ピピアーノ高原2
目を覚ますと、夜の名残を惜しむように月明かりが差し込んでいた窓から、朝日が静かに私たちを照らしていた。
壁にもたれていたアルベルト様は、いつの間にか横になり、浅い寝息をたてている。眠りについているだろうとふと見ると、彼の肩が小さく震えている。
「アルベルト様……?」
心配になって覗き込むと、彼の顔は青白く、呼吸も浅い。
まさかと思いながら額に手を当てた瞬間、熱がじわりと掌に広がった。
「すまない……」
私の声に目を覚ましたアルベルト様は、弱々しく呟く。しかし、その手は腹部を押さえ、苦痛に顔を歪めていた。
いてもたってもいられず、私はそっと彼を仰向けにし、ベストとシャツのボタンを外す。そこには、赤黒く変色した脇腹が腫れ上がっていた。
「どうして……こんなになるまで……!」
焦りと罪悪感で、声が震える。
彼の傷は、あの竜巻から私を庇ったときのものだ。私が取り乱している間、痛みを堪えていたのかもしれない。そう思うと、胸が締めつけられた。
私は急いで布に水を染み込ませ、そっと患部に当てた。
「っ……!」
アルベルト様が短く息を飲む。その微かな反応すら、申し訳なくて、耐えられなかった。
「痛いですよね……ごめんなさい……私のせいです……」
彼が傷を負ったのも、私が泣いてばかりで気づいてあげられなかったのも、すべて私のせいだ。
自分の無力さに腹が立ち、頬を伝う涙が彼の黒髪に落ちていく。
「こんな時に……水を出すことしかできないなんて……」
どれだけ魔力があったとしても、これでは何の意味もない。ただ無力なまま、何もできないまま、彼を苦しめることしかできない。
「人を呼んできます! 待っていてください!」
私は倉庫を飛び出し、広場へ向かって走った。
朝だというのに、風の音すらなく、広場は異様なほど静まり返っている。
目視できる距離に家がいくつか並んでいたので、一番近い家の扉を叩いた。
「すみません! 怪我人がいるんです! 助けてください!」
壊れるほどの勢いで叩いても、何の反応もない。
誰かがいるはずなのに、私の叫びがただ虚しく広がるだけだった。
「ごめんなさい……勝手に入ります!」
ドアノブを掴むと、鍵は開いていた。
中に入ると、素朴で温かみのあるダイニングが広がっていた。奥に続く部屋の扉をそっと開けると、木のベッドで眠る少女が目に入る。
彼女は私と同じくらいの年齢に見えた。鳥や花の彫られた可愛らしいベッドの上で、静かに横たわっている。
だけど寝息が、聞こえない。
「……ねえ、起きて……?」
震える手で彼女の肩を揺する。
ぴくりとも動かない。
それでも、顔を近づけると、微かに息は感じられた。
「他の人は……?」
家の中を調べると、ほかの家族も同じように深い眠りについていた。いや、家族だけじゃない。隣の家も、その向かいの家も、広場に面したすべての家で、人々は眠り続けている。
まるで、時間が止まってしまったかのように——。
「どうしたらいいの……」
私は道の真ん中で立ち尽くす。冷たい静寂が、足元から這い上がるように私を包み込んだ。
ピピアーノ高原全体が、こうなっているのかもしれない。
この高原に来てから、生き物の気配を感じなかったのは……皆、眠っていたから?
ひとりきりの不安に押しつぶされそうになる。だけど、今はそんなことを考えている場合じゃない。
私は家にあった薬や食べ物を拝借し、急いで倉庫へと駆け戻った。
「アルベルト様……?」
倉庫に、彼の姿はなかった。
慌てて彼が寝ていた場所に触れると、まだ微かに温もりが残っている。ついさっきまで、ここにいたのだ。
「待っててって言ったのに……」
広場に戻り、必死に彼の姿を探す。でも、どこにもいない。
静寂が広がる中、私だけがぽつんと取り残されていた。
「……私しかいない……」
世界が、音を失っていく。
心細さと恐怖が胸を締めつける。どうすればいいのか分からない。何をするべきなのかも分からない。
ただ、時間だけが過ぎていく。
「もう……無理だよ……」
震える声が、ぽつりと零れた。
視界が滲む。止まらない涙が、一滴、また一滴と地面に落ちていく。
「……誰か……誰か助けて……」
声にすらならない祈りが、静寂の中に吸い込まれていった。
——そのとき。
“““いーよー!”””
「え?」
予想もしていなかった返事が、しかもこの場の雰囲気とはまるで違う、陽気で無邪気な声だった。
「まさか、精霊さん?」
私がそう呟くと、ポ、ポ、ポと小さな光が弾けるように空間に現れる。
精霊たちはふわふわと宙を舞い、私の涙をペロリと舐めると、クスクスと笑った。
“なみだ、おいしいねー”
“なにする、なにする?”
突然の出来事に驚き、私は後ずさる。そのまま尻餅をついてしまった。
「風の精霊さん?」
“そうそう!”
見覚えのある昨夜の精霊が、私の目の前にスイッと飛んでくる。
黄緑の長い髪をハーフアップに束ね、白いシンプルなワンピースを着た少女の姿。フォンテの二倍はあろうかという細長く大きな羽は、まるで風そのもののようにしなやかに揺れている。
彼女は無邪気な笑顔を浮かべながら、私の言葉を待っていた。
「ねぇ、お願い。この村もアルベルト様も助けてほしいの」
“いいよ、でもだめ”
「どっちなの?」
“あめ!”
「……っ雨? 雨をどうしたらいいの?」
“あめ、ちょうだい。いーっぱい!”
精霊は両手を大きく広げて、欲しがるような仕草をする。他の精霊たちも一斉に「ちょうだい、ちょうだい!」と囃し立てる。
「水は出せるけど……これじゃダメ?」
私は両手から水を生み出し、空中に浮かべてみせた。
“おぉー!”
精霊たちが拍手をする。少し気分がよくなるが、どうやら彼らが求めているものとは違うらしい。
“でも、だめ”
ふわりと枝を二本浮かせ、それをバツ印にして私の前に持ってくる。
「ごめんなさい、私にはこれしかできない……」
“じゃあ、ねる?”
精霊が、眠るジェスチャーを見せる。その仕草を見て、私ははっとした。
「もしかして、あなたたちが村の人たちを眠らせたの?」
“うん”
「……なぜ?」
“つらい、くるしいって言うの”
その言葉に、私は息をのんだ。
精霊は、ただ楽しいから、人間に力を貸す——そんなふうに教わってきた。でも、違う。
彼らは、ちゃんと考えて、悩んで、村人たちを眠らせたんだ。
「……村の人たちが苦しそうだから眠らせたの?」
“うん、くるしくないように。ピピアーノみーんな、ねた”
なんて無邪気な言葉。でも、その裏にあるのは——純粋な優しさ。
ゆっくりと死に向かうより、眠ってしまったほうが楽だと思ったのだろう。
「……ねぇ、本当は起きてほしいんだよね?」
私がそっと問いかけると、精霊たちはぴたりと言葉を止めた。
フォンテのときと同じ。感情を表す羽が、しゅんと垂れ下がる。
——知能が低い? 話が通じない?
そんなの、嘘だ。
「精霊さんたちは、ピピアーノの人が好きなんだね」
“すきすき!”
“みーんな、だいじ”
“ずっといっしょ”
空中を嬉しそうに飛び回る精霊たち。その姿を見て、私の胸に込み上げるものがあった。
「あれ? 光ってる?」
気付けば、精霊たちの体が淡く光を放ち始めていた。
光は次第に強まり、彼らの魔力や気配もどんどん高まっていく。
“すごい、すごい!”
彼ら自身も、その変化に驚いているようだった。
「マリ!」
「え?」
背後から声がして振り向くと、アルベルト様が腹部を押さえながら、ゆっくりとこちらへ向かっていた。
私は慌てて駆け寄り、彼の腕を取る。触れた瞬間、彼の体温の異常な熱さに息をのんだ。
「アルベルト様、熱が……! どうしてこんな体で来たんですか!」
「精霊たちが騒がしくなったから……心配で……」
どうして——この人は、いつも自分のことを後回しにするの。
私は強く彼を支え、ベンチへ座らせると、睨みつけるように彼の前に立った。
「寝ていてください! もう絶対、動かないでください!」
怒りが抑えきれない。
「また泣かせたな……」
アルベルト様は、私の涙を指ですくい、そっと舐めた。
「こんな時に冗談なんて……っ」
「……本当に甘いんだ。驚いたよ」
彼は苦笑しながら、自分の腹部に手を当てる。その瞬間、私は息をのんだ。
「え……?」
アルベルト様の傷口が、目に見える速さで癒えていく。赤黒く腫れ上がっていた肌が、じわじわと元の色を取り戻していく。
「アルベルト様……?」
「……まさか、これも精霊の力なのか?」
彼がそう呟くと、精霊たちがくるくると宙を舞いながら笑った。
“なみだ、すき”
“もっとちょうだい”
「……涙?」
私が流した涙を、精霊たちはずっと美味しそうに舐めていた。そしてその度に、彼らは光を帯び、力を増していた。
まるで私の涙が、彼らの力の源にでもなるかのように。
もしかして、私の涙が精霊を強くしていた?
「だとしたら……」
私はそっと瞳を閉じ、アルベルト様の手を握りしめる。
「お願い、精霊さん。村の人たちを……目覚めさせて……!」
精霊たちの光が、ますます強まっていった。




