第4話 幼稚園で対局する
本来、手っ取り早く強くなるためには一つの戦法を磨くのがいいとされている。相手の戦法に対して有効な戦法を取るというのは序盤で有利を取るという意味では本当に有効な方法だ。しかし、問題は中盤以降。この際必要になる攻め筋や受けの手筋は戦法によってガラッと変わることが多い。もちろん、その数は相手が使う戦法と自分がそれに対して使用する戦法の組み合わせの数だけ存在する。さらに言えばそこから発生する手が広い局面というのはお互いの攻め筋×それに対応する受け方の数だけ存在すると思っていい。
具体的には、俺と爺さんの将棋に於けるこの局面がそれだ。
この場面での攻め筋としては単に7七歩も5五角のやり取りを挟んでから、7七歩もあったところで俺は5五角を選んだ。どちらも演算能力は後手勝ちを示している以上、ここでの選択は、極論すれば棋風の違いでしか無い。だとすれば、振り飛車側はどちらで来ても構わないという前提が必要だろう。
そして、爺さんは受けの選択として7五歩を選んだ。それは、
この形になることを選んだと言っていい。
しかし、実際には
この形を選ぶ選択もあったし、
この形を選ぶ選択もあった。
どちらも演算能力は先手の負けを示している以上、どちらの形で相手のミスを誘うかはやはり棋風の違いでしか無い。ならば後手はどちらの攻略法も知ってるほうがいい。
特に前者のこの形。
先手は左側が固く、玉周りの右側が薄い。ここは薄くなった玉周りを攻めるのが正解だと演算能力は言っているが、後手が殆ど右側を攻める準備が出来てないことも分かるだろう。ここから、この戦法の経験が少ない者が後手だった場合、果たして後手勝ちとなる手だけを選び続けることができるか? しかも、準備に時間がかかるということはミスを誘う先手側の形も多彩なものとなるだろう。ここまで来るのに時間を消費する事も考えれば、まさしく経験が物を言う展開になるに違いない。
5五角が一番有利を取れる手だからと安易に指せば、これだけの苦難な道程が待っているのだ。
だとすればソレを指し熟すのに要求される力量はとんでもなく高い。少なくとも将棋覚えたての5才児に満たせるものではないだろう。
相手の戦法に対し、有利な戦法を使用するというのは、そういうことだ。
数多ある戦法全てに対し対策を用意すれば、序盤で有利を取ることは難しくない。しかし、その先にある困難をすべて打ち破る方法を学び、使いこなす難易度は尋常なものではない。特に不利を承知で対策に突っ込んでくる者は、その戦法を極めることを選んでいる者だ。だとすれば、その将棋は容易く100手を超えることだろう。150手を超えても不思議ではない。なにせ、将棋は不利な側が間違えなければ150手を超えて続くことは珍しいことではないのだから。
最初から不利を覚悟して指す者を相手に、持ち時間15分で150手を超えて悪手を回避し続ける。慣れてない戦法でそれができるというのなら小学生名人大会6年生以下の部で優勝待ったなしである。むしろプロにも勝てるかもしれない。つまり俺のことだが。
実際には小学生3年生がそれほど極めているというのは考えにくいのでそうはならないはず。有利な側が何度も間違えるならともかく、そうでないなら、恐らく100手程で決着が付くだろう。
つまり、複雑な中盤でどちらも間違えないなんてことはありえない。どちらかが先に間違える。当然間違える可能性はその形に慣れていない側である可能性が高い。だとすれば序盤の有利は消え去り、残るのはその形に慣れていない者と慣れている者の互角の形勢での戦いだ。
そう考えれば序盤の不利を承知で一つの戦法極めるほうが手っ取り早く強く慣れるというのも分かる話だろう。不利だろうが、先に間違えないほうが強いのだから。
それでも、美宇が選んだのは有利な戦法を使用するという道だった。
「わたし、おぼえるのといくだよー?」
――全部覚えてしまえばいいのだろう?
そんな幻聴が聞こえた……気がする。
ということで、それから数ヶ月美宇に既存の戦法に対する対策とその変化を叩き込むことにした。家だけでは全く時間が足らないので幼稚園でも、だ。もちろん将棋道具を持ち込んだりしているわけではない。
「7六歩」「3四歩」「2六歩」「5四歩」「4八銀」「5ニ飛」「6八玉」「5五歩」
頭の中に将棋盤を創造し、棋譜を言葉にして将棋を指す。所謂目隠し将棋をしていたのだ。美宇はその記憶力で間違うことはないし、俺は聞いた棋譜を入力すれば、演算能力が頭の中に図面を出力してくれる。まぁ、答えも出力するから図は極論いらないんだけど、会話を合わせるために、なにより感想戦で美宇に手順を説明するために図面が必要なのだ。
よって、将棋をするのに将棋盤がなくても問題にはならない。
「アイツら、何言ってるんだ?」
「やべぇよ。正座して目つぶってるぞ」
「日本語じゃないよね、何アレ」
「片方弦だぞ!」
「やべぇヤツがやべぇ!」
周りに変質者を見るような目で見られるのが問題といえば問題か。
だが、大きな問題ではないはずだ。いくら美宇が幼稚園や小学校の人達に気味悪がられようが、研修会で友達を作ればいいだけである。あそこは今の俺たちのように棋譜で会話する変態の巣窟のはず。…………小中学生の集まる研修会が変態の集まりだと思うと、こう、こみ上げてくるものがあるな。
ん?
「ぃー?」
「へんなかおー」
頬を引っ張ってくる美宇のせいだと思うんですが。
え?
変なこと考えてた?
失礼な。美宇の友達ができるかどうかを考えていたというのに。
「美宇の事を考えていたんだよ」
「くちょうおかしぃー」
ジトッとした目で見てくるのは最近ご褒美だと思うようになってきた。
楽しい。
「んじゃ続きやろか」
「つづきー!」
今日の将棋は最近お馴染みとなった指定局面戦だ。
指定局面戦とは最初から考えて指すのではなく、最初の何十手は事前に決めた通りに指し、途中からそれぞれ考えて指す方式だ。戦法の練習や研究に使われる方法で、今回は前者である。……俺の演算能力で常に結論がでる以上、後者で使われることはないか。
そして今回の局面は数年前からプロ棋戦で現れ、その勝率の高さからアマチュアの間にも広がりつつあるゴキゲン中飛車の指定局面戦だ。
居飛車側を持つ先手が美宇、中飛車側を持つ後手が俺だ。
居飛車側は相手の使う振り飛車毎に対策として全て違う戦法で戦うことを強いられるので、習熟に時間がかかるが、先に言ったとおり美宇はその道を選んだ。そして美宇とゴキゲン中飛車の指定局面戦をするのは今日が初めてではない。指定局面は初めての局面だが、数年前に現れて未だに勝率の高いゴキゲン中飛車は駒組みが多彩だ。なにせ、角道を開けたまま戦う中飛車がゴキゲン中飛車と呼ばれているのだ。
定義が広い。
「2五歩」「3三角」
美宇は飛車先を決め、俺は当然3三角と歩の交換を拒否する。
指定局面まではお互いノータイムで続いていく。
「3六歩」
これは銀を3七から繰り出すための歩突きだ。このままでは3三にある角の頭を狙われるので、俺も銀を上げる。
「4ニ銀」
「3七銀」「5三銀」「4六銀」「4四銀」
美宇は受けられることが分かっていても、4六まで銀を上げた。そしてソレが正解だ。この銀の本当の目的は攻めることというより、俺の銀を4四に上げさせることだ。形を強制させることで、居飛車側有利かつ研究済みの局面へと誘導していく。
「7八銀」「6ニ玉」「7七銀」「7ニ玉」「6六銀」「8ニ玉」
俺は玉を美濃囲いに入れるため、8二へ。先に美濃囲いを作ってから玉を動かすのでは8二の地点に駒の効きがなくなり奇襲を許すので先に玉を8二へ動かしている。美宇は既に4六に銀を上げ、いつでも攻撃できる状態にあるのだ。駒組みの順番をミスればその瞬間襲いかかってくることは間違いない。
美宇は左の銀を6六へ上げ、更に攻めの準備を整えていく。
「7ニ銀」「5八金」「9四歩」「9六歩」
お互い囲いを作りつつ、囲い側の端歩を突き合う。端歩を突くことで、終盤受けている側の王はそこから逃げ出す事ができる。逆に攻めている側は9五歩と突いて端攻めするための突き合いである。
「3ニ金」「3七桂」「5一飛」
俺の3ニ金は角が2四を睨めなくなった時、飛車先突破されないための抑えだ。金を玉の囲いから離すため、玉の守りは薄くなるが、中飛車側から攻める手順がない以上、2筋を突破されれば勝ち目はない。逆襲の手順があれば話は変わるのだが。
美宇の3七桂はそれでも桂馬を攻撃に参加させ、突破を目指す指し方だ。先手千日手では不満なので、中飛車側が守りを固めようが攻めに行く以外に選択肢はない。
5一飛は中央の銀を交換した際、4一に割り打ちの銀が飛んでくるのを防いだ手だ。但し、3ニの金が浮くというデメリットがあるため、一概にどちらがいいとは言いにくい。言いにくいが、この瞬間に置いては5一飛と下がったほうがいい、それが演算能力の出した結論だ。
「1六歩」
これは1五角と角が出てくるのを防いだ手だ。居飛車側は殆どの場合開戦前にここを突くことを強いられるので、居飛車の税金、なんて呼ばれていたりする。
「6四歩」
この6四歩は将来俺に持ち駒として一歩入った際、6五歩、同銀、6三銀と進めることで、次に6四歩と打ち込んで銀を詰ます事ができる状態を作る。そんな将来を見越した一手だ。
「2九飛」
2九飛はとても狙いがわかりにくい一着だ。むしろ中央で交換された銀を3八に打ち込まれるので悪い手にさえ見える。しかし、3八に銀を打ち込まれる展開は振り飛車不利のまま、それが俺の演算能力が出した結論で、美宇もそれを知っている。さらに言えばこの飛車引きはとある両取りの筋を避ける意味合いも存在する。まだまだ先の局面で、しかも俺の、振り飛車側の対応によっては現れない筋なので出てこなければ対局相手が最後までこの飛車引きの意味に気づかないまでありえる一手だ。
「1四歩」
これは何かしら香打ちで有利が取れる盤面が現れた際1五歩、同歩、同香、同香、同角で香車を補充したり、歩を一枚持ち駒にしたりできるようにする意味がある。
「6八金」
玉に金を寄せて6九の金に紐を着けた。ただ、4八に駒の利きがなくなっているのでこの辺りの駒組みの成否は後の展開に左右されるだろう。……最善手を指す限り寄せたほうがいいというのが演算能力の結論だが、確かに攻め合いに持ち込めれば金を寄せて玉を固めた効果が出てくるはず。逆に駒交換をした後、ゆっくりとした攻め合いでは4八、3八辺りに打ち込まれるのがキツそうに見える。
「5ニ飛」
これは後手、つまり俺側の駒組みが飽和したので千日手狙いの手待ちだ。金に紐が付く代わりに4一銀と打ち込まれる隙ができる。俺の演算能力に寄ると、この瞬間であれば5ニでも問題ないらしい。具体的には相手にも桂馬を手持ちにした時、8四桂打から7六桂跳ねした両取りが発生する隙があるからだとか。
しかし――
「7七角……してーきょくめんっ!」
――7七角でその筋を消されると話は違う。
「だな」
これで居飛車側は戦いの準備が整った。中飛車側は自分から仕掛ければ不利になる形なので待ち続けるしか無い。しかし、待ち続けたこの形は既に居飛車勝利と演算能力は言っている。振り飛車側が何をしても次の一手で居飛車が有利なまま開戦する。
そして、それがこの局面で指定局面戦をする理由だ。
一つの戦法を磨くものに対し、有利な戦法で、お互いが最善を尽くした場合に行き着く場所の一つ。それがこの局面。
この局面と全く同じ状況に、実戦でなるわけがない、と思うかもしれないが、そもそも相手が最善を尽くさなければこれ以上前の局面で、この局面以上に居飛車有利のまま開戦できるので、むしろそれでいいのだ。
但し、それはあくまで居飛車側が相手の非最善手を正確に咎められることが大前提だ。
この7七角まで合計37手。中飛車側が指したのは18手。今回はゴキゲン中飛車限定の話なので別の手を指せる箇所は9手。9手ぐらいなら咎める手ごと覚えてしまえばいいと思うかもしれないがそれは違う。
最善で無い、しかし指すかもしれない手は、一手に付き約4パターン。4×9で36手。そして、その後も相手が最善を選び続ける保証はない。5手先まで覚えておくのなら、必要なパターンは相手が指す回数だけ4パターンを掛ければいいので、4の3乗×9で576手。詰みまで覚えるなら4の25乗×9=約1京手。一度見れば、一度聞けば覚えてしまえる美宇でも詰みまで覚えようとすれば圧倒的に時間が足らない。
しかし、開戦までならどうか。
特に今回のような隙きあらば開戦という急戦調の戦型で戦うなら、本当に600手程覚えてしまえば美宇は毎回有利な状況で開戦することができる。もちろん、対ゴキゲン中飛車の、しかも片美濃囲い前提の先手限定の話だ。囲いを変えれば行き着く先が変わるので覚える最善手の指し合い自体が変わるし、それに伴って咎める600手も変化する。
そう考えれば普通は咎める手まで覚えるというのはどうしても非現実的な話になる。一生を将棋に捧げているプロ棋士ならともかく、学業や仕事のあるアマチュアや、一年後の大会で結果を出そうとする将棋を覚え始めた子供にできることではない。
美宇という天才とそれに答えを入力できる俺という組み合わせが存在しなければ、だが。
咎め方の意味まで含めれば時間はかかるが、答えだけを演算能力で俺の体に出力し、美宇の耳元で答えを囁き続ければ、10時間で1万手くらい美宇の頭に詰め込む事もできるだろう。一年と言わず、100時間もあれば既存の戦型全ての咎め方の解答を美宇の頭にインストールできる。
もちろん、咎め方の意味は自分で考える必要があるし、その後指し熟せるかは別問題だ。
そして、そのための指定局面戦だ。
行き着く果てであるこの局面は相当に複雑で難しいし、お互いが最善を尽くした果てなので、途中で咎めるよりも差が小さい。
さて、今日の美宇はどこまで喰らいついてくるか。
ここで俺が指す手は5一飛で待つくらいだろう。2ニ角で待てば2四の地点が開いてしまうし、4ニ角、5一角では5五の地点に対する効きの数が足りなくなってしまう。6三銀では銀と金が浮いて散々だし、7一玉では王手を含む両取りの筋ができてしまうのがキツイ。
そして、それをどうやって咎めるかの解答5手を伝えてあるために不利な戦いが始まることは決定している。ならばその中で一番複雑にできそうな5一飛を選ぶべきだろう。
「5一飛」
「4五桂」
角が狙われているため、2ニか、4ニに引く必要があるのだが、どちらに引いてもさきほど言ったとおり2四の地点か5五の地点が開いてしまう。開けるなら2四の地点のほうがマシなので2ニ角だな。
「2ニ角」
「3五歩」
三筋の歩を捨てることで次に二筋で手に入る予定の歩を三筋に打てるようにする一手だな。だからと言って無視すれば三筋に歩を進められて酷いので同歩の一手だ。
「同歩」
さて、ここからが本当の対局。忘れることがない美宇にとってはここまではただの棋譜並べ。
といっても、角をわざわざ2ニに押し込め、三筋の歩を突き捨てたのだから次の一手も決まっているようなものだが。
「2四歩」
「同歩」
「同飛車」
ここで2三歩と打つのでは3四飛と回られて、浮いた3ニの金を狙われ、もとい咎められてしまう。
それに対しては3三桂が最善手だと演算能力は言っているが、これは長く続いても勝ち目は薄そうだ。
なにせ、3ニの金が浮いたままなので、3三の桂馬は動かせない。にもかかわらず、3三に桂馬がいるせいで角の効きが遮断され、5五の地点に効く駒の枚数が足りていない。振り飛車側は打つ手もなくやられそうだ。
だから、
この場面での最善手は3三桂である。
「3三桂」
「ぇ!?」
これには美宇も驚いたようだ。2三歩と打って飛車が3四に回った後ではなく、このタイミングでの3三桂はそりゃ驚くだろう。これが目隠し将棋なだけに指し間違えじゃないかと疑ったかもしれんな。
ん? 周りから声が。
「なんか叫びだしたぞ?」
「アレ会話してたの?」
「何語だよ!」
こちらに振り返ってキャッキャと騒ぎ出す周囲。
「……」
美宇の顔が若干赤くなる。
可愛い。
外野グッジョブ!
…………気づくと美宇がジト目でこちらを見ていた。
すまんすまん。
「ふぅ……」
美宇は一回深呼吸して、3三桂と打たれた盤面を精査していく。真剣な顔で目を瞑る美宇もいいなぁ。
「……っ!?」
美宇の顔が歪む。どうやら3三桂の狙いに気づいたようだ。
3三桂の狙いは4五桂と跳ねること。そうすれば美宇の桂がただで取れる。同銀と取り返すなら、更に同銀で桂のタダ取りから、桂の交換と銀のタダ取りにランクアップだ。
じゃあ美宇の側から3三桂成とすればどうなるかと言うと、3三桂成、同角、2九飛、2三歩で攻めが止まってしまうのだ。
無理やり攻めるなら3四歩があるが、3四歩、2ニ角、4五桂、4一桂でやはり攻めきれそうにない。
さて、ここで美宇はどういった答えをだすのか。
このような、いい手が見えない時にこそ、定跡によって判断される有利不利が意味を持つのだが。
つまり、指定局面の時点で居飛車勝ちは確定しているのだから、美宇が指定局面から最善手を続けていたなら、ここで攻めきれずに千日手コースに入るなんてことはありえないのだ。あるとすれば、既に美宇が間違えたか、もしくは実は見えてないだけでこの場面で良い手があるか、だ。
美宇が自身で考えて指した手は2四歩と同飛車のみ。その手すら、指さなければ角をずらしに行った桂跳ねの意味がなくなるのでその手が最善手でなかった、なんてことは非常に考えにくい。……そんな展開がないとは言い切れないが。それくらい演算能力が出力する展開は複雑なことがあるから。
とはいえ、そんなレアケースでない限り、この盤面が居飛車勝ちだと思い至れるはず。そこまで分かれば、美宇なら時間はかかっても見えるかもしれない。あの時の美宇では見えなかったであろう、ここを突破できる妙手を。
数分後、
「…………2三歩っ!」
正解だ。
普通なら最初に見えそうなこの一手、実は次の手が難しく、少し読めばこの手は無いと切り捨ててしまう一手だ。
「1三角」
こうされた時、実はどこに飛車が逃げても2三の歩が助からない。どころか3四以外に逃げると、4五の桂のタダ取りだけが残ってしまう。そして、3四に逃げると、相手に2三歩と打たれた時と違い2三金と上がられて飛車が詰んでしまうのだ。
これはだめだと2三歩は諦めそうなものだが、実は、1三角の瞬間に好手がある。
それは、
「3三桂成!」
この3三桂成だ。この一手を無視して飛車を取ってしまえば、成桂に3ニの金が取られて飛車と桂金の二枚替えになってしまう。しかも成桂が生きてるので将来的には桂と金駒の交換まで見えている。飛車がないと寄せが見えにくい、というのはあるのかもしれないが、今の美宇には数多の手筋が記憶されている。俺の部屋に積まれた本だけでなく、幾つかの図書館を訪れ、蓄えた圧倒的な量の手筋が。飛車が無いから寄せの手筋が見えずに有利でも押しきれなかった、というのはあまり期待できそうにない。
ここは素直に同金だ。
「同金」
今度こそ飛車は逃げるしか無い。逃げる場所が広いが、特別な理由がなければ2九飛が妥当だろう。俺の演算能力は2九か2八で勝ちを維持と言っている。
「2九飛」
ここは2四歩の一手だろう。金角両取りの2五桂を防ぎつつ、2ニ歩成も防げる一石二鳥の手だ。しかし、このまま自然に指し続けて相手に難しい手がでなければ普通に負けてしまう。俺は2四歩の先を演算結果で出力していく。
…………相手の手は広いし、長く続きもするけれど、相手がどれを選んでも大差なくリードを保ちつつ、終局へと進んでいくなぁ。47手先まで頭の中で出力してみたが、これでは負けてしまいそうだ。
ということはこの局面、既に相当な棋力差がないと勝負が付いてるってことかもなぁ。やはり、最大の罠、3三桂を見抜いたのが大きかったんだろう。
これなら美宇、居飛車でやっていけそうじゃないか?
まぁ、3三桂に対する応手を見つけるのに4分程かかってるから、持ち時間15分の小学生名人大会でどうなるかは未知数だけども。少なくとも居飛車でやっていけそうというのがわかっただけでも収穫だな。いくら記憶力が良くても、複数の戦法を短期間で使いこなせるかは少し心配だったから。
だから、ここからは無理攻めの時間だ。
将棋に於いて、負けを読み切った人間はいろいろな行動に出る。できる限り伸ばして、相手のミスを待つ。綺麗に一手負けの棋譜にする。そして、無理攻めに出る。
無理攻めとは相手に正確に応対されれば負けの攻め、すなわち博打だ。
この局面から無理攻めに出るには早すぎるのだろうが、演算能力のおかげでここから先に山場が無いことはわかりきってるのだ。ならば、負けを読み切った俺が無理攻めに出ても何もおかしくはあるまい。
「6五歩ッ!」
対応を間違えれば逆転する無理攻め、それを人は――
「っ!?」
――勝負手と呼ぶ。




