キミのトナリ
今作は他サイト企画(お題:「疲れた…もうイヤだ…」という文章を使って書こう)参加作品です。
1.まえがき
「これ、帰ったら読んで」
いつもは”俺の著した物は読まないでほしい”と言っている彼が珍しく私に手渡したのは一冊の文庫本だった。
ベッドに入ってから、数時間前に受け取ったそれをバッグから取り出す。
タイトルは『君の隣』。男女の後ろ姿が描かれたきれいなイラストの表紙をめくった。
これって……。
読み進めると、ある男性の日記をもとに綴られた恋愛小説だとわかった。
そして、その主人公の恋人だった女性、それは紛れもなく私だった。
2.変わり果てた告白
五年前、私は同じ会社の先輩と付き合っていた。
「もしかしたらガンかもしれないってさ」
一瞬時が止まった。
食べていたすきやき鍋が卓上ガスコンロの上でグツグツといっている音、それが耳にしっかりと聞こえてくる。
「え……?」
目の前で、猫舌の彼がハフハフと本当に熱そうに口に入れた牛肉と格闘している。
今、君が言ったの?
自分が幻聴でも聞いたのかと疑うくらいに彼はいつもと変わらなかった。
そう、「ねぇ明日の晩ご飯なんにしようか?」って昨夜訊いてきたみたいに。
「だから~、ガンかもしれないって」
私の鋭い視線に気づき、お笑い番組でも見ているかのようにケラケラと笑いながら言った。
なんで笑ってるのよ。笑ってする話!?
「ガンかもしれないってどういうこと?」
彼に対して無神経さすら感じながらも、冷静さを努めて訊いた。
「うん。だから、そのまんまだよ。ウケるよな、俺がガンかもしれないって」
相変わらずゲラゲラと笑ってる。
「笑って言うことじゃないでしょ!」
思わず声を荒げてしまった。
「……うん、ごめんな。そうだよな、笑えないよな、普通」
だけど、それでもまだ彼は笑っていた。
その時のことが物語の冒頭に書かれていた。
一ヶ月前に受けた社内健診で精密検査を受けるように通知がきた。
上司から詳しい検査を受けろと再三言われ、渋々受けた検査で癌が見つかった。
確かに体調不良はその頃続いていたけれど、単に疲労だと思っていた。なんだかんだで俺も三十路。無理がきかなくなったんだろうな、ぐらいに悠長に構えていた。
検査結果をきくまでは、「やっぱり異常はないってさ」という言葉とともに、彼女にはプロポーズしようと思っていた。
それがプロポーズどころか、癌宣告することになるなんて。
病院を出るまでは気丈に振る舞っていたけれど、運転する帰りの車の中で涙が止まらなかった。
今後のこと、仕事のこと、そして彼女のことを思うと、ふがいなくて仕方がなかった。どこかで他人事だと思いたかった。
だから、その夜、彼女との夕食ではバカみたいに告げた、「ガンかもしれないんだって」と。
ガンだってことは確定だったのに、断言するのがこわかった。バカみたいに明るくしてなきゃ彼女の前で平常心を保てなかった。
だけど、かえって彼女を傷つけてしまった。
3.境遇を憂う
それから彼は治療のため、入院した。
その頃の私は自分のことばかりで彼のことなんてこれっぽっちも思いやっていなかった。
「三角! これ、どういうことだよっ」
同じ部署の先輩・矢野さんが烈火の如く怒って私に書類を投げつけた。
「誤字脱字は多いわ、計算ミスあるわ、相手の社名間違えるわ。こんなの新人でもやらねーぞ」
「すみません!」
ひたすら謝るしかなかった。
「ちょっと来い」
そう言って、矢野さんに連れてこられたのは会社近くのレトロな喫茶店。ここは主に一部の社員の穴場的な場所でサボったり大事な話をしたりする時によく来る。
「お前、しばらく有給とれ」
「え?」
「あんま寝れてねーだろ、最近」
矢野さんは私の目元をじっと見るから思わずうつむいた。
実は、コンシーラーでも隠し切れないほどのクマがここ数日出ている。
周りには「最近夢中になってる海外ドラマがあるんですよねー」なんてうそぶいてるけれど、矢野さんにはそんなことは通じない。
彼と同期の矢野さんは、私と彼が付き合っていることを唯一知っている相手でもある。
「でもっ」
「でもじゃねーよ。今のお前だと、今にデカいミスしそうでこっちもヒヤヒヤする」
「……」
「幸い、今は繁忙期じゃねーし、……看病に専念できんだろ」
「イヤです! 仕事と両立します!」
矢野さんは私が意外と頑固だってことをわかってる。溜め息を吐いたあと、軽く首を振った。
「じゃあ、さっきみたいなミスはやめろ。お前のことをメンドー見てる俺の顔に泥を塗るようなことはするな、アイツのためにもがんばれ」
「はいっ」
彼が病気でがんばっているから、私も仕事をがんばりたいと思っていた。
だけど、それはきっと本当は純粋な気持ちでもなかった。
彼のためといいながら、彼とのことから現実逃避するためだったような気がする。仕事に没頭していれば、幾分は彼のことを考えなくてすんだ。
そして、両立している自分、仕事に恋に全力投球の自分、そんな自分に酔って、現状を満足させようとしていたんだと思う。
その日、ヘトヘトになって自宅に帰ると、高校時代の友人の結婚を知らせるハガキが届いていた。
式や披露宴はしないって随分前に会った時に言ってたっけ。
だけど、幸せそうなふたりの写真とあたたかな空気に包まれたコメントがどうしようもなく胸に突き刺さる。友だちの幸せを素直に喜べない自分にまた胸が苦しくなる。
私だけがつらいんじゃない。
つらいのは彼も一緒。
ううん、むしろ彼のほうがつらいと思う。
一番大事な時期だった。重要な仕事を任されてそれを成功させれば彼はもっともっと評価されるはずだった。
わかっているのに。彼が一番つらいのに。
心が引き裂かれそうだった。
そのハガキを胸に抱いて泣いた。
その頃の彼の日記にはこんなことが綴られていた。
こないだ矢野から、先日彼女がつまらないミスをしたときいた。
そして、休暇をとるように言ったけれど、がんばると言ってる。けれど気がかりだ、とも。
彼女がそんなミスをするなんて。
そして、それを矢野からきかされるなんて。矢野から心配されるなんて。
俺が病気にならなければ、彼女は仕事に集中できただろうし。
矢野とは同期で誰よりも信頼しているし、尊敬している。
そして、実は彼女を好きになったのは矢野のほうが多分先だ。おそらく今も彼女のことを好きでいる。
だからこそ、矢野から彼女のことをきかされるのは心苦しい。
それから、今日電話をくれた時、友だちが結婚したって言ってた。
「羨ましいな」って言っていた。冗談っぽくだったけれど、電話越しでもわかる、あれはまぎれもなく本音まじりだ。
彼女の言葉が胸に深く突き刺さった。そして、それに対して、笑うしかできなかった自分のふがいなさに腹が立った。
本当ならあの日プロポーズするはずだったのに。
俺が彼女のことを意識するようになったのは彼女が入社して少ししてから。
頭の回転が速く、とにかく一生懸命だった。
結婚しても彼女が望むなら共働きだって家事の分担だってしたい。彼女の働く姿は本当にかっこよくきれいだ。
矢野は彼女への気持ちを打ち明けたことはないし、誰よりも俺たちのことを応援していることはわかっている。だから、この機に乗じて俺から彼女を奪うなんてこと矢野に限ってありえないことはわかっている。
だけど、俺はどうしようもなく矢野に嫉妬しているし、彼女が矢野とどうかなるんじゃないかと不安で仕方がない。
「たいしたことないじゃない!」
思わず声を荒げてしまった。
彼が治療を始めてから三ヶ月が経った。
ガン治療はそれなりに順調だった。だけど、私たちの関係は確実に歪みを生じていた。
終電で帰宅する生活が続いていた私が彼に会いに行けるのは週末だけ。その一週間ぶりの彼との貴重な週末に実家に戻っていた。
父が入院したと慌てた様子の母親から前日に連絡が入っていたため、朝イチの新幹線に飛び乗って入院先の病院へと急いだ。
病室に入ると、目の前には和気藹々と父を囲んだ母と姉家族の様子。
脱力したのと同時に湧き上がってくる苛立ちを、私は抑えることが出来なかった。
わざわざ帰ってくるような状態じゃないじゃない!
そう思うと同時に気づけば喚き散らすようにして発言していた。
「たいしたことないことはないわよ? 大腿骨骨折して手術したんだし」
姉が眉間に皺を寄せてボソリと反論する。
たいしたことないわよ! 彼に較べたら!
「ごめんね、麻耶。お母さん動揺しちゃって」
母が申し訳なさそうにしてる姿に罪悪感。それでもやっぱり苛立ちは収まるどころか、募る一方。
もうやだ、今すぐ帰りたい。今すぐ彼に会いたい。
「……」
「いいかげんにしなよ」
ムスッとしてる私に姉がぴしゃりと言い放った。
「……帰る」と踵を返す。
「わざわざ忙しいのにきてくれてありがとな。仕事がんばれよ」
お父さんの哀しそうな声が背後でした。
ふがいない自分に腹が立つ。完璧八つ当たりだ。
新幹線の中で私は声を押し殺して泣いた。
どうしてこんなことになったんだろう。私は彼と普通に生きたいだけなのに。
夕刻、彼の入院してる病院に着いた。
トイレの鏡を見ると、ひどい顔をしていた。悟られないように必死に何度も笑顔を作り、彼のいる病棟へ向かう。
けれど、涙がまた溢れそうになった私は談話室で一息つくことにした。
談話室には私以外誰もいない。四人掛けの丸テーブルが四組あるうちの、一番窓際の場所に腰を下ろす。
ぼんやり外を眺めていると、二十代前半と思われるカップルが現れて入口の自販機に向かっているのが瞳に映り込む。仲がよさそうで、心底羨ましかった。
「疲れた……もうイヤだ……」
二人が去っていく姿を見ながら思わず呟いた時、彼が現れた。
聴かれた?
おそらく、この時の私は顔面蒼白だったと思う。必死で言い訳を考えていた。
彼は表情ひとつ変えずに私の前に座る。
お互いに押し黙ったまま。彼と私はそれぞれ違うほうを見ていた。
「別れようか」
しばらく経った後、口を開いた彼が告げた。それはあの日、ガンを打ち明けた時みたいに軽い口調だった。
だけど、あの日みたいに笑い飛ばそうとはしなかったし、私も反対する言葉がとっさに出て来なかった。
ウソだよ、なんて言ってくれることを私は望んでいたけれど。その一方できっと、心のどこかでその言葉を待っていた。
4.君の隣にいる人
あの日以来私は彼に会っていない。
好きだった。別れたくなかった。
だけど、彼と一緒に病気と闘うことができるのか。正直自信がなかった。
彼はきっと私のそういう弱さを見透かしていたんだろう。だけど、彼の日記には私を責めるどころか、私をかばうことばかり綴られていた。
今までの俺だったなら、彼女を抱きしめて慰めてあげられていた。だけど、俺も治療の副作用で心身ともに弱っていたし、なによりも自分のことでいっぱいいっぱいだった。
だから、思わず「別れようか」と言ってしまった。
彼女を支えることもできない。彼女の隣にいる資格なんてない。
彼が退職し地元に帰ったことを知ったのは随分後のことだった。彼の意向でしばらく伏せられていたらしい。
知っていたのはごくわずかな人間だけ。その中から私は外されていた。
「どうして教えてくれなかったんですか!」
事実を知った時、矢野さんに詰め寄った。
「三角には教えないでほしいって強く言われていたんだ」
「ひどい! ひどい!」
ひどいのは目の前の矢野さんでも彼でもない。他でもない私だ。
自分から逃げておいて、彼や矢野さんを責めている。
その後の彼の動向を、私はまったく知らない。
おそらくは矢野さんと彼は連絡を取り合っていたんだろうけれど、私はあえて彼のことは触れなかったし、矢野さんも話題にしたことはなかった。
文庫本はちょうど半分を過ぎたところ。
今夜中に読んでしまおうかどうか迷った。時刻はもう零時を過ぎているし、明日のことを考えて一度は本を閉じ、目をつぶる。
だけれども、続きが気になった。
瞼の裏には彼とのことがありありとよみがえってくる。
もちろん、彼の病気がわかってからのつらかったことが圧倒的に主だったけれど、決してそれだけじゃない。
彼と付き合うまで、付き合ってから、そして別れるまでの幸せだったことだってちゃんと思い出せる。
彼が今どうしているのか。彼は無事に完治の方向へ向かっているのか、独りで闘っているのか。隣には、ちゃんと彼を支えてくれている人がいるのか。
私は見届けたかった。だから、いったんは閉じた『君の隣』を再びめくる。
それでいて、やっぱり知りたいような知りたくないような、気持ちの振れ幅に戸惑ってもいた。ひどく緊張していて、本を持つ手が震えていた。
彼女とはそれきり会うことはなかった。
彼女に別れを告げた数日後、両親が見舞いに来た。
地元の病院で治療しないかと。そうすれば看病をしてやれると。
俺は一人息子で、父親が小さいながらも会社をやっていてそれを継ぐように子供の頃から言われて育った。
でも、そういうレールに乗った人生は自分には向かないと、半ば反対を押し切った形で今の会社に就職していた。
だけど、病気になってみて、家族の大切さが身に染みていた。彼女を失った時、それは尚更だった。
だから、俺は実家に帰ることを決意した。病気が治ったら、今度は俺が支えてやる番だと。
転院した病院は子供の頃からかかっていた総合病院。
そこで中学時代の同級生・直子が看護師をしていた。
彼女は時折自暴自棄になりそうになっていた俺を支えてくれた。
彼女は中学時代からずっと俺に好意を寄せてくれていたし、事実、当時何度も告白をされた。
けれど外見がタイプじゃないのと彼女の世話好きな性格が、守ってあげたいコが好みだった俺には恋愛対象外だった。
だけど、外見はあの頃からは想像もつかないくらいきれいになっていたし、なによりもその甲斐甲斐しいところが、心身ともに弱っていた俺にはすごく支えられた。
だからといって彼女と恋人同士になるかといえばそれは違った。
俺は別れた恋人のことをどうしても忘れられなかった。それでもいい、支えたいと言ってくれた彼女。
何度となくそう言ってくれる彼女の優しさに俺は甘えた。
心のどこかでずっと別の女性を想っていることを受け入れ続けてくれた。
彼女には感謝しかない。
矢野とはずっと連絡は取り合っていた。
矢野は俺が実家に帰ってきてから一年後、作家の登竜門と呼ばれるコンクールで大賞に輝いて、専業作家になった。
いつか俺と彼女の話を書いてくれって電話越しに頼んだら、笑いながら承諾してくれた。
俺と直子が付き合うようになったことは矢野には言えなかった。
きっとそれを知れば、彼女を支えるのはきっと矢野になる。矢野はいいヤツだし、アイツなら彼女と付き合っても安心だ。
そう思う一方、”俺がもしも病気にならなければ今頃彼女の隣にいるのは俺だから”と思わずにはいられなかった。
そう、俺は恋人がいるにも関わらず、無事に完治した時には彼女にもう一度プロポーズしたい、そう思っていた。
そんな俺をすべて受けとめてくれた直子には本当に心から感謝している。
すべてが順調だった。
しかし、やっぱり邪な考えをもった人間の願いなんてかなわないものなのかもしれない。寛解から三年目の夏、再発がわかった。
※ 寛解
ガンの場合、治療を必要としなくなった状態(検査でガン細胞が認められないetc)を寛解といい、一般的に「完治(治癒)」と呼ぶのは寛解から五年を経過して再発や転移が認められない場合。
私はそれ以上の事実を知るのがこわくて『君の隣』を閉じた。
そして、何故恋人が今更こんな事実を突き付けるのかそれが妙にひっかかり、その夜はほとんど寝つけなかった。
翌朝。彼からメールが入っていた、“読んだ?”と。
“途中まで”と返すとすぐさま返事がくる、“最後まで読んだら感想きかせて”と。
“もう読まないと思う”
さんざん迷った挙句、そう返した。
彼からの返事はこないまま。
もやもやした気持ちをひきずったまま、仕事を終えて帰宅すると、アパートの前に恋人の姿があった。
「なんで読まないの?」
「なんでって……。そっちこそ、なんで今更私に読ませるの?」
「読めばわかるから」
真剣なまなざしで私を見返す。
「本当に?」
「あぁ」
「……」
「とにかく最後まで読んでくれ」
「……わかった」
恋人とともに私は自分の部屋へ入る。
そして、約束通り『君の隣』の続きを読み始めた。
5.あとがき
予測はしていたけれど、やっぱり彼はこの世にはもう存在していなかった。再発からあっという間のことだったようだ。
彼は逝く少し前まで日記を書いていたようで、直子さんが彼の隣にいて本当に支えられて幸せな最期だったんだとわかった。
彼から逃げたことはやっぱり悔いが残っているけれど、彼がそんなに素敵な女性に見送られたことがわかって本当によかった。
だけど、恋人が読ませたかったのはそんなことだけだったんだろうか。
腑に落ちない気持ちで顔を上げる。自分のパソコンを持ち込んで仕事をしていた彼が私の視線に気づいた。
「最後まで読んだ?」
「うん……」
「あとがきまで?」
私は首を横に振る。
「なんだよ。あとがきまでちゃんと読めよ」
「わかった」
返事をきくと今度は、彼は作業を中断し、私の隣に座った。
あとがき 矢野 亮介
この作品は友人の恋人が「自分が死んだらこれを小説にしてほしい」と生前託されたと受け取ったことがきっかけでした。
そして、彼の遺書も託されました。
それは彼の元恋人であり、僕の恋人への恋文でした。
僕にも読んでほしいと言っていたそうです。
麻耶へ
病気になってさえいなければ今も君の隣にいられたかもしれないのに、そんなことを心のどこかで思っています。
君の隣で笑っていたかった。そして、平凡でいいから、君と普通の毎日を送りたかった。
でももう叶わないだろうと思っています。
もう一度できれば君に会いたい。そして、できればそれは矢野の妻としての君であってほしい。
涙で恋人の顔がにじんでぼんやりとしてるけれど、彼が優しく笑ってることだけはわかった。
「アイツに会いに行こう」
うなずくと、彼は強く抱きしめてくれた。