姫川家の事情
その週の金曜日。
帰りのチャイムが鳴り終わる頃、さくらは珍しくすぐ帰り支度をしていた。
いつもはのんびりしているのに、今日は落ち着きがない。
ユウはその様子が気になって仕方なかった。
「姫川さん、今日急いでる?」
声をかけると、さくらは一瞬だけ目を泳がせた。
「う、うん。ちょっと家の事情で……」
「送ろうか? 家、あっちの海沿いのマンションでしょ」
「だめっ」
予想外の強い声。
さくらはハッと口を押さえ、俯いた。
「……ごめん。ユウくんには……来ないほうがいい」
なぜそこまで拒絶するのか。
けれど、その理由を今は聞けなかった。
「わかった。でも、困ったら言って」
そう言うのが精一杯だった。
さくらは小さくうなずき、急ぎ足で帰っていった。
後ろ姿は、何かから逃げているように見えた。
ユウは胸のざわつきを抱えたまま帰路についた。
しかし、その夜、偶然すれ違うことになる。
海沿いの帰り道。
マンションの前で、ユウは聞き覚えのある声を耳にした。
「どうして勝手に学校を休んだり遅れたりするの?」
怒っているというより、焦っているような女性の声。
さくらの母、アズサだった。
そして、それに答える弱い声。
「今日だけ……どうしても、ちょっと……」
「さくら。わたしたちはもう、これ以上問題を起こすわけにはいかないの。あなたが誰かと近づくことが、どれだけ危険かわかってる?」
危険。
その単語に、ユウの胸が跳ねた。
「……わかってる。でも、わたしだって……普通に学校に行きたいよ。友達だって……」
「友達なんて必要ないわ」
アズサの声が冷たく響く。
「あなたは“また”巻き込まれる。それはもう繰り返しちゃいけないのよ。わたしたちも、周りの人も全部」
さくらの肩が震えるのが遠くからでもわかった。
「……わたしのせいじゃないよ。でも、わたしのせいなの?」
アズサは何も言わなかった。
沈黙だけが海風に混じった。
言えない秘密。
誰かを巻き込む危険。
さくらの距離の理由は、明らかに家庭にある。
ユウは迷った。
けれど足は自然と動いていた。
「——姫川さん!」
アズサとさくらが同時に振り返る。
二人とも驚いた表情だった。
「王子寺……くん?」
アズサが警戒したようにユウを見る。
「ごめんなさい。聞くつもりじゃなかった。でも——」
ユウはさくらを見た。
「さくらに何かあったなら、俺にも言ってほしい」
言った瞬間、アズサの表情が強張った。
「あなたには関係ないことよ。わたしたちは、もう静かに暮らしたいだけなの」
「でも——」
「さくら」
アズサはさくらの手を引き、ユウから遠ざけるようにマンションの中へ連れていく。
「もう誰かと関わっちゃだめ。とくに——あの子は」
その視線は鋭かった。
まるで、ユウが“危険な存在”であるかのように。
ドアが閉まる直前、さくらとユウの目が合った。
さくらは泣きそうな顔で、けれど声を出せずにドアを閉めた。
パタン、と軽い音が響く。
ユウはしばらくその場に立ち尽くした。
海の波の音だけが、静かに寄せて返す。
さくらの家には、秘密がある。
それはただの引っ越し癖なんかじゃない。
誰かを巻き込む危険。
関わってはいけない理由。
アズサが最後に言った言葉が、ユウの胸に深く刺さった。
——とくに、あの子は。
なぜ自分だけ特別に拒絶されたのか。
理由はわからない。
けれど、その分だけユウの決意は強くなる。
「……逃げない。絶対に」
海風が吹く中、ユウはひとり拳を握りしめた。
さくらの秘密に、一歩踏み込んでしまった。
もう後戻りはできなかった。




