揺れる心
この世界には、元いた地球とよく似た物や文化が多い。
もしかしたら、私以外にも地球から来た人がいるのかもしれない――そんなことを考えながら、私はコルティアナさんと並んで、城下町の通りを歩いていた。
エミル様もいなくなったことで、ふたりで何気ない話に笑いながら、あれこれと品物を見て回っている、遠くから私の名前を呼ぶ声が聞こえた。
聞き覚えのある声に振り返ると、白馬に乗ったアルベルト様が、まっすぐこちらへ向かって駆けてきていた。
「マリ!」
「アルベルト様? そんなに急いで……どうなさったのですか?」
馬を降りたアルベルト様は、後ろに控えていたラルフに手綱を預け、真剣な表情で私のもとへと歩み寄ってくる。
「君がコルティアナと城下町へ行くとは聞いていたが……まさか、エミルも同行しているとは思わなかった。何かあったのではないかと心配で」
まっすぐに向けられる視線と、隠そうともしない気遣いの言葉に、胸がじんと熱くなる。
――ただの婚約者としての責任。そう分かってはいるのに。
こうして優しさに触れるたび、心がふわりと浮かびそうになるのだ。
「ご心配ありがとうございます。エミル様は、体調が優れないとのことで先ほど城に戻られました。今はコルティアナさんと二人ですので、どうぞご安心を」
「そうか……それなら良い。コルティアナは信頼できる。剣の腕もあるしな」
「コルティアナさん、そこまで強いんですか?」
思わず訊ねると、コルティアナさんは軽く肩をすくめて、穏やかに微笑んだ。
おっとりとした容姿からは想像できないほど、時折俊敏な動きを見せることがある彼女。やはり、ただ者ではないらしい。
「マリ様、気にすべきはそこではありませんよ」
そう言って、コルティアナさんはくすっと笑った。
隣のアルベルト様も、目を細めて彼女に視線を向ける。
ふたりの間に交わされる視線と笑み。
それは、長年を共に過ごしてきた者だけが持つ、自然で深い信頼の証のように見えた。
そういえば、コルティアナさんは私のもとへ来る前、アルベルト様に仕えていたと聞いたことがある。
ふたりが交わすやり取りの端々に、その年月の積み重ねを感じて少しだけ、胸の奥がきゅっとなった。
そんな私の気持ちに気づいたのか、コルティアナさんは優しく微笑み、そっと私の背に手を添える。
「少々、目立ってしまいましたね。残りのお買い物は私にお任せください。どうぞ、おふたりは城へお戻りになってくださいませ」
その言葉に促されるように周囲を見回すと、いつの間にか人だかりができていた。
私とアルベルト様を見て、城の者だと気づいたのか、周囲の人々はざわざわと話し合っている。
けれどその空気は、決して悪いものではなかった。
どこか温かく、好意的で安心していたそのとき。
人混みの中から、ひとりの中年男性が、遠慮がちにこちらへ歩み寄ってきた。
すると、コルティアナさんとラルフがさっと前に出て、私とアルベルト様の前に立つ。
城下町の人間だというのは見た目で分かるが、万が一に備えての行動だろう。
ふと、ラルフと目が合ったが、彼はすぐに視線をそらしてしまった。
「……あの、マリ様でよろしかったでしょうか?」
おずおずと中年男性が口を開いた。
「はい、そうですが……?」
「ずっとお礼が言いたくて。うちの母が……本当にお世話になりました」
「……お母様?」
突然のことに戸惑っていると、アルベルト様が私の横に立ち、さりげなく背に手を添えてくれた。
「マリが……どうかしたのか?」
男性は慌てたように両手を上げ、言葉を繰り返す。
「す、すみません、言葉足らずで……。ずっと床に伏せていた母が、先日降った雪解け水を飲んだあとから、少しずつ歩けるようになったんです!」
「え、あの……降らせてしまったというか、落としてしまった雪ですよね? 急で驚かせてしまったなら、申し訳なくて……」
「とんでもない! 迷惑なんて……! うちだけじゃない、あの雪に助けられた者は他にもたくさんいるんです。本当に、ありがとうございました」
「い、いえ……私は何も……」
あの日、アルベルト様に迫られて思わず降らせた雪。
まさか、こんなふうに感謝されることになるとは思ってもいなかった。
ピピアーノで回復の効果があったとはいえ、今回もそうだという確証はなかったのに――。
「そなたの母君が回復して何よりだ。……妻が少し疲れているようなので、これで失礼する」
アルベルト様がふっと私の腰に手を回し、威厳ある声で言い切ったその瞬間、私は思わず彼の顔を見上げた。
え、いま、“妻”って言った!?
問いただす暇もなく、彼は私の体をひょいと抱き上げ、すぐそばで控えていた馬に、器用にまたがる。
その一連の所作のあまりのスムーズさに、周囲からどよめきと感嘆のため息が漏れた。
「それでは――」
キラリと王子様スマイルを浮かべると、何人かの若い娘たちが目を潤ませ、よろけている。
成人の儀のときのように、嫉妬の視線を浴びるかと身構えたが……どうやら様子が違った。
人々は、どちらかというと憧れのまなざしで私たちを見ていたのだ。
「マリ、しっかりつかまっていてほしい」
馬が走り出すと、私はその振動に思わずアルベルト様の首に腕を回してしまった。
「ご、ごめんなさいっ!」
慌てて離れようとしたけれど、再び大きな揺れにバランスを崩し、再びしがみついてしまう。
「嫌じゃなければ、このままで」
「で、でも、私、たくさん歩いて汗かいてるし……」
そんなことを言いたかったわけじゃなかったのに、口が勝手に動いてしまう。
アルベルト様はくすっと笑い、私の首元に顔を寄せてきた。
「……いい香りがする」
「匂いかがないでくださいっ!」
「どうしようか」
「ちょっとーっ!」
ふざけたやり取りのあと、アルベルト様はしばし黙り込み、何か言いかけては口をつぐむ。
振り返った彼の横顔は、どこか迷っているようにも、覚悟を決めようとしているようにも見えた。
「マリ……」
低く呼ばれた名前に、ドキリと胸が高鳴る。けれど彼はすぐに「いや、何でもない」と小さく笑い、馬を進めた。
夏の疲れもあったのか、私は軽いめまいを起こしてしまい、騎士やメイドたちの温かい視線を浴びながら、そのままアルベルト様に抱きかかえられて部屋まで運ばれることになった。
――まるで、お姫様みたいに。
少しすると、買い出しを終えたコルティアナさんがにやにやと笑いながら言っていた。
「城下町の人々は、おふたりの仲睦まじい姿を“理想の夫婦”として語っておりましたよ」と。
……顔から火が出るかと思った。
―――――
そして、いよいよ出発の前日となった。城内はそわそわと落ち着かない空気に包まれている。
けれどラルフの魔法訓練は明日が出発だろうが関係ない。今日は一応「調整」という名目だが、油断すればあれやこれやと、あの鬼教師に求められる。気を張りつつ、重い足取りで訓練場へ向かっていた。
明るい笑い声がふと耳に届き、中庭に目をやると、メイドさんたちと楽しげに談笑するバルディ宰相の姿が見えた。
聡明で人当たりがよく、王や貴族からも厚い信頼を寄せられる宰相。困りごとを持ちかけられることも多く、今日もまた柔らかな笑みを浮かべ、彼女たちの相談に乗っているのだろうか。
メイドさんの腕には、大ぶりなカゴ。縁からのぞくのは、淡い桃色や水色の、花とも布ともつかない小さな包み。差し入れだろうか。こうした細やかな気遣いができるからこそ、誰からも慕われるのだろう。
あんなに気さくで優しい人の血が、ラルフにもほんの少しでも流れていれば、私はこんなに苦労せずに済んだのに。
「何か言いましたか?」
「え、いや別に!」
野外練習場では的に水鉄砲を当てる訓練をしていた。先ほどのことを思い出し、ついラルフへの愚痴を口にしてしまったらしい。
冷たい視線が痛い。
「ところでマリ様、フォルトナの森には魔物も生息しています。アルベルト様に守ってもらっているだけでは、足手まといになりますね?」
そう言いながら、ラルフはゆっくりと両手を上げた。地面がわずかに震え、土の塊が吸い寄せられるように浮かび上がる。
無駄な動きひとつなく、冷静な視線だけを私に向けている。
「さて、これからあなたに攻撃します。防ぎながら、同時にあなたも私に魔法を放ってください。実践を想定した訓練をいたしましょうか」
その言葉通り、宙に浮いた土が一瞬で鋭い刃へと変わり、風を裂く音を立てて真っ直ぐ私めがけて飛んできた。
咄嗟に水の盾を作り土の刃を受け止め、安心する間もなく次の刃が迫る。ひっきりなしに襲いかかる攻撃に、防御で手一杯で反撃の隙など作れなかった。
「目を逸らさず、集中してください」
ラルフの声が響く。次々に魔法を繰り出し、私は何とか防ぎながら数回攻撃を返すことができた。互いの魔力がぶつかり合うと、衝撃波が生まれ周囲の草木を揺らす。
息を切らしながらも、私は徐々に動きが滑らかになりってくるのが実感できた。ラルフの攻撃を読み、防御と反撃をする。
「目線、指先、魔力──相手の全てを捉えるのです」
落ち着いたらラルフの低い声。私はその言葉に従い、彼の無駄のない動きや、微かに空気を震わせる魔力の流れに全神経を尖らせて対応していた。
激しく応酬を繰り広げる中で、一瞬。
本当に、瞬きにも満たない刹那のことだった。
ラルフの瞳が、深く、射抜くような黄金色に輝いた気がした。
その瞳に宿った、人ならざる者のような神々しい光。
吸い込まれるようなその輝きに、心臓が跳ね、思考が真っ白に塗り潰される。
「あっ……」
気を取られて、自分の足元への注意が完全に疎かになっていた。
絡まるような感覚と共に、私の体は無情にもバランスを崩した。
「まったく……っ!」
視界の端で、ラルフの表情が驚きと焦りに変わるのが見えた。
次の瞬間、彼は私の放った水鉄砲など意に介さず、一直線に駆け寄ってくる。
その結果、彼の頬を水が掠め、小さな切り傷を作る。
直後、強い腕が私を抱き止める。
「……大丈夫ですか?」
「す、すみません……」
無意識につむってしまった目を開けると、ラルフの頬から血が滴るのが目に飛び込んできた。
「ごめん! ごめんね? 痛いよね……ど、どうしよう」
頭の中は真っ白で、言葉がぐちゃぐちゃにあふれ出る。
「本当にごめんなさい!……どうしよう、押さえるもの……そうかっ!」
「……え?」
自分の上着のボタンを一つ外し、内側の布でラルフの頬を拭こうと身を寄せた――その瞬間、彼に両腕をしっかりと掴まれた。
「ふー、落ち着いてください」
外側は土や埃で汚れていたから、せめて清潔な内側で……そう思ったが。
「ん?」
「ん?じゃありません。あなたの魔法は何ですか?」
「はっ!」
慌てて水をポケットに入れていたハンカチを思い出し、水を含ませ、ラルフの頬にそっと当てる。
「……傷が残っちゃうかな? せっかく綺麗な顔なのに」
「傷くらい残っても構いません」
「良くない! もっと大事にしよう、自分の体なんだから」
「ふふ……それにしても、貴女の焦った顔が、ふふははは!」
ラルフが声を立てて笑う。それは幼い子どもが無邪気に笑うようで、初めて見る彼の姿に、私はただ呆気にとられた。
「……笑わないでよ」
そう口を尖らせた瞬間、彼の指先がそっと私の手に触れた。
「まぁ、あなたに傷をつけられるなら、本望かもしれませんね」
低く柔らかな声が耳に届く。
――え、なにそれ。
問い返すより早く、ラルフは表情を引き締め、眼鏡を持ち上げた。
「……とはいえ、もう少し精度を上げてください。あれでは実戦で即死です」
「はいはい、わかってます!」
そう言って、私は肩をすくめた。
その後、ラルフから反省点を幾つか挙げられ、訓練はお開きとなった。
気づけば、空は夕焼けに染まり、日が暮れようとしている。
まだ実感はないけれど、明日からの旅が、これまでの私の世界を大きく変えるかもしれないという、小さな予感が頭をよぎった。
評価をしていただき、ありがとうございます!




