人魚の子
「こんなものを見つけたよ」
夫の祐介が帰ってきた。
今日は日曜日だった。夫はいつもの日曜日と同じように、朝から釣りに行き夕方帰ってきたところだった。
夫はクーラーボックスを下し、釣ってきた魚を整理しながら、釣果とは別に、海水の入ったビニール袋を差し出した。
ビニールは二重にしてあったので中に何が入っているのか最初はよく見えなかった。目を凝らすと、中には小さな人魚が入っていた。人魚は全長20センチくらいで、あまり動かず、ぐったりしているように見えた。私は慌ててビニールを裂き、中身を洗面器に移した。人魚は絵本などの挿絵に描かれているのとほぼ同じ姿で、上半身はヒト、下半身はイルカの尾びれに似た形で鱗に覆われていた。何となく上半身が幼児体形に見え、おかっぱに近い髪形のせいもあって、人魚はまだ小さな子供のように思えた。
「可愛いだろう。家で飼えないかと思ってね」と夫は言った。
「エサは何をやればいいのかしら」
「魚のすり身なんかじゃダメかな」
そんな会話をしているうちに人魚は息苦しさがとれたのか、もぞもぞと動き出した。
夫は44歳。私は39歳。
私たちに子供はいない。
私たちが結婚したのは夫28歳、私23歳の時だった。仕事の関係で知り合い、周りからも勧められ、一緒になった。夫はまじめで優しく私は幸せだった。けれどなんの曇りもなく楽しく過ごしたのは結婚式の後、ほんの1年ほどもなかったと思う。
1年たつか経たないかのうちに私は、なぜ子供ができないのか、という考えに憑りつかれてしまった。一度心にもくもくと暗雲立ち込めると、もう晴れることはなかった。
結婚して2年目の半ばから不妊治療に通い始めた。そこから10年以上の歳月、ありとあらゆる治療をやり、手を尽くした。
すべて治療中心の、治療のための生活になった。
命にかかわるという病気でもないのに、生命の根源にかかわっていた。
ゴールテープはいつも目の前に引かれていた。今回うまくいけば、2週間後に結果が出る、それで終わる。そのテープが何度も何度も先へ先へと遠くに移動し、短距離走は長い長い長距離走となった。それは永遠に続く無間地獄のようなものだった。
何度病院を変えても、何度検査を重ねても、どこも悪いところはない、原因不明。これと言った決め手となる治療法もなし。そのために、できる治療法というのは、かえって、何かを治すためのものではなく、人工授精、体外受精、顕微授精とどんどん高度な治療になっていった。排卵は元々きちんとあっていたが、より精度を高めるために排卵誘発剤をのみ、何の問題もないのに着床率を上げるためのホルモン剤が投与された。
高額な治療費のためにパートに出たが、治療の日程の都合で休みを急にとるため嫌われ、次々とパートを変えざるを得なかった。一度、『職場の上司に打ち明けて協力をしてもらいましょう』という不妊治療を特集していた雑誌に載っていた記事を真にうけ、パート先の上役に、不妊治療をしています、休みを融通してほしいですと願ったが、
「すまないけど、それは自分で勝手にやってくれないか。辞めろとは言わないけれど、この人数で回してる。急に休まれることに『いいですよ』とは言えないよ」と至極まっとうな答えが返ってきた。その時働いていたのは公的機関だったのだが、そんなところでも『働く』ということはそういうことなのだった。新聞やニュースで少子化対策の話題が多く見受けられるが、それはあくまで、『産めた人』の話だ。私に世間から受けられる恩恵などあろうはずもない。わかっていたはずなのに、甘い考えをさらした自分が惨めだった。
・・・あんな記事、鵜呑みにしなければよかった。読まなければよかった。そもそもこんな雑誌、本当の事書いてあるんだろうか。私は大きな気持ちの落ち込みを感じていた。
そしてそれだけではなかった。
その上司は、信用できる口の堅い人だと思っていた。なのに。
ある日私はパート長に呼び出された。「篠崎さん、ちょっといいかな」
給湯室に呼び出され、私は何事かと、言葉を待った。
「ねえ、山口主査に不妊治療ってどんなことするの?って聞かれたよ」
「え………… ?」
パート長は困った顔をしながらどこか楽しそうだった。
「あたしだけじゃなくて、パートさん全員に聞いてるみたい。どんなことするんだ?知ってるか?って」
私は顔から血の気が引いた。
「休みを融通してほしいって言われたって、困ったように言われて…………あたしも困っちゃってね。前から篠崎さん、『今日休みます』が多かったけど、これだったのかって」
50代の女性パート長は合点がいったというように言った。
「なんかすごいことするんでしょう、不妊治療って」パート長は表面に張り付けた困り顔の下から、好奇心むき出しの、エロ本を見る中年男性にも似たニタニタという形容がふさわしい表情を見せた。
給湯室の前を今年入ったばかりの18歳の正社員の女性が通って行った。
「あたしも子供いるから、出産は知ってるけど………それは仕方のないことだからねえ。みんなおんなじだからねえ」
下腹が痛みだした。足が震えているのを知られたくなかった。こんな人に。
パート長に追い込まれる形で入った、職場の奥の、扉のない給湯室の流し台に背を押し付けて立ち、出入り口に立ちふさがるパート長越しに、職場が見渡せた。パートの女子職員が黙々と仕事をしながら、こちらをうかがっている………ように見えた。
「自分からあんな格好しようとは思わないよ………。それに、そんなにまでしてほしいもの?子供って。自然に任せるもんだって、昔、さる高貴なお方だって言ってたじゃん。篠崎さんいくつだっけ? えっ?………あら、ごめん、結構いってるのねえ。…………それで、まだほしいの?あんまり無理して障害持った子ができても、大変だよ」
頭の中でグワングワンと音が鳴り出した。
給湯室の出入り口の向こう側、逆光で表情の伺えないパート長の肩越しに見渡せる、同僚のパート社員の雑談が、自分を笑い、さざめきあっているように見えた。
「まあ、そういうことするのは篠崎さんの勝手だけどさ。あたしたちに、迷惑かけられても困るんだよね。だって、みんな子供の………ごめんね、子供持ってないからわかんないだろうけど、学校行事とかいろいろあるわけ。親戚の介護手伝っている人もいるし。ほんとに病気抱えている人もいるのよ。篠崎さんのは自分のわがままでしょ」
もう一日もいたくない、と思ったあの日から、引き継ぎのため1か月通った後で私はその職場を辞めた。35歳のときだった。
ほぼ同時期に治療も止めてしまった。医師はまだ治療の効果が下がる年齢ではない、もう少し頑張ろう、と言ったが、何かが限界だった。旅行も行ってない。なんの贅沢もしていない。見たい映画があってもチケット代が惜しくて、レンタルに出るのを待って夫と二人で見る。そうやってすべてを節約をして治療費を捻出する。・・・そういう生活が10年を超えた。もう子供なんていらない。いや、もしかすると私は最初から子供なんて欲しくは無かったのかもしれない、きっとそうだ、だからできないんだ。そんな風にも思えてきた。
それ以来私は仕事についていない。一日中一人だがそれでいいと思えた。周りの雑音も聞かなくて済む。私は首をすくめた亀か、殻に閉じこもったカタツムリのようになった。
・・・だが、いくら家の中に逃げ込んだからといって、すべての毒気から逃げられたわけではない。時には家の中にまで追いかけてくるものもあった。
最後の仕事をやめて2か月ほど過ぎたある日の午後、曇り空の中を、外に干したまま出かけてしまった洗濯物を気にしながら買い物から急いで帰ってくると、家の固定電話の留守電のランプが光っていた。いやな予感がしたが、再生ボタンを押した。案の定、実家の母からだった。
「・・・美帆子、留守なの?あんた携帯にかけてもでないし・・・」ひとしきり小言を言った後、「聡子おばさんのところのさゆみちゃんがね、結婚するんだって・・・」聡子おばさんというのは四人姉妹の長女である母の、12歳離れた一番下の妹で、その娘のさゆみは私とは15歳離れたいとこだった。「式はしないらしいから、お母さんのほうでお祝い送っとくから、あんたには連絡だけしとこうと思って」・・・予感がした。「できちゃった結婚らしいのよ」・・・始まる。「おばさんが、美帆子ちゃん、まだなのって。いやね、自分の娘のしたこと、恥ずかしいとも思ってやしない。・・・美帆子ちゃん一人娘なのに、姉さん、かわいそうねって。・・・ねえ、美帆子、たまには、うちに・・・」そこで留守電は切れた。おそらく録音可能時間がそこまで終わってしまったのだろう。
私はうちのめされ、薄暗い部屋に座り込んだ。
いつの間にか雨が降り出していて、ベランダで一旦乾いていた洗濯物は、また、ぐっしょりと濡れていた。そしてそのまま、夫が帰宅し、真っ暗になった中にうずくまっている私を見つけ、「ミー、どうした?何があった?」と問いかけるまで動けないでいた。
夫の買ってきた水槽に移され、人魚はほとんど黒目だけの目を大きく開けてこっちを見ている。少し怖がっているようにも見える。いわしをミキサーですり身にしてスプーンで口元にもっていったが食べなかった。スプーンを水槽の中に置いた石の上に置いて家事をした。
夫は幸せなのだろうか、と思う。夫は私の治療に協力的なほうだったと思う。男性の不妊症の検査というものは簡単なもので、異常なしと出るのも速い。あとはたとえ異常なし、と検査結果がでていても何らかの不具合があるのはそれは妻の側ということになる。
結婚して2年目の半ばから医師の指示で夫婦生活をしていた。タイミング法だ。
この日にしてこの日の朝にもして下さい。
私は夫に言う。
この日にしてこの日の朝にもするんだって。
夫はその通りにしてくれた。
私たちの性的な関係は医師の指示通りに、そして夫は私の指示通りに行った。
結果が出ないので、やがて、この日の朝にご主人にこの容器に採精してもらって、2時間以内にもってきてください、と指示が変わった。看護師に採精の方法を丁寧に教わった。
私は帰宅して夫に言った。この日の朝にこの容器に採精して2時間以内にもっていくんだって。
採精?怪訝な顔をする夫に私は看護師に言われたやり方を説明した。
「えっ・・・」夫は息をのんだ。だがその通りにしてくれた。
私のほうの治療は、単純な人工授精から体外受精、そしてその中でもより高度になる顕微授精へと変わっていった。薬が変わり、注射のために片道1時間半かけて何日も通い続け、副作用が強くて吐き気やめまいがし、動けなくなることもあった。費用も格段に上がっていった。そして脚を広げて器具で体を広げ膣壁から卵胞に針を刺し採卵をする。医師の考えで麻酔は『無し』だった。麻酔をするために一回針を刺す回数が増えるだけだから、とのことだった。痛みと恐怖。それを何度やっただろうか。でも弱音を吐くことはできなかった。私は処置をされている間、診察台のうえで自分に言い聞かせる。コレヲ ワタシハ ジブンデノゾンデ ヤッテイルノダ。ジブンノ イシデ ヤッテイルノダ。子供が欲しいという一心で。人並みに子供を持ちたい、という自分の『欲』のために。
------この容器に、この日の朝にご主人に採精してもらって2時間以内にもって来てください-----
-------この容器に、この日の朝に採精して2時間以内に持っていくんだって-----
私たちはどんどん追い詰められていった。妊娠可能年齢というタイムリミットに、生活のすべてを賭けてまったく成果が出ないといういら立ちに。いや、私は世間や、親せきの目や、実母の嘆き(そして自分の不妊が原因で仲の良かった母と伯母の間に確執が生まれるという現実)、姑の無言の(息子の妻の立場から出て行ってくれないかという)圧力、実母がなぜ、夫の両親に「申し訳ありません」などと言わねばならないのかという、申し訳なさと腹立たしさ、近所やパート先などでなんでもない会話をしていて突然投げつけられる「かわいそうにねえ」の言葉(当時、私は『かわいそう』という言葉にとても敏感になっていた)、他人の不幸が喜びの人たち、まだ聞いてもいないそしりや悪意、笑い声などの石の礫、なぜ自分なのかという、運命の不公平さを呪う気持ち、自分のふがいなさへの怒り、何より・・・夫に申し訳ないという思い、そして次から次へと出される病院からの指示に追い詰められ、降りることができなくなり、そして夫はそんな私に追い詰められていた。
そしていつの間にか病院の指示がなければ夫と私は何の関係も持たなくなっていた。4年前に治療をやめてから医師の指示がないのでセックスレスというわけだ。そういえば治療をしていた時、医師は『体外受精をした日の夜は必ず夫婦関係を持ってね。だってそうしたら、もしかして自然にできた子かなって思えるでしょう。そう思える余地を残しましょう。』と言っていたからその指示通りにしていた。
水槽を見に行くとスプーンの上のいわしのすり身はなくなっていた。人魚は水槽の隅っこに置いた石の上で丸くなって眠っていた。
翌日、月曜日なのに、夫は出勤前に朝から海に行き、人魚のために海水を汲んできた。
昨日、水槽と一緒に水をためておく容器を買ってきていたが、私は、仕事のために使うのだろうか、としか考えていなかった。
「二つあるから、今日と明日の分ね」
夫が笑顔で言った。
不意に私は人魚がかわいそうになった。
どこへでも行けたのに。自由だったのに。
「ねえ」
笑顔で振り返った夫に私は言った。
「逃がしてあげよう」
重いから自分がやるよ、と言って夫が水槽の水を替えていた。私はそれを見ているだけだった。
夫は、私が、人魚を逃がそうといってからは黙り込み、私の目を避けていた。
「日曜日」夫がつぶやくように言った。
「次の日曜日に、海に帰そう」
夫は人魚の目を見ながら言った。そして仕事に行ってしまった。
夫を傷つけてしまったと後悔しながらも、私は、その方がいいのだ、と思っていた。一人ぼっちのつらさは自分が一番わかっていたから。仲間たちのいる場所で生きることが………いや、たとえ、それが一時の幻想でも、自分が住むコミュミティーに受け入れられた存在だと思い、生きる方が幸せなはずだ。
そこまで考え、私はふと、人魚にもそんな社会があるのだろうか、と自分の考えが妙におかしく感じられ、久しぶりに声を立て、笑ってしまった。
「ふふふ」
私は自分の笑い声に驚いて、今のは私?と夫が出かけ、一人になった部屋を見回した。
その私を、人魚は何も言わず、じっと黒い瞳で私を見つめていた。
日曜日になった。
この一週間、夫は毎朝、空いた方の容器に水を汲みに海へ行き、前日汲み置いていた古い方を使って人魚の入った水槽の水を変えていた。
「お部屋のお掃除の時間ですよ」人魚にそう、声をかけ、夫は水槽の掃除をした。
海までは、そんなに遠くはないといっても、バイクで往復すれば20分はかかる。それから水槽の掃除にもう20分。夫は毎朝早起きをして、それをやっていた。
私は私で、人魚が何を喜んで食べるのか、一日中、何をしていても考えていた。毎日の買い物でスーパーに行ったときはもちろん、テレビの料理番組を見ても、動物特集を見ても。そしていろいろ試した結果、案外、人間と同じでいい、ということが分かったところだった。
「じゃ、いこうか」
夫が水槽の中の人魚に声をかけた。
夫が、人魚を水槽から、バケツに移し、海水を入れ、こぼれにくいようにラップをかけてラップに穴をあけた。私はただ、それを見ていた。
夫が出かけようとしたとき、私は「まって」と不意に言葉が出た。
「私も一緒に行く」
人魚をいれたバケツがあるので、夫のバイクに二人で乗ることはできない。海までは私の自転車の荷台にバケツを乗せ、夫が自転車を押し、歩いていくことになった。
「ねえ」海までの道すがら、私は夫に話しかけた。
「この子ね、スパゲティも食べたんだよ。この間、お昼に食べさせてみたら」
「本当?そういえば、夕べ、トンカツのかけら、ペロッと食べたよなあ」
夫とこんな風に話をしたのは久しぶりだった。それは思いがけず、楽しい時間だったが、私は、人魚との別れを考えたくなくて、夫と話し続けていたようにも思う。
もっと、遠ければいいのに。海に着いたときは私はそう考えていた。
自転車を止め、夫が荷台から、バケツをおろし、ラップを取る。
夫はバケツを片手で下げて、岩場に足を踏み入れた。歩きにくい岩場を、私も行けるところまでついて行った。
「ここで、見つけたんだ」夫は、海水の静かに満ちた、磯の、大きくくぼんだ潮だまりを指さし言った。
「じゃあ、帰すよ」
そう、夫が言ってかがみこみ、バケツを傾けようとしたとき、バケツの中の人魚が私の方へ手を伸ばした。
少なくとも私にはそう見えた。
「待って!」私は少し離れた岩の上にいる夫に向かって叫んでいた。夫は手を止め、振り返り、私を黙って見つめた。
「ごめんなさい、やっぱり連れて帰りたい………」
夫はしばらく黙っていたが、ふっと、笑うと、かがんで傾けていた人魚の入ったバケツを持ち直し、立ち上がった。そして、私の隣に戻ってくると、何年振りかで、自分の手のひらを私の頭に乗せ、そして、ぐしゃぐしゃと私の髪をかき回した。
一か月過ぎると人魚は少し大きくなったように見えた。この頃は食べ物をのせて差し出したスプーンから直接食べるだけでなく、私が水槽のそばを通るとこっちへ来てじっと見ている。何かエサが欲しいのかなと思い、持って行っても食べないので、そういうことではなくて、私を見に来ているのだとわかる。なついたということかもしれない。
私たち夫婦はいままでペットを飼ったことはなかった。なので、ある意味、この初めての経験に戸惑いながらも、心は浮き立っていた。
治療をしている間は時間的にも金銭的にも余裕はなかったし、将来の事(犬が生まれた子供に噛みつくかもしれないとか、猫が生まれた子供をひっかくかもしれないとか)を考えて何も飼わなかった。だって、すぐにこんな状態は終わるのだと思っていたのだから。
治療をやめたあとも、また治療したくなるかも、あるいは自然と子供ができるかも(実際いくら調べても悪いところがなかったので自然に妊娠してもおかしくないし)と考え、そしてやはり、犬や猫が生まれた子供を噛んだりひっかいたりするかもと思い、飼わなかった。金銭面では、治療にお金を使わなくなったので余裕ができたようにも思えたが、同年代の夫婦に比べるとほとんど貯蓄のないこの状態は、厳しいとしか言いようがなかった。おかげで今も公団住まいだ。
夫が釣りばかりするのも道具に凝りさえしなければ大してお金がかからないからもあるだろう。そして何より、家にいて私と顔を突き合わせているのは気詰まりだからだろうと思う。
私は決して子供を諦めたわけではなかったが、夫は私にふれることをやめていた。
治療で深く傷ついていたのは私より夫のほうだったのかもしれない。
人に指示されて性生活を持つということ。そしてそれを夫に直接指示していたのは私だったから。
一度『もう子供、欲しくないの?』と聞いてみたが、笑ってはぐらかされた。
私と一緒にいると夫はプレッシャーを感じるのかもしれない。私も一緒にいるとふれてもらえるのかと期待する。いつしかお互い一人でいるほうが楽になっていた。
人魚は私を癒してくれた。じっとこっちを見ていたかと思うと、水槽の中をクルクルと泳ぎ回る。性別はわからなかったが、私は勝手に女の子と決めていた。
水棲生物なのであまり手を触れることはできないが(人間の体温はやけどさせるほど彼らには高温なので)、水を変える時などそっとタオルで包んで持つその重さを楽しんだ。幸せの重み。
この子を連れてどこかへ旅行に行けないだろうか。それには車が必要か。無理なら、もっと広い水槽で快適に飼ってやりたい。私はもう一度働きに出ることを考え始めていた。
そんなある日、夫の職場から電話があった。夫が事故にあったというのだ。夫は建築士だったが、現場に出かけていて足場から転落したというのだ。
とるものもとりあえず、病院にかけつけ、帰宅できたのは2日後だった。手術が終わって、夫が目を覚ますまで、私は、一睡もせず、付き添ったのだった。
夫の手術は14時間に及んだ。手術室のランプが消え、出てきた医師から、夫が命を取り留めた、と告げられた瞬間、私は安心すると同時に、すっかり人魚のことを忘れていたことに気付いた。ほんの一瞬も思い出しもしなかった。それから、夫が目を覚ますまで、ずっと、人魚の事ばかり考えていた。
どんなにおなかをすかせているだろう、いつも周りに人の気配があるのに一人ぼっちでどんなに不安な思いをしていることだろう、もしかして、水が濁って苦しくて死んでしまっているかもしれない。
夫が目を覚ましてくれたので着替えや必要なものを取りに帰宅できるようになったときには、病院を出ようとして慌てすぎて、大勢の人のいるロビーで転んでしまった。
私は家に帰りつくなりドアも閉めずにまっすぐ風呂場の前に置いてある人魚の水槽のところに走っていった。
もしかして、白い腹を上にして、水に浮かんでいるのでは………と恐れながら駆け寄る私の目に、人魚の姿が飛び込んできた。
人魚は、少し濁った水が苦しかったのか、水槽のふちに手をかけ上半身を水から出していた。
「あ・・・よかった・・・」その姿を見たら気が抜けて床にへたり込んでしまった。
よかった、生きてる。よかった、夫が無事で。よかった、人魚が無事で。
いつの間にか泣いていた。涙が頬を伝ったので自分が泣いていることに気づいた。人魚が真っ黒い目でこっちをじっと見ていた。
「ごめんね、お腹すいたでしょう」私は、人魚に話しかけた。言葉をかけたのは初めてだった。自然と笑顔になった。
「お父さんたらね、うっかりして大けがしたの。今まで手術したりしててね」人魚に夫のことをお父さんと言っていた。
「ほんとに心配したの。・・・心配しすぎて、すごく疲れちゃった」私は安心したせいで少し夫に腹を立て、文句を言いたくもなってきた。
「すぐにお水を変えて、ご飯にしようね、ごめんね、ほんとに。」私は涙をぬぐい、立ち上がろうとした。その時、
「お母さん」
人魚がしゃべったのだ。あっけにとられていると、
「お母さん。ごめんね。あの時いなくなってごめんね」
私ははっとした。結婚してすぐの時、風呂場で転んでごく初期の流産をしたことを思い出したのだ。
「どうして・・・」私は混乱した。あのときの子なのか。
「お父さんが」人魚は言った。「お父さんが、お願いしたの。海の神様に。私がここに来れるように」と言った。
私は驚いた。頭の中に、いつも無口で優しい夫の顔が浮かんだ。いったい、いつ、そんなことを。
「私、ずっと、何年も、お父さんの事見てたの。お父さん、7日おきに海に来た」毎週の日曜日の事だ。「そしていつも海の神様お願いしますって言ってた。美帆子がずっと苦しんでいます。助けてやってくださいって。そのためなら」人魚は言葉を切った。そして、
「そのためなら自分の命を削ってもかまいませんって」と言った。
私は驚きで息もつけなかった。夫がそんなことを。夫がそこまで私のことを思ってくれていたなんて。
「お母さんが苦しんでいる日にちが3333日を超えた。お父さんがお願いした回数が333回を超えた。それでお父さんの願いは叶うことになったの。そして、私は、ここに来ることができた。私たち、海に住む者にとって3は特別な数字なの」
少しして人魚は言った。
「お母さん、わたし、もう行かなくちゃ」
「えっ」何を言っているのだろうか。
「約束なの。お母さんが、泣いたり、笑ったり・・・、怒ったりできるまでって」そうだった。私は何年もの間、感情を失ったようになっていた。
「・・・お母さん、元気でね」人魚がいなくなってしまう。
「ま、まって!」私は必死だった。いかないで。どうしたらいい?もしあの子ならどうしたらいい?「私・・・、あの時・・・、私の不注意であなたを、あなたを・・・」死なせた、と口にできなかった。けれど人魚は、
「違うよ、お母さん!」
まるで、私の心が読めているかのように叫んだ。そして、
「わたしは最初から人魚になるって決まってたんだよ。だから、お母さんのせいなんかじゃない」と真っすぐに言った。
「…………最初から?」私はその言葉が信じられなかった。だが人魚はうなずいて、
「そう最初から。お母さんのお腹に生まれる前から。ずっとずうっと昔から。地球が生まれた時から」
私は混乱する頭を抱えながらも、もしかしたら、人魚が言っているのは『運命』ということなのかもしれないとぼんやりと考えていた。
「だから、全然お母さんのせいじゃない」人魚はきっぱりそう言うと、続けて、
「だから、ありがとう、お母さん」と、言ってくれた。
優しくて力強いその言葉は、私がずっと心の奥底に押し込め、氷で固めたようになっていた悲しみに、罪の意識に、あたたかな一滴となって絡みついた。
「さようなら」そういうと人魚は大きく大きく息を吸った。お腹がふくらみ、胸が膨らんだ。最後に小さなほっぺたが、ぷうっと膨らむと、人魚は水槽から上に高く飛び出し、風呂場の排水溝の隙間に飛び込んだ。あっと思って排水溝のふたを開けたが、もうかすかに尾びれが、ちらっと見えただけだった。
あの時も、流産したあの時も、足の間からの出血がこの排水溝に流れていったことを思い出した。あの子はこれから海まで行くのだ。どうか無事につきますように。残された水槽には、夫が「友達が欲しいよね」と言って、人魚のために海から拾ってきた巻貝がのんびり壁を這っていた。
とめどなく涙があふれた。どうしょうもなく、悲しかった。
ほかには何もいらない、ただ、そばにいて、自分を見詰めてくれる瞳がほしい………。夫に我が子を持たせてあげたいという気持ちを除けば、子供が欲しいという自分の願いは、ただそれだけだったのだと、いまさらながら悟った。
そして、その願いは…………ある意味、自分自身気づかないまま、すでに叶っていたのだということを知った。たとえ、この手に抱くことはできなくとも。そして、そのことに気付くと同時に、再び失ってしまったということも…………。
自分一人の暗い世界に落ち込んでいた私は人魚に名前さえ付けていなかった。名前を呼びたくても呼べなかった。なのに、なんて優しい子。なんて強い子。
私はあの時、最初にあの子を亡くしたあの時に、もっと悲しむべきだったのだ、もっともっと泣くべきだったのだと思った。
いつの間にか窓の外は雨が降っていた。気づくと私は人魚の子と同じ海の底に沈んでいた。
夢をみているのか。此処ではいくら泣いても涙は流れない。それは海水に溶け、混ざり、そして体をつつみこむ。不思議な温かい揺らぎとなって。
それから4か月、私は夫の療養とリハビリの世話のため毎日病院通いを続けた。夫の経過は良好だったが、最初に医師から告げられた通り下肢に多少の麻痺がのこることとなった。最初は看病のため、そしてやがてリハビリの手助けのため私は毎日夫の身体にふれた。清拭し、体位を変え、血行不良を防ぐためマッサージをする。夫に肩を貸しリハビリをささえた。重労働だが喜びであった。私は夫婦関係などなくても夫にふれているだけで満たされていた。
夫の脚ではエレベーターなしの公団の3階では生活できないので、退院とほぼ同時にローンを組んで小さな中古の平屋の家を買った。今はまだそこまでの必要はないが、将来、もしも車いすの生活になっても自由にリフォームできるように。
夫と人魚の話はできなかった。夫は命と引き換えに直近の2か月ほどの記憶をすっぽりなくしていた。だからあの人魚が本当に存在したのか…………それとも、私の見た幻だったのかは確かめるすべがない。巻貝は海に返した。
人魚の子は一瞬私を『母親』にしてくれた。あの子は死んでしまったのではなく、別の生を生きているのだと思わせてくれた。そして…………私に、引きこもった闇の中からもう一度立ち上がる力をくれた。
ただ、近頃…………時たま、家の柵の前にに小さな女の子が立ってこっちを見ている。いつも一人で。いつも夫が留守の、私が一人でいるときにばかり来ているので確かめるすべがない、現実なのか幻なのか。
その大きな黒目勝ちの真ん丸な瞳………。おかっぱの髪型…………。
私はひそかに期待する。いつかあの子が門を開けて庭に入り、このうちに入ってきてくれることを。…………そして私の身体に入り込み、いつか『お母さん』と呼んでくれることを。
自分は本当にここにいてもいいのか、という問いから解放され、夫の瞳がずっと自分を見つめてくれていたことを、これからも見つめてくれるであろうことを確信しても、なお。
もうタイムリミットを迎えているだろうという思いと裏腹に、まだ可能性があるのではという思いが、いつまでも交錯し、望みを持てば、また、あの無間地獄に逆戻りなのに、かなうはずもない妄想をとめるすべが、私は見つからないのである。