黒髪の王族
アルベルト視点
私には、幼い頃の記憶がほとんどない。
自分の名前さえも、好きだった歌さえも、きっと大切にしていたであろう母のことも――何も覚えていない。
事故に遭ったと聞かされているが、詳しいことを誰も教えてはくれない。
私が思い出して苦しむのを恐れてなのかと思っていたが、今では、そもそも誰も真相を知らないのではないか――と疑うほど口を閉ざす。
そして、いつしか真実を知ろうとする気力さえ、俺の中から消えてしまった。
母は金色の髪を持っていたと聞く。
父も、兄のレオナルドも、同じく王族の証を持つというのに、なぜ私は黒髪なのか。
なぜ魔力がないのに、精霊の加護だけが俺にあるのか。
城では、黒髪を理由に兄と比べたり、見下したりする者はいなかった。
ヴォーチェ様も、血が半分しか繋がらないルナも、俺を大切にしてくれている――そう、心から感じている。
だが、貴族たちは違った。
裏で根も葉もない噂を囁き、王位は当然兄が継ぐものだと決めつける。
まあ、それが逆に継承争いの煩わしさから私を守ってくれたのだが。
それで良い――。
心の中では、そう思っている。
それなのに、学ぶことも、鍛えることも、誰よりも突き詰めずにはいられなかった。
もしかすると、がむしゃらに努力することで、現実から目をそらしていたのかもしれない――。
「王になるわけでもないのに……」
血が滲むほど努力をしているのに、そう吐き捨てるように言われた言葉を、どれだけ胸に刻んできたことか。
分かっている。
魔力を持たずとも、できることはある。
水不足に苦しむ土地へ赴き、乾いた土を掘り、希望を失いかけた人々の手を握り、子どもたちに笑顔を届ける――それくらいはできる。
精霊は気まぐれで、必ず身を守ってくれる。
魔力を貸してくれることも、昔よりは増えたが、それでもまだ少ない。
その間に、兄はどんどん先へ進んでいく――私を置いて。
そんな時、マリが現れた。
兄ではなく、私の元に――。
人魚でも、妖精でも、何でも良かった。
ただ、皆が私を認めてくれる――そのための道具になってくれれば、それで良かった。
そのはずだった。
…
“随分と、あの娘を気に入っておるのぉ”
朝食の光が窓から差し込む中、トルビネが俺の肩で羽を休めながら、小さく独り言を呟く。その声には、からかうような含みがあり、俺の胸が少しだけざわつく。
もちろん、返事はできない。言葉にすれば動揺が隠せなくなる気がした。
“聞いた話では、ピピアーノで王子自ら身を挺してマリを守ったそうじゃの~”
フクロウは気分良く毛繕いをしながら言葉を続ける。
“このまま泉の水が増えんと、マリは大変じゃな。ホホホ、あの長も見てくれは良い、きっと可愛いお子を産むかのぉ……”
その瞬間、視界が一瞬揺れた。
「……子どもっ!? うっ!」思わず声が出る。
血の気が引くと同時に、胸がぎゅっと締め付けられるような感覚に襲われた。
「そんなことは、許さない」
“お主がか?”
トルビネの言葉に我に返る。だが、決められるのは本当に俺なのだろうか――。
初めはマリをただの道具だと思っていた。自分を認めさせるための――王族や民の目を満たすための――存在として。
だが今、この目の前で震える彼女を見ていると、道具としてではなく、一人の少女として寄り添いたい気持ちが胸を満たす。
同時に、恥ずかしいほど自分の私欲に気付く。
マリを自分の元に置きたい――その思いで動いていた自分は、エミルやオストロと何も変わらない。
欲望に素直で、手段を選ばず、目の前の少女を利用しようとしていたことを思うと、胸の奥が痛む。
マリには何の罪もないのに、私の思いだけで危険に晒してしまった――その事実が、胸を締めつける。
「ア、アルベルト様、大丈夫ですか? 水を!」
慌てたマリが手元のコップに手をかざす。すると清らかな水がひんやりと湧き出て、眩しいほどに光を反射する。
昨日の一件以来、マリの出した水以外は口にしないことに決めていた。
“そんなに愛しそうに見ていたら、その内気付かれてしまうぞ”
「……だまれ」
顔が熱くなるのを感じながら、必死に視線をそらす。
「あ……。ごめんなさい」
「違う! このフクロウが」
“盗られぬよう、しっかりと掴んでおるんじゃぞ!”
トルビネはどこか誇らしげに言うと、肩から飛び立ち、旋風になって窓から出て行った。
風が残した微かなざわめきが部屋の中に残り、私の鼓動まで揺らすようだった。
その直後、オストロの控えめなノックが聞こえ、トルビネが逃げた理由がようやく分かった。
マリはまだ少し動揺した様子で、コップを握りしめたままこちらを見上げる。
その瞳には、昨日の泉の出来事と、今朝のやり取りで増幅した不安と緊張が混ざり合っている。
思わず、俺は手を伸ばして彼女の肩にそっと触れた。
「大丈夫か……?」
声は自然と優しくなる。自分でも驚くほど、私の中の“守りたい”という気持ちが膨らんでいた。
誰に認められるためでもなく、ただこの少女を守りたい――そう思う自分に気付く。
胸の奥で、これまでの自分の傲慢さや私欲が静かに反省へと変わり、同時に覚悟のようなものが芽生える。
この手で、俺は彼女を絶対に守る――その思いが、心の底から湧き上がった。
―――――
マリと私は、フォルトナの泉のほとりに立っていた。
これから、マリが雨を降らせる。その大役を果たすためだ。
後ろにはオストロと三人のエルフが控えており、その背中からは無言の殺気が漂っている。
私は、森に入った時からこの地の精霊が弱っていることに気付いていた。
エアリーナ様もそうだったが、魔力がなければ精霊の姿を保つことすらできない。
私にできることはただマリを励まし、何かあれば全力で守ること。
だが、思い出すと胸が痛む。以前、ピピアーノでの一件では、俺が怪我を負い、結局マリに助けられたのだった。
あの時の傷も、彼女が涙を流して治してくれたのだ……。
思わず視線を落とす。どうして今回、マリは一人だけ泉の毒に耐えられたのだろうか。
やはり、フォンテの言った通り、計り知れない力が彼女にはあるのだ。
「……できません」
隣にいるマリの、絞り出すような声に我に返る。
その小さな声に、胸がぎゅっと締め付けられた。
「力が出ません。何も……」
「マリ……?」
「どうしよう、どうしよう……」
涙を浮かべ、震えながら混乱する彼女を見ていられず、俺は反射的に抱き締めた。
腕の中で小さく震える彼女の背中をそっと撫でると、わずかだが落ち着きを取り戻しているように見えた。
「悪いが、少し二人きりにしてくれ」
オストロに告げると、眉根にシワを寄せ嫌そうな表情を浮かべたが、渋々三人を連れて森の奥へ歩き出した。
その背中を見送ると、胸の奥に少しだけ安堵が広がる。
“マリ……、大丈夫?”
オストロたちの姿が見えなくなると、すぐにフォンテが現れた。
体は半透明で、どこか疲れ切った様子で俺の肩に座る。
「フォンテ! 今までどこに……」
“この森の水の精霊に力を分けてたの。このままだと皆消えちゃうからね”
フォンテは今にも消えかかりそうな羽を広げ、ふわりと空気を震わせながらマリに近づき、そっと彼女の頬にキスを落とした。
その瞬間、二人の体から柔らかくも力強い光がほとばしり、泉の水面や森の木々に反射して辺り一帯が淡い虹色に染まる。
光の波に乗って、強大な魔力が静かに、しかし確かに空間を揺らして流れる。
ただのキスではない――その奔流する力の熱量や振動を、俺の身体の奥深くまで、心臓の奥まで感じ取ることができた。
胸の奥で、何かが震え、鼓動が一瞬早鐘を打つ。
目に見えぬ圧倒的な力が、静かに、しかし確実に俺たちの周囲を満たしていた。
「フォンテ……、今」
“うん、私の魔力をマリにね。って言っても元々はマリのものだし、器が広がったから受け止められるよ”
「でも、今そんな状態で私に返したら……、フォンテは?」
“うん。だから、ちょっとだけ休ませてね”
「やだ、やだ!」
マリは必死に手を伸ばし、フォンテに触れようとする。しかし、彼女は軽やかに空高く舞い上がり、指先はわずかに届かない。
そのたび、フォンテの体はまるで朝霧のように淡く、儚く、少しずつ空に溶けていく。
“マリ、また私を見つけて”
にっこり微笑むと、フォンテの体は一粒の水となり、泉の中に静かな波紋を描いた。
時間にして数秒――しかし、その間の緊張は永遠のように長く感じられた。
まだオストロたちは戻らない。
このまま泣きじゃくるマリを抱えて逃げてしまおうか――。
今の俺には、功績も評価もどうでもよかった。
ただ、腕の中にいるこの少女が、これ以上傷つくのは耐えられない。
「マリ、逃げよう」
数ヶ月前の俺なら、想像もできない言葉だった。
皆を連れてこの森を抜けてから、何をすべきか考えればいい――ただそれだけだ。
「ダメ……逃げたら、皆が……。それに、この村のエルフの人たちも……」
マリは自分に言い聞かせるように言った。
だが足から力が抜け、一人では立っていられない。
瞳には、涙が溢れ、訴えるように俺を見つめていた。
彼女は重すぎる責任を背負っていた――仲間の命、エルフの繁栄、そしてこの国の命運を。
この国に来て間もない少女に、俺たちは一生かかっても外せないかもしれない重い枷を負わせてしまったのだ。
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