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初恋

作者:

「もういい! だいっきらいっ!!」


彼女はそう叫ぶやいなや、ぐしゃぐしゃに顔を拭いながら走り去ってゆく。僕は雨の中ひとり取り残され、その背中を見つめたまま立ち尽くした。

「…また、やっちゃった…」


僕は呟き、ふっと微笑む。ぼんやりとした視界を見つめていると…その足元から、「にゃーん」と小さな鳴き声が聞こえた。


「…あぁ、シロ…」

足元に目を向ければ、愛猫のシロが僕を見上げていた。僕と同じようにぐっしょりと濡れているその体を抱き上げると、シロは僕の頬をぺろりと舐める。僕は彼に微笑んで、その体を抱きしめた。


「ねぇ、シロ…」

肌寒い雨音の中、シロの温かい体温を感じながら…呟く。

「また……やっちゃったよ…」


その雨が染みた白い毛並に顔をうずめると、シロはまた、「にゃーん」と鳴いた。僕は小さく首をふり、かすれた声を押し出して、


「もう…いやだ……なんでだろ…」


その声に、「にゃーん」と声が返ってくる。けれど僕はもう何も呟かないまま、ただその場にしゃがみこみ……シロをひたすら抱きしめた。


雨がずっと、降っている。

今日は晴れると、聞いたのに。


――――僕は何人もの女の人と付き合った。けれど、みんな…離れてく。

ずっと、ずっとそうだった。最後にはみんな、泣いて、叫んで、僕の前から消えてゆく。


『なんで? 愛してくれるって言ったのに!』

『いつもなんでこうなのっ!? 私のこと嫌いなのっ?!』

『そんなに猫が大切なのっ? 私よりっ?』

『口と体だけじゃない! あんたなんかっ!』


散々…言われた。でも、しょうがない。自分でも…分かっている。


そうだ。僕は他の男と同じような感情がない。


だって…だって。


どんな時も、一番に大切なのは―――



「にゃーん…」


この白い、猫だから。シロと名付けた、猫だから。




僕は独りきりだった。物心ついた頃からずっと、独りきりだった。


パパは僕が生まれる前に死んだらしい。僕はママと二人暮らしだった。けれど、ママはほとんど家にいなかった。ニ、三日ぶりに帰ってきたかと思えば、またすぐ出て行ってそれっきり。帰ってきても、僕のところに必要最低限の食費として、五百円だけ置いて行く。月に一度だけ給食費が渡される。


言葉は何もない。目も合わせない。笑わない。僕はママの声をほとんど知らない。名前も…滅多に呼んではくれなくて。時々母は甲高く愉快な声を上げていたけれど、それは知らない男の人と一緒にいる時だけだった。


家は古びたアパートだった。そこで僕は独りで暮らしていたようなものだ。家の中はカビ臭くてぐちゃぐちゃで…掃除なんてママはしない。洗濯は、自分でしていた。でも洗剤なんてないから、水で手洗いして干すだけだった。冬は乾きにくくて着るものがなくなって、大変だったのを覚えている。


赤ちゃんだった頃、どう育てられたのか全く覚えてない。気づいたらそんな生活だった。常にお腹が空いていて、一週間以上ママが帰って来ない時は、給食だけで生きていた。それでも学校の夏休みや冬休みの時は給食さえなくなって。ゴミ捨て場の残飯を夜中にあさって食べたりしていた。


学校に行っても、友達はいなかった。僕のことを臭いと言って、あと変な見た目だとも言って、近づいてこなかった。…学校の先生も、僕に関わってこなかった。僕が声をかけても無視をして、相手にもしてくれなくて。ママがどんな人だったのか知らないけれど、近所の人さえ僕を相手にしてくれなくて。


だから僕は、どこにいても独りきり。汚くて、小さくて、すぐにでも消えてしまいそうな…もうきっと、誰にも捨てられていた存在だった。


けれど、そんな僕にもやっと…友達ができた。


学校に行く途中の、ゴミ捨て場。中身が入ったままのキャラメルが落ちていた。それを拾ったその時に…すぐそばから、小さな鳴き声が聞こえてきた。


「にゃーん…」


段ボールの中から、聞こえてきた。大きなゴミ袋の、すぐ横から。

その中を覗き込むと…


「にゃーん…」


子猫だった。一匹だけ、白くて小さな子猫が僕をぽつんと見上げていた。瞳は青く澄んでいて…けれど黒っぽく汚れた毛並、やせ細っている体。とても…寂しそうだった。


なぜだろう。全く迷わなかった。僕はすぐ子猫を段ボールごと家に持って帰って、少しだけ残していたパンを食べさせて。それから僕はいつも通り給食を食べるため、学校に走って行った。九歳の時のことだった。


それから僕と子猫の生活は始まって、独りから一人と一匹になった。食べる物は減ったけれど、子猫の為ならお腹が鳴るのも耐えられた。常に食べ物は半分こ。シロと名前をつけた子猫が、僕から逃げ出すことは一度もなかった。


ママにはその子猫のことを隠していた。簡単だった、大人しい猫だったから。玄関から見えないところに居させていれば、ママには見えなかったから。


真夏は窓を開けた部屋にシロと寝ころんで暑さをしのぎ、真冬はシロを抱きしめてお互いに温めながら耐えて寝た。気づけば僕はシロを常に抱いていた。学校の時はシロがいなくて落ち着かなくて。とにかくシロを抱き続けることで、僕は心から安心することが出来ていた。


そして、中学生になる直前。



―――ママが、ある日殺された。



お金のいざこざが原因とかなんとかで…男の人、だったと思う。……驚いた。けど、詳しくは知らない。…覚えていない。


ぼんやりとしたことしか分からなかった。けれど僕の環境は大きく変わった。両親のいない子供たちが暮らす施設に入れられて、そこでシロも一緒に暮らし始めた。

絶対にシロと一緒じゃないとだめ、が僕の条件だったから……施設の人たちも渋々承諾してくれた。シロと引き離されるくらいなら、そこでは暮らさないと叫んだのだ。


それからもずっと、僕はシロを抱いて生活をした。学校に通いながら…友達はできなかったけれど、臭いと言われたり見た目が変とも言われることはなくなった。それに友達は、僕自身が特に必要ないと思っていた。だから話しかけられても、あまり関わりを持つことはしなかった。


僕もシロも、施設に入ってから健康的になっていた。シロの毛並は美しく、瞳の青も澄んでいた。そしてまた、たぶん僕も――…同じだったのだと思う。


公立の高校を受験して進学した僕は、もちろん友達を作るつもりは全なかった。

けれど…


「ねぇ、一緒に食べようよ」

「名前は? 中学は?」

「猫が好きなんだっけ?」


次々に話しかけられて驚いた。僕の目の前には、四、五人の女の子。…そう、女の子ばかり。思い返せば、中学の頃も…よく話しかけてくれたのは女の子が多かった。

断ろうと思ったけれど断れず、気づけば女の子に囲まれて過ごすようになっていた。なぜなのかその時には分からなかったけど、他の男の子の視線がとても痛かったのは覚えている。


僕のなにが良いんだろう…。不思議に思っていると、一番よく話していた女の子が…ある日僕にこう言った。


「ほんとに顔…きれいだよね」


僕の顔を見つめながら、そう言った。他の女の子もうんうんと頷いて、


「ほんと~! 瞳もなんか青っぽいし!」

「肌も白いし背も高いし、もしかしてハーフだったり?」

「でも顔立ちは日本っぽいよね? 髪は茶色だけど…」


何がどういう意味なのか、この時はさっぱりだった。褒められている…とは分かったけれど、自分の顔をあまり見つめたことなんてそれまで無くて。だから…よく分からなかった。むしろずっと変な見た目だと言われていたから、あまりピンともこなかった。


そのあと…施設に帰ってから、浴場の鏡で自分の顔をまじまじと見つめたのを覚えている。確かに言われてみれば、僕の瞳は青くて、肌も白い。髪も茶色で…身長は施設に入ってからグンと伸びた。幼かった時のみたいに、小さくて細い男の子ではなくなっていた。


そういえばママの髪…茶色だった記憶がある。瞳も青っぽかった…かもしれない。

でも、自分の顔を見つめて…最初に思ったことは、これだった。


―――シロに、そっくりだ。


嬉しかった。シロと同じ青い目と、透き通るような肌の白。その頃から次第に…僕は自覚していくようになる。シロを抱きながら散歩をしていても、よく声をかけられた。


「その猫ちゃん、きれいですね」


もちろん、いつも女の人だった。そして流れ作業のように僕の隣に座って色々訊いてきて、話し出す。人数も色々で、最初はぎこちない僕だったけれど…徐々に慣れ、女性と話すのもいつしか苦じゃなくなっていた。


そうして僕の周りはいつも、当たり前のように女の子…または女の人がいるようになっていた。施設で話す人は少なかったけれど、一歩外に出るだけで僕の隣には誰かしら、女の人が常にいた。


学校の男子には色々刺々しいことを言われたけれど、全く気にならなかった。僕は自分でも知らないうちに女の子と過ごすのが楽しくなって、やがて…恋人もできていた。仲の良かった子に告白されて、僕はただオーケーしただけだった。あまり深く考えていなかった。



でも……女の子と付き合い始めてから、僕の日々は崩れていった。そう―――僕は、誰かを『愛する』ということが、よく分からなかったのだ。



ママから愛されたことなんて、一度もない。周りの大人も、みんな僕に関わらないようにしていたし…施設に入ってからじゃ、もう遅い。そこにいる先生たちは、僕に優しくしてくれたけれど…。


シロだけが、僕の傍にいてくれた。僕を温めてくれたのは、ずっとシロしかいなかった。


学校の女の子たちと話すのは、楽しかった。初めて会った女の人と話すのも、楽しかった。…けれど、それだけ。『楽しい』とは思えても、それ以上の感情はない。心が温まることもなく、愛情や友情を感じることもない。


だから―――恋人をどう愛するのか、分からなくて。ただ…彼女が求めるようにハグをして、キスをして。……恋人らしいことをした。デートもしたし、「大好きだよ」とも呟いた。「愛してる」とも、呟いた。


…けれど。その子はやがて、僕のハグを振り払い、


「あなた…ほんとに愛してなんか、ないでしょ…?」


違う、と僕は答えたと思う。愛してるよと、言ったと思う。

…でも。


「じゃあなんで心から愛してくれないの…? いっつも笑って口ばっかり。…ほら、いまもっ! …ねぇ、なんで? なんで、どうして、笑ってるわけ…?」


笑わないで欲しいなら、じゃあ…どうしろというのだろう。僕は思って、首を傾げた。本当に…本当に、分からなくて。

その子はそんな僕を見て、もっと悲しそうな顔をした。涙をぶわっと溢れさせ、


「もういいっ!」


彼女は走り去ってしまう。僕は結局、最後まで何も分からなくて。その背中を見送ったまま…呆然と立っていた。…ただ、胸の奥にある穴に風が吹いているようで、とても気分が悪かった。


それが…最初だった。高校一年生の冬の日のことだった。その子は二度と、僕とは目を合わせようともしなかった。けれど、しばらくすれば…また、新しい恋人が出来ていた。今度こそ恋人らしいことをして、本当に愛そうとしたけれど……結局半年もしたら、その子も僕の前から去っていった。


どうしたらいいのか分からないまま、何が足りないのか分からないまま、僕はそんなことを何度も何度も繰り返し、高校を卒業した。芸能プロダクションにスカウトされたけれど、断って普通の会社に就職した。勉強は普通に出来たから。施設を出て、一人暮らしをすること決め…もちろんシロと一緒に、僕は新しい生活を始めた。


常にシロとは一緒だった。女の子は付き合えば…僕の前から去ってしまう。けれど、シロはずっと僕の傍にいてくれる。いなくなることもなければ、逃げてしまうこともない。ぼくはそんなシロが好きだった。心の底から大好きだった。シロさえいれば、何もいらないと思っていた。


でも―――なぜだろう。


「こんな人…だったんだ。…なんか、もう……いいや」


何人目…だったのかは、覚えていない。けれど…一人暮らしを始めてから初めて出来た恋人に別れを切り出され…僕は初めて笑みを崩した。


「…さようなら」


彼女の背中に、思わず僕は叫んでいた。


「まってっ…!」


けれど、恋人だった人は…振り向いてくれなくて。そして…僕の前から消えてった。



……この時から。そう、この時からだった。…なぜか、恋人が去る時に…『いかないで』と、思うようになっていた。それまでは、何とも思わなかった…はずなのに。


その日から、夢を見た。…目の前から去ってゆく、その背中。僕に『さようなら』と呟いた、悲しそうな彼女の瞳。…繰り返し、毎晩のように、僕は彼女の夢を見た。その夢を見る度に、なんだかとても苦しくて。けれどもう、彼女に会うことはしなかった。連絡先も…消していた。


―――いつも通りの、ことなのに。…それから胸に穴が空いたような寂しさが、僕の心を襲っていた。今までにない空虚感。僕はその穴を埋めるため、自然と新しい恋人を探していた。女性との仲良くなり方や話し方、そして恋に落とすその口説き方…僕は全て知っていた。無意識に身に付けていたことだった。


僕はそれから前よりも、もっと女性と過ごすようになっていた。付き合うのは一人だけ。けれど離れられた時のことを考えて、何人も友達として仲良い女性を作っていた。気に入った子は口説いて落として虜にする。いつも誰かが傍にいてくれるようにして、腕にはいつもシロを抱き、そしてやっと落ち着けた。


どんどん女性との関係は、日を増すごとに激しくなった。何人も何人も、口説いては付き合って別れて…そしてまた口説いての繰り返し。―――けれど。


「あんたなんか、もう…いらない…っ!」


決まってみんな、離れていった。もっとずっと、簡単に……僕の恋人は、いなくなる。前より簡単に作った分、前より簡単に…みんな、みんな消えてゆく。そしてそのたびに、夢を見て。「まって!」と叫んで、終わってく。


なんでだろう。やがて友達さえも、消えてった。シロ以外みんな、消えてった。



そんな――…そんな、頃だった。


「……寂しい…ですか…?」


一人の女性が、そんな言葉をかけてきた。公園のベンチでシロと座っていた僕は、そう問うてきた彼女を見つめた。そんな風に話しかけられたのは初めてだった。寂しかった僕だから、不思議な人だなぁと思いながらもシロを撫でながら彼女と話した。痩せていて黒い髪が長い、静かな女の人だった。


「隣の病院に、通っているの。だから毎日、あなたの姿を見かけてて…」


彼女は病気を持っていた。心臓の病気…だと言った。週に一日病院で検査を受けてから、薬をもらいに行っていて。


「あなた、なんだかいつも…寂しそう、だったから」


本当に、不思議な人だった。けれどなぜか悪い気分にはならなくて。むしろ彼女と話していると落ち着いて、心の穴も塞がった。それから僕は週に一日その公園で彼女と会って、色んなことを二人で話した。気づけば長い月日が経っていた。

恋人になった日は、覚えていない。いつの間にか、僕と彼女は付き合っていた。公園以外でも会うようになっていて、お互いの家に足も運んだ。デートもしたし、手を繋いだり、キスもした。


彼女は病気のせいで弱かった。時々辛そうでもあった。僕の前で、倒れた日も何度かあった。何度も何度も、僕は彼女を助けた。僕はずっと…シロと一緒に彼女の傍で時を過ごした。

彼女はいつか心臓を移植するつもりだと言っていた。「もう私の心臓は、ダメだから」。…そう、彼女は言っていた。


何度か入退院を繰り返し…やがて退院して安定してきたある日のこと、彼女は電話で僕に言った。


〔大事な話があるの〕


そしてその日のうちに、彼女は僕の家に来た。その頃シロの体調が悪く、僕は彼をずっと腕に抱いたまま…彼女の話を聞いていた。


「心臓のドナーが、見つかったの」


彼女は真っ直ぐ、僕を見て言っていた。僕はシロの頭を撫でながら、

「よかったね」

けれど彼女はその言葉に目を揺らし、

「う…うん」

静かな声で、頷いた。僕はその様子に腕のシロに目を向けながら、

「嬉しくないの?」

「…嬉しいこと……だけど…」

彼女はそう呟いて、うつむいた。しばらく彼女は黙りこみ、やがて戸惑いながら「あの…ね…」と僕に顔を上げ、

「……怖いの…」

「…どうして?」

ずっとドナーが見つからないって言っていたのに…怖いなんて。僕が問うと、彼女は「だって…」と呟いた。

「……だって、死ぬかも…知れない、から…」

「でも、生きるんでしょ?」

…僕には、彼女の心が…分からなかった。僕はうつむいたままの彼女に、変わらぬ口調で「ねぇ」とシロを持ち上げて、

「最近シロ、元気ないだけど……病気かな? 最近あまり動かなくて。鳴くは鳴くけど…」


「―――ねえっ!」


突然彼女は大きな声を上げて立ち上がっていた。拳を握って声を震わせ、

「あなたは怖くないのっ? …私、今度こそ死んじゃうかもしれないんだよ? 手術失敗したら、本当に、もう…二度と…っ」

「でも生きるために…」


「だけどっ!」


いつしか、涙目になっていて……彼女は息を詰まらせたように玄関に向かって駆けだした。


「待っ…! どうしたのっ?」

玄関の扉を開いた彼女を引き留めてそう訊いた。外は雨が降っていて、シロは僕の腕から下りていた。それでも彼女は雨の中に飛び込むように外に出て、


「あなたが大切なものはなにっ!? ―――ずっと、ずっと思ってた。 あなたはなんで、そんなにもシロちゃんに依存するのっ? なんで人間に興味がないのっ!? 何度も私、あなたの前で死にかけた…それなのにっ!」


突如彼女から出た言葉。―――僕には理解しきることが出来なくて。

彼女は涙を流し、嗚咽しながら僕に問う。

「あなた、昔のこと教えてくれないっ! 全く何も、教えてくれない! ―――ねぇ、なにがあったのよ! なんであなたは、何も教えてくれないの…?」


彼女は僕の心の中の何かを感じ、まるでそれを知っているようだった。―――だからこそ、僕は何も答えられなくて。言葉が何も、出てこなくて。


そんな僕の顔を見て、彼女は悲しそうにぐにゃりと歪んだ顔をした。僕の腕をゆっくり払い、


「……もう、いい…」


雨の中へ駆けてゆく。心臓のせいで、走ると辛いと言っていた。なのに彼女は駆けだして、僕の前から逃げてった。


「まってっ!」


僕はあとを追いかけて、彼女の腕を掴んで言った。雨はたちまち酷くなり、僕と彼女を濡らしていった。

「もういいっ!」

彼女は僕の手を、今度は激しく振り払う。胸を押さえながら、苦しそうに彼女は叫ぶ。


「だいっきらいっ!」


そして彼女は顔をぐしゃぐしゃに拭い、駆けだして…雨の中、弱々しい背を向けて去ってった。


その背中…追いかけられないまま、僕はその場に立ち尽くす。

「また…やっちゃった」


僕は呟き、ふっと…微笑んだ。…けれどもう、その顔は崩れてしまう。僕は足元にいたシロを抱き上げて、抱きしめて。しゃがみ込んで、シロに顔をうずめながら…呟いた。


「もう…いやだ……なんでだろ…」



それから一か月。…僕は彼女と別れ、一か月もの時を過ごした。


僕の胸には、また穴が空いていた。今までで一番、大きな穴が空いていた。


一番長く、恋人だったあの彼女。……僕は彼女と別れてからも、前のように新しい女性を探すことが出来なかった。なぜなのかは、分からない。やろうと思っても、できなくて…。


「ねぇ、シロ…」

僕は膝の上の親友に呟いた。外はもう…暗かった。


「…なんって言えば、良かったのかな…?」


あの日の彼女は、こう言った。―――『あなたは昔のことを何も教えてくれない』と。……『なんで教えてくれないの』…と。


「シロは昔のこと…覚えてる…?」


―――僕は、覚えている。…きっとシロも、覚えているはず。九歳のあの日から、十年以上…ずっと一緒に生きてきたから。


けれど…彼女の言う通り。……僕は誰にも、自分の昔のことを話したことがない。話したくない――わけじゃない。ただ…話そうとしたら、胸がとても…苦しくて。…言い表せない感情が、心を押し潰していくようで……上手く説明できなくて。


「今…どうしてるんだろ…」

心臓の手術は…終わったのかな。元気に…しているのかな。


「ね、シロ…」

僕はまた、愛猫に話しかける。…けれどもう、彼は僕の膝の上で…ずっと眠ったまま。ふっと僕は…微笑んで、その小さな猫の手を…そっと、握りしめてみる。


―――最近シロは、ずっとこう。彼女と別れたあの日から、彼は鳴かなくなっていた。


―――『死んじゃうかもしれないんだよっ?』


あの日の彼女のその言葉…目の前のシロに重なった。ぐったりと動かない、その姿。


―――今ごろ彼女は……どうしてる……?


血の味…? 気づけば唇を噛んでいて、よく分からないけれど震えている手が衝動のままに携帯電話を握りしめていて。指が勝手に…電話番号を押していた。


冷たいシロの手を握ったまま、コール音を耳に当てる。けれど彼女の声は、聞こえない。

やがて……留守電に繋がった。一瞬、迷った。戸惑った。


…けれど――――


「僕のこと…覚えて、ますか……」


声が、震えていた。こんなに誰かに話すことで、緊張したのは初めてだった。


「移植は、上手く…いきましたか…? …もし、もし……聞いてくれるなら。…もう、遅い…かもしれ、ないけど――…」


わなないてしまう唇を、必死に僕は動かしながら……昔のことを、僕自身の過去のことを…そしてシロと出会ったその日のことも。全てを…僕はその留守電のメッセージに吹き込んだ。母が誰かに殺されたことも、それまで僕がどんな生活をしていたのかも。―――友情や愛情が…僕にはまったく、分からないのだということも。


「でも、でも……僕は、きみが好き…だから。…それは、それは……間違いない――…から…」

―――彼女の手術は成功して…生きている。きっとそうだと、そうだと信じて。

「生きて…。――…死なないで…」


シロの手を握りしめながら、僕は言葉を絞りだす。目をつむって…動かず息だけしているその愛猫を……見つめながら…。


「……じゃあね…」


メッセージを吹き込んだ、そのあとも。……僕の手はずっと、震えていた。しばらく動くことも出来なくて。


それから一晩…僕はシロの手を握りしめ、彼の動かぬ姿を見つめていた。本当に、息をしているだけで…彼はピクリとも動かなかった。それでも僕は、ずっとずっと起きていた。


やがて夜が明ける頃に、シロは小さく「にゃーん…」と鳴いて……



そしてそのまま、本当に―――…二度と、シロは動かなかった。




その次の日の朝の、ことだった。


〔…もしもし〕

電話ごしの、彼女の声。―――もう懐かしかったその声が、僕の耳元に聞こえていた。

「もしもし…」と僕が返すと、彼女は張り詰めた声でこう言った。


〔私、あなたに……会いたいの…〕


もう空っぽになった胸を握りしめ、震える声で僕も言う。


「僕も…僕も、きみに……会いたい」




病室で、彼女はひとり…待っていた。僕のことを、ベッドの上で待っていた。


「移植が終わってから…しばらく具合が、良くなくて…。……でも、今は大丈夫」


彼女は僕に、微笑んだ。さらに痩せていた彼女だけど、左胸に手を当てながら…彼女は僕の青い瞳を見つめて言った。

「――…ありがとう。…本当に…」


その顔はとても綺麗だった。手招きをした彼女は、僕を隣に座らせた。すっとその白い手が肩に触れ…僕も彼女の肩に触れていた。とても久々の…感覚だった。


前なら、僕から彼女を抱きしめていた―――けれど。


「……辛かったね…」

僕を抱きしめ、彼女は言った。僕の茶色い髪を撫でながら、声をかすれさせて彼女は言う。


「…ずっと、辛かったね…。……ごめんね、私…自分のこと……ばっかりで…」

その言葉に、僕は「ううん…」と首を振る。

彼女はとても…温かかった。


「…僕こそ、ごめんね。……なにも、なにも…わからなくて…」


ゆるゆると、彼女も小さく首を振り…囁くように呟いた。

「…もう…もう、だいじょうぶ。…シロちゃんと…一緒に、これから色んなことを…ゆっくり、分かっていけばいい」


彼女は、そんなことを…僕に言った。

けれど僕はまた…「ううん…」と首を振る。


「……シロはもう…いないよ。……死んだんだ。さいご、『さようなら』って、鳴いたから…」


とたん…しばらく彼女は黙ってしまう。けれど…僕を抱きしめる腕に、一層力がこもった気がした。それから「そっか…」涙声で呟いて、


「――…ほんと、ごめんね…辛かったよね…? ……一人ぼっちに、なっちゃって……」


……僕は最初、ただ彼女に頭を撫でられていただけだった。なのに――…彼女の言葉は、触れられたことのない僕の胸の奥底に染み込んで……氷のようだった僕の『何か』をじっくり溶かしてゆくようで…。


―――辛かったのかな、僕。

……そう…だったのかな…。


「…辛かったよね……辛かったよね…っ…」


―――なんだか、なんだか、痛い。……胸の底が、とてつもなく……痛い。すごく痛い…。


刃物で切りつけられているように…彫刻刀でえぐられているかのように…。……痛くて痛くて、たまらない。痛くて苦しくて、たまらない。


「…っ…うぅっ…」

わけも分からず、僕は痛くて…苦しくて……泣いていた。彼女の服を握りしめ、僕は初めて…きっと初めて、泣いていた。


僕は…僕は、辛かった――…?

ずっと、ずっと…辛かった――…?


「―――っ…」


誰が僕を愛してくれたっけ。

誰が僕を抱きしめてくれたっけ。

僕が本当に愛したことあったっけ。

本当に笑ったことあったっけ。

本当に泣いたこと、あったっけ。


僕は、僕は、僕は――――……。


「――…つら…っ…かった…。……ずっと、ずっと、ぼく…っ…けど、シロが…シロがいたからっ…! …だから、だから…っ! …っでも、でも、シロも……きのう…っ…」


シロが死んでも、僕は…泣けなかった。どう悲しめばいいのか…分からなくて。悲しくて泣く、ということを知らなくて。


――でもいま、やっと…分かった。


シロが死んで、僕は――……きっと、ママが死んだときだって……。

ずっとずっと―――そうだった。


ずっと、ずっと僕は―――…。


「だれも…だれもあいして……くれなくて…っ…。――…だから、ぼく…わからなくて…なにも、わからなくて…!」


 そのまま、みんな消えていった。なにもわからないまま、ママは消えた。シロも…シロさえも、僕の前から消えてしまって。…けれどやっぱりなにも、今になっても、わからなくって。


彼女は繰り返し、頷いた。僕の頭を撫でながら…僕の声を、聞きながら。

「がんばったね……がんばったね……っ」


泣いて頷いる彼女に、僕も泣きながら頷いた。嗚咽しながら、初めて痛みのままに泣いていた。

そんな僕に、彼女は鼻をすすって…呟くように問うてきた。


「……わたし、あなたを…愛して…いい…? わたし…あなたを、愛したいの…。シロちゃんのかわりになれるか、わからない。……けれど私は、あなたをずっと…愛したい……」


無意識のままに、頷いた。

彼女に抱きしめられたまま、胸の奥から声が出る。


「…ぼくも…ぼくも、きみを…愛したい。――…本当に、ぼくも心から…あい、したい…。だから、だから――…っ」


ぐしゃぐしゃに顔を拭い、僕は彼女と向きあった。涙が止まらない目を押さえながら、その濡れた黒い瞳をなんとか見つめ…僕は喘ぐように彼女に言う。


「…だからっ、愛して……ください…。…こころから、ぼくを……ずっと、ずっと、あいして、ください、そばにいて、ください…っ…!」


彼女は歪んだ泣き顔を微笑ませ、僕の頬を包むように両手を当てる。頷いて、自分の額を僕の額に当てながら…彼女はぎゅっと瞳を閉じた。


「―――もちろん……もちろん…っ…」


瞳を開き、僕のしょっぱい唇にキスをして、


「……ずっと、愛しつづけるよ…。…この心臓が……ちゃんと動くかぎり。あなただけを……ずっと、ずっと…心から――…」


窓から明るい陽が射し込んだ。彼女の濡れた微笑みは、儚いけれど美しく…そして何より愛しくて。


ドクン。


僕の胸から音がした。穴が塞がった心臓が、初めて奏でた音だった。


シロが死んだ、次の日に。


……僕は初めて、恋をした。


読んでくださってありがとうございますm(__)m

感謝感謝ですm(__)m


感想、ご指摘などお待ちしております(*´▽`*)

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― 新着の感想 ―
[良い点] とても暖かくて冷たく悲しい作品でした。 シロが消えてしまう描写や主人公が感情に気づくシーンがとても印象的に心に残ってます。 主人公が愛の意味に気づいたclimaxの部分が本当に大好きで…
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