第五章 両親の秘密
中国で、まったく予想してなかった事実を告げられます。
赤茶色の殺風景な丘の目立たない片すみに、人が作ってそれほど時間も経ってないとおぼしき小山があった。アァシイーは立ち止まった。僕は思わずゴクリと唾を飲み込んだ。墓標も供花も何もない。直径数メートルの土まんじゅう。僕は勇気を振り絞って地中に焦点を合わせた。
「こ、これが?これが父さんと母さん?どうして、どうして昨日死んだような顔をしてるんだ?アァシイー!?」僕は歯がガチガチと鳴り、手も脚もガクガクと震えた。救いを求めるようにアァシイーの顔を見ると、彼女も真っ青になって目を見開いてこちらを見返していた。
「ニトも、地下が見えるのね?」
「ア、アァシイーも?」
「そう」
「どうして、顔が、体が、こんなに、きれいに」
「腐らないようにした」
そう言ってアァシイーは僕に『 尸体防腐 embalming 』と書いてよこした。
「そんなこと、できるの?」
「爸爸が死んで、媽媽と二人で死体の処置した。墓穴を二人で大きく掘った。茶碗とパパを運んで埋めた。媽媽が死んで、私一人で死体の処置した。媽媽を運んで埋めた。土をいっぱいかぶせた」
なんてことだ。狂っている。母さんも、アァシイーも。そして、そう指示したであろう父さんも。両親の遺体を取り巻くように、土中にはおびただしい数の茶碗が並べられており、それらは二人を包み込み守っているようでもあり、外界との接触を一切拒んでいるようでもあった。茶碗はすべて曜変天目茶碗であり、一つとして同じ色や模様のものはなく、暗黒の宇宙に浮かぶ無数の銀河を思い起こさせた。曜変天目茶碗の虹彩が、この世とあの世とを結びける奇跡の触媒のようだった。僕は生まれて初めて両親と会った。すでに死亡している両親の姿をしたタンパク質を見た。魂は曜変天目茶碗にすでに移っていると確信した。そうでなければ、茶碗がこんなに美しく輝き、両親がこんなに穏やかな表情をしているはずがない。二人は陶然たる面持ちで、曜変天目茶碗から聞こえる妙なる調べに耳を傾けているかのようだった。二人はすでに二人だけの世界を閉じていた。僕は入り込めなかった。泣いた。泣いた。立っていられなくて、両手を地について泣いた。大量の土を間に挟み、棺の中の両親と向かい合って泣いた。手を伸ばして触れたかった。できなかった。素手で地面に爪を立てて掘り始めた僕の腕をアァシイーが止めた。泣いた。泣いた。過呼吸で意識が遠くなった。
アァシイーに連れられて、小屋に戻って来た。アァシイーは僕を座らせると、白湯を持ってきてくれた。
「アァシイー、話してほしい。ここで三人はどんな生活をしてきたのか」
「ニトは曜変天目茶碗を知っているんだな?」
「昔の美術品で、同じものは作れないとか、中国で作られた茶碗なのに日本にしかないとか、その程度の知識しかないよ」
「十分だ。ニト、両親は若い頃からずっと曜変天目茶碗を作ろうとしてきた。爸爸は昔ながらの製法で再現できると思っていた。媽媽は科学の力で解明できると信じていた。二人は偶然でしか生まれないと言われてきた曜変天目茶碗を、必然にまで引き上げたのだ」
帰国の前日、僕は帰りの交通費だけ残して、持っていたお金を全てアァシイーに渡そうとした。そしてアァシイーに断られた。
「お金は、ある」
貧しい村の中でも、特に貧し気なアァシイーの小屋の中で、その声は空々しく聞こえた。
「媽媽の、見る力、知ってる?」
「やっぱり、母さんも地下が見えたの?」
「媽媽は、モノの価値の行き先が見えた」
「どういうこと?」
「株の、将来の価値が、見えた」
「まさか」
「媽媽は、小学生の頃に、すでに自分の力に気づいていた」
アァシイーの説明によると、小学生の母は、自分の両親に100万円の借金と株式投資をする口座の開設とを要求したそうだ。それ以外で一生何の世話にもならないと宣言して。そして両親は応じた。ほどなくして、母は100万円の借金を返し、さらに自分の学費や生活費を作り出したのだという。長じては中国での生活費も研究費も作り出したのだという。
「ニト、マンションあるだろう」アァシイーは僕に尋ねた。僕が住んでいる家は古い一軒家だが、市内に賃貸マンションを一棟所有していた。
「それは、媽媽がニトを日本で産んだときに、買ったのだ。株を渡しても運用できないとわかっていたから」
「そんな」
「ニトはずっと貧しくなかったろう?」
確かに、田代家には不動産収入があった。そのことは知っていた。しかし、どうやってマンションを所有したのかなんて、考えてみたこともなかった。僕は精神的に幼すぎた。愚かすぎた。
「媽媽はお金を持っていたが、誰にも気付かれないように注意していた。今も私は大金を隠している」
アァシイーは、無戸籍であるために、転居も、出国もできず、株取引も、銀行口座を作ることさえできずにいた。犯罪被害者になっても、警察は取り合ってくれないという。親戚も友人もなく、自分の身は自分で守るしかない。こんなか細い少女が、たった一人で。僕はこれから定期的にアァシイーを訪ねて、力になると約束したが、直後に断られた。
「きっと、ニトが帰った直後、お金があると思われて狙われる」と笑われた。
僕は言葉に詰まった。
アァシイーが、こどもに諭すように語る。
「ニト、私は墓守として生きる。アァシイーというのは日本語で『21』という意味だ。媽媽は21世紀の間中、墓を守れと言った。この場所から離れること、できない。地下が見える私のために遺体が腐らないようにと考えたのも、媽媽だ」
「墓なんか、捨ててしまえ。死んだ人の言うことなんか、聞くな」
「できない」
「なぜ?」
「爸爸が発病の直前にやっと完成させた茶碗を、誰にも穢させない」
「父さんのこと、僕は何も知らない。どんな人だったの?」
「代々貧しい窯工。曜変天目茶碗をずっと再現したかった。研究したかった。でもお金が無い。ノートに記録していくだけ。爸爸は媽媽と出会った。媽媽は大学院生で、福建省の土壌調査に来ていた。爸爸と媽媽は運命だった。爸爸は媽媽の言葉がわかった」
「ちょっと待って、アァシイー。父さんは日本語がわかったの?」
「違う。日本語わからない。でも、媽媽の話している意味が分かった」
「もしかして、テレパシー?」
「違う。声に出すと、意味が分かった」
そんなことってあるだろうか?母が一方的にしゃべり、父が肯定か否定かのジェスチャーをする。その繰り返しの中で二人は愛し合うようになったのだ。あの、暗い土の下で人形のように並んで横たわる二人が、若々しく、生き生きとして、目を輝かせ、身振り手振りを加え、熱のこもった様子でやりとりしている姿が見えたような気がした。
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