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名前無くして姿亡くす

玄関の戸を叩く音で、青年は読んでいた書物から顔を上げる。

女郎花おみなえしの髪に七両染しちりょうそめの瞳。精悍な顔つきでありながら柔らかく微笑む青年の顔は美しい。


「母さんかな」


孔雀青くじゃくあお直垂ひたたれに身を包んだ青年はゆっくりと椅子から立ち上がり、開いてるよと扉の向こうにいる存在に声をかけた。

声を受けて、扉がゆっくりと開く。開いた扉の向こうに、漆黒の直垂に伯林青べれんすのマフラーという、珍妙な出で立ちをした少年がいた。五、六歳といったところだろうか。


「やぁ花浅葱はなあさぎ。昨日振りだねぃ」


「母さんも物好きだね、僕の所に毎日来て。それより、また妙な拾いモノだね」


花浅葱と呼ばれた青年は微笑みを崩さぬまま、人差し指を少年の背後に向ける。


「ああ、この子かい?昨日ねぇ、ワタシの声に応えてくれてねぃ、しかも自らワタシの元に堕ちて来てくれたのさ。ワタシは迷わぬように引っ張っただけさね」


浮かぶ水の球の中で膝を抱え眠る少年。その表情は穏やかそのものだ。


「ふふ、可愛いねぃ。ワタシが抱きしめてやっただけで、こぉんなに安心した顔で眠るんだよ。みぃんなワタシの愛しい子だけどねぃ、ワタシの声に応えてくれた子は余計に可愛いさね」


うっとりと心底愛おしいという感情を隠さない表情で、少年は水の球にそっと触れ抱きしめる様に寄り添う。


「でも、子供を迎えるなんて初めてじゃないか。しかも五歳くらいの子供なんて、どんな心境の変化だい?」


「子供はワタシの子として迎える事はないさね。子供は嫌いだからねぃ」


「その割には子供の姿でいるんだね」


「いいじゃないさね。子供は嫌いだが姿形は好きなのさ。子供の形は警戒され難いから何かと便利だしねぃ。そりより、話が逸れたねぃ。この子は子供じゃあないよ。二十八歳の立派な大人さね」


「………………?」


分かりやすく首を傾げる花浅葱。


「この子はねぃ、記憶と名前が無くなる事を望んだのさ。だからねぃ、食べたんだよ。そしたらねぃ、この姿になった。きっと魂の時がこの姿から止まってしまったんだろうねぃ」


「記憶を食べた母さんなら、その原因分かってるんじゃないの?」


「ふふ。分かってるけど、お前にも教える訳にはいかないねぇ」


「いいよ。教えてもらえるとは思ってないしね。自分で集めてこその蒐集家だ」


「お前らしいねぃ。本題だけどね、この子の世話をお前に任せるよ」


「…………は?」


それまで微笑みを崩さなかった花浅葱だが、初めて間の抜けた表情を見せる。


「名前はそうさね……葡萄染えびぞめだ。今日からお前の名前は葡萄染だよ」


「母さん、その前に僕がその子の面倒を見るって……」


「言った通りさね、この子の世話を任せる。他の子達には頼めそうにないからねぃ。そもそも無理だろうさね。お前が一番任せられる」


「いや、元は大人とはいえ今は子供でしょう?無理無理無理」


「大丈夫さね。姿は子供だが心が子供に戻った訳ではないからねぃ。やり易いはずさね。さて、ワタシも眠るとするよ」


「母さん!僕はまだ承諾した訳じゃ……!」


言い終わる前に、少年の姿は闇に溶ける様に消えていった。花浅葱は水の球の中で眠り続ける少年の前に立ち、溜息を吐きながら左手で顔を覆う。


「全く……母さんの我儘も困ったものだよ。葡萄染か……仕方ない。いつか記憶を望む日を楽しみするよ。君はどんな空想を見せてくれるんだろうね」


水の球の中に両手を入れ、葡萄染を抱き抱える。葡萄染を水の球の中から出した瞬間、霧散していく。花浅葱も葡萄染も、不思議と濡れていない。


「本当に安心しきった顔してる。そこまで、君にとって此岸しがんの世界は地獄だったのかい?色んな空想を蒐集してきたけど、記憶と名前まで忘れたいと願った者は初めてだよ。母さんの声に応えるなんて、僕以外では初めてだったかな。此岸では母さんの声は恐怖そのものなのに。まぁ、とりあえずは上手くやれたらいいね」


独り言の様に声をかけながら、そっとベッドに寝かせ掛け布団をかけた。



ーーーーーー



「………………」


目が覚めたら、知らない場所にいた。誰の家?私の家じゃない事だけは確かだ。

起き上がって気づく。服がぶかぶか過ぎて動きにくい。なんでこんな大人のぶかぶかな服を着てるんだろう。


「おや、起きたのかい。おはよう」


開きっ放しの襖に手をかけながら、知らない人が笑顔で私に話しかける。着物を着た、不思議な髪と目の色をした綺麗な男の人。あれ?知ってるっけ?いや、やっぱり知らない。


「痛いところはないかい?」


痛いところ……全身を触ってみてなんとなく手をぐっぱっと開いて握ってるけど、痛いところはない。


「大丈夫、ない」


「そうかい。ならよかった。ところで、目が覚める前の事、覚えてるかい?」


それを聴いてようやく気づいた。記憶がない、綺麗さっぱり。この人を知らなくて当然だ、記憶がないから。元々知ってる人なのか、知らない人なのかさえ思い出せないのだから。

…………………名前さえ思い出せない。それに、なんでこんなに身体が小さいんだろう。私は子供じゃなかったはず。

でも不思議だな。記憶も名前も、思い出す事を何処かで拒絶していて、このままでいいと思っている。

あんな忌まわしい記憶を、やっと捨てられたのだからーー。


「……覚えてない。何も。名前も分からない」


「そうかい。そりゃよかった。覚えてた方が問題だからね。君はね、自ら望んで記憶も名前も捨てたんだよ」


「……そっか。そんな気がしてた」


「……取り戻したいかい?」


意地悪く微笑む。きっと私がなんて答えるか分かってて聴いてるんだ。


「いらない。どんな記憶と名前だったか思い出せないけど、あんな記憶、いらない!」


「そうかい、安心したよ。母さんの頼みとは言え不安だっけど、僕が君の世話をしてあげる。僕は花浅葱。此岸での名前は東雲しののめ 椿つばき。君は葡萄染だ」


「葡萄染……?」


「母さんが君を葡萄染と名付けたから、君の名前は葡萄染だよ。母さんは色の名前をこよなく愛しててね。子には必ず色の名前を付けるんだ」


「えっと……母さんって?」


「空想街の神であり、空想街に住む僕ら子の全員の母だよ。覚えてないだろうけど、君は母さんの声に応えて自らここに来たんだよ」


なんとなく、なんとなくだが、温かくて優しい闇にずっと抱きしめてもらっていた気がする。


「あれが、お母さん……?」


「おや?覚えてるのかい?」


「……ずっと、真っ黒だけど優しい何かに抱きしめてもらってた気がする。あれがお母さん?」


「そう。それが母さんだよ。すぐに会えるさ。何せ、僕と葡萄染は特に母さんのお気に入りだからね」


あれが母親のぬくもりというものなのかな……。


「ねぇ、空想街って何?」


「空想を現実に変える街さ。記憶はなくても常識は覚えてるよね?」


「うん。空想は空想だよ。現実に起こる訳がない」


「そう、此岸では空想は空想。現実は現実。でもね、ここは此岸とは違う理で動く世界なんだよ」


「…………?」


私がきょとんとしていると、花浅葱が頭を撫でてくれながら説明してくれる。


「つまりだね、ここは此岸……元いた世界とは違う世界なんだよ。あの世とこの世があるだろう?この世は此岸とも言ってね、あの世は彼岸とも言うんだ。ここは此岸でも彼岸でもない場所なんだよ」


「じゃあ、そんな場所に住む私達は、生きてるか死んでるかよく分からないね」


私の言葉にきょとんとする花浅葱。何かまずい事でも言ったかな…。


「はは!確かに、よく分からないかもねぇ。まぁでも、此岸ではもれなく死者扱いか失踪者扱いにされるよ。よく言うだろう、神隠しって」


「でも、私も花浅葱もここにいるって事は、此岸を捨てたって事だよね?此岸に帰りたくないから、ここにいるんだよね?」


「そういう事。僕も葡萄染も此岸を捨てて母さんの子になったんだよ。母さんの加護を受ける代わりに、もう二度と此岸には戻れない。その代わり、望んだ幸せを与えてもらえる。それでいい。君もそうだろう?」


「……うん。覚えてないのに、あそこには帰りたくない……ここがいい」


「ふふ、素直でよろしい。正直記憶がない事で混乱して、此岸から来たばかりの葡萄染には荒唐無稽な空想街や母さんの話を、否定されるんじゃないかと思ってたんだけどね、杞憂だったようだよ。さて、起きたばかりだというのに長々と話に付き合わせてしまってすまないね。朝食にしよう。さぁ、おいで」


手を引かれてベッドから出る。改めて服を見るとものすごいぶかぶかだ。長袖のシャツだから、袖を地面に引き摺りながら手を引かれる。


「流石に服はそのままだと具合が悪いね。食べ終わったら服を調達しに行こう」


「うん」


「あ、食べる前に顔洗っておいで。洗面所はこの廊下の左の扉だよ」


「はぁい」


言われた通り左の扉を背伸びして開ける。扉から見て右にトイレがあって、正面にお風呂がある。左に洗面台。

私の身長じゃあ到底蛇口には手は届かないが、わざわざ用意してくれたのか踏み台がある。

踏み台に乗って蛇口を捻り、顔を洗う。なんとなく、鏡に写る自分の顔を見る。やはり子供の姿だからか、見慣れた疲れきった顔とはまるで違う。

私は何に疲れていたんだっけ?まぁ、綺麗さっぱり忘れられた今、思い出す必要は全くない。

忘れられたんだ。全部捨てられたんだ。こんなに清々しい事はない。こんなに嬉しい事はない。

顔を拭いて、花浅葱の元に戻る。食卓にはご飯と納豆と味噌汁、目玉焼きに鮭という基本的な朝食が並んでる。


「さて、食べたら服の調達に行く訳だけど、どんな服がいい?」


納豆を混ぜながら聴いてくる。


「花浅葱が着てる着物着てみたい」


「直垂を?直垂だけじゃあれだから着やすい洋服も新調しようか」


「うん。そういえば、どこに服とか売ってるの?」


「行けば分かるよ。服針ふくしん地区に行くんだよ」


「……地区?」


「この街には様々な地区があるんだよ。そして地区には必ず核となる人物がいる。核となる人物の空想が地区を創り出すんだよ。こればかりは行って見た方が早いからね。これから行く服針は、服を作るのが大好きな男の地区だよ」


「服を?案外普通だね?」


「そう思うだろう?でもねぇ、ここに堕ちてくる、ましてや地区の核になるほどの元人間は、必ず何処かが狂っているんだよ」


必ず何処かが狂ってる……私も何処かが狂ってる。記憶も名前も捨てるくらいだ。狂ってて当然だろう。



ーーーーーー



他愛ない会話をしながら食事を済まし、花浅葱の着替えを待つ。さっきまで着ていた直垂は部屋着で、外出用は絵が描かれた直垂を着るみたいだ。


「待たせたね。さ、行こうか」


持っていた巾着から黒い玉を出す。出して、落とした。地面に落ちる寸前で、ぶわっと広がった。まるで穴だ。

ただ、ぐねぐねと蠢いているのは気持ち悪い。


「怖がらなくていい。こいつが行きたい場所に導いてくれるからね」


「こ、こいつ?」


「そう、こいつも元人間だよ。道案内が大好き過ぎてこうなったのさ」


道案内が大好き過ぎてこうなったって……何がどうなったらこうなるんだろう。


「さぁ、僕の手を握って。離さないようにね」


手が差し伸べられ、おずおずと握る。花浅葱にならって一歩踏み出す。

足が穴に触れた瞬間、ぐっと強い力で引き摺り込まれたのが分かった。

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