婚約破棄ですか?はい喜んで。だって僕は姉の代わりですから【コミカライズ】
清風そよぐ初夏、整備された庭の芝は躍動感に溢れ、植えられた花々は色とりどりに咲き乱れる。帝国貴族筆頭たるユルヴェール公爵家の屋敷の前には、百花繚乱の庭園が広がっていた。
そこを、一人の淑女が日傘を差して歩いている。誰かが見れば、まるで絵画のようだ、と褒め称え、感嘆するであろう光景だ。
だが、そんな状況にまるで似つかわしくない、声を荒げる男性がやってきた。
「メラニー・ローザ・タランティオン! これは一体どういうことだ?」
白いレースの日傘を差し、つばの広い帽子を被って庭を歩いていた淑女——メラニーのもとに、いかにも貴族然とした詰襟服のドミニクがやってくる。ハニーブラウンの髪は上品にまとめられ、体型をあらわにする流行のドレスではなく、名家の子女らしく古風なふわりとしたスカートが特徴的なドレスをまとったメラニーは、怒り狂ったドミニクの手にある一枚の写真に目がいった。
間もなく、ドミニクは乱暴にその写真をメラニーへ突き出す。それを見たメラニーは感心した。乗馬服を着たメラニーが馬に跨る姿が、少しボケているもののしっかりと写真には収められている。
「あら写真ですわね。よく撮れていますわ、技術の発達ってすごいのですね」
「とぼけるなよ、女が乗馬をするなどはしたない! しかも何だこの服は、どう見ても男装だろう! 性倒錯甚だしい、不愉快だ!」
ドミニクは古臭い感性を堂々と披露する。
確かに、乗馬は男性のすることだ。どこの国でも常識といえば常識だし、独力で馬を操れる女性はごく珍しい。ましてや、男性の服を着ることはドミニクの言ったとおりはしたなく、他人をまやかし、謀る行為だ、とさえ言われるものだ。貞淑な女性ならばあり得ない、そうだろう。
そのくらい、メラニーだって知っている。
しかしメラニーは笑顔で、傘をくるりと回す。
「ドミニク様」
「な、何だ」
「私が性倒錯者だとお嫌ですのね?」
「当然だろうが! お前みたいな異常者が婚約者だと知られれば、我がユルヴェール公爵家の名誉に傷がつく! 婚約を破棄されたくなければ今すぐ弁解に回れ!」
「なるほど、理解しました」
「改めるというのなら許してやっても」
メラニーはドミニクが肩に伸ばしてきた手を振り払う。
日傘を畳み、メラニーは——満面の笑みで、別れの挨拶を述べる。
「では、ごめんあそばせ。婚約破棄の旨、お祖父様にお伝えしておきますわ」
ドミニクにとっては、何が何だか分からないうちに、婚約者のメラニーが婚約破棄を受け入れて去っていった。ぽかん、と開いた口が塞がらず、しかしドミニクは一度吐いた言葉を飲み込むことはプライドが許さず、結局地団駄を踏んで屋敷に帰って行くしかできなかった。
ところかわって、タランティオン侯爵家の屋敷、当主ランベルトの執務室では、ソファに座って帽子と、鬘を脱ぐメラニーがいた。ハニーブラウンの後ろに流した短髪となったメラニーは、思いっきりため息を吐いて、低い地声を出す。
「お祖父様、ドミニクに婚約を破棄されました」
メラニーにお祖父様と呼ばれた初老の男性ランベルトは、片眉を上げて怒る。
「なーにが破棄された、だ。結婚に近づくのが嫌で破棄させるように仕向けたの間違いだろう」
バレていた。メラニーは舌打ちをする。
あの写真はわざわざタランティオン侯爵家の屋敷に写真家を招いて、メラニーの乗馬姿を撮らせたものだ。伝手を辿ってドミニクの手に渡るよう手配したのはもちろんメラニーで、その目的はランベルトの指摘どおり、ドミニクを怒らせ婚約破棄を口走らせるよう仕向けることだったのだ。
メラニーはやれやれ、と肩をすくめる。体型を誤魔化すために仕立てたドレスでも、さすがに窮屈だ。
「同性結婚は宗教上禁忌です。というか僕は女性が好きです、ドミニクなんか抱けません」
とても侯爵令嬢の口にするようなお上品な言葉とは程遠い、男言葉になったメラニーに対し、今度はランベルトがため息を吐く番だ。
「はあ、やれやれ。もう少し保つかと思っていたんだがなぁ、メルヴィン」
メラニー……いや、メルヴィンはどこ吹く風だ。
メラニー・ローザ・タランティオンは、メルヴィンの双子の姉の名前だ。弟であるメルヴィンと瓜二つの美女で、とある極秘の事情で遠く離れた外国にいるため、メルヴィンが代わりを務めていた。婚約者のドミニク・ユルヴェールとの付き合いもまた、嫌々ながらメルヴィンは数ヶ月メラニーの代役を務めてきた。
だが、我慢の限界が来た。というよりも、ドミニクが間抜けなことを言いはじめたのだ。
「メラニー、最近……何というか、とても淑女らしくなったな。美しさは以前と変わらないが、何かあったのか? 他の男どもがお前に見惚れていたぞ、俺も鼻が高いというものだ」
そう言って腰に手を回されたとき、メルヴィンは全身の肌が粟立つほどゾッとして決意したのだ。
こいつに襲われる前に、婚約破棄でもして離れなければ。
そしてメルヴィンの企みは成功し、婚約破棄に至る。己の美しさが恐ろしい。ついでにメラニーがドミニク嫌いでお転婆すぎたせいで代役のメルヴィンに惚れそうになったドミニクを正気に戻してやったのだ、そういうことにしておこう。
ただ、メルヴィンにメラニーの代役を命じた祖父のランベルトは、こうなることを一応予期していたようだ。
「ユルヴェール公爵家のことはまあいい。予定どおり別の令嬢とくっつける。年頃の娘のいるコルダンテ侯爵家に恩を売っておいた、根回ししておくから黙ってそっちで仲良くやるだろう。問題はだ、我が家だ」
メルヴィンは押し黙る。さすがにタランティオン侯爵家の現状が分かっていないほど放蕩者ではないし、馬鹿でもない。
「今、暗殺者の手にかかり負傷した皇太子殿下を隠し通せるのは、護衛を兼ねたメラニーだけだ。こんなこともあろうかとユルヴェールの小倅を隠れ蓑にしておいて正解だった、我が家と皇太子殿下との関係を怪しまれずに済んだ」
このたぬきジジイ、とメルヴィンは心の中でランベルトを罵倒した。
実は、メラニーは帝国皇太子クリスティアンの婚約者だ。しかしその事実を公にすることはできなかった、なぜなら皇太子クリスティアンは四六時中暗殺に怯え、皇帝以外の家族を信用することすらできない。諸外国、三人いる皇弟たちをそれぞれ推挙しようとする貴族たち、生母を含む皇妃たち、彼らはクリスティアンが未来の皇帝となることを、殺してでも阻止しようとした。あまりに激烈な暗殺未遂事件の数々に心を痛めた皇帝へ、帝国宰相ランベルト・タランティオン侯爵はこう進言した。
「陛下、ご安心を。我が孫娘は必ずや皇太子殿下をお守りいたします。そのためには結婚まで殿下の婚約者であることは隠しておいたほうが都合がよい、目立ちますからな。皇太子殿下を確実にお守りするため、皇太子殿下には暗殺者の目を引きつける囮となっていただきます」
お前の息子を守りやすくするためだから、囮にする。実の父親に対し、とんでもないことを言うものだ。確かに皇太子クリスティアンだけが狙われるなら、メラニーは自由に動ける。逆にメラニーが皇太子の婚約者だと知られれば、メラニー自身が狙われたり、タランティオン侯爵家にまで災難が降りかかる。メラニーが守れるのは皇太子一人が限界だ、ならば暗殺者たちの狙いを定めさせておくほうがいい。
判断は間違っていないが、人として間違っている気がする。しかし言っても詮ないことなので、メルヴィンは黙っておいた。
以来、メラニーはメルヴィンの格好をして皇太子のそばについたり、変装してメイドや貴族令嬢になったり、それはそれは八面六臂の活躍をしている。その合間にドミニクと婚約者らしく振る舞っていたというのだから、まったくもって祖父のせいで大変な思いをしてきた。それも皇太子クリスティアンが皇帝になるまでのこと、そのあとはメラニーも皇妃となって少しは安全な場所で伴侶と幸せに暮らせるはずだ。そのときまでもう少しなのだ、だというのに先日、皇太子は負傷し、メラニーの手で内密に他国へ運ばれた。負傷を帝国内の人間に知られるわけにはいかない、少しでも弱みを見せれば叩かれる。たとえ皇帝の後ろ盾があろうとも、油断するわけにはいかないのだ。
だから——メルヴィンはメラニーのために、協力している。こんなに苦労している姉が報われないのは嫌だからだ。理由なんてそれだけだ、女装して女として振る舞う男という屈辱的な状況を飲み込めるだけの理由が、そこにある。
「代々帝国宰相を輩出してきた名家タランティオン侯爵家として、皇帝陛下の勅命に背くわけにはいかん。何としてでも、将来の皇帝たる皇太子殿下とその妃たるメラニーを守るために、弟として頑張ってくれ、メルヴィン!」
勝手なことを言う祖父に、メルヴィンは苛つくことも多々あるが、これでも孫思いなのだと知っている。少なくとも、メルヴィンはともかくメラニーの幸せを願っているはずだ。多分。
「メラニーは元気なんですか?」
「ああ、もちろんだ。避難先のクレモラン公国はよくやってくれている。あそこにメラニーが皇太子殿下とともにいることは、まず漏れていない」
「それならいいんですが、皇太子殿下のご容態が安定してきたのなら、そろそろ帰国を」
「メルヴィン。我が帝国は大陸に覇を唱える国家だ、それだけに敵は多い。だからもう少し、敵の目を欺いておかなければならん」
メルヴィンは察した。祖父はまた新たに何かを企んでいる。
「メラニーの代わりに、次の隠れ蓑となる婚約者と会え」
「嫌ですー絶対嫌ですー!」
「そう言うな。ここで皇太子殿下から目を逸らす大きな話題を作っておけば、目眩しになる」
「そんなことで僕の貞操を危うくしないでください!」
「次の相手はハドリアーナ王国第一王子、リュカ殿下だ。いいな、憶えたな?」
「女装はもう嫌なんですけど!」
「あと少しだ! メラニーと皇太子殿下との結婚が公表できれば、お役御免だ!」
「リュカさんとやらも嫌なんじゃないですかねぇ! 振られるの前提じゃないですか! 絶対あとで外交問題になりますよ!」
「まあ、それはさておき」
「置かないでください!」
メルヴィンの必死の抵抗むなしく、結局ランベルトの企みは押し通されることとなった。
数日後、メルヴィンはドレスを着た淑女となって、ハドリアーナ王国ドゥカ宮殿前にいた。婚約者との面会、国王夫妻への挨拶、お見合いのようなものだが二週間ほど滞在しなければならない。ここまではハドリアーナ王国から迎えにきた金の飾りで彩られた馬車に乗って、二泊三日の旅だったが、メルヴィンの正体を知るメイドが三人ついてきてくれているおかげで、男であることはバレていない。ここにいるのはメラニー・ローザ・タランティオン、メルヴィンはそう思い込もうとしたが、よく考えればあのお転婆メラニーの本性を知っているだけに、真逆の大人しく貞淑な虚像のメラニーを演じることが正しい気がしてきていた。
ハドリアーナ王国は帝国の南にあり、それなりに暖かい国だ。海上交易で栄え、海の女王と名高い港湾都市イル・フィロッバーニ・グランデを擁している。また、開放的で洗練された芸術を愛する国、そんな側面も持っていた。
それだけに、暑いから着替えなさいだの、こちらのハドリアーナ風ドレスがお似合いですよなどと言われて、いきなり脱がされてバレるのではないか、という恐怖もある。
それを避けるためには——こうするしかない。
メルヴィンは宮殿前で出迎えた中年のハドリアーナ貴族に、作った声で挨拶する。
「お初にお目にかかります、メラニーと申します」
「おお、噂に違わずお美しい! これは失礼、ご滞在中の身の回りのお世話を担当します、コンリーゼ伯爵ジュリオ・ベルティーニです。お会いできて光栄です、メラニー様。ハドリアーナは暑いでしょう?」
「ええ。でも、私、肌が弱くて、日傘と帽子と手袋が手放せませんの。申し訳ございません、このような姿で失礼しますわ」
もちろん嘘だ。しかし日傘も帽子も長手袋もしている。とても暑い。それでも外に出ず、肌を晒さない理由を見せつけておかなければならない。
淑女が肌を晒さない正当な理由があるなら、紳士はそれに従うことが常識だが、さて、ハドリアーナではどうだろう。
幸いにも、ベルティーニは納得してくれた。
「なるほど、そうでしたか。それは大変だ。分かりました、使用人たちにはその旨を伝えておきます」
「お願いいたしますわ。日頃の肌の手入れなどはメイドたちに任せてありますから、手間をおかけすることはございません。でも」
ついでにダメ押しをしておこう、メルヴィンは演技に入る。
「このような肌をお見せするのは恥ずかしいので、できれば部屋にはあまり……入らないでいただけると、助かります」
これなら使用人を含め、ベルティーニも他のハドリアーナ貴族もできれば王族も滞在中の部屋に近づけないだけの理由になる、そのはずだ。その条件さえクリアできれば、メルヴィンの正体がバレる可能性は大幅に下がる。宮殿内の部屋ではなく別荘くらい貸してもらえればもっと楽だったが、それは贅沢なので我慢する。
ベルティーニは快活に笑った。
「はっはっは! 淑女の部屋に押し入るなど言語道断、リュカ殿下以外はそのようなことはいたしませんとも!」
王子殿下は部屋に押し入ってくるのか、とメルヴィンが不安を覚えたそのときだった。
宮殿の大きな鉄格子の門が開く。招き入れるためか、と思ったが、違った。
宮殿の中から、一人の美青年が現れたからだ。束ねた黒髪に中性的な美しさを持つ、劇場の俳優にもなれそうな男性だ。首元から胸にかけて涼しげな藍のショールを巻き、何とも洒脱な雰囲気をまとっている。
呆気に取られていたメルヴィンへ、やってきた青年が微笑んで声をかける。
「おっと。大丈夫かい? 驚かせてしまったかな」
メルヴィンは確かに青年の美貌には驚いたが、それ以上に鼓膜へ心地よく響くハスキーボイスにも驚く。これは異性が放っておかない、それどころか誰もが魅了されるような存在だ。そんな人物がここに現れたということは、大体誰だか察しがつく。
ベルティーニはメルヴィンへ近づく青年をさっと手で制して、咎める。
「リュカ殿下。何をなさっておられるのですかな?」
「何って、婚約者が着いたと聞いたから出迎えだよ、ジュリオ」
「まったく、なぜもう少し待てないのですか」
ベルティーニが呼びかけたリュカ殿下、目の前の青年は明るく笑って誤魔化す。
どうやら、リュカに対してベルティーニは咎められるだけの立場のようだ。しかし、リュカに気にした様子はない。
「いいじゃないか。さて、メラニー」
美しい青年、ハドリアーナ王国第一王子リュカは、メルヴィンの手袋をした右手を持ち上げ、軽くキスをした。
「挨拶が遅れたね。私はリュカ・ハドリアーナ。本名は長いから略式で失礼するよ。どうぞ、よろしく」
メルヴィンは悟る。こいつは厄介な相手だ、と。今まで女装をして散々人々を誤魔化してきた経験から分かるのだ、こういう得体の知れない遊び人風の男は、強引な口説きを躊躇わないし、しつこい。騙し切るには苦労する。
案の定というべきか、リュカはメルヴィンの顔に近づき、こうささやいた。
「肌が弱いんだってね。安心して、外では脱がせないから」
うわ、キザったらしい。いやそれ以前に脱がせるなどと公衆の面前で恥ずかしげもなく口にする、その言動は王子としてどうなのか。メルヴィンは思わず顔を逸らした。ベルティーニがとてもしかめっつらしい顔をしている、どうやらリュカのささやきが聞こえていたようだ。
当のリュカはベルティーニに叱られる前に身を翻し、メルヴィンへ一礼して宮殿の中へ戻っていった。あの逃げっぷりだと、叱られるようなことを言った自覚はあるようだ。
やれやれ、とベルティーニが苦労人ぶりを垣間見せる。
「ああいう方ですが、お気になさらず。普段は真面目です、ええ、あれでも勉学に関しては当代一流の賢人たちに学んでおりまして……あのようなことになぜなったのか」
メルヴィンはベルティーニに同情する。そして、メルヴィンは最終的にそのリュカを振ることになる以上、ベルティーニの受難は続くのだと思うと、その境遇に痛ましささえ感じてしまった。
拝啓お祖父様、僕はもう帰りたいです。
そんな手紙を送りつけたい思いを抑え、メルヴィンは毎日、リュカの口説き文句に耐えていた。
メルヴィンは初日にハドリアーナ国王と王妃に面会したのだが、形式的な挨拶が終わったあと、二人はメルヴィンにこう告げた。
「リュカは自由気ままなところがある。苦労するだろうが、しっかり捕まえておいてほしい」
「そうなのですよ。まあ、立場のせいで色々と縛られてきただけに、私たちは強く言えないの。甘やかしすぎたかしら」
国王と王妃は気のいい人たちだっただけに、メルヴィンは二人を騙すことになる罪悪感が湧いてきてどうしようもない。そしてリュカは両親に叱られないのをいいことに、宮殿では本当に自由にしている。
たとえば、海の見えるバルコニーへメルヴィンを招待すると言って無理矢理連れ出し、さらには街に繰り出そうとした。慌ててメルヴィンは日傘や帽子がないから、と引き留め、すると今度は踊らないかと誘ってきた。舞踏会でエスコートして踊るのかと思いきや、手本として見せられたのは庶民的なフォークダンスやタンゴだった。メルヴィンが正直に踊れません、と言うと逆に喜ばれた。
「これから覚えればいいんだよ。教え甲斐があるってものだ」
またある雨の日はメルヴィンの部屋に押しかけてきて、コーヒー片手に読書をしはじめた。何を読んでいるのかとメルヴィンが背表紙を覗くと、古代の舞台劇の解説書だった。それも悲恋ものだ。
「興味があるかい? 私は恋愛に関しては何でも好きでね、宮殿の図書室にある本はあらかた読んでしまった。新しい本が欲しいんだが、君のおすすめは?」
「そ、そうですね、北方のエッダなどいかがでしょう。帝国のように翻訳本があればいいのですけれど」
「へえ、それは知らなかった。そう言われてみれば神話にも恋愛はいくらでもある、北の異民族の、口伝の伝承も馬鹿にはできないか」
と、感心されてしまった。結局リュカはしばらく居座って、業を煮やしたメルヴィンが晩餐会の支度があるからとやんわり追い出した。
他にもまだある。どれもメラニーと思われているメルヴィンの関心を引こうとしているのだろう、何かと関わろうとしてくる。ただ、一線を越えることはなかった。そこは軽薄そうな雰囲気に反して律儀なもので、メルヴィンは安心したものだ。
しかし、そこまでされると、メルヴィンは申し訳ない気持ちになってきた。メラニーは決してリュカと結ばれることはない。いくら気を引こうとしてもだめなのだ、無益だ、無駄だ。そしてここにいるのはメラニーではなくメルヴィンだ。
だからどうか、これ以上口説こうとするのはやめてほしい。それがどうしても言えなくて、メルヴィンは次第に口数を減らしていった。
それをリュカはどう思ったのか、ある晴れた日の朝、メルヴィンの手を引いて、馬車へと乗り込んだ。行き先も告げられず、日傘と帽子と手袋を装備して、メルヴィンは黙ってついていく。リュカは何も言わず、馬車の窓から外を眺めていた。
まだ何かをするつもりなのだろうか。ここまで来ると、メルヴィンもうんざりしてきた。どうにか今から婚約を破棄できないだろうか、メルヴィンは色々と考えを巡らせてみるが、その間に目的地に着いてしまったようで、馬車が止まった。
リュカがメルヴィンの手を取って、馬車から降りる。
そこは、見渡すかぎりの丘陵地帯だった。青い草原が広がり、新芽の麦畑や糸杉の並ぶ街道が下に見える。牧歌的な風景に、海洋国家だと思っていたハドリアーナ王国の意外な一面を見たようで、メルヴィンは息を呑む。
すると、リュカは笑った。
「どうだい、気が晴れるだろう。君が思い悩んでいるようだから、遠出してみたんだ。何を悩んでいるんだい? 私にも言えないことかな」
心配そうな表情でそう気遣われてしまっては、メルヴィンもリュカをぞんざいに扱うわけにはいかない。
こんな一面もあるのか、とメルヴィンはリュカに対する評価を改める。ただの軽薄な男であれば、この風景の価値を見いだせはしない。そして口説きのバリエーションを増やしただけなら——この話にもついてはこれまい。
「殿下は、私が馬に乗れると、お嫌ですか?」
メルヴィンの突然の質問に、リュカは反応する。
「どういうことだい?」
「女性が乗馬を嗜むことははしたない、と前の婚約者に怒られましたの。乗馬のために女性が男性の服を着るなんて、性倒錯者だ、と」
それはとても保守的な考え方で、公爵家という高位貴族の家に生まれたドミニクは本当にそう思っていたのだろう。メルヴィンとて名家タランティオン侯爵家の生まれだ、そういう貴族の思想があることは承知の上だし、女装を強いられていることに抵抗がないわけではない。
だから、リュカがどう思うのだろう、もし嫌なら婚約破棄を考えてくれるのではないか。そんなことをメルヴィンは考えていた。
だが、驚くことにリュカはその話を聞いて、激しく憤っていた。
「そいつは馬鹿か? 男が女の格好をしようが、女が男の格好をしようが、個人の勝手じゃないか。ましてや乗馬だろう? 誰が男しか馬に乗ってはいけないなんて言った? どこの宗教にもそんな教義はないぞ」
——ああ、この人はきっと、女装しなければならない僕も男勝りなメラニーも馬鹿にすることはないに違いない。
それだけに、リュカと離れなければならなくなる未来が、とても悔しい。もし性別が逆なら、きっといい人だと思っていただろうから。
その思いは、メルヴィンの顔に出ていたらしく、リュカが戸惑っていた。
「どうしてそんな寂しそうな顔をするんだ?」
メルヴィンは頭を横に振る。
「殿下がそうおっしゃってくださって、少しは気が晴れました。戻りましょうか」
メルヴィンが踵を返す。
しかし、ヒールが地面から頭を出していた石の表面に蹴つまずいた。予想外のことに体勢を崩すメルヴィンへ、リュカが反射的に駆け出して支えようとする。
「危ない、メラニー!」
差し出されたリュカの腕が、メルヴィンの背中へ回される。間近に迫ったリュカの体に、メルヴィンは思わず抱きついた。どちらも体勢が悪かった、そのまま地面に倒れ込む。メルヴィンは庇ってくれたリュカのおかげで地面とのキスは免れたが——。
何だかおかしい。咄嗟にリュカの胸板に手が当たった。そのはずなのだが、妙に柔らかかった。男性の肉体とは思えない、その感触にメルヴィンは混乱して慌てて手を離し、地面に手をついて、体を起こす。真下にいるリュカが、目を逸らした。その恥じらう様子に、まさか、ととんでもない考えがメルヴィンの頭を過ぎる。
「ん? え? 殿下……あの、今の感触は」
起き上がったリュカは、目も合わせずに、馬車を指差した。
「メラニー、馬車の中で話そうか」
深刻な声色に、メルヴィンはこくこく頷くことしかできない。
馬車はゆっくりと進む。リュカが御者へ帰りは急がなくていいと言いつけて、それは話をする時間を設けるためだろうとメルヴィンは察した。
それでもしばらく黙ったままだったが、やっとリュカは口を開く。
「私は、女だ」
メルヴィンはそれを聞いてもみじろぎ一つしない。驚いていることには驚いている、しかし他人のことは言えない身分だからだ。その様子を見て、リュカは多少は舌が回りやすくなったようだ。
「本名はリュシエンヌ。リュカは男としての偽名。昔、病に倒れた祖父のために、父が長子は男だと偽ったんだ。そのほうが後継が生まれたと喜ばれたから」
リュカ——リュシエンヌは、苦笑する。つまらないことだ、と言いたげだった。
「祖父は病床にありながらもしばらくは生きて、それがずっと続いて、次第に私が女だと周囲へ言い出せなくなった。今も両親と一部の使用人や貴族以外は私が女だということを知らない。自由に振る舞っているのは、月のもので姿を見せなくなっても、あの王子は神出鬼没だから仕方ないで済ませるためだったんだよ」
どうやらすっかり、リュシエンヌはメルヴィンを女だと思っている。男として女性のデリケートな話題に反応することもできず、やはりメルヴィンは固まったままだ。
それが真剣に耳を傾けている、と好意的に受け止められていることは、メルヴィンは知らない。
「父と母は、それが申し訳なく思っているらしくてね。どうせ弟が国王になれば、私はどこかの貴族になって適当に生きられる……バラしたっていいくらい年月が経てば、自由になれる」
窓の外、どこか遠くを見て、リュシエンヌはそうつぶやいた。
リュシエンヌは、今は自由ではないのだ。リュカとして生きることは、彼女にとっては押し付けられたことで、ずっと自分を偽って演じてきた。そのつらさは、メルヴィンには理解できる。メルヴィンも幼いころからメラニーに成り代わって皇太子クリスティアンのそばにいたこともあるし、今もこうしてメラニーの代役を務めざるをえない状況にある。
ただ、リュシエンヌは、それでも結ばれないであろう婚約者を懸命に気遣っていた。
「すまないね。だから君とは結婚できない。それでもせめて楽しい思い出を作ってもらえればと思っていたんだが、上手く行かなかったようだ」
リュカの軽薄さも、口説き文句も、演技だ。堅苦しい空気を払って、異国にやってきた婚約者が場に親しめるようにとリュシエンヌによって配慮されたものだった。
それだけの厚意を向けられて、心苦しさが限界に達し、メルヴィンは黙っていることはできなかった。
「そんな悲しそうな顔をしないでくれ。君が悪いわけじゃない」
「そうではなくて」
「違うのかい?」
「……僕も、あなたを騙していたから」
メルヴィンは帽子を取る。鬘を固定していたピンを外し、やっと開放されたハニーブラウンの短髪を見せる。
「僕はメルヴィン。メラニーは僕の双子の姉だ」
衝撃の告白と、メルヴィンの頭を見たリュシエンヌは、開いた口が塞がらないとばかりに驚愕の表情を浮かべていた。普段ならしてやったりと思うところだが、メルヴィンは矢継ぎ早にこうなった事情を説明する。
姉のメラニーが皇太子クリスティアンと結婚するまでの代役を務めることになった経緯、そして帝国の殺伐とした内情。それを聞いたリュシエンヌは、顔を固くして、やがてこう言った。
「そんな事情が……」
「にわかには信じられないだろうけど」
「いや、弟の君が他国までやってきて代役をするほどなんだ。それだけメラニーには重大なことが起きているんだろう」
リュシエンヌの理解の早さは、自分の身に起きていた経験と重ね合わせてのことだろう。決して遊びではなくそこまでする逼迫した事情があるのだ、とリュシエンヌは真摯に受け止めていた。
リュシエンヌはため息を一つ吐いて、それからメルヴィンに向き直った。
「なあ、メルヴィン。私たちは似たもの同士かもしれないな」
「そうだね。初めてそんな人に会ったよ」
「私もだ。何だ、遠慮して損したな」
そう言う軽口も、あまり力がこもっていないし、笑いもしていない。
メルヴィンとリュシエンヌは、初めて互いの似通った秘密を知った。それゆえに、すぐに今後のことを考え、どうすることが最善か、理解してしまった。
それを口にしたのは、リュシエンヌだ。
「婚約は、メラニーが無事皇太子と結婚できてから解消しよう。それまでは偽りでも、私たちの関係は婚約者だ。共犯者、とも言えるかもしれないね」
互いのため、それがいいのだ。
メルヴィンは感謝する。
「ありがとう、リュシエンヌ。君のおかげでメラニーの名誉は保たれる」
リュシエンヌはにこりと微笑む。その意味が分からず、メルヴィンは首を傾げた。
リュシエンヌが身を乗り出す。
「なあメルヴィン、物は相談なんだが」
三年後、タランティオン侯爵家の屋敷から、メルヴィンは引っ越すことになった。
長兄がタランティオン侯爵を継ぐこととなり、メルヴィンは長年絶えていた親戚筋のイドリア侯爵家へ養子に出されることとなったのだ。帝国宰相だけでなく皇妃まで輩出した名家は、その権勢を拡大するためにイドリア侯爵となるメルヴィンを必要としていた。隠居しようとランベルトの企みはまだまだ続き、いずれはメルヴィンを皇帝となったクリスティアンの首席補佐官にしようとしているらしかった。
そんな思惑はさておき、メルヴィンは馬車の中で短い手紙を読む。
——親愛なるメル。先にイドリア侯爵領で待っている。
差出人である彼女は、もう自由の身だ。ハドリアーナ王国を離れ、三年間旅をしていた。その終着点として、メルヴィンの目的地であるイドリア侯爵領を選んだ。
メルヴィンがイドリア侯爵領に着けば、彼女はきっとこう言うだろう。
「待っていたぞ、メル。姉のメラニーではなく、君は私の婚約者であってもいいだろう?」
彼女が堂々と胸を張る光景が、ありありと目に浮かぶ。
すでにハドリアーナ王国は彼女を王女と認めたし、驚かれはしたもののハドリアーナ王国ではそれほど反発も起きなかった。あの美貌の第一王子は女性だった、だから何だ、と彼女に熱狂する男女がお祭り騒ぎを起こした。何かと開放的な国だな、とメルヴィンは呆れつつも好ましく思う。
彼女はどんな格好をしているだろう。男装のままだろうか、それとも女性の服を着ているのだろうか。どちらにしても、きっと似合っている。
侯爵夫人だからと言って、ドレスを着なければならない法律はない。
もちろん、メルヴィンはもうドレスを着るのはごめんだが。
このあと、メルヴィン・ローゼス・タランティオン・イドリアは、リュシエンヌ・ハドリアーナを妻に迎える。
二人が背負ってきた事情は、そっと秘密にされて、長い間公表されることはなかった。数百年後の子孫がメルヴィンの日記を見つけて公になるころには、世界はもっと自由で、奔放で、そんな話を受け入れられるようになっている。
ドミニクの考え方はココ・シャネルのころにあったものらしいよ。




