森の中へ
森の中に足を踏み入れると、木々の間から柔らかな光が差し込み、思ったより明るかった。
鳥のさえずりや、小さな動物たちが木の葉をかすめて走る音に、少しだけ心が和む。獣道に近い一本道を、私たちは無言でただひたすら進んだ。
森へは馬車では入らず、馬と徒歩で進むことになり、私はアルベルト様と一緒に馬に乗ることに。
「マリ、大丈夫か?」
背後から低く響く声に、心臓が跳ねる。
馬に乗り慣れていない私を気遣って、アルベルト様の腕がそっと私の腰を支える。
笑顔で頷いてみせるけれど、力が入りすぎているのか、お尻と内ももがじんじんと痛み始めていた。
けれど、それ以上に。
背中に感じる彼の体温と、耳元にかかる息遣いのほうが、ずっと息苦しい。
森の風が頬を撫でるたび、胸の奥の鼓動が早くなる。
日が傾き始めた頃だった。
「今日はここまでにしよう。森の結界の内側だ、火は使えない。灯りは魔法で頼む」
アルベルト様の声が静かに響く。
騎士たちは頷き、魔石の灯りをひとつ、またひとつと灯していった。
青白い光が、木々の間をほのかに照らす。
私は食事の用意を手伝いながら、手洗いや飲み水に使う水を魔法で出す。
冷たい水の音が、しんとした森に小さく響いた。
誰も大きな声を出さず、動作もどこか慎ましい。
この場所が、ただの森ではないことを、全員が本能的に感じ取っていた。
一息ついたところで、私はコルティアナさんのもとへそっと近づいた。
「マリ様、なんだか動きがおかしいですよ」
ふふっと微笑むコルティアナさんの穏やかな声に、張りつめていた気持ちが少し和らぐ。
私は顔を近づけ、小声で打ち明けた。
「明日は、一緒に馬に乗ってくれないかな? 緊張で心臓が限界なの」
「あらあら。見ていてとても微笑ましかったですよ? アルベルト様、お可哀想に……」
「そんなこと言わないで。泉に着く前に、私が倒れちゃうよ。まだ、ラルフと乗ってた方がマシ」
「速攻でお断り申し上げます」
背後から聞こえた声に振り返ると、ラルフが腕を組んでこちらを見ていた。
聞かれていたことに気づいて、私は思わず目を丸くする。
その反応がよほどおかしかったのか、彼が小さく吹き出した。
「ラルフも、まんざらではないかもしれませんね」
コルティアナさんのからかうような言葉に、私とラルフの声が重なる。
「「それはない!」」
思わず言い切ったあと、私とコルティアナさんの間に小さな笑いが生まれた。
けれど、ラルフだけは口元を少しだけ緩めたまま、すぐに視線を外す。
森の夜気がひんやりと頬を撫でる。
その静けさの中で、ほんの一瞬だけ、安心できる時間が流れた。
――けれど、その穏やかな光景を、少し寂しげな瞳で見つめるアルベルト様の姿に、私は気づいていなかった。
…
“泉が近い、気をつけるのじゃ”
二度目の野営を終えた朝、まだ薄靄が森を覆っている頃だった。
トルビネ様の声が風に混じって響くと、張りつめた空気が一気に広がった。
森の奥へ進むにつれ、どこか息苦しいような重さが漂い始める。
鳥の声は消え、葉擦れの音さえ遠のいていく。
まるで森そのものが息をひそめているようだった。
ふと、アルベルト様が馬を止めた。
その視線の先には、幹の太い木があり、幹の半ばから根元にかけて、木肌を裂くような爪痕が刻まれていた。
爪の痕のように鋭く、しかも人の背丈を優に越える高さにまで達している。
「……魔獣の痕か」
アルベルト様の低い声が響いた。
乾いた地面には黒ずんだ血のような染みが点々と続いている。
森の獣たちのものにしては、あまりに大きい。
そのとき、遠くで低い遠吠えが聞こえた。
ひとつ、ふたつ――やがて重なり合い、森の奥でこだまする。
馬が小さく身を震わせ、私の手のひらに汗がにじんだ。
“この森には、本来魔獣などおらぬはずじゃ……”
トルビネ様の声がかすかに揺れる。
まるで森を護る力が弱まり、外の闇が入り込んでいるかのようだった。
エルフたちが弱っている――その事実が、肌でわかる。
ふと、風が止んだ。
空気が張り詰め、肌にまとわりつく。
木々の間を抜けた瞬間、視界がぱっと開ける。
そこに広がっていたのは、まるで夜そのものを閉じ込めたような泉だった。
黒く濁った水面は光を呑み込み、かすかな波紋すら生まれない。
禍々しいオーラが立ち上り、近づくのもためらわれる。周囲の草木も生気を失い、今にも枯れ落ちそうだ。
“遅かったか”
トルビネ様が肩に止まり、悔しそうに小さく呟く。
本来なら日夜きらめき、魔力を宿しているはずの泉。しかし今は力を失い、かつての輝きは微塵も感じられなかった。
「……なぜ」
コルティアナさんが今にも泣き出しそうな声で呟く。
顔は蒼白で、今にも倒れそうだ。私は言葉をかけたくなるが、森の奥に動く人影を見つけ、思わず口をつぐむ。
背に弓を背負ったエルフの集団が、ゆっくりと私たちに近づいてくる。
長く尖った耳、動きやすそうな狩猟服、細身で均整の取れた体つき。息を呑むほど美しいが、同時に圧のような緊張が全身を包む。
“あれがエルフじゃ。気難しい種族でな、言葉には気を付けるのじゃよ”
トルビネ様がそっと肩越しに教えてくれる。少し安心する一方で、私の胸は高鳴った。
美しい……けれど、人間とは異なる圧を感じる。
一行は馬から降り、エルフたちに向き合った。
「皆、遠方よりよく参られた」
銀色の髪を一本に編み、深いエメラルドの瞳を持つ、一際美しいエルフの男性が、感情の読み取りにくい冷たい声で告げた。
周囲の仲間たちも整然と並び、私たちをまるで観察するかのようにじっと見据えている。
「私はフォルトナの森に生きるエルフの族長、オストロ」
彼が先に名乗ったことで、王子であるアルベルト様の眉がわずかに上がる。
人社会では、まず身分の高い者が挨拶をするのが礼儀だ。アルベルト様が口を開きかけた瞬間を見計らい、あえてオストロは前に出たのだろう。
「ヴェルナード王国第2王子、アルベルト・リグノーアだ」
「この森は代々、エルフ族が守ってきた」
オストロの視線は低く、鋭く、私たちを警戒している。背後の仲間たちも、目を細めて静かに監視している。
しかし、泉の状態がこのままでは、人間を完全に拒むわけにもいかない。
アルベルト様は道中、オストロの複雑な心情を私に説明してくれていた。そのため、彼の表情には何も出ず、わずかに口角を上げ、言葉を選んで話す。
「……オストロ様をはじめ、エルフ族の皆さんがこの森を深く愛し、守り続けてきたこと。人間が立ち入るべきでないことも、重々承知しております」
沈黙の間、オストロは視線を上げ、私たちをじっと見つめる。
「確かに、貴方たちが森に入ってからの振る舞いは、慎重であり、森の生き物や自然への配慮も欠かしていなかったようだ」
厳格な表情は変わらないが、語尾にわずかに柔らかさが混じる。
そして、彼は急に視線を私に向けた。
「一人、毛色の違う乙女よ。貴女には期待している」
森の空気が一瞬、張り詰めた。後ろのエルフたちも、私を探るような視線を向ける。
ここで引けば信用を失う——そう思い、私は胸を張り、静かに答えた。
「マリと申します。フォルトナの森の皆さんの助けになるよう、精一杯頑張らせていただきます」
オストロはしばらく私を見定めるように見つめたまま、無表情を保つ。
その目の奥には、人間を警戒する鋭さと、泉を救わねばならない使命感が微かに光っていた。
「では、案内しよう。エルフたちの住処へ」
少し間を置いて、低く穏やかな声が続く。
「……案内中は、マリ様をエスコートさせてもらっても?」
淡々とした口調だが、その言葉には断る余地のない強い意思があった。アルベルト様は黙ってその申し出を受け入れる。
オストロは腕を差し出し、私はわずかにためらいながら手を添える。
触れた瞬間、彼の存在感と冷たさがじんわり伝わり、胸の奥が微かにざわついた。
「触れただけでも分かる……」
「え?」
言葉が途切れ、私が顔を上げると、深い悲しみを湛えた瞳がこちらを見つめていた。
「いえ、何も。さぁ、参りましょう」
森の奥へと続く小道が、静かに私たちを迎え入れるように伸びていた。
振り返り、泉を見る。先ほどと変わらず、何物も寄せ付けない禍々しい色をした泉が、音もなくそこにあった。
「泉さえ復活すれば、我々も森を守ることができる。そのためにはマリ様には頑張っていただかないと」
私の様子を見て、オストロは淡々と話す。それが当たり前かのように。
「そうなることを願っている。だが、全てが彼女に託されているわけではない」
すぐに、私のすぐ後ろにいるアルベルト様が擁護するように口を開く。
それ以降の道中、言葉はなかった。
私は自分の足元だけを見つめ、落ち葉や苔の上を慎重に踏みしめながら進む。
先頭を歩くオストロ様の腕の隣に立ちつつも、視線を合わせる勇気はなかった。
森の空気は、先ほどよりも重く濃密になっていた。
遠くで低く唸る魔獣の声が響き、枝の間から鋭い目 がこちらを覗いている気配がする。
葉や草木の揺れ方もどこか不自然で、森全体が正気を失ったかのようにざわついている。
泉の禍々しい力の影響だと、本能的に感じられた。
ふと気づくと、道の脇や木の陰に、エルフたちの姿がちらりと見え隠れする。
彼らの瞳は冷たく澄んでいて、まるで私がこの森に混ざってはいけない異質な存在であるかのようだった。
その冷たい視線に、背筋がぴんと張る。
オストロは前を真っ直ぐ見据え、私に一切の表情を見せない。
しかし時折、肩越しに私の動きや足取りを確かめるように視線を落とす。
私はそれに気づかないふりをして、ただ慎重に足を進めた。
木漏れ日が斑に揺れる中、風がそよぐ。
その柔らかな空気ですら、森の異様な緊張をかすかに和らげるに過ぎない。
私は自分の胸の奥のざわめきに耳を澄ませ、静かに、しかし確実に一歩ずつ歩みを進めた。
[エルフの泉]




