1、おや? 主人公のオルレイウスが誰かに出会ったようだぞ。
彼の視界の中。
ふいに小さな光源がひとつ現れて真っ白な世界の一隅を照らし出した。
《ラマティルトス大陸》でも有数の広大な平野地帯《ロクトノ平原》に現れた光。
それが《祈り》の光であることを彼は悟る。
乏しい灯りに照らされて二つの天幕が雪の闇にぼんやり浮かび上がっていた。
雲に覆われた空に月はなく、ただ祈りの炎とそれが照らし出すものだけが、降りしきる雪の中で異様に浮いて見えた。
その炎で暖でも取ろうというのだろうか。
天幕の前にはさらにふたつの人影が赤く揺らいでいる。
「まずい」
離れた場所からそれを眺めていた彼は、その言葉を白い息とともにこぼした。
鼻先にわだかまった息は穴ぐらに吹き込む雪に流される。
それを掻き分けるように、寝かせていた《糸杉の杖》と《青銅の剣》を起こしながら、彼は素早く地上へ這い出した。
半地下の穴ぐらの外は別世界と呼ぶにふさわしい。吹きつけ嬲る、草原を埋める雪の冷たさにむき出しの足が震えた。
立ち上がる一歩で寒気を頭から追い出す。
「ゆめゆめ忘るることなかれ。唯々と流さることなかれ。愚かな頭は図らずに、勇んだ足もまた測らぬ。それすなわち蛮勇ゆえに、命をあたら捨つるなり」
いつかニコラウスが詩っていた警句が彼の頭をよぎる。
しかし、力があるかどうかと、彼の思いには関係はない。
考えている時間もない。
彼は与えられたから誰かを救うわけではない。
それができるから誰かを護るわけでもない。
正直に言って、そうしたいのかどうかもわからない。
そんな感興を伴って、それでも彼は走り出した。
走ることは不条理な事だ。
心拍数が跳ね上がり、肺が大きく膨張と収縮を繰り返す。
繰り返すごとに灼きつけられる記憶のように身体は熱を覚え、感覚は研ぎ澄まされる。
この感覚が条理や道理に照らして正しいものならば、どうして喉が嘆きのような喘ぎを上げるのだろう。
彼の喉とは違う喘ぎを奏でる風音。
淀みない《大地》の息吹が地上の万物との間に喘ぎを生む。
ふいに、風がより強くなる。
雪がしたたかに、すべてを打ち据える。
彼が遠目に発見していたふたつの天幕の前で灯されていた《祈り》の灯りが落ちた。
次いで人間がひとり、ふたりと、天幕から吐き出され、外にいたふたりに合流する。
刹那の口論。そして、テントの嘔吐物である彼らは素早く陣形を組む。
天幕から出てきた者もこれから何が起きるのかを悟っているらしい。魔鳥が彼らを見つけたのだということを。
『キィヤァァァァ』
風の音に混じって硬質の哭き声が無数に重なる。
くぐもってどこか響かない叫び。
視界を覆う無数の雪片が耳をつんざくはずのそれらの絶叫を、柔らかく包み込む。
風に乗って夜を塗りつぶす雪花は、小さなつぶてのように走る彼とテントの一行を襲っていた。
吹雪をまとって鈍色の闇を切り裂く無数の白い影。
「くそっ! 《スノウ・ハーピー》! しかも群れだ!」
魔鳥の絶叫と風音を背景に、男の狼狽えた声が聞こえる。
《ルエルヴァ語》だ。
《スノウ・ハーピー》。
氷の青白い両翼を肩から腕のように生やし、つららのように鋭い蹴爪で獲物を狩る。
半女半鳥の魔鳥。
その頭部から胸にかけての半身は人間の女性のものだと言われるが、鋭利な鼻筋と猛禽類のような眼光は人間離れしている。
年中雪の消えない高山地帯に生息していて、ふつうならばここ《ロクトノ平原》のような低地には出没しない。
雪深い冬という時期と天幕の灯りに呼び寄せられた《魔獣種》。
グリア人なら誰でも知っていることだ。
吹雪の夜には人の領域を離れず、離れてしまっても目立つように火を使わない、などということは。
「戦闘態勢! 所詮は鳥頭どもだ!」
男の猛るような、味方を鼓舞するような大声が彼の耳に聞こえた。
天幕から這い出た人影は四つ。外の二つと合流して全部で六つ。
総勢六人だけのパーティーが、男の声とともに戦闘へと移行する。
声の主はおそらくリーダーだろう。
その男の言葉は正しい。
本来ならば、《スノウ・ハーピー》はそれほど警戒を必要とする相手ではない。
魔鳥は、神代から存在する《天魔》《オリジン・ハーピー》の眷属だ。
それらとその眷属は掠め盗る。
糧食を。希望を。時に幸運な未来を。
《スノウ・ハーピー》の場合は、主に熱と光を。だから灯りに吸い寄せられる。
体温を奪っていく低級の怪物。しかしながら……。
彼は闇に足を回転させる。力の限りに。
想定しうる事態の中では、最悪に近いシチュエーション。
長衣を脱ぎ、杖ともども投げ捨てた。彼に残されたのはイルマから継いだ青銅の長剣だけ。
条件が満たされて《神々の福音》が、彼の身体を駆け巡る。
無声の声が彼の四肢を巡る。
心地よい全能感。しかし、彼はその感覚があまり好きではない。
喘ぎを上げていた肺が軽くなる。
脚にまとわりつく湿った雪が、彼の為に道を開く。
視界不良の闇が、曇天に瞬くわずかな星明りにまるで昼日中のように輝いて照らされる。
草原を氷の底に閉じ込めてしまおうとする吹雪を、雪原を、切り裂いて疾駆する。
空を覆う雲と吹雪が創り出したネズミ色の闇を、彼は雲霞のような魔鳥の群れに向かって走り抜ける。
《オリジン・ハーピー》ならばともかく、《眷属》は低位の魔獣だ。
しかしながら、《福音》を発動した彼の目はその大群を捉えていた。
五十、それとも六十か。もっと増え続けている。周辺に散っていた群れが、一行の灯したか細い灯りに呼び寄せられていた。
それにしても多すぎる。六人ほどのパーティで対抗できる数ではない。
『だからどうした? なぁ、オル。お前には関わりないだろう? 英雄を気どるなよ』
彼の影に潜む《蛇》は足許で囁くように哂う。
確かに、これは彼――オルの問題ではない。
オルには関わりがない。
彼は自身を善人だとか、あるいは正しい信仰を持った人間だとは思っていない。
だから、これは英雄的行為でも殉教的精神でもない。
かと言って、自己満足や偽善でもないと彼は考える。
ただ身体が勝手に動いたのだ。
寒さに硬直する脚が、見えない敵に震える掌が、見知らない護るべき人のために折れそうな心が奮い立つ。
そこにどんな理由が必要だろうか。
そこにどんな背骨が必要だろうか。
だからオルは宙を駆ける一歩を踏み出す。
オルは彼らを助けたい。それ以上の理由がいるだろうか。
誰かを守ることに、誰かを救うことに理由が必要だろうか、と。
『勘違いするなよ、オル。オルレイウス。お前に授けられた《福音》はお前のものじゃない。その使い方は正しくない』
形のない《蛇》は嘲るように警告する。
オルレイウスもそれに笑うように応じた。
「それこそ、知ったことじゃない」
一行までおよそ三十歩の距離、彼は間合いに数体の《スノウ・ハーピー》を捉えていた。
「炭よ、熾きよ。小さき真紅の踊り手よ。凍える我らをほどかすものよ。我が窯を煮立たせるものよ。かまどに常に住まう友。暗夜を払い、闇を追い、我らが行く手を照らすもの。近きを開き、遠きを示し、勢力を以って灰燼と化すに躊躇いなきものどもよ。木を、樹を炙り、森をなめる紅き舌を持つものどもよ。太古には《天上》さえ焦がしたものどもよ。双子神よ。優しき帳の女王よ。雄々しき《鍛冶神》の名にかけて、我に力を与えたまえ。我が眼前の敵を打ち熔かせ!」
「巨人の鱗を鎧いし女神の加護を」
オルレイウスが長剣を振るうと同時に、前方から男女ふたりの声がそれぞれ呪いの言葉と祈りの言葉を唱えていた。
彼の視界が赤く染まった。
雪原を赤く照らす立ち上がる炎。かなりの威力。《スノウ・ハーピー》の断末魔。
しかし、数瞬で鎮火する。魔鳥の数が多すぎる。
「ロス! 補助に回れ!」
戦士職らしいリーダーの男が後衛の《魔法使い》に叫んでいる。
オルレイウスはそれを聞きながら、一行を目指して長剣を振るう。
《スノウ・ハーピー》を一体、二体、斬り捨てていく。
六体、七体。どれだけの数がいるのか、そんなことは関係ない。
冷たい翼に押し包まれる。
鋭利な、つららのような爪が彼の身体に食い込んだ。
零下の悲鳴が体温を掠め盗る。
彼の身体が傷を負うたびに、身体を流れる《福音》が反応する。
傷を負っては治され、熱を奪われては与えられる。
痛みは身体機能に対する警鐘という役割を降り、ただ強烈な不快感だけを彼に残す。
それでも彼の動きは鈍らない。
息を吸う間に突き、薙ぎ、払う。
息を吐く間に切り下げ、切り上げ、身体を捻って胴を斬る。
飛びかかる魔鳥たちが彼の握る剣把の届く範囲を侵すたびに雪の地上に落ちていく。
ゆうに百体以上は切り伏せたはずなのに魔鳥は一向に減る様子がない。
それでも彼は先を急ぐ。
已まない痛みと苦痛。肉なのか氷なのか良くわからないものを断つ感触の果てに彼は考えた。
魔鳥たちにもしも自我があるならば、自分を恐れるがいい、と。
忌むがいい。呪うがいい。憎むがいい。
それでも自分は止まらないのだから。
鈍った刃を叩きつける。薙ぐ。
吹雪を切り裂き、雪像に刃を通すように、周囲を飛び交う魔鳥たちを切り伏せていく。
気付けば、天秤が揺らぎ、ゆっくりと傾くようにいつしか魔鳥の群れは勢力を失っていた。
何体斬ったのか。どれだけの時間が流れていたのか。
今は疎らな宙に羽ばたくすべての猛禽の瞳が距離を取ってオルレイウスを囲んで凝視していた。
魔鳥だけではなく、人間の瞳が途方に暮れたように彼を見ていることにも気づいた。
魔鳥の群れは途中から彼だけを目指して攻勢をかけていた。
オルレイウスは《スノウ・ハーピー》の水色の体液に濡れた長剣を構え直す。
《福音》の効力が薄れている。《スノウ・ハーピー》の返り血で彼の身体が汚されているせいだ。
しかし、イルマに叩きこまれて染み込んだ技が彼の身体に戦闘態勢を強いていた。
『……時ヲ見誤レシ者、時代錯誤者ノ尖兵ヨ。ソナタヲ待ツハ大イナル恥辱ノミ』
硬質で甲高い鳴き声が意味をもって表れる。
《ハルピュイアイ》の予言。
それが、合唱のように雪の中に響いて遠のいていく。
雲を引き連れ、大きく減った魔鳥の群れが吹雪をまとって山の向こうへと帰って行く。
オルレイウスはそれを見送り長剣を杖代わりにして、ようやくひとつ安堵の息をこぼした。
どうやら危機は脱したようだ、と。
「……魔族?」
おさまりつつある吹雪の中、《福音》に助けられた彼の耳に、その声はいやにはっきりと響いた。
思わずその方向を振り返る。
蒼褪めた肌、血の気を失った唇。輝くような銀髪に、白と青のおそらくは神官服の上に毛皮のコートをまとって、灰色の瞳を震わせる少女がそこにいた。
やはりグリア人じゃない。
彼がこの世界に産まれ落ちて初めて見るタイプの人類。
「何者だ?」
《神官》の少女を押しのけるように大柄の男が前に出た。
左腕に円盾を構えながら、右の短剣で威嚇してくる。髪色と同じ茶色い毛皮のコートをまとった《戦士》。
《スノウ・ハーピー》との戦闘で最前線に立っていたリーダー格の男だ。
その背後で弓を持った明るい茶色の長い髪を後頭部で結わえた細身で長身の男が矢をつがえる。
《弓兵》。
小柄で身軽そうな黒髪の《工兵》がオルの周囲を窺っていた。
《神官》の少女をその背に隠すように、大盾を構えた鱗鎧の男がゆっくりと前に出る。
頬や鼻筋を覆う兜の為にその表情はわからないが、肩で荒い息を鎮めている。
ただ、頬のこけた長い灰鬚の《魔法使い》だけがオルを興味深げに見ていた。
オルレイウスは緊張していた。半年ぶりにまともに人間と会話するのだ。
幸い、《ルエルヴァ語》はニコラウスの教育のおかげで喋ることができた。
うまく発音できるだろうか。不安とともに彼は震える舌を這うように動かす。
「グリア人だ。あななたちはルエルヴァの人か? なぜ吹雪の夜にこんな場所に?」
「…………我々は、……裸っ?!」
答えようとしたリーダー格の《戦士》が驚愕に喘いでいた。
いつのまにか雲が割れていた。
青白い月の光がオルレイウスの身体を照らしている。
照らし出される銀色の雪原と、蒼褪めた顔、顔、顔、顔。
「いぃぃぃぃやゃぁぁぁあああ」
オルは一瞬、《スノウ・ハーピー》が戻って来たのかと思った。
違った。
《神官》の少女の悲鳴。というより絶叫。
「異教徒か?」
「いや、魔教徒だろ!」
《魔法使い(ソーサラー)》と《工兵》が言い交す声。
オルはようやく自らの粗相に気がついた。
そう。考えてみれば彼は、全裸だったのだ。
一糸たりともまとっていない。
誰がどう見ても全裸だった。
「警戒態勢! 周囲にも注意を! ……な、待て!」
号令を発する《戦士》の横を、鎧をガチャつかせた《重装歩兵》が駆け抜ける。
そのまま一直線にオルレイウスに向かって来る。
脳内で弁解と羞恥心が大戦争を繰り広げている真っ最中の彼に向かって。
「死ね! 涜神者めっ!!」
《重装歩兵》の男、いや、彼女はそう言いながら盾の陰から抜き放った戦棍を思いっきりオルの頭に振り下ろした。
衝撃。
つまり、彼女は《重装歩兵》ではなく《僧侶》、あるいは《騎士》だったのか。
オルレイウスはそんなどうでもいいことを考えながら、その身体と意識を雪の中へと投げ出した。