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【第三話】イエナイコト

澪と初めて唇を重ねたあの日から、もう数週間。

俺たちの日常には、当然のようにキスが入り込んでいた。


偶然二人きりになれたトイレの鏡の前、

意図的に二人きりになった空き教室、

以前から二人きりだった帰り道の曲がり角、


チャンスがあればすぐに、澪は甘えるような視線で口づけをしてくる。

俺はそれを受け入れて、澪の頭をそっと撫でたり、細い身体を抱きしめ返したりする。

そしたら澪は、頬をほんのり赤く染めて、まろやかな声で「真緒くん」と俺の名前を呼ぶんだ。 


俺は、そんな澪を思い出しながら、何度も一人で欲を発散させてしまうくらいには、澪の熱に浮かされている。

その度に自責の念に駆られ、胸が鈍く痛む。


このままじゃダメだ。

澪のことをもっと知りたいなんて言ったのに、今の俺はただ、澪の気持ちを利用して、静かに性欲を満たしているだけだ。

実際、澪のことを知るどころか……むしろ前よりずっと分からなくなっている。


俺は、ちゃんと、澪のこと知りたいと思ってるのに。

……なんて、言葉だけなら何だって言えるな。


「真緒くん、四人だって。どうする?」


「え?ごめん、何だっけ」


「自由時間のグループ、今から四人決めるんだって」


そうだ、今は、修学旅行の諸々の説明を受けていたところだった。

黒板を見れば、確かに二日目の自由時間は四人グループだと書いてある。


「え、どうする」


「ふふ、どうする〜」


周りはどんどんグループを作っているというのに、澪は呑気にニコニコしている。

ほんと、のほほんとしてるんだよな、澪って。


テストの課題がギリギリのときも、授業に遅れそうなときも、「なんとかなるよ」とのんびり笑ってる。

それで、実際になんとかなっているからすごい。

澪と過ごすようになって、不器用だった俺も、少し力を抜くことを覚えた気がする。



「ねぇねぇ」


「「!」」


澪と二人でぽけっとしていたら、突然声をかけられた。


「あ、あのさ、グループ決まった?」


「俺たち二人だから、あと二人探してて……もしよかったら、一緒にどうかなって」


誘ってくれたのは、俺が去年も同じクラスだった幼馴染コンビだった。

えっと、名前は……背が高くて茶髪の方が矢澤郁人(やざわふみと)、少し小柄で黒髪の方が吉田梓(よしだあずさ)だ。

二人は一年のときもずっと一緒にいた気がするし、本当に仲がいいのだろう。


「もちろん、二人がいいなら……澪も、いいよね?」


「うん!」


俺の後ろに隠れていた澪も、ちょこちょこと前に出てきて頷いた。

少し緊張しているのか、俺の服の裾をきゅっと掴んでいるけれど。


「良かった〜!真緒も澪も、よろしくね!」


「うん、よろしく」


「そうだ、チャットのグループ作っておこうよ」


梓の提案もあり、みんなでスマホの画面を見せ合いながら、チャットアプリで友達追加し合って……あれよあれよという間にグループができてしまった。

家族や澪以外のアカウントが画面に表示されるのは新鮮すぎて、しばらく慣れそうにないな。


「そういえばさ、真緒と澪はいつから仲いいの?」


「僕たちみたいに幼馴染?」


ごくごく自然な質問なのに、なぜか心臓がドキンと跳ねた。

こんな風に俺たちの関係性に触れられるのは初めてだったからだろうか。


「幼馴染じゃないよ、去年はクラスも別だったし……」


「五月のクラスマッチのときにね、僕が話しかけて、そこから仲良くしてくれてるんだ」


仲良く〝してくれてる〟って……。

なんか、引っかかる言い方だ。


「へぇ!じゃあ今年からって感じなんだね」


「うん……」


そのあとはすぐに別の話題になって、それ以上俺たちの関係が深く探られることはなかった。

ただ、澪が選んだ言葉遣い、そしてそのときの澪の寂しそうな瞳が、俺はずっと気になって仕方がなかった。





「澪」


「なぁに、真緒くん」


いつもと同じ帰り道。

俺が名前を呼ぶだけで、澪は嬉しそうに、ふんわりとした柔らかい笑顔でこちらを見る。


「今日、いつから仲いいのって聞かれたときさ、『仲良くしてくれてる』って言い方してたけど……なんで?」


「……だって、僕がすごく強引に、友達になってって迫ったから」


澪は伏目がちに、やけに落ち着いた声でそう言った。

はなからそこに再考の余地などない、というようなその姿勢に、俺はほんの少しの苛立ちを覚えた。


だから、澪の細い手首を掴んだ。

痛まない程度に優しく、けれど、俺の気持ちが伝わる程度には強く。


「真緒くん……?」


「俺は、澪と一緒にいたいから、ここにいるんだよ」


「……!」


「仲良くして『あげてる』なんて、一度も思ったことない。だから、もう……ああいう言い方はしないで」


澪の瞳は次第に潤んで、ついにはポロリと涙を溢したから、そっと引き寄せて抱きしめた。


「……澪、どうして泣くの。何が悲しいの」


「っ、違うよ……嬉しくて……」


しゅん、と鼻を鳴らし、震える声を出す澪の後頭部を、何度も何度も撫でた。


「……澪は、なんで俺と仲良くなりたかったの?」


「それ、は……真緒くんのこと、ずっと、好きだったから」


耳元でぶわっと熱く弾けるような言葉に驚いて、思わず澪の肩を掴み、瞳を覗き込んだ。


「……ずっとって……いつだよ」


「え……入学式のときから、かっこいいなって思ってたよ」


「は……かっこいい?俺が?」


「うん……」


入学式で一目惚れなんて、芸能人レベルの相手ならともかく、俺相手にそれはないだろ……って言おうと思ったはずなのに。

まだ水分量の多いきゅるりとした目は、まるで俺に見惚れているかのようにとろんとした熱を持つから……発言の信憑性が高まって、むやみに否定できなくなる。


「……俺、中学の頃、顔が怖いって言われてたんだ。だから、その顔を好きになってくれる人がいるなんて、考えたこともなかった」


「……真緒くん……」


澪は、先ほど俺がそうしたように、心まで包み込むように抱きしめてくる。

そして、優しく唇を重ねてくれた。

いつもの甘えるようなものとは違い、俺の過去を受け止めて逆に甘えさせてくれるような、包容力の滲む口づけだった。


「……ありがとう、澪」


そう言って頬を撫でると、澪はふふ、と微笑んで、猫のように俺の手に顔をすり寄せた。


「ねぇ、澪」


「?」


「澪のことも、教えてね。キスだけじゃなくて……言葉でも、聞かせてね」


手を握って、できる限り優しい声で、表情で、そう話したつもりなのだけど、澪は不安そうな色を見せる。


「……澪のこと、もっと知りたいから。でも、急がなくていいよ」


頭を撫でて、サイドの髪を耳にかけてやると、澪は小さく「うん」と返事をした。

やはり、打ち明けるには相当な勇気がいるような何かを、澪は一人で抱えているのだ。


『僕のこと、好きになって』


『僕をもっと知って』


あれは、あの日零れ落ちた言葉は、きっと澪の本音。

本当は誰かに分かってほしい苦しみがあるのに、それがあまりに大きすぎるがゆえに、言葉がつっかえて喉から出てこないのだと思う。


俺は、いつになったら、澪が全てを曝け出せる存在になれるのだろうか。

今はまだ、そこへ届いていないということが……少し、悔しい。





修学旅行まであと一週間を切った、ある日の放課後。

澪が旅行用のスキンケアセットを買いたいというので、俺たちは寄り道してドラッグストアに来ていた。


「買いたいのありそう?」


「ん〜……あ、あった!」


澪はちまっとしゃがんで、お目当ての商品を手に取って見せてきた。


「へぇ、これ使ってるんだね」


「うん。真緒くんは?こういうの使う?」


「一応……こだわりとか全然ないから、安いの適当に選んでたけど」


「真緒くんは肌綺麗だから、そのままでも十分かもね」


肌、綺麗……。

また、これまで言われたことのないことを言われた。

澪が当たり前のように紡ぐ言葉は、俺にとって初めてのものばかりだ。


「真緒くん、まだ時間ある?」


「あるよ。見たいものあるの?」


澪は目をほのかに輝かせて頷くと、俺の制服の裾を控えめに掴んで歩く。

なんか……澪が、楽しそうで良かった。


「このあたりかな」


「ああ、ハンドクリームか」


「真緒くん、どんな香りが好きかなって」


「香り……」


好きな香りなんて、特に改まって考えたことがなかった。

どんな種類があるのかさえ知らない。

……あ、でも……


「俺、澪の匂い好きだよ」


「へ?」


「近くにいると、いい香りがする。何かつけてる?香りの名前とかは、俺には分からないけど……」


そこまで言うと、澪の顔がぽぽぽっと赤くなる。

俺は咄嗟に、周りに人がいないかキョロキョロと確認してしまった。

なんでだろう、やっぱりたまに、澪のことを誰にも見せたくないときがある。


「真緒くん……僕、いつも何もつけてないよ」


「え……っと」


「制汗剤は無香料だし、ハンドクリームはこれからの時期しかつけない」


「……じゃあ、なんで、」


なんで、と聞きながら、同時に、一連の発言の重大さに感覚的なところで気づいてしまい、若干の動揺が全身に走る。


「ねぇ、真緒くん知ってる?」


そんな俺にお構いなしに、澪は内緒話をするみたいに、耳元でいたずらっぽく囁いた。


「好みの匂いがする人って、遺伝子レベルで相性がいいんだって」


「っ……!」


「僕もね、真緒くんの匂い大好き」


耳の奥が甘くゾワゾワとして、肩が思わずピクリと跳ねる。

そして、まさに先ほど自分が好きだと述べた澪の香りが、追い打ちをかけるようにふわりと香ってきた。


「……結局、ハンドクリームどうするの」


ご機嫌な澪に尋ねると、一番気になっているという商品のテスターを手の甲につけて、嗅いでみて、とお願いしてきた。

澪の小さな手を鼻に近づけてみると、優しいローズの香りが鼻腔をくすぐる。


「いい匂いだと思うよ」


「ほんとう?じゃあこれ買っちゃおうかな」


「……俺も買おうかな。最近乾燥してきたから」


例年ならハンドクリームも安めのやつを適当に選ぶのだけど、せっかくだからと思い、澪と同じものを手に取った。


「ふふ」


澪は幸せそうな笑顔で身体を寄せてきて、小指と小指をきゅ、と絡めてくる。

お揃いのものを買うことは、澪にとって想像以上に嬉しいことみたいだ。


そのまま澪の小指をくい、と引いて、レジの方へと進む。

品揃えがいい分、結構広い店舗だから、幼稚園児だったら迷子になりそうだ。


「?」


ふと、澪が足を止めかけた。

澪の見ていた方向に、チラリと少しだけ視線をやると、そこにはゴムが陳列してあった。

すぐに目を逸らして歩き続ける俺に、澪は何を思ったのか、ストレートな質問を投げかけてくる。


「真緒くんは、アレ、使ったことある?」


「っ……ないけど……澪は?」


「……僕はないよ」


いや、だから、俺もないんだけどな。

もしかして、信じてもらえてないのか?

そりゃあ、この歳の男子なんて、買ってる奴も使ってる奴もたくさんいるだろうけど……俺には、全く縁がないものなのに。


『好みの匂いがする人って、遺伝子レベルで相性がいいんだって』


ふと、先ほどの澪の発言が脳裏をよぎった。

……相性って、そういう意味じゃないだろ。


不純な思考回路をかき消して、俺はレジに商品を差し出した。

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