7、おや? 彼女らと《テオ・フラーテル》の一行はこの世界に君臨する《七神》のうちの一柱の神託を受けて《ロクトノ平原》に来たようだぞ。
「つまり、わたくしがあなたに訊きたかったのは、そのようなあなたがなぜあのような格好であのような場所に独りでいらしたのか? ということですわ」
「……えーと……モンスターに対してそれなりの戦闘能力を持った僕が、全裸で、吹雪の《ロクトノ平原》に独りで、ということでいいですか?」
「そう、ですわ。……《スノウ・ハーピー》を二百も単独で倒せる戦闘能力をそれなりのという言葉で済ませるのでしたら」
悔い改める、ってなんだろう?
何事もなかったように話を進めるリシルに面食らいながら、オルレイウスは彼女の行為とそれが持つ意味をゆっくりと頭の中で反芻した。
この少女が見かけと異なるのは鋼のごとき精神力だけではない、と。
リシルはさきほどの実に下らない《祈り》に対しても神々から恩寵を賜った。
それはつまりリシルが優れた《神官》である証明ということにもなるのではないか、とオルは考える。
オルレイウス自身は《神官》について詳しくはないが、ふつう《祈り》に神々が常に応えることはないということは理解している。
より敬虔な者の、より《魔力》を込められた祈りにこそ神は応えると考えられている。
《魔力》の乏しい不信神者の《祈り》には決して応えないはず。
リシルがどれほどの《魔力》を今のくだらない《祈り》に捧げたかはわからないが、彼女にとっては大した量ではないのだろう。
それでも神はリシルに応じた。
《魔力量》が抜きんでているのか、ほかの多くの《神官》よりも敬虔なのかまではオルにはわからない。
しかしながら、彼女が神に目をかけられているのは事実だと思われた。
この世界の神々は慈愛にあふれ、己に厳しい者を好むというのが一般的に言われていることだ。
それに何より、リシルの判決によって命を救われたことに変わりはない。
オルの生命の危機の発端が彼女にあったにしても、オルには彼女の質問に真摯に答えなければならない義務があるように思えた。
「僕には裸にならなければ、あの状況を打開できるほどの力量がなかったのです」
「……あのようにならなければ? やはり必然性があったのですか?」
「次は僕が質問するターンですよね」
「ええ! そうでしたわ!」
リシルは弾けるように笑った。
少し前のオルレイウスだったならばこの輝く笑顔に強く惹かれたことだろう。
だが、今の彼は極めて冷静にその表情を見ることができた。
「リシル殿は、今『やはり』と言われました。そうお考えになった根拠をお聞かせ願えませんか?」
「……そうですね。あなたが初めてわたくしたちにお声をかけられた時、とても理知的な印象を受けました。また在野法廷の時も冷静にじっとしてらした。……それに……その……なにより……」
「ああ、そこから先は言わなくて結構です」
「……感謝いたします。誇るべきこととはわかっているのですが、どうも男性のそのような性質に言及することは、《アルヴァナ》にお仕えするわたくしとしては……」
赤面してごにょごにょ言うリシルの反応にオルは悟っていた。
どうせ『童貞』の一件を持ち出すんだろう、と。
美少女を赤面させて喜ぶ者の気持ちがリシルを見るオルにも少しわかったが、それが己の『童貞』由来となれば話は違ってくる。
バカヤロウ、こっちのがハズいわ! ……などとオルレイウスが心中考えたわけではなかったが。
「ごほん。では、わたくしの番ですわね? その、はだ……あのようにならなければならないどのような理由がオルレイウスにはあったのですか?」
オルはこの質問に答えるリスクについて考える。
言ってもおそらくは信じてもらえないだろうが、危険性はある。
オルがこれまでこの世界で生きてきた間に自分と同じような境遇の者に出会ったことはなかった。
前世の記憶を持った転生者、あるいは《福音持ち》。
転生者はもちろんのことだが、オル以外の《福音持ち》でさえも現在のこの世界に存在するという保証はない。
今までこの世界に現れた《福音持ち》にはどの神からの《福音》なのかわかるような恩寵や兆しがあったという。
そうでなくともこの世界の多くの人族が産まれてからほどなく《洗礼》を受ける。
《洗礼》では赤ん坊の身体を聖油で洗い、その流れ落ちた聖油を神殿内の泉や泉を模した器に浮かべる。
そうすると聖油が《既知神》にして《義侠神》《ヴォルカリウス》の言葉を水面に形作る。
それによって《福音持ち》も、その《福音》も、かなり早期に発見され、その内容もかなり詳細にわかるらしい。
実際、オルレイウスに与えられた《福音》の存在が明らかになったのも《洗礼》によってだった。
当時のオルにはまだこの世界の言葉が理解できず、自分が何をされているのかもよくわかっていなかったようだが。
ただ、父ニコラウスと故国の神殿の《神官》だった老イェマレンが深刻そうな雰囲気で何事か語り合っていたことはわかった。
とにかく、オルの耳に聞こえてきた範囲の噂に《福音持ち》が現れたというものはない。
加えてニコラウスによればオルに《福音》を与えた神の名は《洗礼》でも明らかにならなかったそうだ。
おそらくは現在のこの世界でも、かなり稀少な《福音持ち》。
しかもその《福音》の由来がどの神かもわからない上に能力の内容が内容だ。
それらはオルレイウスにとって大きなハンディキャップだった。
オルが出会った《神官》はリシルで二人目だ。
一人目の《神官》は故国のイェマレン司祭。
彼がオルを見るときのひそめられた眉が思い出される。
だが、オルレイウスはそれらのことを考えながらもあまり頓着はしなかった。
「ええ、ありました。裸にさえなれば、僕はおそらくほとんどの状況を打開できるでしょう。……では僕から次の質問をしてもよろしいですか?」
「……どうぞ」
不思議そうな面持ちのリシルにオルは問いかける。
「あなた方が授かった神託とはどのような内容だったのですか?」
「それは……」
また、リシルが言い淀む。今回は羞恥とは別の理由だとオルにもわかった。
リシルが声を潜めて語りだした。
「……二か月前、とある冒険者のパーティーがひとりの《元老院議員》に伴われて《アプィレスス大神殿》を訪れました。ルエルヴァにある七つの《大神殿》へふつうの冒険者の方々が訪れることは滅多にありません」
リシルによれば、七つの《大神殿》とは《ラマルティトス大陸》でも特に崇拝されている七柱の神々のために建てられた神殿らしい。
七柱の神々とは《世界を治める七大神》のことだろう。
俗に言う《七神》だ。
《技能神》《天上の主宰者》《盾と鎧の処女》《機知神》などの尊名を持つ《純潔神アルヴァナ》を筆頭に、
《すべての母》《最古の女神》《死者を慈愛で包む》――《冥府の女王ディース》
《狩り手の守護者》《万物に帳を下す》《未知神》――《夜の女神トリニティス》
《狩り手の栄誉を称える》《万物を育み癒す》《理知神》――《陽の神アプィレスス》
《旅人の護り手》《疾風の》《既知神》――《義侠の神ヴォルカリウス》
《戦士の支援者》《猛威と破壊の》《反骨神》――《戦の神マティルトス》
《技と工の導き手》《烈火の》《熱誠神》――《鍛冶の神ヘイズ》
オルはそれらの神の名を順々に思い返してから、口を開いた。
「そのとある冒険者のパーティーというのはたとえば権力者の子飼いであったとか、大きな商人や商会の後ろ盾があったとか、《大神殿》の権力者にコネクションがあったとか。そういうことですか?」
「え? そういうものなのですか?」
「え? 違うのですか?」
その言葉にリシルはむむっ、という顔をする。
「わたくしは若輩者ですので詳しいことは知りませんが、《冒険者》の方々が《大神殿》にお見えにならないのは堅苦しい儀礼を嫌ってのことだと思っておりました。……ハギルさんやレインフォート様やサルドーラム様も、わたくしがそう問うと笑顔を返してくださったのですけど」
笑顔ではなく、苦笑いだったのではないだろうか。
そうオルは考えたが敢えて口にする必要はないと、スルーすることにした。
「それで普段は《大神殿》に訪れないはずの《冒険者》が、どうして《陽の神アプィレスス》の《大神殿》を訪れたのですか? それが今回のあなた方の授かった神託とどう関係するのですか?」
「そうでしたわね。まだ途中でしたわ」
何か考え込んでいた様子だったリシルが、はっと顔を上げて慌てるように頷いた。
「その冒険者の方々は《ロクトノ平原》で《鬼火》を見たそうでそれがどのような予兆なのか、神託を希望されたようですわ」
「……なるほど。つまり、その冒険者たちが授かった神託の内容が、あなた方に関係するものだった?」
リシルが真剣に頷く顔を眺めながらオルは考える。
《鬼火》――《ウィルオ・ザ・ウィスプ》は災難の予兆であると言われる。
その際の災難は単なる災難というよりは致死と永劫の責め苦を示している。
《鬼火》とは曰く《深潭》の《慈愛の女神ディース》にさえ嫌われた罪人のなれの果てだ、と。
それを見た者はその罪人と同じ道を歩んでいるのだ、と。
加えてオルは思い出す。
《陽の神アプィレスス》は同時に《理知神》でもあったはずだ、と。
四柱の《知識神》にも数えられる《陽の神アプィレスス》は理知を司り『理知と推知を誇る』と言われている。
その《理知神》としての神格からか、《アプィレスス》は《予知神》としても有名な神だった。
「さらには冒険者たちが見た《鬼火》はひとつでは無かったのです。それはなんと……」
「三つ?」
「そう! 三つもの《鬼火》がゆらゆら……オルレイウスは既にほかの方から聞いていたのですか?」
「いえ。とりあえず続きをお願いします」
「はあ」
リシルが小首をかしげてから曖昧に頷いた。
そう。オルレイウスはそんな話など聞いていない。
ただ、三つの《鬼火》の主たちにほんのひと月ほど前に遭遇していただけだ。
「《アプィレスス大神殿》において御神から下された神託は次のようなものでした。『ルエルヴァに破滅をもたらす恐れのある曲がつ力の持ち主が《ロクトノ平原》に在る。破滅を怖れるならば《デモニアクス》の名を受けた乙女を遣わすがいい』と。……これで答えになったでしょうか?」
オルは考えていた。
その預言がどのような意味を持ちうるものか、と。
神託を求めた冒険者パーティーは《鬼火》についての神託を求めたという。
確かに、オルが遭遇した三つの《鬼火》のうち二つはまさしく叙事詩や譚詩曲の中の登場人物でも主人公でもあるし、伝説級の力を持っているはずだ。
しかし、彼らが《ルエルヴァ共和国》、あるいはその首都ルエルヴァに破滅をもたらすような意図を持っているようにはオルには思えなかった。
「その冒険者のパーティーを《大神殿》へと連れて行った《元老院議員》とは、どのような職業なのですか?」
「それは、……いえ、別の質問として数えるべきことではなくて? まだ、あなたのターンではありませんわ。オルレイウス」
「そうでしたね」
ふふっとリシルは得意げに笑ってから好奇心に満ちた目をオルに向ける。
「それで、あなたがはだ……いえ。わたくしたちが会った時のような装いになることが、どうしてあらゆる状況を打開することになるのですか?」
「ええ。僕の与えられた《福音》が」
『待て待て待て! オルレイウス!』
今の今まで影の中で大人しくしていた《蛇》の地から湧き上がるような大声。
思わずオルは言葉を切って顔をしかめる。
《蛇》の声は、基本的にはオルレイウスにしか聞こえない。
《蛇》が意図すればほかの者にもその声は聞こえる。
実際、《蛇》はオルレイウスの父ニコラウスとはよく喋っていた。
驚きの表情のまま固まっているリシルをよそに《蛇》はオルにしか聞こえない声で話しかける。
『お前さんはバカじゃないだろ? オルレイウス。危うく《影》のいさおしが台無しになるとこだ。お前の《福音》は人の耳目にゃ強すぎる。追いたてられたくなけりゃ、黙ってるのが吉ってもんだ』
《蛇》の声に耳を傾けたあとでオルは相変わらず固まったままのリシルに向けて口を開いた。
「失礼しました、リシル殿。それで僕のギフ」
『くそ野郎か! オルレイウス! お前さん、頭の巡りは悪くないくせに、とんだところで神経がすっぽ抜けていやがる! 《蛇》のいうこた聞いとくもんだ!!』
オルレイウスにだって《蛇》の言いたいことはわかっていた。
確かにリシルの質問に正直に答えることは、大きな危険をともなう可能性がある。
だが、ともオルは考えている。
それはウソをつくことを正当化する理由にはならない、と。
自分可愛さからごまかしを口にしたとしても、その歪みはきっと自分にのしかかる。
一度ウソを口にすれば癖になる。
ウソをついた自分を正当化するという嘘を、改めて自分につくようなものだ。
リシルのようないかにも純粋な少女の信頼を裏切る行為は、自分自身を曲げるようなものだ。
だからオルは、《蛇》の警告にひとつ眉をしかめてから、また口を開く。
「僕のギ」
『あー! あー! あー! バカ野郎にくそ野郎! すっとこどっこいにうらなり瓢箪! 聴け、オル! お前さんの身の安全は、すなわち《蛇》の巣の安全だ! 断固として阻止するぞ! このくされ童貞!!』
「ピュっ……!」
怒りに鹿肉を串刺しにしている棒を握りしめながら立ち上がった。
その頬は我知らず羞恥に赤く染まっている。
『おや? お気に召しませんでしたか主どの? 童貞、童貞、オルレイウス。どうどう童貞、オルレイウス。一生、童貞、オルレイウス。童貞こじらせ、腐るがいい』
オルは背中のほうに伸びた影を睨みつける。
「どうした? なんかあったか?」
離れたところで雪をかき終わって浅い穴を掘っていたハギルが突然立ち上がったオルに問いかける。
今夜の寝床はその穴に枯れ葉を敷き、耐水性に優れた薄い獣の皮などを被せたあとでコートにくるまって横になるそうだ。
またその上から獣の皮を被せ、ほかの者に軽く土をかけてもらって寝るという、オルには《福音》の制限上どうしてもできない寝かただ。
土を被せた者はそのまま火の番をする。
今夜は晴れているので、このような野営でも大丈夫だろうというハギルとクァルカスの判断だった。
吹雪の夜の火は《スノウ・ハーピー》の格好の的だが、ほかの低級の《魔獣種》はそれを嫌う傾向を持つものが多い。
焚火の番は《テオ・フラーテル》のメンバーがその役目を交代でする予定らしい。
「……いえ、なんでもありません」
「そうか? 早くメシ食っちまえよ」
「……はい」
《蛇》に対する怒りを噛み殺しながら、オルはハギルとの会話をなんとか終えてまた腰を下ろした。
影の中で、《蛇》はまだ『童貞、童貞』と心地よく歌っている。
オルレイウスは決意する。
いつかこの居候を影の中から追い出してやる、と。
怒りの決意に震えながら焚火の向こう側を見ると、両手でリシルが顔を覆って俯いていた。
「どうかしましたか?」
努めて冷静に、リシルに問いかける。
両手の間から見える頬が若干赤いように見えるが。
「いいえ! なんでもありません! ……わたくしは食事も終わりましたので、皆さんのお手伝いをいたします!」
そう言うと、リシルは顔を覆った手と一緒に首を横に振ると、オルに背を向けるように立ち上がった。
どうしたことか。呆気にとられるオルが聞かされていた《蛇》の歌が止まる。
『……まさか?』
《蛇》の小さな呟き。
同時に、背中に悪寒が走る。
思わず振り返ったオルの瞳に、森の暗がりに佇む恐ろしい形相をした女騎士の姿が映った。
その顔を見なかったことにしようと慌てて焚火へと向かいなおす。
レシルの目には今の映像がどのように映っただろうか?
顔を覆ってオルの前から逃げるように立ち去ったリシルの姿が。
「今夜は、特に警戒が必要かもしれない……」
オルレイウスは冷えた鹿肉をかじりながら小さな独り言をこぼした。