拝み屋オボロの別条:夜雨、ひとしずく
「おや、そこのあんた。こんなところに、何しに来たんだい」
その声は、雨音の中から浮かび上がるように聞こえた。まるで水の膜の向こう側から届いたような、妙にこもった声だった。
お堂の軒先を借りるつもりで、逃げ込んだはずだった。足元はすでにぐしゃぐしゃで、視界は濡れた前髪と夜の雨に曇っている。
「まあ、そう慌てなさんな。あたしは悪さなんぞせんよ」
雨音が、うるさい。どしゃ降りというより、耳に張りつくような音だ。しとしと……ではない。
ぴちゃ、ぴちゃ、ざあ、ぴた……ざあ、ぴちゃ。
どこかの水路か、深いところから這い出す音にも聞こえる。
「ちょうどええとこに来てくれた。退屈しとったところでね。ほれ、そこの柱にでももたれてな。あたしの小噺にでも付き合ってくれやせんか」
お堂の中央、うす暗がりに誰かが座っていた。蝋燭も灯っていないのに、輪郭だけはやけにくっきりと見える。にもかかわらず、顔立ちはぼやけている。目が合っているのかすらも、はっきりしない。
「怖がらんでええ。話すだけ。あんたがここに来たのも、そういう縁なんやろうて」
ぴち、ぴち、ぴち……
床下から、水の滴る音がする。お堂の床は濡れてなどいないはずなのに。なのに、耳の奥にまとわりついてくるのは、――まるで水の中で、誰かが藻掻いているような、ぬるりとした音。
「この先の山と山の間に、昔、ちいとした村がありましてな。名前? 忘れましたわ。もう、地図にも載っとらん」
朧月の声は、どこか耳の奥で直接鳴っているように聞こえる。まるで、頭の中にじわりと水が染みていくような。
「その村では、“みずちさま”っちゅう水神さんを祀ってましてな」
「社なんて立派なもんじゃない。石塔がぽつんとあるだけで、あとは小さな祠と、桶に張った水。朝晩、それに水を供えて、ひとこと挨拶するだけ」
しん、と雨音が遠のいた。けれど代わりに、畳の目を水が這うような、ぬめりのある音が聞こえてきた。
「それでも、不思議と雨に困ったことはなかったんですわ。晴れすぎることもなく、降りすぎることもない。田畑は潤い、井戸は枯れず……人はそれを、“あたりまえ”やと思うようになってしもうた」
やがて、若い者は村を出て、残ったのは年寄りばかり。水神への祈りも、だんだんと省かれ、最後には、石塔を「邪魔だ」と言って壊す者まで出たという。
「もう、誰も見てへん。祈ったところで、なんも変わらん。そんなふうにして、社は失くなった。水は……いや、“水神”は、祀られんまま、そこに取り残されたんですわ」
その瞬間、ぴちゃ、という音がした。……近い。今度は、すぐ隣からだ。何かが、畳の上に立った気がした。けれど視界には、朧月の影しか見えない。
「その年の秋、雨が降り始めたんです。最初は、ただの長雨やと思われとった。けどね、止まらんのですわ。降って、降って、降り続けて、もう止まらん。山の上からも、地の底からも、水が湧いた」
声が、だんだん湿ってくる。低く、深く、鼓膜をじわじわ撫でるような声。……いや、違う。これは、声じゃない。水の音だ。水の底から、何かが、聞こえてくる。
「そうして村は、丸ごと沈んだ。家も、道も、人も、祈りも……石塔も、祠も、みんな、ぜんぶ」
雨音が、急にぴたりと止んだ。耳が詰まったかのように、世界が無音になる。
「でも、誰も怒ったわけやない。“みずちさま”はな、怒りなんかせえへん。あの方は、ただ――祈られたかっただけやのに」
その言葉の最後だけが、どういうわけか、水の中で誰かが囁いたように、くぐもって聞こえた。
「――けどね、誰も気づかんかったんですわ。水が溢れたんやない。村のほうが、沈み込んでいったんです」
呼吸が、少しだけしづらい。空気が湿って、重い。まるで肺の奥に、水が滲んでいるような感覚。
「そっち、足元。……濡れてきとらんかい?」
視線を落とす。畳の目が、にじんで揺れている。じわじわと、黒い水が染み出すように広がっている。
「――ほら、聞こえてきた。あの音……よう、よう聞いてみなはれ。あれが、“みずちさま”の歩く音ですわ」
ぴちゃ。ぴちゃ。ぴちゃ。
音が近づいてくる。自分のすぐ横を、誰かが歩いている気配。けれど、見えない。気配と、音と、水の匂いだけが――確かに“在る”。
「……さて。話は、これでおしまいですわ」
朧月が、ことりと指を鳴らす。それだけで、水音がふっと消えた。
「お付き合い、感謝します。こうして誰かに語ってもらえるだけで、みずちさまは少し、救われるんです」
「……あんた。ひとつだけ、教えてくれませんか。この寺の名前、なんて言うんですか?」
朧月はふっと笑った。灯りのない顔に、影のような笑みが浮かんだ。
「名前? ……忘れちゃいましたねえ。きっと、名前に意味はなかったんでしょう。“祀り”があっただけで」
「ここがどこか、って?」
ゆっくりと、朧月が立ち上がる音がした。それは、水の中から浮かび上がるような動作だった。
「ここですかい? ここは――」
「みずちさまの腹の中、ですわ」
その言葉を最後に、音がすべて消えた。
耳鳴りすらなく、ただ静寂が、そこに横たわる。
目の前の朧月の姿は、もうどこにもなかった。
……気づけば、雨は止んでいた。
ただ、床に並んだ足跡が一対。
片方は、自分のもの。
もう片方は――水に滲んで、消えかけていた。




