プロローグ:狐の化かしと神の気まぐれ
山陰の湿った風が、鬱蒼と茂る木の葉をさわさわと揺らす。
人里から遠く離れたこの山道は、滅多に人が通らない。たまに足を踏み入れる者といえば、木こりか、道に迷った旅人か、あるいは世捨て人の類くらいのものだった。
そんな寂れた山道の脇にある大きな杉の木の上で、一匹の小狐が退屈そうに長い尻尾を揺らしていた。毛並みは悪くないが、身体は小ぶりで、背中から生えている尾はたったの一本。人間を化かすことだけを生き甲斐にしている、下級の化け狐である。
「ひまじゃ……実にひまじゃのう」
狐はあくびを噛み殺しながら、遠くの山道を見下ろした。
この狐の生活は至って単純だった。時折通りかかる人間を見つけては、葉っぱを頭に乗せてドロンと化け、脅かして腰を抜かさせたり、ありもしない幻の茶屋を見せて深山へと誘い込んだりする。パニックに陥る人間たちの顔を見るのが、狐にとって何よりの娯楽だった。お礼代わりに落としていった握り飯や饅頭を拾って食べるのが、日々の小さな糧でもある。
自分は恐ろしい化け物だ。人間など、己の知恵と化け術にかかれば赤子も同然――狐は本気でそう思っていた。自分がただの「ちょっと小器用な、ショボい悪戯狐」に過ぎないという現実から目を背けたまま。
ある時、カツン、カツンと静かな音が山道に響いた。
狐はぴんと耳を立てる。音のする方へ視線をやると、一台の網代笠を深々とかぶり、竹の杖をついた一人の旅僧が歩いてくるのが見えた。
「おお……来たぞ、人間じゃ!」
狐の黒い瞳がキラリと輝いた。見るからに質素な黒衣を纏った坊主だ。
狐は口元を歪め、意地の悪い笑みを浮かべた。坊主というのは実に化かし甲斐がある。信心深い奴ほど、あり得ない怪異を見せつけられた時に滑稽な悲鳴を上げるのだ。
「ふふん、今日の趣向はどうしてくれようか。よし……とびきりおぞましい大入道にでもなって、腰を抜かさせてやるわい!」
狐は木の上から軽やかに飛び降りると、道端の足元に転がっていた一枚の枯れ葉をヒラリと頭の上に載せた。
胸の奥から細々とした妖力を練り上げ、一気に息を吐き出す。
「ドロン!」
立ち込める白い煙。煙の中から現れたのは、立ち木を遥かに超える巨躯を持った、目玉が三つもあるおぞましい大入道だった。凄まじい威圧感を演出しようと、狐は声を張り上げて空間を震わせた。
『グハハハ! 哀れな旅の坊主め! この山は我が領域! 生きて帰れると思うなよ……ッ!』
ドスン、と大地を揺らすような足音の幻聴まで響かせる。完璧だ。完璧な演出だ。これで腰を抜かさない人間などいるはずがない。泣き叫んで命乞いをする坊主の姿を想像し、幻影の裏側で狐はニヤニヤと笑い転げていた。
しかし。
旅僧は足を止めなかった。カツン、カツンと、全く同じリズムで杖をつきながら、まっすぐ大入道に向かって歩いてくる。笠の影になって顔は見えないが、怯えている様子など微塵もなかった。
『む……? おい坊主、聞こえんのか! わしはお前を喰らい尽くす大入道だぞ!』
焦った狐はさらに声を張り上げ、大入道の腕を振り下ろす幻覚を見せた。
旅僧は、大入道の真っ只中まで歩を進めると、ふっと足を止めた。そして、ゆっくりと網代笠の縁に手をかけ、持ち上げた。
そこに現れたのは、鋭い眼光を持った老僧の顔だった。その瞳には、巨体の大入道など映っていない。ただひたすらに冷ややかな視線が、幻影の足元――落ち葉を頭に乗せて必死に妖力を練っている小狐の姿を、正確に捉えていた。
「……見え透いた化かし術だな、小畜生め」
『な……っ!?』
見破られている。そう悟った瞬間、狐の背筋に冷たいものが走った。慌てて術を解こうとしたが、すでに遅かった。
「喝―――ッ!!!!」
老僧の口から放たれたのは、腹の底から響くような地鳴りのごとき大音波だった。
ただの威嚇ではない。長年の修行によって鍛え上げられた法術と、物理的な衝撃波が混ざり合った本物の「破邪の喝」である。
「ギャンッ!?」
空間が激しく歪み、大入道の幻影が一瞬で粉々に砕け散った。
直撃を受けた小狐の身体は、まるで弾丸のように弾き飛ばされた。ドカンと音を立てて巨大な岩に激突し、バキリという嫌な骨折音が山中に響きわたる。
「ガハッ……! あ、はぐ……っ」
地べたに叩きつけられた狐は、口から赤黒い血を吐き出した。全身を襲うのは、これまで経験したこともないような激痛。内臓が破裂し、四肢の骨は折れ、背中の尾は力なく泥に塗れている。
「他者を脅かし、惑わすだけの悪業。その報いと知れ」
老僧は一切の感情を挟まない冷徹な声で吐き捨てると、一度も振り返ることなく、再びカツン、カツンと静かな足音を立てて山道の奥へと去っていった。
残されたのは、泥と血にまみれてピクピクと痙攣する小狐が一匹。
「は……はは……なんじゃ、あの……坊主……強すぎるじゃろ……」
声を出そうとしても、喉から漏れるのはかすれた喘ぎ声と血の泡だけだった。
激痛の波が何度も押し寄せ、視界が急速に狭まっていく。自慢の化け術など、何の役にも立たなかった。自分は強い化け物などではない。ただの弱い、愚かな狐だったのだ。
倒れた場所は、山道から少し外れた藪の中。人間はおろか、野生の獣すらめったに通らない死角だった。
指一本動かすことすらできない。身体の中に残った妖力は、傷口から絶え間なく溢れ出し、急速に霧散していく。
(……動けぬ。呼吸をするだけで……痛い……)
一日が過ぎた。
太陽が昇り、そして沈む。山の中は夜になると凍えるほど冷え込んだ。傷口は化膿し、熱を発し、体力を削り取っていく。
二日が過ぎた。
雨が降った。冷たい雨が痛む身体を叩きつけるが、喉の渇きを癒やすために舌を伸ばすことすら叶わない。目の前を通り過ぎるアリや虫を指を咥えて見つめるしかなかった。
(腹が……減ったのう……。握り飯……いや、腐った油揚げでもいい……何か喰いたい……)
三日が過ぎた。
もはや痛みすら感じなくなっていた。全身の感覚が麻痺し、ただただ圧倒的な「飢え」と「冷たさ」が全身を支配している。
怪我が治るのを待つ? そんな奇跡が起きるわけがない。この傷が完治するまでには何ヶ月もかかる。その前に、間違いなく自分は餓死する。誰にも知られず、野晒しになり、虫に喰われて骨になるのだ。人間に返り討ちにされた、惨めな化け狐の末路として、これ以上にお似合いの結末もないだろう。
(わしは……こんなところで……死ぬのか……?)
涙すら出なかった。視界は真っ暗になり、意識が薄い膜の向こう側へと溶けていく。死の冷たさが、すぐそこまで迫っていた。
その時だった。
ふっと、周囲のしとしとと降る雨の音が消えた。
静寂。完全なる静寂が、深く重く山を包み込む。
かすかに残った視界の隅で、闇の中に「光」が差し込むのが見えた。
太陽の光でも、月の光でもない。眩しいほどに神聖で、それでいて不可思議な黄金色の光。
「ほう……まだ息があるか。しぶとい小狐だ」
頭の上から、鈴を転がすような、しかし地響きのように重厚な声が降ってきた。男のようでもあり、女のようでもあり、老人のようでもあり、幼子のようでもある――人間の声ではない。
狐は消えかかる意識を必死につなぎ止め、重い瞼をミリ単位で持ち上げた。
そこに立っていたのは、足元を浮かかせた一人の異形だった。
煌びやかな衣を纏い、背後には後光のような光の輪が浮かんでいる。その顔には柔和でありながら、同時にすべてを見透かすような冷酷さを秘めた笑みが浮かんでいた。
神だ。
理屈ではない。己の魂が、目の前にいる存在が「この世界の理そのもの」であることを理解し、恐怖で震え上がっていた。
「か……がみ……様……?」
掠れた声で、狐は呟いた。
神と呼ばれた存在は、優雅な動作で膝を折り、血だらけの狐を見下ろした。
「いかにも。我はこの山々を総べる者。……お前が人間を化かし、下悪さをしていたのは知っておる。そして今、己の力過信ゆえに返り討ちにあい、惨めに野垂れ死のうとしていることもな」
神の言葉には、慈悲など一切含まれていなかった。ただの事実の提示。まるで路傍の石ころを観察するかのような淡々とした口調。
「神よ……助けて……くれ……。痛いんじゃ……喰いたいんじゃ……死にたく……ない……」
狐はなりふり構わず懇願した。プライドも、化け狐としての意地も、すべて泥の中に捨て去っていた。ただ、生きたかった。
神はくすりと笑った。
「助けてやるのは容易い。だが、ただ救うのでは面白くない。我は今、退屈しておってな」
神は細い指先をすっと伸ばし、狐の額に触れさせた。
その瞬間、全身を焼き尽くすような激痛とともに、温かな力が体内に流れ込んできた。瀕死だった肉体が、最低限「動ける」状態にまで急速に修復されていく。骨が繋がり、内臓の破裂が塞がる。だが、完治には程遠い。かろうじて命をつなぎ止め、立つのもやっとという状態だ。
「あ……が……っ!?」
「勘違いするなよ。傷を治したのではない。『死なない程度に延命』してやっただけだ。放置すれば、数日のうちに再び肉体は崩壊し、餓死する以上の苦しみを味わって死ぬことになる」
神は立ち上がり、冷たい光を放つ瞳で狐を見下ろした。
「小狐よ、試練を与えてやろう」
「し……試練……?」
「左様。これから我がお前に九つの試練を課す。この試練を一つ乗り越えるたびに、傷を癒やし、相応の妖力を与えて遣わそう。全ての試練を突破した暁には、お前の傷を完治させるばかりか、天を揺るがす絶大な力を手にすることになるだろう」
神の周囲の空気が激しく渦巻き、恐ろしいほどの圧力が狐を押し潰す。
「我が試練を突破せよ。さすれば傷を癒やし、相応の力を与えよう」
神の宣誓は、絶望の淵にいた狐にとって、唯一の蜘蛛の糸だった。
しかし、神の笑みには邪悪とも言える愉悦が混ざっていた。
「……ただし、お前のような弱い狐が正面から挑めば、最初の試練で確実に命を落とすだろうな。試練の地には、お前など一呑みにする化け物や、理を超えた怪異が蠢いているのだから」
「そんな……わしのようなショボい狐に、どうしろと言うんじゃ……!」
狐は叫んだ。尾を震わせ、泥に顔を押し付けながら。
「己で考えよ」
神の声が遠ざかっていく。
「力で勝てぬなら、どうする? お前が得意としていたものは何だ? 人間を驚かせ、騙し、化かしてきた……その薄汚い知恵とハッタリだけが、お前の唯一の武器であろう」
光が急速に収束していく。神の姿が消え去ろうとしていた。
「最初の試練の地は、この山道を下った先にある『底なし沼』だ。そこには猛毒を撒き散らし、周囲の村を脅かす多頭の大蛇が巣食っておる。……さあ、行くが良い。化け狐。死にたくなくば、その頭を絞り尽くして見せよ」
眩い光が弾け、周囲の風景が一瞬で塗り替えられた。
雨の降る静かな山道は消え去っていた。
代わりに広がっていたのは、ねっとりとした濁った泥水が泡を立て、鼻を刺すような硫黄と腐臭が立ち込める、おぞましい沼地だった。
立ち込める毒気に、呼吸をするだけで胸が焼けるように痛む。
そして、沼の奥深くから――ズズズ……と地響きのような音が聞こえてきた。泥の中から現れたのは、家ほどもある巨大な蛇の首。それも、一つではない。無数の眼光が、血の匂いを嗅ぎつけて小狐へと注がれる。
「ヒッ……!?」
狐は腰を抜かしかけた。
圧倒的な死の気配。真っ向から戦えば、一瞬で噛み砕かれ、毒でドロドロに溶かされるのは明白だった。身体はまだ激痛で悲鳴を上げている。妖力も一 fast、一本の尾にわずかに残るのみ。
だが。
「……ハッ」
狐の口元が、わずかに引きつった。
恐怖で全身の毛が逆立っていたが、その奥底で、泥臭い執念がギラリと火を噴いた。
(舐めおって……神め……! わしを誰だと思っているんじゃ!)
山道で人間を化かし、へラへラと生きてきた小狐だ。正攻法など知ったことか。武士道も名誉もない。生き残るためなら、どんな手でも使ってやる。
「わしは……こんな泥沼で死んでたまるか……! 化かしてやる……大蛇も、この世の全ても……そしてあの神すらも、わしの化け術で根こそぎ化かして見せるわ!!」
一本の尾をピンと立て、小狐は毒の沼へと一歩を踏み出した。
こうして、己の命と意地をかけた、ショボい化け狐の大バクチ――神の試練を巡る壮大な化かし合いの旅が、今、幕を開けたのだった。




