7話 確かめるまで分からないままなのは……
少し、不安になった。
そして、胸が苦しくなった。
それは普段からの持病のようなもので。
叫びたくなる衝動を必死こいて抑えつけ、深呼吸すれば収まる、その程度の慣れっこで。
背の高い棚が並ぶ店内の閉塞感が辛くて、早く出ようと適当に引っこ抜いて借りた数本のDVD。
それが収まっているナイロンバックを、動悸がする胸に押しつけるよう抱きかかえながら店を出た。
肩掛けの鞄がずり落ちそうなまま、余裕の無いみっともなさで。
店員さんは変な眼で見なかっただろうかと、気にする余裕もなかった。
ただ機械的にメンバーカードと代金を出して、お釣りとDVDを受け取って。
ナイロンバックは鞄に押し込み、深呼吸を。
震える息、それでも肺に引っ張り込んで、大きく吐き出す。
数回繰り返し、ようやく静まってきた。
それでも、微かに喉の奥で引っかかるものは消えない。
自分がどう思われているか、分からない。
司に対してそんな不安を抱いた事は無かった。
自転車の籠に鞄を放り込む。
後輪に据え付けられた鍵を開け、またがる。
……確かめられるだろうか?
俺は、司の傍にいて良いのだろうか。
サドルには腰を下ろさず、八つ当たりするみたいに強くペダルを踏んだ。
――そんな数分前までの自分が、恥ずかしくなった。
俺は、先ほどまでのシリアスじみた心境を何所に置けばいいのか分からなくなった。
若干しゃっちょこばっていた俺の姿勢も崩れ、胡座を崩して足を伸ばした。
司はやっぱり背筋の伸びた正座だった。
「シュレディンガーのパンツとか、どうよ?」
拳を振って力説する司。
不安はつまり、願望の裏返し。
どうして、俺はこんなアホウに良く思われたいなどと考えていたのだろう。
つか、コイツに俺以外の友達らしいヤツはいない。
俺の不安って、杞憂じゃないのか?
「もう一度、分かり易く説明してくれ」
「だから観ろ、この明らかに履いてない絵」
司の掲げる紙、そこでは屈んだ可愛らしいポニーテール少女の後ろ姿。
セーラー服のスカートがきわどいというか、既に中味が見えていないとおかしいくらいの領域まで太ももと尻のラインが窺える。
「どうでもいいけど、いつの間にそんなイラスト描けるようになったんだ?」
「君を驚かそうと、密かに修練を積んでいたのさ」
実は、写真集もデッサンを兼ねていたのさ――。
へぇ、そっすか。
でもさ、直前の発言でインパクト皆無になったからな。
まあ、素直に凄いと認めるが。
俺は手のデッサンがめんどくてイラストの勉強投げたクチだからな。
……首から上だけ、無難に描ける。
ちょっと斜めからのアングルで。
「コレを観ろ。履いてるか履いてないか分からない。もしかしたら、ヒモパンとかかもしれない」
「確認するまで分からない。まるでシュレディンガーの猫が如しだと」
半分の確立で死亡する箱に入った猫は、生と死が同居しているのかい、ワケ分かんねーよってアレだね。
量子力学がどれだけ意味不明かというのを表した、皮肉った例え話。
しかし俺は犬派だからいいものの、エルヴィン・シュレディンガーさんは猫に恨みでもあるのか?
「そう、その通り!」
ズビシッと勢いよく俺を指差し、司は勝ち誇った笑みを浮かべていた。
うんうん、分かる。
今、自分が世界の心理を掴んだかのような全能感で胸が一杯なんだろうね。
けどさ……。
「悪いがそれは、俺が二年前に通った道だ」
「なん……だと……!?」
演技がかった驚愕。
少しは余裕があるようだ。
「検索すれば、似たようなネタは山ほど在る」
「嘘だと言ってよ信治!」
悲壮さが微塵も窺えない、司の絶叫。
「全く意に介していないみたいだな」
「んなこたーない」
「相変わらず楽しそうだな」
神崎さんはいつも突然だ。
そして、麦茶を置いて部屋から去った。
……何かホント、いつも通りで拍子抜けだった。
そりゃ、別に何かが変わった訳じゃない。
改めてここへ来て見直そうとも、俺には分からない。
今まで目を向けなかった真実がそう容易く分かってたまるか。
結局は俺の、心の問題で。
不安を吹き飛ばしたくて、笑った。
少しだけ、声を高く響かせるように。
「おい司、働かずに食う飯は美味いか?」
「あーあー、聞こえなーい!」
……楽しいさ。
改めてそう思う。
こんな日々が続くなら、別に良いから。
俺はダメ人間のままでも。
どう思われていても。
だから――。
「なあ司、岸さんて覚えてる? 何かいっつもニコニコしてる感じの」
「……それ、多分西だわ。西広美。他に岸浦って知り合いいるから、多分混ざったんだと思われ」
――で、それが?
司は、微かに不快を滲ませた様子で眉をひそめた。
「最近司どうしてるって聴かれたんだけど――西さん? まあ、西さんが司の事気にしてるっぽいんだけど、どうなの?」
「……べっつにぃ。言ったでしょ、連絡なんてここ最近全く来てない」
キモイヤツがいるとか、嗤い話のタネにでもするんでしょ――。
唇を尖らせた司。
俺と正面から貶し合うのは良くても、陰口の類は嫌悪しているようだ。
俺もそうだが。
陰口とか、やや遠くからヒソヒソと断片的に聞こえる嘲笑の類は、気付いたとき抜群の破壊力だからな。
――そうだ。
だからコイツも、俺と同じでいて欲しい。
俺と同じ底辺で。
最低の願望だと、自覚はしている。
何かするべきだと言われたのに、立ち止まろうとしている。
けど、司がここに留まっていれば、俺は司と友達でいられる。
置いていかれないで済む。
――司を、外へ連れて行って上げて。
ふと頭を過ぎったのは、優しい透き通った声。
そして、懐かしい光景。
司に目をやる。
長い髪に、立てば俺よりは少し高いだろう長身。
記憶が確かなら、昔は小さくて、髪も短かった。
今の司は、操さん――司の母さんにすいぶん似てきているような気もする。
だから、目を逸らさずにいられなかった。
このままで居心地が悪い。
借りてきたDVDを取り出そうと、鞄に手を伸ばした。
二本借りたはずだけど、何を借りたんだっけ。
ネタのギャグアニメに、もう片方が思い出せない。
続く