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ありふれて、特別な

作者: 早瀬 夏樹

 秋の涼やかな風が朱里あかりの頬を撫でて吹いていった。

 暮れてゆく秋が名残惜しくなって、「寄り道しようよ」と言ったのは僕だった。“寄り道”だったはずのそれはいつの間にか下校のコースから大幅に外れ、いつもは左に曲がるはずの交差点を右に曲がり、公園を越えて、小さな橋を渡って普段は殆ど訪れないような河川敷まで延長されていた。

 僕の唐突な思い付きに付き合わされた朱里は、最初こそ渋っていたものの今は僕の隣で晩秋の空気と景色を楽しんでいる様子である。

「山、赤いね」

 彼女はずり落ちかけていたスクールバッグを肩にかけ直しながら、うっとりしたようにそう漏らした。

 朱里に言われて初めてそちらに目を向け、広がる光景に思わず息を飲む。

 左手に流れる河の向こう側にある住宅街、そのまた向こう側。そびえる山は、所々茶色が混じっているもののまだまだ赤く、その頂上は茜色に染まった高い天に吸い込まれていきそうだ。水面は赤を写し込み、山の上方で輝いている夕陽をきらきらと反射させる。

 僕を圧巻するのには、十分すぎるくらい美しい情景。

 こんなものが、日常の中にあった。

「……そーだね」

 上手い言葉が見つからず、ただそれだけ呟けば、彼女は非難するような口調で「なにそれ。あんたにはこの美しさが分からんかね」と言いながら、僕の背中を平手でバンと叩いた。

「うるさい、いたい」

 そうではないのだと、別に造形に深い訳じゃないけれど人並みの感性は持ち合わせているのだと抗議しようかと思ったけれど、結局彼女におちょくられて終わるのが目に見えているので適当に流しておいた。

 つい最近まで忙しなく鳴いていた蝉たちはいつの間にか姿を消して、代わりに鈴虫や蟋蟀こおろぎが軽やかに美しい音色を奏でている。それに気をとられていた僕の隣で朱里は静かに口を開いた。

「――……夕焼けはさ、何色なんだと思う?」

 彼女は、唐突に、何の振りもなく意味不明な問いを投げ掛ける。どういうことだろうと、西の空を見る。どこからどう見ても疑いようもなく、赤く眩しい太陽。

「何言っているんだよ。そりゃあ……赤とかオレンジとか、そんなところだろう」

 大して思考することもなく、半ば呆れながら当たり障りのない返答をしたが、どうやら彼女は僕がどんな答えを出すのかなんてはなからどうでもよかったらしく、ゆったりと、勝手に一人で語りだした。

「ある哲学者はね、夕焼けは無色だって言ったの。そして世界も無色だって言ったんだよ」

「無色?」

「そう、色は私達、見る者がいないと消えてしまうって。私は納得したけど、そうじゃなければいいなと思ったわけよ。私達がいなくなったって、世界はカラフルであって欲しいなーってさ」

 彼女は、あははと笑いながら言う。

「……いきなり何だよ」

 明らかに説明の足りていない彼女の言葉が何を意図して、何を語ろうとしているのか推し量ることが出来ず、僕はただ一言そう溢すだけだった。朱里はもう一度僕の背中をばしりと叩いて、哲学してみたかったのーと、唇を尖らせていた。

 さっきの哲学はどういう意味なの、何で無色なの、と聞いてみたけれど朱里はまともに取り合ってはくれず、最終的には、自分で調べろよ、と何故だか僕が怒られてしまった。

 ゆっくりと進み続ける僕達は、左手に橋の架かった小さな交差点に差し掛かった。信号の緑色が明滅し僕達の足を止まらせる。気づけば随分と遠くまで来てしまったらしく、また普段は立寄らない地域ということもあって、周囲の景色にはほとんど見覚えがない。暫く待って、緑に戻った信号機を確認してからまた歩み出す。

 僕達はどこまで進み続けるのだろうか。どこに終わりがあるのだろうか。

 どこで、終わらせればよいのだろうか。

「――……で?」

 数秒間の完全な沈黙で時を隔てて、再び唐突に、彼女はそれだけ問うてあとは僕の返答を呆れたように待っていた。

「……いや、で、ってなんだよ」

 いくら小学生の頃から登下校を共にする幼馴染、いや、腐れ縁だと言ってもそれだけでは到底意図を図ることは出来ない。先程の話題が未だに続いているとは考えづらいので、恐らく新たな話題なのだろう、などと考えてみるけれど。

「だから、何でこんなお散歩に私はつき合わされているのかってこと。受験まであと数か月のバリバリの受験生はさっさと家に帰って英単語の一つでも覚えて、数学の一問でも解きたいわけですよ」

 朱里は山の向こうへとどんどん吸い込まれていく太陽を眺めながらも、僕を馬鹿にしたように大袈裟にため息をついた。

 さっきまであれほど乗り気だったのによく言うものである。

「別に、意味なんてないけど……なんか嫌味な言い方だな……」

「嫌味だからね」

 そう返答する事がさも当然であるかのようにさらりと言ってのけた彼女に、腹を立てたり無駄に傷ついてみたりはしない。僕の経験論が自慢げに語る。だってこういう時はいつだって決まって彼女はこう言うんだから。

 ――「嘘だよ」

 隣の彼女はふふっと笑って想像通りの言葉を紡いだ。

「知ってる」

「えー、つまんないの」

 朱里はわざとらしく頬を膨らませる。

 ――こんな風に。

 こんな風に、僕達はあと何度取り止めのない、身にならない雑談を交わしたり、冗談を言い合いながら登下校出来るんだろうか。違う学校に進めば当然家を出る時間も、学校へのルートも違う。

 そう、全く別のルートを進む。

 女々しいな、僕。

 でもいいや。

 何となく感傷的になりながら、それでも赤い世界に助けられながら僕は今日も彼女の隣を歩いている。

 朱里がふと何かに気が付いたように胸を反らして空を仰いだ。

「境界が……」

 それだけ呟いて黙ってしまった彼女の視線を追う。

 沈みかけた太陽は雲に溶けて海原のように拡がり、空の水面は世界を写し込んで僕達を寛大に受け入れる。東へ視線を移していけば画面は徐々にオレンジ色、白色、水色、青色、藍色へ滑らかに移行する。そしてそれらは留まることなく、刻一刻と色を変えていく。境界の失われた、高い、高い、空。

 無色ではない、色鮮やかな僕たちの世界。決して論理的ではない、ただの希望的観測であるが、それでも。

 ――そこに、光が満ちていないはずがない。

 ざぁっと、吹く清爽な秋の風が。優しく、それでも確実に、僕たちの不安を巻き込んでゆく、吹いてゆく。

「……来て、悪くなかったでしょ?」

 そう言って朱里の方を見れば、彼女は相好を崩して、うん、と呟いた。

 きっとこの秋はもう二度と訪れない

 まだ日の落ちきらぬ西の空の淡い藍色に、一番星が光った。


――……

「冬は天体観測でもするか」

「……だから受験生だっつーの」



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