食いっぱぐれ陰陽師と幼烏の銃弾
貞享二年。征夷大将軍に徳川綱吉が就いてから六年。
飛騨国・乗鞍岳の人里離れた山の奥に、ひっそりと佇む小さな庵があった。
その縁側に面した座敷の中には、白い狩衣姿の女が瞑想を続けていた。
垂髪にやや細面の整った顔立ち。すっと線を引く柳の如き黒眉は、色白い女の顔を際立たせている。また、すみれ色の袴に手を添え端座する様は、呼吸すら淑やかさを感じさせた。
女が正面には香炉が置かれ、細い線香の煙が清かに立ち昇り続ける。
白い灰がほろりと崩れること幾度か。葉擦れさざめく山のどこかで鴉の鳴く声がすると、それを合図に女は目を開き、香炉に向かってそっと両手をついた。
「勝手をお許しください」
女の名は“岩戸 椿”と言う。
二十代続く陰陽師の家に生まれ、父と二人で暮らしていた。しかしその父は三年前に他界し、二十二歳を迎えた椿が代わって家を守り続けてきた。
だがそれも今日まで。
香炉ににじり寄り、短くなった線香の先を灰に突き刺した。もしこれを部屋の中に放り投げれば、などと考えながら――。
部屋の隅には旅支度を済ませた大風呂敷が置かれている。椿は藍染めの紬に枯色の帯とやや地味な装いに変え、その大風呂敷を担いで玄関へと向かった。
草履を履いて庵を出ようとした時、ふっと生家を振り返った。
「……」
侘しい建物だ。
椿は小さく頭を下げると、庵を背に山を登り始めた。
梅雨の時季だと言うのに、空は雨を忘れているのかと思えるほど晴天が続く。日の位置はすっかり高く、少し歩いただけで身体が火照り始めていた。
天文占で今年の夏は早いと出ていたが、自身の見立てよりもそれは早いかもしれない。まだまだ修行不足ね、と首を振り、険しい山を登り続けた。
山はやがて道を無くし、生い茂る草木を掻き分けねば進めない獣道までやってくると、椿は、さて、と見比べるように西と東の方角に目を向けた。
「西は大坂、東は江戸……」
尖った顎に左手を添えながら、どちらに、と呟く。
半月前に庵を発つと決めたものの、向かう先は未だ決めかねている。
「式占では若干、東に利があった。けれど……東は土御門の御在所、根無し草の陰陽師には窮屈となるのは目に見えているし……」
律令制の崩壊、豊臣の弾圧により、陰陽師の存在はほぼ失われしまった。
徳川によって復権を果たしたものの、それは一部に限り、多くは食いっぱぐれないよう民間に溶け込むのを余儀なくされている状態、しかも世論を煽ると取り締まりを受ける立場にもある。
自身の岩戸家は、おそらく安倍晴明を祖に持つ、といった程度で、持つべき名声も地位もない。長く武家屋敷のお抱えであったが、それもつい先日、お役御免を言い渡されたばかりだ。
――光条寺の僧に、今後一切のことを任せることにした
坊主を選んだことよりも、任せるに値しない女、と思われたことが口惜しくてたまらない。
……とは言え、陰陽師としての仕事も少なくあったし、自身は父の後ろをついて歩いていただけ。誇るべき実績も実力も備えていないのだから無理もないだろう。
それに、傅役や女衆の頭から頼りにされていても、その他の者からは一歩退いた対応をされてしまう。
きっと父の代から窺っていたのだ、と椿は気鬱な息を吐き出した。
――このままでは野垂れ死にの道しかない
庵を棄てた理由はそれであった。
飛騨国で易者として暮らす道も考えたが、『暇を与えられた陰陽師』と後ろ指を指されるくらいならばと、身一つ、新たな地でやり直そうと決心した。
「暮らしてゆく、との点なら西かしら」
椿は西の空を仰ぎ見た。
商業の町・大坂なら食うには困らないものの、すぐ隣の山城国には、土御門家の根拠地がある。
「どちらも大樹の陰が落ちるわね」
いっそその先の丹波国か、ずっと進んだ出雲国に向かおうか。
難しく唸ったその時、西の空で鴉が鳴いた。
「鴉……」
椿の父は、最期に『鴉を追え』と遺した。
その言葉の意図は未だに不明だ。しかし迷う背中を押すには十分なもの――よし、と声を上げると、懐から獣を象った紙を取り出し、人差し指と中指を立て呪いを唱え始めた。
すると紙はふわりと舞い上がり、小さな閃光と共に巨大な猪に姿を変えた。
◇
貞享元年。幕府より“生類を憐れむ政策”が打ち出される。
これは動物や嬰児、傷病人らを保護するためのものなのだが、役人や藩主たちはこれを額面通りに受け取り、世に大きな混乱を招いてしまっていた。
そんな中、椿は喚び出した猪・式神の背に乗りながら、『人に見られたら打ち首かしら?』などと呑気に考えていた。
式神は疲れることを知らず、猛烈な勢いを保ったまま二時ほどで美濃国をまたいだ。先の近江国から人目を避けられる山が少ないため、大坂へは徒歩で向かう。
山育ちの椿は健脚で、四日で近江国から山城国、河内国を抜け、五日目には伊賀街道と通って大坂に入っていた。
「んんーっ……ようやく着いたわね」
天下の台所の大坂。
浪華三大橋の一つ・難波橋を渡った橋のたもとで、椿はぐっと背を伸ばした。
乗鞍岳にいた時、密かに念願でもあった場所である。
祭りでもやっているのかと思えるほど、人で賑わう堺筋の往来に、椿は感慨深げに目を細めた。
しかし、往来の真ん中で立ち止まっているため、後ろから来た者たちは迷惑そうな目を向けながら追い越してゆく。ただでさえ五尺七寸(172cm)の長身なので尚更である。
当人はそれに気付いておらず、まずは宿を……と、首を伸ばしてキョロキョロとし続けていた。まさにその時、
『おい、邪魔じゃ』
「ひゃんっ!?」
尻を撫で上げられ、椿は得も言えぬ声をあげてしまう。
突然のことで困惑したが、すぐに冷静さを取り戻し、きつく睨みつけながら真後ろを振り返った。視線は痩せこけた男を捉え、男は小さな悲鳴をあげて仰け反った。
男は狼狽えながら、わしじゃあない、と人差し指を椿の下に向けるとそこには、
「ここじゃ、デカ女」
椿の腹ほどの位置に、総髪の男が立っていたのである。
いや、男と言うには随分と若く、見た目は十二、十三ほどの男の子だ。
「あ、あなたが……?」
そうじゃ、と返事をする声も甲高い。
よもやこのような子供が、と信じられなかった。
「触って行ってくれと言わんばかりに、デカいまんじゅうが往来の真ん中を塞いでおったからな。ならば、と応えてやったのじゃ」
「なっ……!」
椿は尻に手をやり、顔を真っ赤にして子供を睨む。
緋色の小袖に洋緑の袴。腰には太刀を差し、紫の細長い筒袋を背負っている。身なりからして武家の子のようだ。
「往来の邪魔になっていたことは謝ります」
そう前置きすると、椿はすっと息を吸い込んだ。
「ですが、いくら邪魔だからと、尻を触る不埒な行いが許されるわけではありませぬ。それどころか、触るに留めず、女子の尻をまんじゅう呼ばわりなど、恥を知りなさい!」
突然の叱咤に、周囲の者たちはぎょっと目を剥き、椿から数歩離れた。
町民が、それも女が往来の真ん中で武家の子を叱るなど以ての外。その場で手討ちにされてもおかしくないのである。
椿は間違いを許せぬ性分ゆえ堪えきれなかった。
誰もが息を呑んでいると、子供は突然、
「うわっはっはっは!」
と、腰に手をやり高笑いしたのだ。
「おぬし、嫁のもらい手に困るのう」
「な……」
まるで堪えていない。それどころか逆に愉しむかのように、弾んだ足取りで脇をすり抜け、肩を揺らしながら通りの向こうに消えていったのである。
◇
「――まったく、親御はどのような教育をされているのか!」
切れ長の目を釣り上げる女に、誰もが道を譲る。
椿は肩をいからせ、大股で宿が並ぶ通りを歩く。先の一件ではらわたは煮えくりかえり、身体はかっかと熱くなっていた。
だが頭は冷静なまま。喉元過ぎれば歩くこともままならないほど、草臥れてしまう、と宿を探し、大坂の町を歩き続けていた。
幸いなことに、宿はすぐに確保できた。商業区から離れた場所に〈三国屋〉と云う宿があり、すぐ近くが町人町のためか、二百文が相場の宿泊代がなんと半値、しかも飯までついていた。
大きな声で言えぬ理由があるのかと身構えるも、陰陽師の目には何も見受けられない。やつれ顔をした宿屋の主人の方が、よほどそれに近く思える。
庵を出てから初めての畳の上。椿は深く考えられず、いつしか眠ってしまっていた。
それから数刻。ハッと目を開いたのは戌の刻(午後7時~9時)だった。
寝入ったことに気付いたのではなく、眉間にチリチリとしたものを感じたからである。
「これはまさか……!」
椿はさっと荷を解き、乗鞍岳の庵から持ってきた道具箱・護符を取り出した。
息を潜め、再び瞼を閉じて意識を集中する。
――鬼の気配
陰陽師は長きに渡り、鬼と相対してきた。
殺し殺され、決して相容れぬ因縁の紐は、こうして危機を告げる能力の一つとして陰陽師に備わっていた。
この宿が安いのは鬼が現れるからか。しかし、気配は宿の中ではなく外に、かつ近い――椿は息を殺しながら、窓から望む界隈を確かめた。
憐れみの令に、街中には犬猫が闊歩していたにも拘わらず、今この藍色の中には鼠一匹すらいない。
目を凝らし注意深く観察していたが、鬼の気配はやがてどこかに消えた。
「鬼そのものじゃないようね」
椿は疲れ切ったような息を吐いた。
鬼に関するものは大きく二つあり、一つは鬼そのもの、もう一つは鬼の力や怨念を持った武器類である。特に鬼のそれが宿る武器は、持ち手に非常に大きな力を与えるのだが、同時に脆弱な人間の心を蝕んでゆく危険な代物だった。
戦乱の世の中、ある時は足軽として、またある時は一国の将として……一騎当千の活躍を見せる鬼も多くいたが、“鬼の武器”はその倍以上ある。乗鞍岳の庵にいた時、鬼に関する仕事はすべて、その武器の処分だったほどだ。
「だけど、人斬りから鬼になる……ん?」
その時、藍色の中で赤っぽい“何か”が動いているのが見えた。
それが小袖の色だと分かるや、椿の頭に昼の出来事が蘇った。
「あの子は確か」
緋色の小袖に洋緑の袴。派手ないでたちから、昼間の男の子だとすぐ判った。
何かの気配を窺うように、男の子は道頓堀川の方へと歩いてゆく。闇に溶け消えるまで、椿は無意識に見守っていた。
◇
翌朝から大坂の町は騒々しくあった。
何事かと毎朝の祝詞をあげ終えると、早足で宿を出る。
「さあさあ、またまた辻斬りが現れた。今度は〈村松屋〉の奉公人、何と首をすっぱり、仰天顔で今にも叫び出しそうな頭が転がっていた、一連の話はすべてここに――」
早口の瓦版売りの言葉に、椿は顔を強張らせた。
急いで現場に向かうが、遺体や検分は既に奉行所の者たちが済ませたあとのようだ。怖いもの見たさで訪れる者もいるが、暗い影が落ちるだけでない異様な空気に、誰もがそそくさと立ち去ってゆく。
その理由に、椿は気付いていた。
(やはり、鬼の武器によるもの……)
力の大小は物によるが、ここに残された気配はかなり強力なものである。
椿は指を組み、「現魂告急急如律令」と唱えてみたが、微風すら吹かない。死んだ者の魂を喚ぶ術に応じないとなれば、魂ごと“食われた”と言うことだ。
顎に指をかけ、厄介ね、と漏らした。
楽しみにしていた大坂見物は、鬼の武器の調査に変わってしまった。
これまで幾度か現れていることから、町の中に留まっているものと推察されたが、ここは一日で千人近く出入りする町、一つの筋を調べるだけでも相当な骨だ。
術を使えば多少は楽なのかもしれないが、逆にこちらの存在を気取られてしまいかねない。父より『鬼を相手にする時は、こちらが優位に立てるよう万全を期さねばならない』と教わっていたので、己の足で捜すほかなかった。
二日、三日……と無為に時間だけが過ぎ去ってゆく。懐銭もあまり余裕なく、焦りばかりが募る。
しかし、収穫もあった。
人斬りは、椿が宿泊している〈三国屋〉の近辺で起こっている。そして被害者はみな、道頓堀川近くにある遊郭の帰りだ、と言うこと。
つまりは、この町人町から道頓堀川に向かうどこかに、下手人が潜んでいると推察できる。
「唯一の手がかりは、あの子なのかしら……?」
窓に寄りかかり、緋色の小袖を消えた男の子が消えた方を望んだ。
最後の現場は彼を見つけた場所からそう遠くない。彼を下手人と呼ぶには早計にしても、警戒を露わにした様子からして何かを感じていたはず。……が、町中でその男の子を見つけても、必ずどこかで見失ってしまう。派手な緋色は忽然と姿を消してしまうのだ。
仕方ない、と椿は居住まいを正すと、畳の上に大きめの地図を広げた。
「……」
その上に、部屋にあった小石を落とす。そして人差し指と中指を伸ばし、すっすっと地図の上で十字を描く。すると小石はひとりでに、ころころと転がり始めた。
椿のいる宿から近い。ゆっくりと動くそれは、道頓堀川を目指しているようだ。
それを見た椿は、よし、と声をあげて立ち上がった。
石が示した場所からしばらく進んだ先にて、緋色の小袖を発見する。
椿は慎重に後を追った。日暮れがすぐなのにも拘わらず、人の波潮が引くことを知らない。むしろ満ちているようにも感じられる。
今日は何かあるのかしら、と小首を傾げた椿がそれに気付くのは、空から茜色が消え去った頃であった。
「まさか、こ、ここって……」
赤い提灯が煌々と輝く界隈。往来を歩く女、大きく開けた間口に端座する女、格子窓から外を眺める女……誰もが赤や黄色、色とりどりの艶やかな着物に身を包んでいる。
男も女も物色するような目を向ける場所――遊郭であった。
あまり世間を知らぬ椿は、初めて足を踏み入れた色欲の町に、思わず立ちすくんでしまう。追う男の子と距離が空くのに気づくが、追いかける足は雲を踏んでいるかのようであった。
「お姉ちゃん、どこの店?」
「俺と呑もうぜ」
「金はたんまりあるぞ」
男たちは憚ることなく、下品な言葉を投げかける。
眉目備えた端正な顔だち椿は、飢えたケダモノたちの絶好の獲物である。男にしても長身な五尺七寸の上背、滑らかで大きな曲線を描いていればなおのこと。
声をかけられるたび、椿は『下賎な!』と、胸の中で悪態をつき続けた。そしてまた、それ以上に腹立たしくさせるのは、
(あの年にして不埒、淫蕩に溺れるとは……!)
挨拶代わりに遊女の尻を撫でる様は目に余る。
その堂々たる姿は、通いつめねばできぬこと。女たちの中には、『若殿様』と言って徳利を勧める者までいた。男の子も躊躇せず受け取るや、立ったまま行儀悪くそれをあおる。
怒りのあまり、椿は頭痛を覚えた。
父は規律や道徳にきびしく、不正や怠慢を許さない人であった。自身も同様に礼儀作法、素養など厳しく教え込まれている。そのせいか、父からはよく『四角四面な女になってしまった』と、苦笑されたものだ。もし自分があの子の親であったならば、徹底的に性根を叩き直していることだろう。
男の子はやがて裏路地に入った。椿も見失わないように後を追っていたが、複雑に入り組んでいる上に土地勘もない。ここでもまた、いつものように見失ってしまっていた。
(どこかで気付かれているの?)
額に手をあて、下唇を突き出す。
遊郭は夜の盛りを迎えたのか。大きな通りから聞こえる奏では、ひときわ大きくなっている。
とりあえずに戻ろうと、小さく息を吐いて踵を返したその時、ターン、とハリのある炸裂音が夜空に響いた。
「火縄銃……?」
椿は思わず小首を傾げてしまう。
それ以外に思い当たるものはない。……にも拘わらず、それはまるで調律が完璧に合った琴の音の如く、非情な銃の声と思えないほど凛とした音だったからだ。
賑やかな遊郭には届いていないのか、騒ぎになってる様子はない。誰かが試し撃ちでもしたのだろう、と特に気に留めず、来た道を戻り始めた。
それから四半刻(30分)が過ぎ――。
椿は大きな通りに出るどころか、逆に離れた堀に出てしまっていた。
廻船問屋の区なのだろうか。さらさらと柳の葉擦れがする堀には、舟がいくつか並んでいる。
(私ってもしかすると、方向音痴なのかしら……?)
そんなことはないと首を振るものの、ここから宿に戻る道が皆目見当もつかない。
顎に手をやり、うーん、と考えこむ椿。そのせいで真後ろ・路地の角から、小さな影が飛び出したことに気付いておらず――
「ひゃああああ!?」
不意打ちに尻たぶを鷲掴みにされ、背を大きく反らせながら跳び上がった。
「おお、いい声で鳴きおるわ!」
そこには緋色の小袖に洋緑の袴――追っていた男の子が立っていたのである。
「な、何をなさるのです……っ!」
「お主、先日からわしの後をつけていたであろう」
いきなりの糾明に瞠目し、言葉を詰まらせた。
「公儀の手先にしてはヌルい。いったい何者かと思うておったが――」
男の子はニマニマと笑みを浮かべながら言葉を続ける。
「なるほどなるほど、そのつもりであったか。ほれ、早う用意せい」
「は……?」
用意とは。何のことか分からず、椿は頓狂に聞き返した。
「わしに抱かれとうて堪らんくなり、郭まで押しかけたのじゃろう? ならほれ、たっぷり情を与えてやるから、着物をまくり上げ、その柔らかな尻まんじゅうを向けるのじゃ! ああ、ここなら多少声をあげても大丈夫じゃぞ」
わしは遊女から商いを忘れさせられる男じゃ、と得意げに続ける。
椿は身体からすーっと熱が抜け、これ以上となく冷たい目となるのが分かった。
うつけにもほどがある。本気で殴られるべき痴れ者だ。そう思うと同時に、細い身体は行動に移していた。
「い、いい加減に――」
椿は人差し指と中指を胸の前で立てる。
するとたちまち、見えない縄に縛られ簀巻きにされたかのように、小さな身体が閉じた。
「ぬ……な、何じゃッ!? か、身体が動かぬ――ッ!?」
直立不動のままもがく男の子に、椿は川に向かって腕をぶんと振った。
「少し頭を冷やし、反省なさいッ!!」
「ぬああああああああーーッ!?」
男の子の身体は勢いその方へ飛んでゆく。
白い月明かりが揺れる黒い川の向こうで、ざぽんっと大きな水柱が立った。
◇
翌日。空には薄雲がかかり、東から生ぬるい風が吹いていた。
椿は鬼の武器について調べるべく、武家や公家など、特定の者としか取引をしていない店を訪ねていた。店頭で売る商いと違って、人との繋がりが生命線となる店であれば、深い情報が得られるのでは、と考えたのだ。
だが、普通に訊ねても冷やかしと思われ、これまでと同様に邪険にされるだろう。
そこで椿は、一計を案じてみることにした。
『気の流れが停滞しています。東の間口に何か遮るものを置いていませんか?』
商人はこの手の話には敏感だと知っている。
読み通り、すぐに奥から女将が現れ、膝を揃えて話に応じてくれた。
「――昨日も人が?」
「ええ。ですがこれまでと違って、鉄砲で撃たれていたようで」
「鉄砲……? それはどこで?」
「確か、郭にある〈月雲〉と窺いました」
小間物屋の女将が言うには、場所は道頓堀川の近くの遊郭・月雲の座敷の中。撃たれた者の名は佐吉と言い、〈辰屋〉と呼ばれる両替商の若旦那で、窓辺で大の字になって倒れていた、と言う。
まさか、昨夜聞いた鉄砲の音は――椿は顔を強張らせると、女将は、
「死んだ人を、法師様の前で悪く言うのもなんですが、佐吉さんは殺されて当然だと思います。郭で死んだのも、いい恥さらしだ、と嘲る者も多くいます」
「まあ。それほど深い業を?」
女将は答えないまま押し黙った。
店の前を量り売りが通り過ぎた頃、女将は、あの、と床に手を置き身を乗り出した。
「恨みはやはり、人を殺すのでしょうか?」
「はい」
椿は躊躇せず、ハッキリと答えた。
「殺すのではなく、食う、と言うべきですね。恨みは鬼の種。人の心を食らい、やがて鬼に変えさせます」
「そう、ですか……」
沈んだ顔の女将に、何かありましたか、と訊ねる。
すると慌てて笑みを顔に戻し、「うちは客商売、信用が第一ですので」と、取り繕いながら答えた。
話を終わらせようと、女将がすっと腰を浮かせたのを見て、椿は恭しく礼を述べてから店を出た。……が、そこから一間(110m)ほど先の路地に身を潜めると、懐から鳥の形をした紙を取りだし、小さな声で呪いをかけた。
紙は小鳥へと姿を変え、ぱたぱたと先ほどの店に向かって飛んでゆく。
(当たりを引いたようね)
鳥は店の裏の縁側に降り立った。
障子が開け放たれた部屋の中に、先の女将と亭主らしき者が対座し、声を潜ませながら言葉を交わしていた。
『やはり、善吉さんが……』
『滅多なことを声にするものじゃない。確かに殺されたのは甚八、勘助、清吉、そして佐吉……善吉さんの姪・お鶴さんが川に浮かんだ時、嫌疑をかけられた奴らばかりだ。だけどそれだけで善吉さんを、と決めるには、あまりに酷ではないかね』
『確かにそうでありますが……』
『お鶴さんの仇を討って欲しい、と思う気持ちは私も同じだ。とにかく、次また法師の方がおいでになったら、何も知らないと言って帰すんだよ。絶対に善吉さんの名を出してはいけない』
椿は、顎に手をやり、なるほど、と呟いた。
(だけど、あまり法師って呼んで欲しくないわね)
術を解き、善吉と呼ばれた者について探そうとしたその矢先、パァンッと乾いた音に遅れ、尻に熱いものが走った。
「んに!?」
身体が大きく反り、口から出したことのない声が出た。
尻を叩かれた。そう理解すると同時に振り返るとそこには、
「あ、あなたは!」
昨晩、道頓堀川に投げ込んだ男の子が立っていたのである。
緋色から灰色の小袖に変わり、唇をへの字に曲げている。
「昨日の仕返しじゃ。よーくもやってくれたのう」
「それは仕返しではなく、逆恨みと言うのです」
「仕返しじゃ仕返し。わしの尻を追いかけ回したのじゃから、“そのつもり”と思うのは当然じゃろう」
男なら直ちに斬り伏せておる、との言葉に、椿は呆れてため息しか出なかった。
「まぁ、後をつけていたのは謝ります」
「うむ、よろしい。……で、なんで追いかけていたのじゃ? いやそれよりも、あの奇妙な術は何じゃ?」
話すべきか少し躊躇したが、一部を伏せつつ自身が陰陽師であることを話すことにした。
目の前の女がそれと知るや、男の子は目を輝かせ始め、
「おぬしは陰陽師か! と言うと、鬼じゃな! さては鬼を探しておるのじゃな!」
「ちょ、ちょっと声が大きい……!」
指を口にやり、声を落とすよう告げた。
「しかし、それとわしに、いったい何の関係がある」
「そ、それは……」
人斬りがあった夜、道を歩いていたのを見たと打ち明ける。
つまり疑っていたことになるのだが、男の子は特に不快感を見せず、ああ、と思い出すような声を上げるだけであった。
「あの時、ちと殺気を感じたのでな」
腰の刀に手をかけながら言う。
見た目に反し、並居る大人よりも腕が立つようだ、と椿は感じ取っていた。
「それにしても鬼かあ。是非ともお目にかかりたいものじゃのう」
「なりません。遊興ではないのです」
こればかりはキツく、言い聞かせるような声音だった。
◇
この日の夜、陽が落ちると同時にしとしとと雨が降り始めた。
じっとりと蒸せる宿の中、椿は狩衣に着替え、燭台の光輪の中でじっと端座を続けていた。
このような夜は、鬼が行動しやすい。
精神統一し、すぐに行動に移せるようにしなければならない。……と思ったのだが、
「これは何じゃ」
「そ、それは護札ですっ、触ってはなりません!」
「おお、これは見たことあるぞ! 人とか作るやつじゃろ!」
「だから触っては――!」
椿の横で、男の子がゴソゴソと荷を漁り続ける。
道具を汚されぬよう風呂敷ごと奪い取ると、反対側の脇に置いた。
「じ、じっとしていてください!」
まるで躾のなっていない犬だ。唇を尖らせる椿に、男の子はつまらなさそうに頭の後ろに手を回し、壁にもたれ掛かった。
「堅物じゃのう」
「あなたが非常識なのです」
彼がどうしてここにいるのか?
それは、男の子が別れ際に放った言葉にあった。
――善吉なら、〈三国屋〉近くの長屋におるぞ
何と、下手人の嫌疑がかかる者・善吉の名を挙げたのである。
そして居場所のみならず、その者に関わることの多くの情報を有していた。
男の子は『話してやってもいい』と言うが、その代わりにと、椿の部屋に転がり込むことを提示したのである。椿は渋々これを呑んだ。
「馬子にも衣装と言うが、なるほど確かに、狩衣を纏うと陰陽師に見えるのう」
男の子は“重昭”と名乗ったのち、すぐ善吉の住む長屋に案内した。
齡は六十四。月代を整えたのは随分と前なのか、白髪がまだらに生えている。身よりは隣の河内国に弟のみで、それも三月ほど前に命を絶ったようだ。
理由は、小間物屋の女将が話していた通りだ。
娘が何者かに拐かされ、その数日後、丸裸のまま川に浮かんでいた。最後に見た者によれば、人斬りにあった甚八・勘助・清吉・佐吉の姿があったと言うのだが、確たる証拠もなく放免となった。
弟と姪を立て続けに失った善吉は喪心し、長く床に臥していた。
だが突然、牢人風の男が訊ねてきた翌日、善吉は急に活力を取り戻した。そしてその日、最初の被害者が現れた――とのことである。
「重昭様はどうして、善吉様のことをそこまで存じているのです」
「わしにも事情があるのでな。……で、善吉は鬼であるのか?」
「見た限りでは、そうなる寸前です」
「ふむ……」
落ちくぼんだ目は不気味な色をたたえ、人を遠ざけるような気を放っている――鬼に蝕まれた典型的な症状が現れていた。
「殺すのか?」
「いいえ。恨みを完遂していない今ならまだ、鬼の武器……根源を絶てば救えます」
「なるほど。“恨み刀”だと思うておったが、鬼の力を持った武器か……」
「重ね重ね申しますが、相部屋を許しても同伴することは許してません。もし善吉様が現れたとしても、絶対に付いてきてはなりませんよ」
「わーっておる。そう何度も言うでないわ」
重昭はうんざりした様子で、鬱陶しげに手を振り払った。
相部屋の理由は至極簡明、宿賃が節約できるから、である。
それから一刻(30分)ほど過ぎた時、ふすまの向こうから『失礼します』と宿屋の主人の声がした。
『法師様にお食事をお持ちしました。こちらに置いておきますので、是非――』
椿は「え……」と目を瞠る。宿屋の主人には明かしていないはずなのだ。
その傍らでは、重昭がいそいそと、握り飯が載ったお盆を部屋の中に引き寄せている。
「この騒動を治めてくれる陰陽師様じゃ、と話したのでな。宿賃を免してくれた上、晩飯まで振る舞ってくれるとは、物分かりのいい奴は大好きじゃ」
絶句する椿の前で、重昭は憚ることなく握り飯を頬張った。
◇
気配を感じたのは、丑の刻(午前1時~3時)に差し掛かる頃だった。
護符を懐に入れた椿は、傍で寝息を立てる重昭に布団をかけ直してやった。天真爛漫と言うべきか、自由奔放と言うべきか、やんちゃの盛りで小憎らしい子供も、寝顔は可愛らしいもの。引き締めた表情も緩んでしまいそうになる。
子は宝、安らかに眠れる世を保つのが我らが使命。布団の隙間をそっと押し潰し、静かに部屋を後にした。
宿の外は細い雨粒が落ち続け、日照り続きで乾ききった土道に潤いを与えている。至る所に小さな水たまりが浮かび、白い狩衣にすみれ色の袴、赤い番傘を差す椿の姿はとてもよく映えた。
(気配が彷徨っている。佐吉が死んだせいで、目的がなくなったからかしら)
善吉は町を離れ、裏の小高い山に向かっているようだ。町中を闊歩する犬猫は見当たらず、雨と自身の足音だけが夜を歩いている。
山の入り口に立つと、一瞬足を進めるのを躊躇してしまう。
鬼の武器の破壊は何度かあるが、その支配を受ける者と対峙することは初めてだ。
(そのために庵を出たのよ)
自身にそう言い聞かせ、ついに山に踏み込んだ。
道は雨でぬかるんでいた。神経を研ぎ澄ませながら慎重に歩みを進めてゆくと、やがて広がった場所に差し掛かった。頭は『ここだ』と告げ、ややあって中央に人影が一つ、立っていることに気付く。
「太平の世を乱す鬼よ」
椿は閉じた番傘を投げ置き、呼びかけると、影はゆらりと振り返った。
「怨念となってもなお、まだこの世に留まるか」
そこにいたのは総白髪の老人・善吉であった。
しかし、その雰囲気は老人のものではなかった。
「太平などまやかしよ」
お前もそう思うだろう、と善吉は続ける。老人とは到底思えぬ張りのある声だった。
椿は何も答えず、黒い双眸で善吉を、その手に握られている刀を捉え続けた。足はがっしりと地を踏みしめ、小さな仕草にも若々しさを感じられる。鬼の力は活力すら与えるのか、と石のような表情の下で驚いていた。
「この善吉は、自らの意思でわしを頼った。奉行はもちろん、周囲の者も憐れむだけで役に立たぬ。誰も恨みを晴らせぬ、とな――。さぞ歯がゆかろう。身を削り、民を守り続けてきたと言うのに、そいつらが世を内から乱すのだからな」
「弱みにつけ入り、秩序を乱す種を植え付けておいてよく言えますね」
善吉は、詭弁だと吐き捨て、刀を構えた。
「人がおる限り、鬼は消えぬのだッ!」
その言葉と同時に、「きえーッ!」と、奇声と共に善吉は跳び上がった。それは猿の如く、天に向かって振り上げたまま向かい来る。
対する椿はゆったりと、そして大きく、舞うようにそれを躱した。
善吉の刀は正面を通り過ぎ、地面すれすれで静止すると、身をよじりながら力任せに振り上げる。刀は胸前を通り過ぎ、長い垂髪の先端だけがはらりと落ちただけであった。
いける。椿は間髪入れず、立てた指を胸の前に掲げ、
「縛!」
と叫んだ。
すると、善吉の身体は一瞬にして、四肢は見えない縄に縛り上げられた。
「ぐゥッ!?」
刀を振り上げた恰好のまま固まる善吉に、椿は浄化の呪いを唱える。
「六根清浄急急如律令――!」
同じ言葉を何度も続けてゆくと、善吉の身体は次第に小さくガクガクと震え始め、口から苦悶の呻きを発し始めた。それは人のものとは思えない、地の底のものにも思えるものであった。
「ぐ、う、うォォォ……ッ! こ、こいつまで死ぬぞ、陰陽師ィ……ッ!」
呪いを唱え続ける口が一瞬詰まった。
鬼の力を無理矢理引き剥がすことに、善吉の体力・気力が持たないのではないか。既に三つの命を喰らっており、甘美な力の浸食も味わっているのではないか――と、案じてしまったのだ。
実戦経験のなさがここに現れた。鬼はその隙をついて力任せに呪縛を解くと、即座に袈裟斬りに刀を振り下ろす。
「しま――ッ」
肩からばっさりと斬られたものと思われた。
しかし、刀は何かに弾かれ、元あった場所に戻されてしまう。
「なにッ!?」
瞠目する鬼に、椿は小さく息を吐いて胸をさする。
(あ、危なかった……護符を入れていなければ今頃は……)
しかし鬼の力が強いのか、自身の護符が弱いのか、狩衣越しに『次はない』と感じていた。慎重になるべく、大きく跳び退り距離を取ったその時、ふと雨の中に火の匂いがあることに気付いた。
真後ろの茂みからしているようだ。
ガサガサと掻き分ける音に、横目を向けた椿は思わず目を見開いてしまった。
「――まったく、見ておれんわ」
何とそこには、宿屋で眠っていたはずの男の子・重昭が現れたのである。
緋色の小袖に着替え、右手には黒々とした棒状のもの・火縄銃が握られている。
「な、何でここに……ッ、は、早く逃げなさい!」
「おぬし一人では無理よ」
重昭は言って火縄銃を構えながら、数歩前に歩み出た。
黒漆が塗られているのか、雨が降り落ちる暗闇の中でも艶やかに黒光りしている。
「鬼の力を甘く見てはなりません、今すぐここを離れてッ!」
「刀が善吉の身体を支配しておるのじゃろう? なら、あの刀をなまくらにすれば済む話じゃ」
「そ、そんな火縄銃でどうやって――」
善吉もそれに気付いたらしく、大きく高笑いを始めた。
「ウワッハッハッハッハッ! 何かと思えば、ガキの大見得か」
「わしにやられた奴は皆そう言う」
「ふん。そんな物でわしを、刀を折ると? この爺の身体に当たれば上々、何よりこの雨の中で火縄を撃つと言うか、愚かしいガキよ」
正面に構える刀の厚みは一分(3mm)ほど。火縄銃は改良を施されているが、それでも精密性はよいとは言えないことは椿も知っている。
「出来ぬと決めつけることは愚の骨頂。撃てるから言っておるのじゃ」
「ならやってみるがいいッ!」
ロクに躾けなかった親を恨め――鬼はそう叫ぶと、再び猿の如く跳躍した。
椿は急いで術を唱えようとするが、あまりの出来事に集中を欠いてしまっている。
突き飛ばして、と思ったその時、
「――火縄は命中率が低い? 雨に弱い? 古くさい」
引き金を引いた直後、ターン、と聞き覚えのある銃声が山に響いた。
それはどこだったか。遊郭で聞いたものと同じだと気付くまで、しばらくの時間を要し、その横では善吉の身体が、宙に浮かんだ恰好のまま地面に落ちていた。
刀は折れておらず、また善吉の身体にも風穴は空いていないようだ。
「ば、馬鹿な……な、何故、何故……ッ!」
狼狽する善吉に合わせ、刀がカタカタと音を立てた。
刀の付け根・切羽の部分に、指先ほどの鉛玉がめり込んでいた。目釘が破損したのか、支えを失った刃は、もはや武器としては使い物にならない状態だ。
「その言葉も、わしにやられた奴がよく言う。そして――」
「き、貴様は、いったい……!」
「それにわしは、こう答えるのじゃ!」
ばさっと小袖をはだけ、下に着込んでいた吾妻胴着を露わにする。
後ろにいる椿はその背に描かれた紋を見、大きく目を瞠ってしまった。
「雑賀衆 二十七代目頭目の孫市じゃ、とな!」
三本足の八咫烏――それは戦乱の時代、最強の鉄砲傭兵集団と謳われた“雑賀衆”の紋だったのである。
◇
その後、重昭はまさに『鬼の首を取った』もの。
椿の咎などまるで聞く耳を持たず、宿に戻ってもなおはしゃぎ続けた。
「聞いておられるのですか! 鬼と対峙することは許してないはずです!」
「同伴はしてないじゃろう。懇ろになった芸妓の家に愛銃を忘れ、取りに戻ったら、なにやら山から賑やかしい声がしたから向かっただけじゃ」
すっとぼける重昭に、椿は長く鬱屈した息を吐いた。
「そんな顔をするな。わしとて興味本位でやったわけではない」
「それは承知しておりますが……」
かつて天下に名を轟かせた雑賀衆。その頭目は代々“雑賀孫市”の名を継ぐ。
織田と豊臣の二度にわたる紀州征伐により滅亡したはずの組織は、実は完全には滅んではいなかった、と重昭は話す。
「ですが、本当にその年で頭目に……?」
「五郷の中でわしが一番鉄砲が扱える。腕こそすべてよ」
けらけらと笑う重昭。
その頭目がどうして大坂にいるのか。それは善吉の弟から依頼を受けたためであった。
――娘の無念を、そして兄が早まったことをせぬよう
しかし時は遅し、大坂に着くと善吉は三人目を殺めていたところであった。
依頼人も既に死んでいる。何とか一人でも仕留めねば筋がつかぬ、と慌てて最後の標的・佐吉を遊郭で撃ったのだと言う。
不幸中の幸いか、これによって善吉が鬼にならずに済んだ、と椿は考えた。
「それに、わしがいなければ、今頃おぬしは善吉の腹の中よ。分かっておるのか?」
「う……」
後れを取ったのは、まだまだ未熟だからだ。
言い返せぬ椿を前に、重昭は悪戯な笑みを向け、よっと立ち上がった。
「わしはそろそろ、紀州に帰るとするが」
緋色の小袖に洋緑の袴、初めて会った日と同じ恰好。
火縄銃が入っていた紫の筒袋を背負うと、顔だけを椿に向けた。
「おぬしはこれから、どうするつもりじゃ?」
「特に決まっておりません。このまま易者として西に、適当なところで腰を据えようかと」
これに重昭は、そうか、と頷いた。
「アテがないのなら、わしと共に紀州に来るか? 寝床と飯ぐらいは与えてやるぞ」
ニッと笑うと、背負っている筒袋の紐が小さく揺れた。
よく見れば、その紐留めにも小さな“八咫烏”が刻まれている。
――鴉を追え
八咫烏は熊野の神の遣い。神武天皇を熊野国から大和国へ導いた鴉である。
父が言っていた言葉、庵を出る時に鳴いた鴉はもしかすると――。
「謹んでお受け致します」
椿は畳に両手をつき、そっと平伏して答えた。