恋人に誘拐されました
「小春、逃げるぞ」
夏休みに入ったある日。クーラーの効いた部屋で受験勉強をしていた私を訪ねて来たのは、近所の家に住む同い年の健人。私の恋人でもある彼は、唐突に切羽詰った表情でそんなことを言ってきた。
「ど、どうしたの、突然……」
「いいから! 時間がねえんだ!」
健人は私の両手を掴んで、唾がかかりそうな剣幕で私を急き立てる。
「数日分の着替えを用意しろ。足りないもんは……まぁ途中で買えばなんとかなるだろ」
「いきなり何を言ってるの? 私、今日も夕方から塾だし……」
「塾なんてどうでもいいんだ!」
健人が男友達に対してそうして怒っているのは見たことがあったけれど、私にそうやって怒鳴ったことは初めてだった。何かしてしまったのだろうか、と身体がビクリと震えた。
「ああ……いや、悪ぃ」
健人は困惑した表情で頭を掻いた後、私の両肩を優しく掴んだ。
「でも、とにかく時間がねえんだ。このチャンスを逃したら、お前を連れて逃げられなくなる」
「逃げるって……何から?」
尋ねると、健人は表情を曇らせた。
「今は説明してる暇はねえんだ。だけど、俺を信じてついてきてくれ」
いつもおちゃらけてばかりの健人の真剣の訴えに、私は困惑する。逃げるって。泊まりの用意って……
「だけど、お母さんが……」
「小春」
健人は私の肩に乗せた手に力を込めた。
「俺のことを信じられるか?」
何のことを言っているのかさっぱりわからない。だけど、私は健人のことが好きだ。いつも真っ直ぐな健人はいつだって私の憧れで大切な人。
「……うん」
私が頷くと健人は少しだけ表情を和らげた。
「俺は今からお前を誘拐する。いいから黙ってついてこい」
言われるがまま支度をした私は、健人と一緒に電車に乗っている。私のスマホは電源を切って健人に渡した。健人は「連絡されたら困るから」と、誘拐犯らしいことを言った。だけど、荒っぽいことはせずに手を繋いで一緒に並んで座っている。
せめて、と英単語帳を持っていこうとしたけれど、それも健人にダメだと言われてしまった。
私は困惑と罪悪感に包まれている。塾、サボることになっちゃうのかな。お母さんが出かけてる間に何も言わずに出てきちゃったけど、心配されるだろうな。お母さんが甲高い声で怒る姿を想像すると罪悪感は倍増する。
だけど、いつも恥ずかしがる健人がずっと私の手を握ったままでいてくれるのは、何だか嬉しい。それに、いつも短い時間しか一緒にいられない健人と、もしかしたら長くいられるかもしれないという期待があるのも事実だった。
「ねえ、健人」
私を誘拐している健人に話しかける。
「いい加減、どこに向かってるか教えてくれてもいいでしょう?」
「ああ、そうだな」
ずっとこわばった顔をしていた健人がようやく私を見る。
「これから東京に行く」
「東京に?」
静岡県民である私達にとって、東京は少し遠い場所だ。その気になればすぐに行ける距離だし、同級生なんかは休みの日に日帰りで出かけたりするみたいだけど、私は親なしでは行ったことがない。
「正確には神奈川。俺の兄貴のところに行く」
「雅人さんの……」
雅人さんは健人のお兄さん。私達と6つ離れていて、今年から東京で社会人になったという話は聞いたことがあった。大学から東京へ行っていたので、私も数えるほどしか会っていない。
「遊びに行くの?」
「それは……行ってから説明する」
健人は握る手に力を込めた。
私達は2回電車を乗り換えて神奈川へ向かう。健人が調べておいてくれたみたいで、迷うことはなかった。
ローカル線で3時間。私達は神奈川に到着した。空が白み始めた頃で、本来なら塾へ行く時間だ。きっとお母さんも家に帰ってきていて、今頃私を探して慌てているだろう。健人が持っている私の電源の切られたスマホにはたくさん留守電が入っているに違いない。
途中で健人に、
「お母さんに何も言ってこなかったけど……」
と、言ったら、
「手紙は置いてきたし、俺の親にも頼んであるから大丈夫だ」
と、答えが返ってきた。健人のご両親にも頼んであるってどういうことだろう? だけど、それ以上聞いたとしても答えてくれる気がしなかったので、私は聞かずにおくことにした。
雅人さんの住んでいる駅に着いて、仕事が終わって帰ってくるまではファーストフード店で時間を過ごした。同じ人間のはずなのに、東京の人はみんなオシャレで輝いて見えるのが不思議だった。
連絡が来て店を出ると、そこにはスーツ姿の雅人さんが立っていた。
「よ! 誘拐成功、おめでとう!」
雅人さんはそう言って健人の背中を叩いた。
「小春ちゃんも、こんにちは。ようこそ、東京に」
「は、はい」
私は差し出された雅人さんの手と握手をする。
「お腹空いたろ? 今日はお兄さまが奢ってあげるから、焼肉でも行くか!」
雅人さんの提案で私達は焼肉屋さんへ向かう。慌てて家を出てきたから、私はお金もほとんど持っていない。電車賃は健人が出してくれたけど、雅人さんにも奢っていただくなんてなんだか申し訳ない。そう雅人さんに言ったら、
「俺は社会人だからだいじょーぶ! 健人だって、このためにバイトしてきたんだから、頼っちゃって大丈夫だよ」
と、笑ってくれた。健人は高校2年生になる春休みから突然バイトを始めた。理由を聞いても教えてくれなかったんだけど、もしかしてこのために……? 疑問の目を健人に向けると、
「兄貴は余計なことを……っ!」
と、怒りはじめてしまった。バイトをする理由がわたしのためだったということは素直に嬉しい。だけど、それと同時に疑問が膨らんでいく。
健人はもうずっと前から私を誘拐しようとしていた?
両親以外の誰かと焼肉を食べるなんて初めての経験だ。いつもはお母さんが全部焼いてお皿に取り分けてくれるところまでやってくれるけど、浅霧家の焼肉はそうじゃないらしい。雅人さんも健人も手の空いている方がお肉を焼き始める。それで「焼けたよ」と、教えてもらったお肉を自分で取るのが浅霧家のスタイルだ。
こうして両親抜きの自分たちだけで夕飯を食べるのも初めてのことだった。お母さんは今頃どうしているのだろう。秒針が一秒進むごとにお母さんの怒りゲージが上がって、罪悪感が積もっていくような気がした。
「あの、健人。そろそろこの誘拐? の理由を教えてほしいんだけど」
そう尋ねると、健人は真剣な表情になってわたしに向き直った。
「あのな、小春。俺はずっと前から気になってた。お前の家のことだ」
「家の……?」
何のことを言われているのか、正直さっぱりわからない。
「小春がいいならそれでもいいかと思ってきた。でも、今回ばかりは我慢できなかった」
「どういうこと?」
「小春はあの家から逃げるべきだ」
「逃げるって……何を言っているの?」
わたしの家は平凡なサラリーマンの家庭。わたしは一人っ子で、お父さんとお母さんがいる、本当に平凡な──
「小春は気がついていないみたいだけど、お前の親は異常だ」
「いじょ、う?」
「毒親なんだよ、お前の親」
毒親。強いワードに身体が固まる。
「ちょ、ちょっと待って健人。毒親って虐待とか、そういうのでしょ? うちの親はそんなんじゃないよ?」
「小春、目を覚ませ! よく思い出すんだ」
「思い出すって……確かにお母さんはちょっと過保護なところはあるかもしれないけど」
「度が過ぎてんだよ! 高校生にもなって門限5時って、それが過保護か? 友達と寄り道もできない、破ったら異常なまでの電話の量。それが異常じゃなくてなんだって言うんだよ!」
「そ、そんな……」
「まあまあ健人」
今まで黙って見守ってくれていた雅人さんが入ってきた。
「お前、熱くなりすぎ」
「だけど……」
「小春ちゃん」
雅人さんが笑顔で私に話しかけてくれる。
「毒親ってね、虐待とかそういう酷い親のことももちろんそう呼ぶけれど、パッと見わからなくても精神的に子供を支配しているような親のこともそう呼ぶんだよ」
「そんな……」
身体から血が引いていくのを感じる。健人だけじゃなくて、雅人さんまでうちの親が毒親だと、そう言うの?
「それに、健人が行動を起こした理由はさっき言ったことじゃないだろう?」
雅人さんに促されて、健人が頷く。
「あのな、小春。お前、何で吹奏楽部をやめた?」
「え……」
中学から高校一年生まで続けてきた吹奏楽部を、私は高校二年生になると同時に退部した。その理由は……
「わたしの成績が悪いから、受験の心配をして……お母さんが」
「ピアノもやめたろ? 小春はあんなに音楽が好きだったのに」
ピアノまでやめる必要はないんじゃないかと、お母さんにやんわり伝えたことはあった。だけど、成績が悪いから、とわたしを心配してくれているのだと諦めたのだ。
「本当はお前、音大に進みたいんじゃなかったのか?」
ピクリと身体を震わせる。
「それを親御さんに伝えたんだろ? そうしたら反対されて、音楽をやめさせられた」
「で、でも! それはわたしの将来を心配して……」
「本当にそうだと思うか!? 親が子供のやりたいことを応援しないで、邪魔ばかりして、小春はそれでいいのかよ!?」
健人の勢いに押されて何も言い返すことができない。わたしはただ健人を見つめる。
「それに、俺はわかるぜ。小春の母親が音大行きを却下した理由」
それはわたしの将来を……
「小春のことを考えて、なんて嘘だ。音大に行くなら東京に出ることになるからだ。小春の母親は小春と離れたくなくて、静岡に留めておきたかったから音大行きを反対したんだ!」
すーっと世界から意識が遠のいていく感覚がする。考えなくてはならないことがたくさんあるのに、頭が思考を止めていく。
「小春が音大に行きたいって言うまでは、お前の母親も音楽をやることを応援してくれてただろう? それなのに突然将来のことを~なんて言い出したのは、親のわがままでしかないんだ! 思い当たることがあるだろ!?」
わたしの演奏会があるといつも喜んで来てくれていたお母さん。帰りが遅くなることに難色を示したこともあったけれど、基本的には応援してくれていた。それが、突然音楽を目の敵にしたように「音楽で食べていけるはずがない」などと、厳しく言い始めたのはいつからだったっけ?
「健人、今はそのくらいにしておいたほうがいい」
雅人さんの声が遠くから聞こえる。
「とりあえず食べよう。ほら、小春ちゃんも」
わたしはその後、焼肉をほとんど食べることができなかった。
翌日は土曜日。雅人さんも仕事が休みということで、3人で観光に出かける。
「ほえー! たっかいなー!」
健人が写真を撮ろうとしているのはスカイツリー。近すぎると写真に写りきらない程の大きさだ。
「特別展望台まで行くと値段が上がるから、その下まででいいよな?」
スカイツリーに登るお金はそう言って雅人さんが出してくれた。わたしは他人なのに、出してもらうなんて申し訳ない、と断ったのだけれど、
「出世払いでいいよ」
と、笑って買ってくれた。異常に早いエレベーターに乗って上に着くと東京が一望できる。曇り空で何も見えないんじゃないかと心配していたけれど、そんなこともなく東京のビル群を見ることができた。
「すごいね……」
静岡とは全然違う、建物が所狭しと立ち並ぶ景色。ここでは想像できないくらい多くの人間が生活している。そのことに、私は僅かな恐怖を覚える。
「すげーなー!」
だけど、健人は違うみたい。純粋に目を輝かせて身を乗り出している。
「何でもあるよな、東京って! 早く静岡を出たいぜ!」
「健人は東京の大学受けるの?」
「そう。静岡なんかにずっといられるかっての」
「その前に大学に受かるかどうか。健人は頭はイマイチだからなぁ」
「うるせーな!」
健人が怒り、雅人さんが笑った。そっか、健人は東京に出るんだ。
この、人がたくさんいる東京で一人で暮らすってどんな感じなのだろう。怖くはないのだろうか。
ニュースで東京の事件や事故の報道があると、お母さんはよく「都会は怖いわね」と、言っている。都会は怖い。わたしもそう思ってきたけれど、本当はどうなのだろう?
昨日、健人から言われたことが頭から離れない。あれっきり健人と雅人さんからわたしの親の話は出ない。気を使って出さないようにしてくれているのだと思う。
お母さんはわたしを守るために忠告してくれている。お母さんの言うことに従っていれば間違いはない。怒られるのはわたしのことを考えてのこと。そう思っていた。
だけど、健人の言うことが本当で、自分のためにわたしをコントロールしようとしているのならば、わたしの世界はひっくり返る。
一日観光をして疲れて雅人さんの家に帰ってきた。雅人さんの家はわたしの部屋を一回り大きくしたくらいの部屋。初めは狭いな、なんて思ったけれど、一日過ごして見ると一人で住むにはちょうどいいサイズに思える。
今は健人がシャワーを浴びている。部屋にいながら微かにシャワーの音が聞こえるのも、このサイズの部屋ならではだ。
「一人暮らしはいいよ~」
わたしの心の中を見透かしたかのように、雅人さんがそう言ってソファで伸びをした。
「すごい自由! 夜遅くまで起きてても誰も怒る人はいない、夜中にラーメン食べたって出歩いたって自由!」
「夜中のラーメン、いいですね」
雅人さんがあまりに子供みたいにはしゃぐものだからくすりと笑ってしまう。夜にお腹が空いてお菓子を食べようとすると、よくお母さんに「太るわよ」って言われる。体型維持のためにはありがたいけれど、たまにはそれを無視してでも食べたくなることって、確かにあるかもしれない。
「小春ちゃんは一人暮らししたいって思ったことないの?」
「一人暮らし、ですか」
学校でも時々その話題が出る。みんな一人暮らしがしたいと言う。わたしも合わせて「そうだね」なんて言うけれど、本当のところはどうなのだろう。優しく微笑む雅人さんには、クラスメイトみたいに人に合わせた答えは通用しないんじゃないかと、何となく思う。
「現実味がなくて、よくわからないです。わたしは一人じゃ何もできないですし……」
「いやいや、人間やればなんでもできるんだって。家事も何もできなかった俺でも、今では時々自炊するくらいにはなったんだよ? ま、味はお察しだけど」
雅人さんが家事を何もできないとは思えない。部屋は綺麗に整頓されているし。
「今なんてわからないことがあれば何でもネットで調べられるだろ? ワイシャツのアイロンがけ方法とかさ、動画でもあるんだよ?」
「そうなんですか」
「どうしてもできなければ、食事ならコンビニ、洗濯ならクリーニング屋とかいくらでも外で賄えるし、どうにか生きていけるんだって」
そう話す雅人さんはのびのびとしていて大人に見える。わたしも6年後にはこんなに大人になれるのだろうか?
「小春ちゃんは何もできなくないよ。朝はちゃんとベッドを整えてたし、俺が小春ちゃんの年だった時よりちゃんとしてる。何もできない健人だって、必要に迫られたら何だってできると思うし」
健人も一人暮らしをすると言っていた。確かに健人は料理もしないし洗濯もしない。一人で暮らしていけるのか、心配ではある。
わたしがもしやろうと思えば、一人ででも暮らしていけるのだろうか。
「親元を離れるとさ」
雅人さんは天井を見上げながら呟くように話してくれる。
「新しい発見があって面白いよ。俺なんてさ、親と特に大きな衝突もないまま家を出たけど、それでも数年経ってから家に帰ると、変だな、俺とは違うなってところが見えたりするんだ。それを見つけると、親も人間なんだなって思えて、新しい人と人の人間関係が始められる気がするんだよね。だから、俺は家を出てからの方が親のことを好きになれたし、東京に出てきてよかったって思ってる」
雅人さんと目が合うとふわりと微笑まれた。
「今回は健人が強引に誘拐してきちゃったけど、ちょっとの間離れるだけでも違うんじゃないかな。小春ちゃんが自分でいいって思える親子関係が築けるように、ここでおやすみしていくといいよ」
わたしは雅人さんの言葉をしっかりと噛み締めてから小さく頷いた。
翌日の日曜日は健人がわたしを連れていきたい場所があるということで、雅人さんと別れて二人だけで電車に乗った。二人だけで過ごすのは東京に来た時以来。人が多い電車の中で一歩だけ健人に近寄ると、健人がわたしの手を握ってくれた。
「怖い?」
「……少し」
素直に答えると、
「俺がいるから大丈夫だよ」
と、言って笑った。健人がいつもよりも頼もしく見えて、わたしはそんな健人が側にいることに安心感を覚える。
「楽しいよなー、東京」
流れる景色を追いながら健人は目を輝かせている。
「健人が東京の大学に行くつもりだなんて知らなかった」
昨日は雅人さんがいたから直接伝えられなかったけれど、わたしは健人の彼女なのに健人のことを何も知らないのだと、ちょっとだけショックを受けていた。
「ごめんな、まだ誰にも言ってなかったんだ。親と兄貴にしか」
「そうなんだ」
「小春には東京で伝えたいと思っててさ」
家族の次に伝えてくれようと思っていたことに受けていたショックが和らいでいくのを感じた。
健人はいつも真っ直ぐでキラキラと輝いているから眩しいと感じることがある。同時に、こんなわたしと何で付き合ってくれているんだろうか、と不安に思うこともある。
「俺は小春と一緒に東京に出たい。小春だって俺が側にいれば安心だろ?」
「それは……」
東京に出る、なんて真剣に考えたことがなかった。音大に行きたいと思った時も、一人暮らしをすることなんて少しも頭になかったし。
こんなにたくさん人がいる東京で健人がいてくれれば心強いことに間違いはない。だけど、健人が望んでくれてもわたしには勇気が出ない。お母さんの元を離れて一人で、なんて。
「そういえばスマホ」
「?」
「わたしの。健人が持ってるんだよね?」
「……ああ」
健人の表情が少しだけ険しくなる。
「親からの連絡、気にしてるの?」
「……うん」
お母さんから離れて、少しでも帰りが遅いと出るまで電話がかかってくる。それが怖くて、わたしはいつもスマホを洋服のポケットに入れている。
お母さんとこんなに連絡を取らなかったことは初めてだ。修学旅行中だって、毎日連絡を入れていたし。
こんなに長い時間連絡もしないで、帰ったらきっと怒られる。東京にいることも健人とずっと一緒にいられることも楽しいけれど、そんな罪悪感がいつも頭から離れない。
「小春の両親のことは大丈夫だよ。俺の母さんからもそう連絡があったし」
「健人のお母さんがうちのお母さんに話してくれたの?」
「そう」
そんなことでうちのお母さんが引き下がるだろうか。今頃、きっと心配してる。それを思うと、心がズシンと重くなる。
「ここにいる間は親のことは忘れろよ」
健人はそう言ってわたしの手をぎゅっと握った。わたしだってできることなら忘れて健人みたいに純粋に楽しみたい。だけど──
お母さんの叫び声が耳元で聞こえた気がして、わたしは景色から目を逸らして俯いた。
何処へ行くのか教えてもらえないまま着いた場所は聞いたこともない駅。健人に手を引かれるまま改札を抜けると、わたしたちと同年代の人たちがたくさんいる。改札の前にプレートを持って立っている人がいて、そのプレートに書いてあるのは『多摩音楽大学 オープンキャンパスはこちら』。
「あ……」
健人を見るとニヤリと笑いかけられた。
「行こうぜ」
人の流れに従って歩くこと10分。多摩音楽大学に着いた。生徒だろうか、楽器のケースを持って歩く人たちの姿が見られる。
オープンキャンパスの立て札に従って進むと、一つの建物に辿り着く。中に入ると──
ホールだ。それは、小さいけれど演奏会をするようなホールだった。
大学内にこんなホールがあるなんて、流石音大と言ったところか。学生になったらここで演奏するんだろうな。私の胸が僅かに疼いた。
オープンキャンパスが始まる。まずは学生による演奏からだ。サックス四重奏が始まった。
上手い──
吹奏楽でサックスをやっていなかったわたしでもわかる、すごく上手い。一人ひとりの音に深みがある。とても難しそうな曲を演奏しているにも関わらず息はぴったり。
プロの演奏と言っても差し支えないほどのレベルだ。これが音大生の実力か。
サックス四重奏が終わると、次はヴァイオリンによるソロの演奏。続いてピアノと声楽だ。
ピアノ。
黒いワンピースに身を包んだ女性がピアノの前に座った。
メインは声楽になるので、ピアノの役割は伴奏だ。それでも、わかる。繊細な音。控えめながらも粒の立った演奏。上手い。
ピアノにはもう4ヶ月ほど触れていない。今すぐにでもピアノを弾きたい。聴いているとそんな気持ちになってくる。
あの鍵盤の手触り。強弱によって変わる音。気を抜くと手が動き出しそうなくらい、わたしの身体は疼いていた。
お母さんには「いつまでも遊んでいるわけにいかないでしょう」と、言われて家にあるピアノにカバーをかけられた。ピアノは遊び。将来のことを考えればそうだろう、と思ったけれど、わたしがピアノを弾く時はいつも真剣だった。
もし、ずっとピアノを弾き続けることができたなら、どんなに幸せなことだろうか。わたしには目の前で演奏する音大生が羨ましくて仕方なかった。
演奏が終わると大学の紹介の映像が流される。映っている学生は誰もが楽しそうに、そして真剣に音楽と向き合っているように見えた。
映像が終わると希望コースに別れてキャンパスツアーへ。わたしはピアノコースを選んだ。
「初めまして。ピアノ科4年の三島直子です。よろしくお願いします」
その人は、さっき壇上でピアノを演奏していた人だった。
三島さんについてキャンパスを巡る。授業を受ける教室、個人レッスンを受ける部屋、自主練習に使う部屋。決して新しくない校舎だけれど、設備は整っていた。夏休みの日曜日だというのに練習している学生がいるのは、音楽が好きだからなのだろうか。
キャンパスツアーは学食へ。いろんな種類の定食や手軽に食べることのできるお弁当まで売っている。一緒に回っている同年代の学生達が目を輝かせてメニューを見ている中、わたしは一歩下がってその様子をぼんやりと見ていた。
「こんにちは」
そんなわたしに三島さんが話しかけてきてくれた。
「こんちはー!」
すぐに答えることのできないわたしに変わって健人が挨拶をしてくれる。
「二人は一緒に来たの?」
「はい。ま、入学を希望してるのはこっちの方なんですけど」
健人がわたしのことを指すと、
「そっか」
と、言って三島さんは目を細めた。
「二人はどこの学校?」
「静岡っす」
「それは遠いところからありがとう。私も北海道の出身だけど、地方の子って多いよ」
「そうなんですか」
わたしが初めて声をあげると、三島さんは柔らかく微笑む。
「地方に音大って少ないし、やっぱり東京の大学の方が講師陣もたくさんいるし、どうしても集まるよね」
「そうですよね」
静岡にも音大ないし。通える範囲に音大があれば、お母さんも応援してくれたのだろうか。
「あの、三島さん……が、北海道から出てくる時、両親から反対されたりしませんでした、か?」
わたしは普段こうして質問をするタイプではないのに、どうしても聞かずにはいられなかった。
「東京に出てくることに反対はされなかったけど、音大に行くことに、初めはいい顔しなかったかな。文系の大学に行って、会社員になるものだとばかり思われてたみたいだったから」
三島さんは困ったように笑う。
「だけど、私はずっとピアノを続けたかったから、説得したよ。ピアニストになれなかったとしても、ピアノの先生とか、そういう道はあるからって。結局、教職免許を取ることを条件に許してもらえたんだ」
「そうなんですか……」
それで三島さんは今ここにいる。あんなに素敵なピアノを今でも続けることができている。
「頑張ってね」
三島さんは最後にそう声をかけてくれてから、他の学生のところへと去っていった。
「そっか、楽しかったかぁ」
パジャマのまま出迎えてくれた雅人さんはわたしの話を聞いて嬉しそうに微笑んだ。健人は「休みの日なのに一日パジャマで過ごすなんて!」と、言ったが、雅人さんは「社会人にはそういう時間が必要なんだよ」と、笑った。
「健人も小春ちゃんに喜んでもらえてよかったね」
「うるさいな」
健人は照れくさそうにしている。わたしも帰り道に健人に何度もお礼を言ったら「もうわかったから」と、音を上げられた。お礼は何度言っても足りないくらいなのだけれど。
音大はわたしにとって夢のような場所だった。わたしの大好きな音楽をもっと大好きな人がたくさんいる場所。そんな場所にわたしも行けたらどんなにいいだろう。
オープンキャンパスでもらった、入学願書が入った封筒を撫でた。
「明日は兄貴は仕事だろ? 小春の行きたいところに遊びに行こうぜ」
「わたしの行きたいところ?」
わたしの行きたいところってどこだろう。東京は何となく憧れの場所ではあるけれど、いざ行きたいところと言われると何も思い浮かばないのだった。
それに、もう家を出てから3日目の夜になる。いつまでもここにいるわけにも行かないだろう。そろそろ帰る、そう言わなければお母さんにどんなに怒られるだろうか。
「行きたいところ、ないのかよ? 遊園地とか買い物とか、いろいろあるだろ」
「行きたいところ……」
ポケットから今は持っていないスマホが振動したような気がした。断って、帰らなくちゃ。わたしが夢のような場所にいられる時間はもう終わったんだ。
「洋服とか、静岡にはない店がいっぱいあるんだろ? 普段はしないけど、特別に付き合ってやるよ」
帰ら、なくちゃ。
「それじゃあわたし、一つ行きたいところが、あるの」
「もっと他に行きたい場所あるだろうに」
翌日。わたしたちは雅人さんが仕事に出かけてからお昼まで眠ってしまって、お昼過ぎに電車に乗っている。
「まあ、それが小春らしいんだけどさ」
健人は文句を言いながらもどこか嬉しそうに付き合ってくれている。わたしたちは昨日ネットで調べたお店に向かった。そこは、大きな楽器屋さんだ。
「広い……!」
一つのビルが丸々楽器屋さんになっているそのお店はワンフロアがピアノのコーナーになっている。ずらりと並んだピアノの数々に胸が跳ねる。学校やピアノの教室にしかないようなグランドピアノもある。
鍵盤を押してみると、ポーンといい音が響く。鍵盤に触れたのは1年ぶりくらい。本当に恋しくて仕方がなかったのだな、と改めて自覚するくらいドキドキする。
「何か弾いてみろよ」
健人がピアノにもたれかかりながらそう促す。
「試し弾きどうぞ、って書いてあるし」
買うつもりはないのに弾いていいのだろうか、と思うけれど、わたしだってもう弾きたくて堪らない。頷いて椅子に座った。
目の前に広がる鍵盤。この景色もずいぶんと久しぶりだ。
指が覚えている曲を弾いてみる。試し弾きの定番とも言える、エリーゼのために。わたしもこの曲を小学生の時に習ったんだ。
指が滑る。前よりも確実に下手になっているけれど、それでもちゃんと指は覚えていて弾くことができた。
わたしの指に応じて音が出る。わたしは、一人で最大限に曲を奏でることができるピアノが大好きだ。聴いていると落ち着く音も、鍵盤を押す時の感覚も。
夢中で演奏して曲が終わって我に返った。健人を見ると優しく微笑んでくれていた。
「俺はやっぱり小春がピアノを弾いてる姿、好きだよ」
CDと楽譜を買った帰り道、手を握った健人がそう言った。
「見てるこっちが羨ましくなるくらい楽しそうだ」
「そう……かな」
改めてそう言われると恥ずかしい。だけど、本当に楽しいのだから、それをわかってくれるのは嬉しい。
「小春はずっとピアノを弾いてる方がいい」
そうやって照れたように笑う健人を見ていたら、今までずっと気になっていて聞けなかったことを聞きたくなってしまった。
「健人はわたしのどこが好きなの?」
「……は?」
健人は目を丸くして、その後顔を赤くした。
「何だよ、急に」
「だって、わたしって地味で目立たないから。健人は明るくて目立つタイプだから、そういう相手がいいんじゃないかなって思ってて」
「……何だよ、それ」
素直な気持ちを伝えると、健人はあからさまにむっとした顔をする。そうやって感情をコロコロ変えて、それを表に出せる健人が羨ましい。
「俺は小春のこと、ずっと見てたのに」
「ずっと……?」
「中2の時、同じクラスになっただろ? それまでは確かに小春は目立たなくて特に注目もしてなかったけどさ。文化祭の時に準備で動き回る小春を見て。目立たないのにすげーいろんなところフォローしてて。それって、何ていうか誰にでもできることじゃないなって思ったから、すごい気が回るやつなんだなって思った」
「そんなに特別なことはしてなかったと思うけど……」
「自覚ないのかよ? みんなが面倒に思う作業を全部引き受けてさ、普通避けるだろ? そういうのできるのってすごいなって」
そんなところを見られていたなんて、全然気がつかなかった。恥ずかしいけれど嬉しくもある。
「その後の合唱コンクールで伴奏やっただろ? その時は文化祭の時みたいな控えめな感じじゃなくて、もうすげー楽しそうに主張してくるんだよ。なんか、面白いやつだなって思って、それで気になった」
そう、だったんだ。健人に告白されたのは高校一年生の時だったから、だいぶ長く想われていたことになる。
「俺は小春のしっかりしたところと優しいところが好きだよ。俺にできないことができる、すごいやつだなって尊敬もしてる」
「尊敬? わたしに?」
「うん。辛抱強いしさ。小春は臆病だけど、やろうと思えばなんだってできると思うぜ」
そんなことを言われたのは初めてだ。いつもお母さんには「小春は一人じゃ何もできないから」と、言われている。だけど、健人はそれと間逆なことを言った。
わたしが健人を眩しいと感じるように、健人もわたしのことを少しでもそう感じてくれているのだろうか。わたしももっと自分に自信が持てたなら、胸を張って健人や音大で出会った三島さんみたいにもっと輝けるのだろうか。
「わたし、音大に行けると思う?」
健人に聞いてみたかった。健人は真っ直ぐにわたしを見て頷いた。
「行けるよ、小春なら」
雅人さんの家に帰って3人でご飯を食べてから、わたしは健人に、
「スマホ返して」
と、言った。
「もう誘拐は終わりかい?」
「……はい」
雅人さんの問にわたしは頷く。
「健人、返してあげな」
「でも……」
「小春ちゃんならもう大丈夫。だよね?」
わたしは健人を見ながらもう一度頷いた。
「明日、帰ろう」
「明日見送れなくて残念だけど」
健人がシャワーに入ってから雅人さんがそんなことを言った。
「いえ、お世話になりました」
「またいつでもおいで。今度は誘拐じゃなくて家出でもいいからね」
「はい」
わたしは頷いて二人で笑った。
「小春ちゃん」
「はい」
「これだけは覚えておいて。小春ちゃんの人生は小春ちゃんのもの。親の期待や依存を背負う必要はないんだよ。親だからって大切にしなきゃならないことはない。罪悪感を感じる必要もないからね」
「……はい」
雅人さんの言葉は難しい。だけど、今なら言われていることが少しわかる気がするのだ。それは、ここに来た時とは自分が変われているということなのだろうか。
翌日、わたしと健人は来た時のように手を繋いで帰りの電車に乗り込んだ。今日から健人と別々の家に帰るかと思うと寂しい。健人と長い時間いられたことは、本当に幸せだった。
「ねえ、健人」
隣に座って寄り添いながら、わたしは健人に自分でも恥ずかしい甘えた声を出す。
「また、東京に行こうね」
「……ああ」
「東京で一緒に住めるかな?」
「当たり前だろ」
健人はそう答えて、わたしの手をぎゅっと強く握ってくれた。
地元の駅に着くと、わたしのお母さんと健人のお母さんがそれぞれ迎えに来てくれていた。久しぶりに見るお母さんは顔色が悪く、少し老けたような気がした。
「小春……!」
お母さんはわたしを呼んでぎゅっと抱きしめた。わたしはそれにどんな感情を抱いて良いのかわからずに、ただ動かずいた。
「小春ちゃん、おかえり」
お母さんがわたしから離れると、健人のお母さんがわたしに微笑んでくれた。微笑むと目元が健人に似ているから、わたしは安心する。
「はい、ただいま帰りました」
「小春、家に帰りましょう」
わたしと健人のお母さんの間に立ちはだかったお母さんがわたしに向けてそう言った。それで、わたしは察する。お母さんはここでは怒らない。いつも怒るのは家に帰ってからで、人前では怒らない人なんだ。
お母さんの後ろに心配そうに佇む健人が見えた。健人と離れてしまった右手が寂しい。でも、大丈夫、と、わたしは健人に向けて微笑んだ。
「うん、お母さん」
「小春」
車に乗る前、健人がわたしを呼び止めた。
「何かあったらすぐに言えよ」
「ありがとう、健人」
本当はすごく怖くて緊張している。だけど、わたしはもう大丈夫だと思う。健人が少しでも尊敬してくれている、わたしなら。
車に乗り込んで家へ向かう。車内ではお母さんがどれだけ心配したかを懇々と聞かされた。流れる景色はビルが所狭しと立ち並ぶ東京とは違う景色だった。
「何ですぐに帰ってきてくれなかったの!」
始まった、と思った。家に帰ってリビングに入った途端、キンキン声でそう問いただされる。
「何で急に出ていったの!?」
お母さんの顔は真っ赤で、目には涙が溜まっている。
「浅霧さんのところの子が小春を連れ回して、可哀想に」
怒ったと思ったらわたしを憐れむようなことを言うお母さんは健人の名前を出した。
「もうあんな子とは別れなさい!」
いつかの雅人さんの言葉が頭を過る。家を出てから「親も人間なんだなって」思ったと言っていた。あの時はその意味がわからなかったけれど、今なら少しわかる気がする。
お母さんがただ駄々をこねる子供に見える。手に入れたいものが手に入らずに、床を転げ回って駄々をこねる子供に。
目頭が熱くなりそうになって、わたしはそれをぐっと堪える。わたしは大人になりたい。
「健人とは別れない」
思っていたよりも冷たい声が出た。
「何で!? あの子に何を言われたの!? あの子が小春に変なことを吹き込むから……」
「違うよ、お母さん」
お母さんが熱くなるのに従って、わたしの心が冷えていく。
「健人は何も悪くない。わたしは東京に行けてよかったと思ってる」
「なんてこと……!」
芝居がかった様子で、お母さんは椅子に倒れるように座る。
「可哀想に、小春。変な影響を受けて……」
「お母さん」
哀れな人。お母さんはわたしにこんなにも理想を抱き、依存しているのか。だけど、わたしがそれに応える義務はない。
「わたし、東京の音大に行く」
「小春……!」
「健人に言われたからじゃない、自分で決めたの」
お母さんの目からは涙が流れ落ちている。お母さんを泣かせていること、胸は痛むけれど、何を捨ててでも夢を追うと決めたのは自分だ。
「もうお母さんの理想の子供ではいられない。ごめんなさい」
わたしは頭を下げた。お母さんと、過去の自分に。
「ねえ、健人」
「ん?」
ぼんやりとテレビを見ている健人の背中にわたしは声をかける。
「あの時、わたしを誘拐してくれてありがとう」
「いつの話をしてるんだよ」
健人はそう言って笑った。健人に誘拐されたのは過去の臆病だったわたし。あの時、健人がわたしを誘拐してくれたから、今のわたしがいる。
「自分の子供には好きなこと、させてあげたいなって思う」
「俺は娘がどっかの男に誘拐なんてされたら、怒り狂うけどな」
「ちょっと、どの口が言ってるの?」
そう言って笑い、わたしは自分の少しだけ膨らんだお腹を優しく撫でるのだった。