ユウの過去
さくらが保健室で休んだ次の日。
教室に入ってきた彼女は、昨日よりずっと元気そうだった。
けれど、目の奥の影は薄くない。
「昨日はありがとね、ユウくん」
そう言って微笑むさくらに、ユウは胸が締めつけられる。
礼を言われるほどのことじゃない。
むしろ、もっと手を伸ばしたいのに、それを許してもらえていないような感覚が残っていた。
昼休み、ミナミがパンを片手に近寄ってくる。
「ユウ、さくらちゃんのこと、本気だよね?」
「……え?」
「昨日の放課後の様子、見てたんだよね〜。すっごい心配してたじゃん」
からかう声じゃなかった。
ミナミの表情は真剣だった。
「ユウ……あんた、昔と同じになりそうでちょっと怖いんだよ」
昔。
ユウはその言葉に、呼吸を一瞬忘れた。
「……そんな顔しないで。別に責めてるわけじゃないの」
ミナミはパンを机に置き、少しだけ声を落とした。
「無理しないでよね。誰かに嫌われたくないからって、全部自分が背負うの」
その言い方は、痛いほどに図星だった。
ユウが「王子ちゃん」と呼ばれるようになったのは、中学の頃からだ。
整った顔立ちのせいだけじゃない。
いつも誰にでも優しくて、怒らなくて、頼まれたら断らなくて、問題があったらすぐに動く。
完璧な優等生。
優しい王子様。
誰もがそう言った。
でもそれは、ある出来事をきっかけに作られた「仮面」だった。
――中学一年の夏。
ユウのささいなミスで、クラスの誰かが少し傷ついた。
ほんの些細なことだったのに、いつの間にか誤解が広がり、責められた。
「王子寺のせいだろ」
「謝れよ」
「じゃあお前が全部やれよ」
その時感じた孤独は、今も胸に残っている。
その日以来、ユウは「嫌われるかもしれない」という恐怖から、誰にでも優しくするようになった。
完璧でいれば、嫌われない。
自分が我慢すれば、誰も傷つかない。
そんな生き方が当たり前になってしまった。
ミナミはそれを知っている。
ずっとそばにいた幼なじみだから。
「ユウ、あんたさ……誰かに優しくする前に、自分のこと大事にしなよ」
その言葉に、ユウは俯いた。
「たしかに、俺は……無理してたのかもしれない。でも、さくらのことは違う。放っておけないんだ」
ミナミは息を吐いた。
「ならいい。ちゃんとそう言い切れたならね」
そのとき、さくらが教室に戻ってきた。
ユウを見ると、ほっとしたように微笑む。
でも、その笑顔の奥にある影は、ユウの心をまた引き寄せた。
放課後。
ユウは机に忘れ物を取りに戻った。
すると、神代先生が教室で書類を整理していた。
「王子寺、少し話せるか?」
突然呼ばれ、ユウは一瞬だけ緊張した。
「君は、いつも周りをよく見て動いてるな。先生としては、とても助かるよ」
「そんな、普通ですよ」
「普通ならいいんだが……君は必要以上に頑張りすぎている」
神代先生の声は穏やかだったが、核心を突いていた。
「人に優しくするのはいいことだ。でも、自分を犠牲にしすぎるのはよくない」
ユウは言葉を失った。
なぜ先生は、こんなに正確に自分の内側を言い当てるのか。
「姫川さんのこと、気にしているんだろう?」
ユウは驚いて顔を上げる。
「放っておけない気持ちはわかる。だがその子には、まだ誰にも言えていない事情がある。君が全部背負おうとすると——また同じことになるぞ」
また同じこと。
中学の時の苦しさが胸に蘇る。
けれど、ユウの答えはひとつだった。
「……それでも、俺はさくらを支えたいです」
神代先生はしばらくユウを見つめ、最後に小さく微笑んだ。
「君がそう決めたなら、止めない。ただ、絶対に無理はするな」
その言葉に、ユウは深く頷いた。
学校を出ると、夕焼けが海に溶けるように沈んでいた。
オレンジ色の光が学校の壁を照らし、長い影を伸ばしていた。
ユウはゆっくりと息を吸い、胸の奥に決意を刻む。
さくらが何を抱えていようと、逃げない。
たとえ昔の痛みが蘇っても、今度は自分から距離を置かない。
――王子ちゃんは、お姫様を守りたいと思った。
その気持ちは初恋の甘さよりずっと深くて、そして少しだけ苦しかった。




