8、おや? 女騎士のレシル・モリーナ・シュバリエ・デモニアクスはその態度に見合った実力があるようだぞ。
あくる日の朝。
一行は先行者の足跡の残る雪の《オバル街道》を粛々と進んでいた。
オルレイウスはその足跡を眺めながら、自分たちのほかにもこの冬の時期に《オバル街道》を渡る者がいたことに少しだけ感慨を深める。
「……国境を越えたみてえだな。大将にロっさん! そこのバカ力……じゃなかった、怪力お嬢さまの手綱をしっかり握っててくれよ!」
先頭のハギルからの声に応えるように背後から獰猛な鼻息を吹く音が聞こえた。
オルは己に言い聞かせる。
振り返ってはいけない、と。
「心配するな、ハギル。私がちゃんと綱を握っている。ロスも何かあった時には頼むぞ」
「……まぁ、仕方がないのう。わしも昨晩のようなことはごめんじゃし。……レシル嬢、もう少しご辛抱を」
レシルを後と前から挟むように歩くクァルカスとロスからそれぞれ返事があった。
今日は昨日とは違って、ハギル、ルドニス、オル、ロス、レシルとリシル、最後尾にクァルカスという隊列で進んでいる。
《オバル街道》に入れたことと、《ロクトノ平原》をほぼ抜けたこともクァルカスが隊列を変更した大きな理由ではあったが、今回の隊列変更のテーマは別にある。
「レインフォート殿! サルドーラム殿! どうぞ私を放してお退き下さい!」
鼻息も荒くレシルが怒鳴る。
《騎士》ってなんだったっけ? 猛獣?
オルがそんなことを考えたのも無理からぬ話なのかもしれない。
「しかし、解放したならば、レシル嬢はオルレイウスを殺すじゃろう?」
「ええ! 一撃で!」
「一撃とか、そういうことではなくてじゃなあ。……レシル嬢、それは《義侠神ヴォルカリウス》に対して行った誓言を踏みにじる行為ですぞ。《ノクトゥム》までの警護を取引に依頼しておきながら殺害するなど、騙まし討ちに等しい。最悪、神罰がくだる」
「サルドーラム殿! それを言うのであれば先に誓言を破ったのは、そこの破廉恥漢です!」
「じゃがのう……」
ロスは言い淀みレシルの隣を歩くリシルへと助けを求める。
「お姉さま! それは考え違いですと今朝もあれほど申し上げたではありませんか!」
「リシル! ならばなぜ、昨夜この破廉恥漢と何を話していたのか言わないのです?」
「ですから、わたくしたちがどうして《ロクトノ平原》まで遣わされたのかということを」
「それで、どうして逃げるように立ち去ることがあるのです?!」
「それは……わたくしが……そのぅ」
「いいえ! いいのです! みなまで言う必要はありません、リシル! ……ご覧ください、サルドーラム殿、レインフォート殿! 何か口にはできないような、卑猥なことを言われたに決まっています! そこの下衆野郎に!!」
背中にみなの視線が刺さるのを感じる。
先頭を行くハギルまでもがこちらを振り返って「まじか?」という視線を向けてくる。
仕方がなく足を止めて、後方を振り返った。
まず、寝不足で若干齢をとったようにも見えるロスが目に映る。
レシルは飛ばしてリシルを見る。小柄な身体がいっそう小さくなっているように見えるし、なぜか頬が赤い。
その後ろには相変わらず大きな荷物を背に負ったクァルカスが半ば呆れたようにオルとレシルを交互に見ていた。
問題はそのクァルカスの手に握られたロープの先、レシルだ。
どう見てもオルの目には彼女が前世で言うところの『亀甲縛り』で拘束されているように見える。
雪中を鎧の上から亀甲縛りで拘束された女騎士が歩いている。
「私と妹の前で猥褻な言動を慎むという誓言を破っただろう?!」
レシルが今にもロープを引きちぎらんばかりに食ってかかってくる。
なぜこうなったのだったろうか? そうなった経緯をオルレイウスは思い返した。
昨夜のことを。
〓〓〓
オルは冷えた鹿肉を平らげたあとで、ハギルに次のように申告した。
「僕には、あなたたちが利用するような寝床は不要だ。上から毛皮や土をかける必要はない。僕のローブは《魔獣種》の《魔熊》の一枚皮で保温機能は高いのだ」
これらはみな事実だ。
このローブは産褥の床を離れた母イルマがリハビリがてらに狩った怪物熊の毛皮でできていた。
その言葉を聞いたハギルは「てめえん家はまじで金持ちだったんだな」と感心していたが、ローブの商品的価値を知らないオルは曖昧に頷いた。
ということで無事に床についたのだが、問題はここからだった。
深夜、ハギルが最初の番をしている中、レシルが起き上がった。
「お嬢さま、どうかしたかい?」
「……少し眠れなくてな」
「焚火にでもあたるか?」
「そうさせてもらい、ます」
ハギルとレシルの取り合わせという時点で気が気ではなかった。
ハギルが一番同情的で、レシルが一番敵意を向けてくるということとは別にしても、なんだかハギルとレシルの間に流れる空気に微妙なものを感じていたからだ。
だが、その懸念とは裏腹にハギルとレシルの会話はそこそこ平穏なものだった。
話巧者のハギルがグリア地域の物産やグリア人の気質などを事細かに語ってみせた。
最初は「へえ」とか「ほう」とか言っていたレシルも、ハギルの話に引き込まれ出したようで「それで?」とか「ならばグリアでは?」とか「ルエルヴァと比較すると」などと言ってハギルの語りに膨らみを提供していった。
ハギルのグリア地域に対する知識量の尋常のなさが垣間見えた。
どうしてハギルはこれほどグリア人とグリア地域に詳しいのだろうか、などと考えつつうとうとし始めた頃。
「でな、グリア人ってーのはよぅ、どこでも《神官》や《異教司祭》に頭が上がんなくてな。そこで小咄が……いけねえ」
「ん? 小咄がなにか?」
「いや、月がだいぶ傾いて来てやがる。そろそろルディと交代だ。……お嬢さまはまだ起きてんのか?」
「……いや、そうですね。ひとつ用を足してから寝るとします」
「そうかい。んじゃ、俺がルディ起こす時に言っとくから、存分に花を摘んで来るがいい」
「感謝しますよ、ハギル。あなたはなかなかどうして博識ですね。貴重な話をありがとうございます」
「よせよせ、なんも出ねえぞ?」
そう言ってルドニスの寝床へと歩くハギルの足音が地面に半ば埋もれたようなオルの耳にも聞こえた。
異変はレシルの足音がハギルの足音の後に続いていた時にはもう始まっていた。
「ルディ。おい、ルディ。そろそ……キュゥ」
キュゥ? 疑問に思ったオルは寝返りを打ちながらハギルを薄目を開けて見る。
ハギルより少し背の高いレシルが、ハギルに背後から頸動脈絞めをかけながら持ち上げている姿が焚火の灯りに揺らいでいた。
じたばたしていたハギルの身体がだらんとすると、レシルはハギルをゆっくりと地面にルドニスの横に置いた。
「……申し訳ない、ハギル。しかし、《テオ・フラーテル》の皆は私の行動を咎めるだろう。起きた後には私を存分に責めるがいい」
そう言ってレシルはゆっくりと自分がさきほどまで横になっていた寝床へと戻っていく。
屈んでごそごそやっていたレシルが再び背筋を伸ばした時、その手には戦棍が握られていた。
身体は毛皮のコートではなく鱗甲で固められている。
そして、レシルはこちらの寝床へと真っ直ぐに向かって来る。
待て。オルレイウスは心中呟く。
まじか、この女、と。
「貴様には恨みしかないが、せめてもの情けだ。《冥府の女王ディース》に貴様の罪に対する減刑を祈ってやろう」
レシルはそう言いながら眼前に立つと、戦棍を上段へと振りかぶる。
「本来ならば夜討ちなど騎士にあるまじき行為だが、リシルの受けた辱しめを思えば……死ね! 淫猥漢っ!!」
振り下ろされる戦棍を避けざるをえない。
長剣を握りながら跳ね起き、下に敷いていた枯れ葉をまき散らして穴から脱出した。
轟音。地面が波打つ。
さきほど頭を置いていたあたりの湿った土の中に深く戦棍の先端が潜り込んでいた。
「リシルがそう言ったのですか? 僕に辱しめを受けた、と?」
「…………ふ、ふふ」
レシルの口から空気の漏れるような音。
それが笑い声だということに気づくまでにそう時間はかからなかった。
「ふはははははは! そうでなくては! 寝たふり、偽装だ! 《騎士》が狡賢い敵と闘うときには、こちらが正々堂々たる姿を示さねばな! この卑劣漢め!」
「会話をしてくれませんか? リシルが辱しめを受けた、とあなたに申告したのかどうかを訊いてます」
「うるさい! あの顔を見れば一目瞭然だ! 妹を赤面させて悦んでいたのか?!」
「そんな事実はない」
「問答無用! 《深潭》へ叩き込んでくれる!」
レシルの鋭い踏み込み。
地面に戦棍の先端で尾を描きながらオルへと向かって突っ込んでくる。
オルは自らの認識が甘かったことを理解していた。
金属製の短冊を重ね合わせた鱗甲も、岩盤を砕くほどの戦棍も、かなりの重量があるはず。
オルが想像していたレシルの戦法は、これまた重量のありそうな大盾に身を隠しながら、時に戦棍の強力な一撃で敵を粉砕する、というもの。
それらの装備の総重量を推測すれば、妥当な回答。
《騎士》というよりは《重戦士》。
だが、実際のレシルの動きは軽い。そして速い。
あっという間に距離を詰められ、かち上げられる戦棍の凶悪な一撃にさらされる。
膝を半ば折るようにして屈みこんでそれを回避する。
レシルは斜め下から振り上げられた戦棍の重量と反動を利用して高速で身体を捻り、その捻転とは一拍遅れて今度は真横から戦棍をもの凄い勢いで走らせる。
ほぼ膝立ちのオルはその速度に対応しきれない。なんとか長剣を両手で捧げ上げてその腹で斜めに受ける。
戦棍の先端に生えた七枚の板金が、長剣と火花を散らす。
耳障りな金属が金属を引っかく音。
どうにか身体を逃がしながら、頭の横を通り過ぎる戦棍の先端を見送った。
雪の上を転がり、広場から樹幹の間へと逃げ込みながらオルレイウスは分析する。
おそらくレシルは身体が非常に柔軟なのだ。
単純な筋力量もばかにはならないだろうが、レシルは腕の力というより身体の芯で重量のある戦棍を振るっているように見えた。
まるで前世のバレエダンサーやフィギュアスケーターの回転。あるいはゴルファーのスイング。
先に顔や身体を捻って、遅れて身体やグラブが出てくる。
にも関わらず、全体の動きが速いから攻撃のタイミングも早い。
だから、身体を捻って敵に背を向けようとも大きくは問題がない。
おそらく鱗甲にも大きな意味がある。
その重量が戦棍を振り回した時の身体の芯にブレが出にくいように、その可動域の広さが身体のしなやかな捻転運動を実現させている。
そして、連撃が可能なほどの《技能》の練度。
少なくとも《あんまりみない》級、下手をすれば《ふつうじゃない》級の《技能》保持者だろう、と。
「つむじ風、だな」
大きく距離を取りながら、呟いた。
レシルはなぜか追撃しようとしてこない。
片手で重そうな戦棍を肩に担ぎあげ、オルを静かに見つめている。
その間にも対応手段を考える。
あの戦棍の速度と回転の速さでは避けきれない。
かと言って長剣で真正面から打ち合えば、長剣のほうが先に折れるだろう。
厚手の青銅製の長剣とはいえ、重量があり太い戦棍の強度はその比ではない。
まともに闘り合うのは無理がある。
ならば周囲の太い樹幹を盾にしながら、戦闘を行うのが無難だろう。
レシルの攻撃は明らかに横か斜めの動きに特化したものだ。
障害物があれば、存分にその《技能》の優越性を発揮できないはずだ、と。
そう結論を出そうとした時。
オルを観察していたレシルが口を開いた。
「その程度か?」
「は?」
「……貴様は二百体の《スノウ・ハーピー》を独りで斬ったのだろう?」
「ええ、まあ」
「私の戦棍を避け、受け流したことは、まあ称賛には値する」
「それは、ありがとう」
「……だが、その程度だ。常人に毛の生えたような動き。多少訓練を受けた程度にしか見えない!」
ほっとけ。オルは心中そう思った。
実際、《福音》を発動していない状態のオルレイウスの身体能力は低い。
レシルは常人並みと言ったが、むしろ、この世界の一般的な成人男性よりも身体能力は各段に低い。
その彼がどうしてレシルのような明らかに《あんまりみない》級以上の《技能》保持者と戦闘が可能かと言えば、ひとえに《福音》発動時に獲得した数々の《技能》にこそある。
つまり、技量は一級。だが、若干虚弱ぎみ。
総括すれば、それが現在のオルレイウスなのだ。
「本気を出せ! 私にはわかっている! 貴様は私の一撃を頭に受けて生きていた! そのようなことはどんな石頭でも不可能だ!」
ああ、そう言われてみればそうだったと考える。
あの時は身体を覆っていたのが《スノウ・ハーピー》の血液だったから、完全に《福音》の効果が消えることはなかった。
しかし、現在のオルはローブを完全に着こなしている。
「それはできない」
「……なんだと?」
そう、オルが本気を出そうと思ったら裸にならなければならない。
だが、全裸になればレシルが言い出した『レシル及びリシルの前で猥褻的な言動を働かない』という誓言に違反することとなる。
《義侠神ヴォルカリウス》から神罰がくだるのは目に見えている。
第一、本当は全裸になどなりたくはないのだ。
オルは自分の性癖がいたってノーマルで、スタンダードで、ストレートだと自任している。
「出し惜しみをするか。……見下げ果てた輩だ! この露出狂が!!」
「断じて違う!」
オルは露出狂ではない。
……その行動がまさしく露出狂そのものだとしても。
「樹木を盾にするつもりか? 破廉恥漢の上に頭も悪いとは、いっそ気の毒だ!!」
レシルが真っ直ぐオルに向かって駆ける。
オルは自分の身体を隠して余りあるほどの太い樹木の幹を自分の右に置きながらレシルの挙動を観察する。
左半身へとレシルが戦棍を横薙ぎに繰り出す。
想定内。ぎりぎりまでレシルの動きを見てから、巨木の影に隠れる。
巨木に戦棍が撃ち込まれる衝撃音。
飛び散る樹皮や木片。だが、巨木はやはり折れない。予測通りだった。
戦棍が撃ち込まれた側とは反対から飛び出す、そして、次の樹木の影へ。
オルの戦略はそれを繰り返すことだった。
繰り返していればそのうちに《テオ・フラーテル》の誰かが騒ぎを聞きつけて起きてくるはず。
そうでなくとも、レシルの体力とて無限ではないはず。
思考を巡らせながら反対側から飛び出そうとしたオルレイウスの鼻先に、戦棍の先端が迫っていた。
え? 思わぬ攻撃に、足を滑らせ樹木の影で尻餅をつく。
再び巨木の幹をえぐるような衝撃音。飛び散る生木の木片。
早すぎないか?
巨木の逆側でまた、音。三撃目?
回転が速すぎる。
そう思ったのも束の間、また四回目の衝撃音。
左、右、左、右と巨木の両側面を叩きつけるリズミカルな音。
どん、どん、どん、どん。
バスドラムよりも肚の底に響きそうな重低音だ、とオルは思った。
音が響くたびに周囲に巨木の破片が舞い、幹が少しずつ抉れていく。
まさか、巨木に打ち込んだ際に戦棍が受ける反作用を利用して、自分が考える以上の速度を実現させている?
撃ち込んだあと即座に逆側への捻転を開始しているとしても、この速度はありうるのか?
身体の筋という筋が引きちぎれてもおかしくないのでは?
巨木の影で尻餅をつきながら、そんなことを考えている間にもレシルの速度は上がっていく。
どん、どん、どん……だったものが、次第に「どんどんどんどん」に。
今ではもう、「どどどどどどどど」だ。
巨木がたわむ。破片と水っぽい樹液が飛び散る。
ばかげてる。オルは思った。
大人三人がかりで腕を伸ばしても樹幹を囲えなさそうだった巨木を、レシルは鈍器で打ち倒そうとしている。
巨木の真後ろへと跳躍した。
それに合わせるように音がやむ。
悪寒。巨木の影とは違う影が、焚火と月の遠い明かりに二重に照らされて、眼前の雪のフロアを淡く染める。
まるで、オルの影と重なるような浮いた影。
『後ろだ!』
《蛇》の声に振り返ってみれば、レシルが奇妙に傾いた体勢で宙に浮いていた。
そのままレシルは戦棍を身体に寝かしつけるようにしたまま真横に一回転。二回転目で頭の真上に戦棍が降って来る。
咄嗟に長剣を両手で支えながら立てる。そのまま長剣の腹に身体を寄り添わせた。
その身体ごと弾かれる。
地面を打ち抜いた戦棍の爆音。
舞い上がる湿った雪煙の中、オルはレシルが叩きまくった巨木とはべつの樹の幹にしたたかに背を打ちつけた。
腕の痺れと、背の痛みに耐えながらオルレイウスは理解していた。
これまで何度かレシルに殺されかけたが、今まで彼女はまったく本気ではなかったのだ、と。