シェルン教授との契約
目の前に、ダンケ・シェルン教授がいる。
たったそれだけの事実を、ノニエの脳みそは処理しきれずにいた。
教授から手紙が届いて、それだけでも胸がいっぱいだった彼女にとって、実物と会えるだなんて想像にもしていなかった。思えば「手紙が届いた」という出来事も、たった2日前のことなのだから、心も身体も追いついていなくて当然だった。
「え、あ。あれ?なん、で?」
「3度目の質問だ、君は誰だね?それとも言葉を介さぬ獣なのか?」
シェルン教授は、眉根ひとつ動かさず真顔で問いかける。ノニエは動転する気を抑えるように、深呼吸をして、答える。
「......私は、ノニエ・ノーヴェンと申します。事情があったとはいえ、無断で敷地に立ち入るという非礼をお許しください」
「してノーヴェン。この城をどうやって見つけた?探知避けの護紙をあしらっていたのだ、よっぽどの術師でも解けないはずだが」
「それは、私にもよくわからないのです」
シェルン教授の気怠げな目を見ていると、なんだか全てお見通しのような気がしてくる。並外れた知識人特有の、ある種、人を見下す目をしている。彼の前で嘘など無意味に思えた。
「お恥ずかしながら、家の事情でトラブルに巻き込まれておりまして...あと一歩で楽園の扉を開いていたであろう時、すんでのところで紙鳥を折ることができ、命からがら抜け出してきたのです」
「あなた様の城を、どう見つけたかというと...ただ逃げることに必死でしたので、皆目見当もつきません」
すべて、本当だ。
紙鳥を折る瞬間、ひとつ願いごとをしたのであるが、それは黙っておいた。
「ふん.....。紙折りには未知の効果が五万とあると聞く。逃げたいというお前の願いと、その手紙の元持ち主のニオイが合わさってしまったのだろうな」
そう言うと、教授は右手のひらを天井に向け、二度手招きした。すると、ノニエの懐に大切に収められていたはずの「手紙」がするりと宙を舞い、教授の手のひらへと着地した。
「あっ!わ、私の...!」
「元を辿れば私のものだ。ただの気まぐれで送ったが、城を探知するきっかけになってしまうのであれば、回収せねばな」
「ダメです!」咄嗟に大きい声が出た。アマリウスにだって、決して声を荒げなかったノニエだが「宝物がなくなってしまうかもしれない」と思うと、自然と声が出た。
「...あなた様にも、あなた様のご都合があることを重々理解しております。それを破ることはしたくありません。ただ、その手紙が一度私の手元に渡った以上、財産としての所有権は私に移っているといっても過言ではありません。」ノニエはシェルン教授の琥珀色の瞳を、真っ直ぐ見つめながら続ける。
「子どもにあげた誕生日の贈り物を、次の歳に取り上げる大人がいますでしょうか?今の所有者に無断で処分をすることは、金銭での賠償だけでなく、私の名誉に関わる問題でもあります」
「......ふむ」反論されたのが意外だったのか、シェルンは初めて目を見開いて表情を変えた。
「それもそうだな。だが、この城の在処を知った人間を、野放しにしておく訳にはいかない。口外しない、なんて口約束を当てにする気もない」
そう言うと、次は左の手のひらを天井に向け、今度は一度だけ手招きした。すると、書斎のデスクがガタゴトと音を立てたかと思うと、一枚の紙切れがシェルンの手元に吸い寄せられるように、飛んできた。
「契約書だ。古典的だが、口約束より遥かに有用だ。ここにサインしてもらおう」
シェルンが紙切れを、ノニエの眼前に差し出すと、そこには既にいくつかのセンテンスが記されていた。
(第一項)ノニエ・ノーヴェンは、灰冠城の所在を他言しない。
(第二項)ノニエ・ノーヴェンは、当主ダンケ・シェルンの許可なく城外に出ない。
(第三項)ノニエ・ノーヴェンは、灰冠城での滞在の対価として労働を提供する。
「ーーーー以上、ですか...?」
「ああ、たったこれだけだ。実にシンプルで、凡人にも理解が容易だろう」あまりに一方的で横柄な契約書に気を取られて、ノニエは自分が「凡人」と形容されたことにも気づかなかった。
(...第一項は、まあ理解できるとして第二、第三は単なる嫌がらせとしか思えないわ...。あえて飲めるわけがない条件を出して、手紙を回収しようってつもりかしら?それとも、貴族の小娘は、考えなしにサインするだろうと馬鹿にしてるのかしら...?)
「さあ、サインしたまえ。もちろん無理にとは言わないが、であれば、その手紙は置いて出ていってもらおうか」ノニエの推測は概ね当たっていたようだ。
(若い女だからと下に見られたものだわ、誰がこんな奴隷契約結ぶっていうの......ん?)
「あの...質問なのですがこの<灰冠城での滞在の対価>というのは、この城で滞在する場合、食べ物なり、何なりをいただける......ということでしょうか......?」
「......餓死にされても後味が悪いからな。最低限の穀物はやろう」
ノニエは今一度、この城の外観と、先ほど通った大広間を思い出す。空の上に浮かび、太陽の光を一身に受ける城。ステンドグラス越しに差し込む光。かつて住んでいた、霧中の牢獄とは正反対の、晴々とした日々が想像できた。
(というか、そもそもアマリウス城には戻りたくないし、かと言って生家に戻れば、アマリウスにばれて連れ戻されるのは時間の問題...。ここにいれば、「行方不明」のまま、家族にも迷惑をかけずにいられる)
もう一度、顔を上げて目の前の老紳士を見る。
(何より、この城は、かのダンケ・シェルン教授の根城。もしかしてだけど、研究の様子も、少しは見ることができるんじゃないかしら...?)
今の限界状態に置かれたノニエにとって、これ以上の機会はなかった。
「あの、サインします」
「......今後一生、城下に出られない可能性もあるぞ」
「はい、大丈夫です」
「昼夜問わず、私がベルを鳴らせば屋敷妖精のようにこき使われるのだぞ」
「はい、問題ございません」
「掃除、洗濯、炊飯だけでなく.....」
「あ、大丈夫です」実際、アマリウスの横暴に長年耐えてきたノニエにとっては、目の前の無愛想だが行儀は良さそうな老爺から、何を要求されても耐えられる自信があった。
(この人は、物には当たらなそうだし、暴力もできなそうだ)
シェルンの反応を聞くまでもなく、契約書を奪い取り、指でそっと自分の名前をなぞると、光を帯びた金文字が浮かび上がる。
ーーNonie Noven
契約書は紙全体を黄緑色に光らせると、そのまま溶けるようにノニエの体内へと流れ込んできた。
「契約、完了ですね」
本当にサインするとは、予想外だったのだろう。どうやら本気で、彼女のことを城下町の流行り物大好きな鈍感なご令嬢だと思っていたようだ。呆気に取られるシェルンを尻目に、ノニエは続ける。
意地悪なやり取りをしようとも、目の前の人は、憧れのシェルン教授その人。
「それで、一番大切な質問なのですがーーーー教授、助手はご入用でしょうか?」
雑用係で終わる気はなかった。




