第三章 中国へ
主人公は大学生になり、自分のルーツを探ろうとします。
僕が大学生になったある日、突然中国から家に手紙が届いた。宛名は祖父母と僕、三人の連名になっていた。差出人は田代倫子、母だった。住所は書かれていなかった。
『 倫子です。三人がまだこの住所に住み続けているのか、そもそも生きているのかわかりませんが、書いておきます。私はすでに死んでいますが、自殺であり、事件性はありません。捜索したりしないでください。私は中国で不法滞在者でした。今は不法に埋葬されていることと思います。したがって、中国当局から死亡通知書等の書類が送られてくることはありません。行方不明者扱いだと思われます。』
内容はそれだけだった。家族への謝罪の言葉、ねぎらいの言葉、心配する言葉、少しでも愛情を感じられる言葉、それらは一切なかった。肉筆であることだけが母の存在を示していた。
僕は手紙を読んで、じっとしていられなくなった。中国で母が暮らしていたであろう場所へ行ってみることにした。祖母は、母が僕を産んですぐに中国へ戻ろうとするのを見て、住所だけはかろうじて書いて残させていたのだ。二十年前の色褪せた紙に書かれた住所と今回の手紙の消印は同じ地域だった。中国福建省。僕は、その住所に行く決心をした。
日本から、福建省の廈門国際空港までは直行便が出ていた。僕はそれまで海外旅行をしたことが一度もなかった。中国語も学んだことはなかった。空港からは鉄道を使い、書かれた住所に一番近い駅に一人立った時には心細くて後戻りしたくなった。しかしここまで来たのだからと自分を奮い立たせ、タクシー乗り場を探し、運転手に母がかつて書き置いた住所を見せた。運転手はわかったというそぶりで、僕のスーツケースを車に乗せた。僕は全然違う場所に連れていかれたり、危害を加えられる可能性について考えそうになったが、考えるのをやめた。駅から遠ざかるほど、車窓の景色は、やせた土地がどこまでも続いているわびしいものになった。がたついたタクシーが止まったのは田舎の万屋の前だった。
まごつきながら支払いを終え、タクシーを降りると、観光客も来ることのない田舎で外国人が珍しいのか、僕は村人に遠巻きにじろじろ見られた。意を決して、笑顔で万屋のおばさんに話しかけた。「你好。Do you know Rinko Tashiro ? (リンコ タシロ を知ってますか)」おばさんは、怒ったような口調で何か話しながら近づいてきた。そして僕に手を出した。僕ははっとした。同じ漢字でも、中国と日本では読み方が違う。きっとリンコタシロでは、通じないのだ。僕は紙に書かれた母の名前を指さして見せた。するとおばさんは何か独り言を言って、そばにいた息子らしい少年に何か言いつけた。
少年は身軽にパッと走り出し、すぐに姿が見えなくなった。おばさんはもう僕に話しかけなくなり、僕はすることもなくなって、万屋の中のほこりをかぶった雑多な商品を眺めたり、少年が走り去った方向を眺めたりして立ち続けた。
どれくらい時間が経っただろうか、少年が走って戻ってきた。店内のおばさんに何か大声でしゃべって、またどこかへいってしまった。おばさんは僕のほうに向きなおり、「ここにいろ」という身振りを示した。僕は大きくうなずいた。誰かが来るのだ。僕に会いに。父か、母か、誰かが。
僕は少年が戻ってきた道を凝視し続けた。ずいぶん経って、舗装されていない道を痩せた少女が空の手押し車を押しながら歩いてきた。万屋の前で止まったので、僕は客だろうと思った。しかし少女は僕の目を見て「ニト?」と尋ねた。僕はうろたえてしまって「えっ、あっ、はい、ニトです。」と答えた。少女はおばさんと二言三言言葉を交わし、僕のスーツケースをひょいと手押し車に乗せ、来た道を戻り始めた。僕はあわてておばさんに「謝謝」と言って頭を下げ、少女の後について行った。この辺りは赤茶けた乾燥した泥の地面がどこまでも続いていた。何となく頭のスイッチを入れ、地下を覗いても、どこまでも同じ赤っぽい土が広がっているだけだった。道路には時々車も通っているが、舗装されていないので、道路の表面は凸凹だった。僕は少女が手押し車をもって来た意味がようやく分かった。ここではスーツケースのキャスターは全くの役立たずだった。万屋の前の道がこの村のメインストリートだったのだろう。歩くにつれ、道はますます悪くなり、あたりに家もほとんどなくなってきた。さらに進むと、古い窯に行きつき、少女はそのそばの粗末な作業小屋兼住居と思われる建物に入った。僕も後に続いた。
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