティアナさんが……」
「マリ様がやる気になられるかと思いましてね」
オストロ様は冷ややかに微笑み、コルティアナさんを泉へ押しやろうとする。
「やめて、お願い……!」
声が震える。どんなに必死に手を伸ばしても、エルフたちが私の行く手を阻む。
どうしても止めたいのに、胸が押し潰されそうだ。
「窮地に立つとあなたは力を発揮できると聞きました。こうしたらどうでしょう?」
オストロ様の冷たい声が耳に刺さる。抵抗できないコルティアナさんを、泉に突き落とそうとしている――。
私は自然に前に踏み出し、魔法の力を体に集める。
もう後戻りはできない。絶対に、コルティアナさんを守る、と心が強く燃え上がる。
「させるか!」
咄嗟に剣を構えたアルベルト様が、オストロ様の腕を斬り裂き、同時にコルティアナさんの体を受け止めた。
「コルティアナさん……!」
咄嗟に剣を構えたアルベルト様が、オストロ様の腕を斬り裂き、同時にコルティアナさんの体を受け止める。
「くっ……」
オストロ様は血の滴る腕を押さえ、痛みを堪えている。
狼狽えるエルフたちを押しのけ、素早くアルベルト様のもとへ駆け寄った。
「よかった……」
胸の奥で安堵が広がる。しかし、その安堵も束の間――突如として大きな水音が響き渡った。
バシャンッ!!
泉の方へ振り返ると、アルベルト様の姿はもうそこになかった。
オストロ様は呆然と立ち尽くし、唖然とした表情で周囲を見回す。
一方、コルティアナさんは泉の近くでしゃがみ込み、顔を覆って嗚咽を漏らしていた。
「コルテ……。アルベルト様は?」
「たいせいを……、っ崩し……」
大粒の涙をこぼすコルテの言葉を最後まで待たず、私は迷わず泉へ飛び込んだ。
――あの時、思い出す。
喉が痛いと言っていたじゃないか。
朝も珍しく気だるそうで、様子がおかしかったじゃないか。
着きっきりで皆の看病をして、十分な睡眠も取れていないはずだ。
アルベルト様も、夕食の時に泉の水を接種していたのに。
普段なら、あんな所から落ちるはずがない。
でも、私がこんなだから、具合が悪いとは言えなかったんだ……。
後悔しても、時間は戻らない――。
「やめて!やめてください、マリ様ー!」
コルティアナさんが靴を脱ぎ出す私を制そうとするが、その場から動くことはできない。
「絶対戻るから」
そう言い残して、私は泉に飛び込んだ。
全力で底へと泳ぎを進める。
表面は禍々しい黒色に覆われていたが、少し潜ると、水は驚くほど心地よく澄み渡っていた。
光が差し込み、水面の向こうには数メートル先の底まで、まるで嘘のように鮮明に見える。
底へ沈むアルベルト様の姿を確認した瞬間、全身の血液が沸騰するかと思うほど熱くなる。
熱さと同時に、これまで経験したことのない鋭い痛みが全身を襲った。
意識が遠のきそうになるが、ここで気を失うわけにはいかない――。
私は思い切り自分の腕に噛み付くと、水の中に赤い血がゆっくり滲んだ。
「アルベルト様!」
朦朧とする意識の中でも、腕をかくたびに泳ぐ速度は増していく。
あっという間にアルベルト様に追いつくと、泉の水を飲んだのか、顔も手足も青白く、体が冷え切っていた。
一瞬、最悪の事態を想像したが、すぐに頭の中から振り払い、必死で陸へと向かった。
泉から這い上がると、コルティアナさんも、オストロ様の姿もなかった。森に向かって助けを呼ぶが、返事はなく、辺りは異様なほど静まり返っている。
私は精一杯の力で、アルベルト様の上半身を泉から引き上げた。
水中から引き出したのに、体は反応を示さず、静かに横たわる胸に恐る恐る耳を当てる。
――息をしていない。
「アルベルト様! アルベルト様!」
何度名前を呼び、体を揺すっても、反応はない。
焦っても、泣いても意味がないと分かっているのに、涙は止まらず溢れ出した。
「……アルベルト様」
まただ。
またアルベルト様が傷ついてしまった
ピピアーノでの大怪我のことが、頭をよぎる。
「そうだ……涙!」
私の涙には、傷を癒す力がある。
何度も流してきた涙が、今、彼に届かないはずがない――それなのに、様子は変わらない。
「何か……何か方法は……」
アルベルト様の真っ青な唇を見つめ、あの本の内容と彼の言葉を思い出す。
――この本に書かれている人魚と、君の能力は似ている。もしかしたら、皆を治すこともできるかもしれない――
考えるより先に、体が動いた。
あの人魚の本には、こう書かれていた。
人魚は水の魔法に長け、あらゆる病を癒すことができる。
その中でも、人魚の口付けは特別な力を持つ――と。
その言葉を信じ、私はありったけの思いを込めて、アルベルト様に唇を重ねた。




