フォルトナの泉2
出発時は薄暗かったツリーハウスの一帯には、光が行き届き、朝を告げるように色鮮やかな小鳥たちが軽やかに歌っていた。
まるで絵本の1ページにあるような光景のはずなのに、胸に届くものは何もない。
私たちは今、特別に大きなツリーハウスにいる。
大部屋にはただベッドが整然と並ぶだけで、無機質な空気が満ちていた。
静まり返った部屋に、熱を帯びた荒い息遣いだけが途切れ途切れに響く。
その呼吸は浅く、肺の奥を焦がすような熱を孕んでいた。
そこには、私と共に旅してきた騎士やメイド、コルティアナさん、ラルフもいた。皆、青白い顔で息苦しそうにベッドに横たわっている。
私たちが到着した時には、すでに全員がこの部屋に集められていた。
何て準備の良さだろう。
狙いが私で、力を借りたいのなら、初めからそう言ってくれればいいのに。いくらだって手伝うのに……。
「マリ……さまっ」
かすれた声でコルティアナさんが私を呼ぶ。
「何?」
私はすぐに彼女に近付き、口元に耳を寄せた。
「マリ様……。ごめんなさ…い」
額に滲む汗は尋常ではなく、時折、苦しげに喉が震える。
シーツを握りしめる指先が、高熱のせいで微かに震えているのが分かった。
「謝らないで、コルティアナさん。私がちゃんと魔法を使えないから……私こそ、ごめんなさい」
「ちがっ……」
虚ろな瞳から、ポロポロと涙がこぼれる。
何か伝えようと口を開くが、咳き込んでしまい、言葉が続かない。
「大丈夫だよ、コルティアナさん。ゆっくり休んで」
彼女は返事の代わりに、布団の中からそっと何かを取り出し、私の手に握らせた。
「これを……マリ様に」
「人魚の本……?」
たしか部屋に置いておいたはずのそれが、なぜコルティアナさんの手元に。
彼女は小さく微笑み、目を伏せた。もしかすると、私の気持ちが少しでも落ち着くように――そう思って持ってきてくれたのかもしれない。
本当は彼女の方が、ずっと辛いはずなのに。
私は胸が締めつけられる思いでその表紙を撫で、ふと顔を上げると、コルティアナさんはもう眠っていた。
静かな寝息を立てている。起こさぬよう、そっと立ち上がる。
「コルティアナは眠ったか?」
外で他の従者たちの様子を見ていたアルベルト様が、私の沈んだ表情に気づいて声をかけてくださった。
「はい……ようやく」
皆、熱が高く食事どころか水を飲むことさえままならない者も多かった。
私とアルベルト様は、手を貸してくれたエルフの女性たちとともに、日が傾くまで看病を続けた。
できることは限られていた。
少しずつ水を含ませ、体を拭き、息が楽になるように背をさする――ただ、それだけ。
けれど、その小さなことのひとつひとつが、祈りのように思えた。
「お疲れでしょう。後は私たちにお任せください」
年配のエルフの女性が私たちに頭を下げる。
「毒を盛った者たちを、信用しろと?」
アルベルト様の声は冷たく、怒りに満ちていた。
「申し訳ございません。まさか長があんな手を使うとは……。罪滅ぼしにもなりませんが、私たちに何かさせてください!」
年配の女性の後ろから、コルティアナさんと同じ色の髪と瞳を持つ少女が訴える。よく見ると、雰囲気も彼女に似ていた。
「このままでは、皆さん…もう、数日ももちません!どうか、長を止めてください!」
私が目を背けていた現実を、少女はあえて口にした。
コルティアナさんたちが、この先どうなるのか――考えたくもなかった。
私の様子に気付き、アルベルト様が肩を抱いてくれる。
彼女たちの誠実な姿を信じ、心身共に疲れ切った私とアルベルト様は、近くのツリーハウスに泊まることになった。
部屋に着くと疲れがどっと押し寄せ、ベッドに倒れ込む。
心地よい眠気に身を委ね、そのまま眠りについた。
―――――
誰かに呼ばれる声で目が覚めた。
「大丈夫か……?」
「すみません……。アルベルト様もお疲れだったのに、私がベッドを使ってしまって」
このツリーハウスは一人用で、もちろんベッドも一つだけ。
私は一国の王子を小さなソファで眠らせてしまったのだ。
「今夜は私がソファで寝ますから!」
「いや、そのままベッドを使ってくれて構わない」
「そんな……」
「じゃあ、一緒に寝るか?」
アルベルト様が試すような瞳でこちらを見つめる。
私は反射的に目を逸らした。
「ありがたく使わせていただきます」
そう言うと、アルベルト様の満足そうな表情が少し悔しかった。
私も彼も、夕食を口にしたにもかかわらず体調に大きな変化はない。
泉にいた時、アルベルト様の顔色が悪く見えたのは、仲間が危機にさらされた焦りだったのかもしれない。
「そういえば、マリ。君の本を読ませてもらった」
アルベルト様は、私がコルティアナさんから預かった人魚の本を手にしていた。
海に住む人魚の女の子が人間の男の子に恋をし、やがて結ばれて幸せに暮らす話。
私の知っている話とは少し違い、その人魚は人間の世界で平凡な家庭を築いていく。
記憶と力を失って。
「この本に書かれている人魚の話は、私の知っている物とは少し違うな」
「人魚の話は有名だと聞いていましたが?」
「あぁ、二人は恋をしても種族の壁を越えられず、結ばれることはできない」
アルベルト様は続ける。
「ただ……この人魚の力は君に似ている。以前、涙で私の怪我を治してくれたこともあるだろう?雨を降らせた時も、住民の病を和らげた」
彼は自分の腹部を指差す。
確かに、私にその力があるかもしれない。けれど、すべて無意識で行ったことだった。
「でも、どうやって……」
「悔しいが、オストロの言う通りだ。君は守るべきものがいるとき、力が高まる。今からまたコルティアナのもとへ行き、試してみよう」
「はい……」
不安と恐怖で身体が震える。
その時だった――
トントン
早朝の訪問に、私はアルベルト様と顔を見合わせる。
淡い期待を抱きながら扉を開けると、一瞬でその期待は崩れ去った。
「おやおや。怖い顔をしていますね。よく眠れませんでしたか?」
「要件は何だ?」
「もちろん泉の件です。今日もマリ様には頑張っていただきます」
オストロ様はアルベルト様の後ろで、私に視線を向ける。
穏やかに話すが、そのエメラルドの瞳は冷たく、私は負けじと強く睨み返した。
「マリ様、元気で何よりです。ではまた朝食後に伺います」
「あぁ」
「ところで……フクロウは迷い込んできませんでしたか?」
「いや、知らない」
「そうですか。では失礼します」
オストロ様が去ると、アルベルト様の肩の力も少し抜けたように見えた。
朝食前にテーブルを片付けようとすると、部屋の隅に白い影が動く。
素早くテーブルの下に隠れたが、見逃さなかった。
「トルビネさま~!」
声を潜め、テーブルの下を覗くと、羽をしゅんと縮ませた白フクロウが大きな瞳を潤ませていた。
“すまん、本当にすまなかった! ここまでエルフがやるとは思わんかった!”
白フクロウの姿で土下座されると、こちらが悪いのではと錯覚しそうになる。
話を聞くと、トルビネ様はエルフから追われ、ずっと逃げていたという。
“あいつらはエアリーナ様を探しておる。居場所を聞かれても、わしも分からんのじゃ”
「エアリーナさんは、眠ってしまった前に……」
“姿が保てぬほど弱ってしまったんじゃ……。力を回復するため、今はこの森の風に戻っておる”
トルビネ様は低く、静かな声でぽつりぽつりと語り始めた。
風の精霊王は代々フォルトナの森で生まれ、その恩恵によって森には豊かな風の魔力が満ちている。
その魔力を扱うのが得意なエルフたちは、自然とこの森に住み着き、魔力と共に長い年月を生きてきたのだという。
フォルトナの泉の水には、特に風の魔力が濃く宿っており、エルフたちはその力と相性が良かったおかげで、長く繁栄することができた。
「だから城で、エルフはフォルトナの泉の水しか飲めないと……」
“他の水も飲めるが、あの泉の森でなければ、ここまで栄えることはできん。エルフというのは長命だが体が弱い。赤子の時は特にな……”
「そういえば、ここに来てから子どもを見かけませんね」
“……フォルトナの泉の力が弱まったせいじゃ。あれはエアリーナ様の力と関係しておってな。最近では、赤子が産まれてもすぐに死んでしまう”
「そんな……」
“だからの、最近はエルフも考えておるのじゃ。エルフと人間の子を作ることを……”
「人を見下すエルフが人間と? まさか……」
アルベルト様は目を大きく見開き、驚きの色を隠せなかった。
“察しが良いのぉ、王子よ”
「だが、どうして……」
“これだけ噂になればのぅ”
私は二人の会話の全貌を理解できず、ただ黙って耳を傾けるしかなかった。
話はどんどん進み、理解が追いつかぬまま終わってしまう。
質問する雰囲気でもなかったため、後でこっそりアルベルト様に尋ねることを心に決めた。




