【第七話】ファーストキス
「澪……?」
告白をするつもりだった放課後。
知らない男とキスをしていた澪は、光を失った瞳で俺の方を見た。
そして、相手の男は、澪の唇から離れた自身の唇を、俺に見せつけるようにペロリと舐める。
「ま、おくん、これ、は……」
「あれ〜君が真緒って子?へぇ」
男はずかずかと近づいてきて、面白いものを見るような視線を向けてくる。
思わずギロリと視線を返すと、「おぉ怖い」とわざとらしく言われる。
こっちは、怖いって言われるのはとっくに慣れてんだよ。
「それで、何?お前は誰?」
「商業科の二年。そこの泥棒猫と同じ中学だったの」
「泥棒猫?」
澪はすっかり魂の抜けたような顔をしていた。
その目がどこを見ているかもよく分からない。
「あぁ、やっぱり真緒くんは知らないんだね?」
そいつはいやらしく肩を組んできて、こう言ったんだ。
「澪は、他人の彼氏を奪うゲイだって」
「……は?」
「中学では有名だったぜ。一つ上の先輩の女が、彼氏と澪がヤッてるとこに遭遇したんだよ。つまり、他人の彼氏を寝取ったってわけ」
「……!」
「浮気は浮気だけどさぁ、ストレートの男がハマるほどの魔性の男ってことで、裏では話題になったわけよ。実際、何人かはヤれたらしいし」
「……お前は、そんな目的で会いに来たのか?」
「なにその自分は違いますって言い方〜……真緒くんだって、一回抱きたいと思って近づいたんでしょ?」
その言葉を聞いた瞬間、俺の中でプツンと何かが切れた。
そいつの胸ぐらを掴んで、何度も怖いと言われてきたこの目に、身体中から湧き上がる怒りを全て集めて睨みつけた。
「んだよ、そんな怒んなって、」
「お前、二度と澪の前に現れんな」
「っ……」
致命傷を負わせることができるのではないかと自分でも思うほど、深く鋭く突き刺さる視線を浴びせた。
そいつが針山に串刺しになったように固定されている間に、俺は放心状態の澪の腕を掴んで教室を出た。
「っ……真緒くん、痛い……」
力加減などする余裕はなくて、澪の細い腕を強く掴んだまま空き教室に入り、内側から鍵を閉めた。
「っ、真緒く、ん、っ、」
お腹の底からぐつぐつと煮えたぎるのは、誰に対するなんという感情なのか。
怒り?嫉妬?憎しみ?
この世にある言葉で言い表せるのか分からない。
自分でコントロールしきれない。
「まおくん、っ、」
今、ひどく傷ついた顔で涙を流す澪にするべきことは、優しく抱きしめてやることなのに。
過去に澪の肌に触れ、キスをして、繋がって、まだ俺も知らない澪の表情を好きなだけ見た男がこの世に存在するということが、どうしたって許せない。
澪が戸惑うのも抵抗するのも全部無視して、窒息しそうなほど激しく長く深く舌を絡めた。
制服の下から手を這わせ、薄い身体の敏感な部分にも触れた。
どんなに暗く恐ろしい感情に襲われていても、生理的に興奮した身体が示す反応は変わらない。
俺も、澪も。
一緒に吐き出したところで、お互いの感情が爽やかに昇華されることなどないと分かっているのに、手を止めることはできなくて。
「っ……」
べっとりと汚れた手に、「ほら、やっぱりもっと苦しくなった」と言われているようだった。
ティッシュで幻聴ごと拭い取れたらいいのに。
息が上がった澪の服を最低限整えると、澪は虚な目のまま小さな声で「ありがとう」とだけ言って、ふらふらと教室を出ていってしまった。
追いかけたところで、きっとまた澪を傷つけることしかできない。
だって、今の俺ときたら……
「澪のことを知りたい」とか言っておいて、不意打ちだったとはいえ、いざ知ったら激昂して。
澪自身の口から何も聞かないまま、自分のドロドロした感情を全部ぶつけた。
最低だ。
愛してる子にすることじゃない。
でも、愛していなかったら、こんなに昂ることはない。
昂っても……死ぬ気で抑えるべきだった。
翌日から、澪は学校を休んだ。
◇
◇
◇
「澪くん、もうお休み四日目だね」
昼休み、黒板の欠席欄を見ながら、梓が呟いた。
「あれ、そういや、今日テスト範囲発表じゃん」
そう、郁人の言うとおり、今日は中間テストの範囲が発表される日だ。
しかも、金曜日。
だから……
「真緒、澪に色々届けてあげたら?」
「そうそう。範囲表も授業のプリントも、土日挟むのは可哀想だし」
うん、そんなの分かってる。
こんな状況じゃなければ、何の迷いもなく澪に連絡を入れて、家まで見舞いに行っただろう。
「……住所、聞けない。今、俺に会いたくないと思うから」
二人には何も話してないけど、何かあったことにはとっくに気づいているだろう。
プリントを届けたら、なんて提案してきたのも、澪と話すきっかけを俺に与えてくれようとしたのだと思う。
「……詳しいことは分からないけどさ、ちゃんと話した方がいいよ、真緒」
「郁人……」
「俺と梓も、今は落ち着いたけど、大喧嘩したこと何回かあってさ……話すの先延ばしにしたときほど、やっぱり元に戻るのに時間かかったから」
「……!郁人たちが喧嘩って、あんまり想像つかないな……」
「喧嘩したり、気まずくなったりして、それでも今、こうやって一緒にいるんだよ。だから、真緒くんたちも大丈夫」
ね?と梓が言うと、郁人も穏やかな笑顔で大きく頷く。
そして、右手を梓、左手を郁人が、それぞれぎゅっと包んでくれる。
伝わる体温の温かさに、思わず込み上げてくるものがあった。
「……二人とも、ありがとう」
「ちなみに、もう住所聞いたから、あとは行くだけだよっ」
「っ、それって、澪は梓が来ると思ってるんじゃ……」
「かもね。でも、澪くんもきっと、真緒くんに会いたいよ」
今は、梓の言葉を都合よく信じさせてもらうしかない。
このまま会わない、話さないなんて無理なのだから。
もう、澪は、絶対に俺の人生と切り離せない存在になってしまったのだから。
◇
◇
◇
昼休みから帰りのホームルームが終わるその瞬間まで、ずっと胸がザワザワしていた。
早く会いたいけど会いたくないような。
話したいけど話したくないような。
相反する感情が葉擦れのような音を立て、ひしめいていた。
けれど、走り出せば、そんなざわめきも忘れられるような気がした。
たかが半年、されど半年。
もう、澪との思い出が数え切れないほどあって、
澪の可愛い笑顔も、鈴を転がすような声も、甘えるような唇の重ね方も、大好きになってしまった。
繊細で美しい感性は、隣にいる俺の心を癒す。
優しく温かい言葉の数々は、過去の俺をも救ってくれる。
人と関わることを避けてきた俺の、
初めての友達で、初めての好きな人。
ちゃんと、澪の言葉を聞かなければ。
ちゃんと、俺の言葉を伝えなければ。
はやる気持ちのままインターフォンを押すと、明るい女性の声が迎えてくれた。
「はぁい」
「っ、はじめまして。澪さんのクラスメイトの、園田真緒です。澪さんが休んでいる間のプリントなどを届けに来ました」
「ああ!あなたが真緒くんなのね!ふふ、会えて嬉しい。わざわざ来てくれてありがとうね。澪、熱はもう下がってるから、あがっていく?」
「っ……!は、はい」
澪のお母さんは、澪によく似ておっとりした柔らかい雰囲気の人だった。
室内はちょっとしたインテリアがおしゃれで、澪が住んでいるイメージがすぐに湧いてくる。
「お茶淹れるから、少し待っててね」
澪のお母さんはゆったりとした動きで温かいお茶を淹れて、澪の部屋まで案内すると言ってくれた。
「澪ね、真緒くんとお友達になってから、毎日すごく楽しそうだったのよ」
「……!そう、なんですか」
「ええ。中学の頃、色々あってね、塞ぎ込んでいた時期もあったから……私も、とっても嬉しくて」
そこまで言うと、澪のお母さんは扉の前で立ち止まり、コンコン、と優しくノックをした。
「澪〜、真緒くんが来てくれたよ」
ガチャリと扉が開くと、まさに今起きたであろう澪が、ぽやっとした目でこちらを見た。
「へ……まおくん?ゆめ?」
「夢じゃないわよ、お茶淹れたから置いとくね。真緒くん、ゆっくりしてってね」
「っ、はい、ありがとうございます」
ぱたんと扉が閉まり、あっという間に寝起きの澪と二人きりの空間が完成してしまった。
澪の意識がはっきりするまで、俺も澪の部屋という特別な空間に慣れることに努めよう。
目をしぱしぱさせている澪が座るベッド。
整理整頓された木製の勉強机。
可愛らしいパステルカラーの本棚と、その上には……
修学旅行で澪が買った写真立てに、梓が撮ってくれた俺とのツーショットが入っている。
あの写真、俺も実は気に入っている。
「……まおくん、ほんものだ」
ベッドから降りて横に座った澪が、ぴと、と頬に触れてくる。
熱は下がったらしいし、よく眠れたからか顔色も良く、少しホッとする。
「本物だよ、澪。いきなり来てごめんね」
「んーん……嬉しい、真緒くん、会いたかった……」
ぎゅう、と腰のあたりに巻きつかれて、胸がじゅわりと熱くなる。
「……澪、ごめんね。澪の話、なんにも聞けなかったね」
頭を撫でると、お腹に顔を埋めた澪が鼻をしゅん、と小さく啜る。
「ううん……僕も、ごめんね。ずっとずっと、大事なこと全部隠して真緒くんに甘えてた。いつか話さなきゃって、分かってたのに」
「……あの話は、本当なの?」
「……ほとんどは、ほんと」
「っ……」
澪の口から真実を聞きたい気持ちは揺るがないが、やはり、苦しいものは苦しいな。
でも、俺はこの先何を聞こうと、全て受け止める覚悟でここに来た。
澪を失うことより苦しいことなど、この世に存在しないから。
「中学のとき、好きな先輩がいて……そういうこともしたけど、普通のデートもしてたし、僕は付き合ってると思ってたんだけど……」
「……見られたときに、初めて知ったの?」
「っ……うん……でも、先輩も、セクシュアリティについて悩んでたって、教えてくれて……ちゃんと、謝ってくれた」
「でも、噂が独り歩きして、あんなこと?」
「うん……ヤケになって他の人としたことはないよ。でも、裏では勝手に話を作られてたみたい……」
その一件があってから、澪は中学校での居場所がなくなってしまったらしい。
精神的に不安定な状態が続いた、と。
「失恋するのは、すごく辛いから……もう、恋したくないと思ってた。入学式で真緒くん見て、思わず一目惚れしたけど、違うクラスだし我慢できてた。でも……」
澪は俺の腰に抱きついたまま顔を上げて、潤んだ瞳で見つめてくる。
「真緒くんと同じクラスになって、毎日、目で追いかけちゃって……どうしても、真緒くんと友達になりたくて。クラスマッチの日、偶然二人きりになれて……話しかけちゃった」
「澪……」
「でもね……友達じゃ満足できなかった。一緒に過ごす時間が増えて、真緒くんの優しさにたくさん触れて、好きな気持ち、膨らみすぎて、僕、勝手にキスして……おかしくなっちゃった……」
ポロポロと涙を流して、ごめんね、ごめんね、と繰り返す澪の頬を、両手で包んで唇を重ねた。
「……まおくん……」
「澪。俺は澪が好きだよ。愛してる」
「へ……」
「顔も心も身体も、全部、可愛くて大好きなんだ。全部、愛してるよ」
澪の顔が、りんごみたいに赤く艶っぽく染まる。
ああ、本当に、可愛くてたまらない。
「……っ、僕、すっごい甘えるよ?」
「うん」
「い、いっぱい、デートも、キスもしたいよ?」
「俺はその先もしたい」
「っ……卒業しても、ずっと、一緒にいたいって、言うよ……?」
「俺は死ぬまで一緒にいたい」
迷わずそう言うと、澪は口をぱくぱくさせた後、さらに顔をかぁっと赤く染めて、ぽすんと俺の胸にダイブしてきた。
「……まおくん、すき……」
蚊の鳴くような声で可愛いことを言う澪は、照れて顔を見せてくれないから、耳の後ろを撫でてお願いしてみた。
「澪、顔見せて」
「っ……」
澪はぴくっと肩をすくめ、おずおずと顔を上げ、とろけるような甘い視線を向けてくる。
「……澪、俺の恋人になってくれる?」
きらりと瞳を煌めかせた後、澪は満開の桜よりも、沖縄の海よりも美しい笑顔を見せ、首を縦に振った。
「うん……!真緒くんの恋人に、なりたいです……!」
この日、何度も何度も触れた唇に、俺は恋人として初めての口づけをした。




