九 コンディション"D"
国防総省からの緊急連絡を受け取ったチトーの副官が、執務室にいた人間すべてに聞こえる大声で叫んだ。
「ニューヨークに巨大生物出現!」
チトーが立ち上がった。
「被害は」
「甚大です。多数の死傷者が出ているもよう。ですが情報が錯綜しており詳細は現段階では不明です」
聞くなり何人もの文官がわっと大統領に群がり、口々に意見を進言した。執務室は喧騒に満たされた。
輪から一歩離れていたマヘンドラ国防長官が、糸杉のような長身からは想像しえぬどなり声をあげた。
「諸君。まず大統領に即刻、安全な場所に避難していただくのが先決とおもう。可及的すみやかにコロラドスプリングスにむかう部隊を手配しよう」
チトーもヒットリアの耳に顔を寄せ、わたしもそのようにおもいます、至急シェルターへお移りください、とマヘンドラの意見に同調する意思をつたえた。
ヒットリアは、デスクにかけたまま一黙していた。たしかに合衆国大統領、全軍の総指揮官という立場を鑑みれば、核シェルターをかねた警備厳重な司令部へと避難するのが道理に思えた。しかし……いまここで逃げてしまうのが正しい選択だろうか? ニューヨークの市民たちはいままさにこの瞬間、巨大生物の襲撃に遭ってどこへ逃げればいいかもわからないであろうに、かれらを見捨ててじぶんだけ専用の航空機で逃げて、それが許されるだろうか。非常の事態にさいし、国民を守る矢面に立つために、じぶんは大統領になったのではあるまいか。そして、じぶんひとりが安全なシェルターへ逃げこんで、なんとか巨大生物の問題を解決して、それでどんな顔をして外に出ればいい? 国民のみなさん、だいぶ数が減りましたね。わたしは核の直撃にも耐えられるシェルターにいてぶじでした。とんだ災難でしたが、また祖国を再建しましょう……そうにこやかに笑うのか、選挙演説のときのように? いまこそ、大統領自身が血を流して闘うべきときなのではないだろうか。……
長年の朋友たるチトーは、ヒットリアの顔いろから、大統領の葛藤を痛察していた。二個の空母打撃群が全滅したことを、ヒットリアは完全にじぶんの責任として背負いこんでいる。数多くの兵士や士官を死なせ、いままた無辜の市民が怪獣に襲われているのを尻目に逃避することに、良心の呵責を感じているのだと。ひとりの人間として、ある意味それはとうぜんの思考だった。だが大統領として正しいかどうかとは別問題だ。
いまだに文官や諸将が口角に泡飛ぶ形相で大統領に建白しているなか、チトーはヒットリアだけに聞こえるようにささやいた。
「大統領、ここは臨時の司令部となってはいますが、戦時に十全な機能をすべて揃えているとはいえません。NORAD(北米防空司令部)なら政府機能の中枢の代替が務まりますから、全軍に対する円滑な指揮系統が確立できます。また、大統領の身の安全を確保できますので、そのぶん警護のものもほかの任務につかえます。どうか、ご英断を」チトーはわずかに間をおいて、堅物の彼には珍しく、軽く笑うようにして、こう付け加えた。「いざとなれば、われわれに力づくでNORADに連れられたとでもいえばいいでしょう。現に大統領はこうして悩んでおいでなのですから」
ヒットリアは黙ったままだった。しかし、やがて喉の奥からかすかな笑いを洩らした。
「息子を未熟者といったが、わたしも大統領としてまだまだ子供なようだ」
自嘲ぎみに述懐した大統領は、ゆっくりと、だがたしかな佇まいで立った。みな、口を噤んだ。大統領の決心が固まったことをさとったからだった。
ヒットリアは、合衆国大統領にふさわしい威厳ある声音と口調で命令した。
「大西洋軍と北方軍に連絡。できるかぎり多くの国民を避難させてくれ。グローバルホークを緊急発進、一刻もはやく現地の映像を確認し、しかるのちマンハッタンを拠点に防衛線を構築、敵を殲滅せよ。われわれは大至急、NORADにむかう。副大統領、閣僚、統合参謀本部の諸将も随行してくれ。きみたちこそホワイトハウスの骨格だ」
命令を受けたチトー将軍がアンドルーズ空軍基地の直通回線を開き、大統領専用機の離陸準備にすみやかにとりかかるべきことを通達した。マヘンドラ長官は、結果的に進言どおりの展開にこそなったものの、それがじぶんの意見の採用によるものではないことに不満をいだいているような、神経質なしわを眉間に刻みこんでいた。だが、あからさまにそんなようすをこの場の人間たちにみせるのは得策ではないことに気づいたか、いつものとおりの無表情の仮面をかぶり、いかにも大統領の身を案じているというのをアピールするためにヒットリアに具申した。「専用機の護衛にラングレー基地のF−22をつけます」
ヒットリアはうむ、と頷いて、
「ネロは……アンサン隊はすでに異動ずみか?」
と訊いた。予想を裏切らない問いにマヘンドラはよどみなく「は、ご命令どおり、ネヴァダに。すでにかの地で待機しているはずです」と答えることができた。信じて疑わぬようすのヒットリアに、思わず口の両端がつりあがってしまうのを、マヘンドラは鉄の意思で完全に封殺した。
「ズムウォルト級の到着はまだか」
ヒットリアが首を太平洋軍司令官にむけた。
「USS<ユエルン・シティ>はいましばらくかかります。湾への接近は二時間後を想定しています」
よし、と大統領はひと呼吸おいてから、執務室にいるすべての人間に宣言した。
「現時刻をもって、合衆国の警戒レベルをコンディション“D”にひきあげる。陸海空の兵力を総動員し、敵巨大生物を駆逐せよ」
プロフェッショナルの軍人たる各統合軍司令官たちはともかく、その副官と、閣僚、スタッフらは緊張し、おののいた。
「レベルD……最高級の警戒レベル……!」
「戦争状況……だ!」
無明の戦いが、始まろうとしている。
アランはほうほうのていで走っていた。酸素が足りない。脇腹が刺されたように痛む。それでも走ろうとする。足がもつれる。前後もわからぬ。アランの走りはすでに歩いたほうが速いくらいになっている。
もはやじぶんがどちらへむかって逃げているのかわからない始末だった。ほとんど本能に身をまかせ、町辻という町辻をぬけ、街路という街路を駆けて走った。ふと見覚えのある通りに出て、目をこすり、眼底をさいなむまぶしい陽光に手を翳して目線をあげる。
代赭いろのレンガをまとった、ショッピングモールなみの大型の建物。それにワシントンの記念塔を黒く塗りつぶしたような長大な物体がもたれかかっている、出来の悪い悪夢よりも非現実的な光景。
まさしく、キングス・カウンティー総合病院と、打ち上げられた鯨のようにいまだに倒れかかって微動だにしていない原子力潜水艦だった。なにも考えぬまま走っているうち、からだが勝手にここへ帰ってこさせたものらしい。帰巣本能でアパートではなく仕事場に戻ってくるとは、自身で思っていた以上の重度なワーカーホリックであったようだ。
病院は、レスキューによる要救助者の捜索もあらかた終わり、通りがかる人が潜水艦に驚いて記念撮影する姿をみかけるくらいで、かなり閑散としていた。医師や医療スタッフも、搬送した患者をうけいれた病院の手伝いやなにかですでにここを後にしているようだった。
「エイブラムス先生……どうされたんですか、その格好?……」
なにも考えられないまま駐車場を縦断して病院内に入ろうとすると、背後からグレースに呼びとめられた。アランはふりかえって、グレースをじっと見、ついで無惨な破断面を晒している病院を見わたし、無意味な音節を洩らしながら目を泳がせた。いったい彼女になにをどう説明すればよいのかわからなかった。と、そこでアランはグレースのことばが気にかかり、思わず怪訝な目つきで彼女を睨んだ。グレースはアランの頭部あたりに視線を固定したまま手を伸ばし、アランの前髪を人差し指と親指の腹でこすった。グレースが検分するような面もちでその指を見つめ、アランもそれに倣った。グレースの二指には、小麦粉のような白い粉末が濃く付着していた。
アランは右の掌で自身の頭を強く撫で、確認した。掌は、真っ白に染まっていた。
おそらくは破壊された何十、何百という家屋の砕け散った粉塵がアランの全身を覆っているのだとおもわれた。それを考えると、アランはさきほど目の当たりにした光景……巨大生物に街衢が蹂躙される恐るべき光景がまざまざと脳裡に蘇ってきて、アランはそれを振り払うように両手で頭を痛いくらいにはたき、かつて人人が暮らしていた家家の一部だった粉を落とした。アランの髪の毛からは、ようもこれほど被っていたというほどに粉塵が出た。
グレースがいるべき人間の不在に気づき、いまだ腰を曲げて頭の土埃を払い落としているアランに遠慮がちに問いかける。
「オニール先生は……?」
オニールというのは、ギャンボルの姓であった。
「ギャンボルは……」
アランの手が止まった。怪獣の脚に虫けらのように踏み潰された映像が脳内で再生され、あたらめてその恐怖に二の腕と背中に鳥肌がたった。
アランは周囲を見て、グレースの両肩をつかんでいった。
「はやくここから逃げるんだ。ここは危ない。ニューヘイヴンでもどこでもいい、いやマッティタック空港へ行って飛行機に乗るんだ。とにかく遠くに……」
「まってください、エイブラムス先生、おちついて。なにがあったんです?」
大排気量のエンジンの駆動音がふたりの会話を引き裂いた。クラークソン・アヴェニューの中央を八輪の装輪車が走っていった。堅牢な車体の上部にはヘルメットを被った兵士と機関銃が風を受け、前を見つめている。米軍自慢のストライカー装甲車だ。しかも一台ではない。何台ものストライカーが数珠つなぎになって走行していた。
十台ちかく装甲車が通過したのち、それらとはくらべものにならない、ジェットエンジンにも似た高音の騒音を撒き散らしながら後につづいたのは、太く長い砲身を掲げた、褐色の戦闘能力の塊。世界最強の主力戦車、M1A2エイブラムスだった。無限軌道がアスファルトを踏みしめながら六〇トン超の大重量を運んでいく。ガスタービンエンジン特有の胸の悪くなるような臭いの排気ガスを盛大に噴き上げながら、鋼鉄と劣化ウランの複合装甲の鎧をまとった戦車は進む。
戦車が通りすぎたあと、しんがりを務める一台のストライカー装甲車が後を追い、さらに拡声器を手にした陸軍兵士が大勢の市民をひきつれ誘導していた。兵士が拡声器で不特定多数に呼びかける。
「さきほど政府より、非常事態宣言ならびに緊急避難命令が発令されました。対象区域はマンハッタン全域です。ブルックリンにも避難指示が出されています。市民のみなさんはおちついて、軍の誘導にしたがって避難してください」
アランはいてもたってもいられずその兵士に駆け寄った。
「マンハッタンに避難命令って、マンハッタンになにがあったんだ? やはり、奴はあそこに?」
「すみません、なにも申し上げられないんです。ですがマンハッタンは戦場になります。ぜったいに近づかないようにしてください。われわれは安全な区域へ市民を誘導するのが任務です。ついてきてください」
アランが力なくかぶりを振ると、白人兵士はまた拡声器で宣告しながら市民たちを引率する役目にもどった。
おぼつかない足どりでグレースのいる駐車場に引き返す。と、アランは雷撃に打たれたように全身を震わせ、ポケットの携帯電話を取り出した。寒いわけでもないのにはげしく震える指でジェシカの番号をさがし、電話をかける。
すぐにつながった、とおもったら、無機質な音声が流れた。
「現在、回線がふさがっております。しばらくお待ちになってからおかけなおしください……」
「くそっ」
携帯を叩き割ろうと振り上げたが、ものにあたってどうこうなるものではない。やり場のない憤懣が迷走し、アランは悪魔の名を呟いた。
アランがだれと連絡をとろうとしているかしらないまま……あるいは直感でさとっていたのかもしれないが……グレースがためらいがちに声をかけた。
「先生、こういうときは携帯よりも公衆電話の回線のほうが優先されます。そちらを使ってみては……?」
アランは妙案を提示されて、なんでそんな簡単なことに気がつけなかったのかと自分で自分にいらだちながら、病院内のロビーに急いだ。
潜水艦に建物の両側を破壊されたが、電気は生きているようだった。清潔な白に統一されたロビーの柱で、公衆電話はアランを待っていた。二十五セント貨を放りこみ、携帯で番号を確認しながらダイヤルする。
呼び出し音が鳴り、グレースの提案は正しかったとうしろに所在なさげに立つ彼女に首だけ振り返りながら軽くうなづく。
呼び出し音は無感動に鳴りつづけ、このまま永遠に繋がらないのではないかとアランが不安に思いはじめたとき、コールの音が途切れた。受話器に当てている耳に、それこそ蚊の鳴くような小さな小さな声で、「はい……」と女性がいうのが聞こえた。聞こえるか聞こえないかくらいの返事だった。
「ジェシー?……」
「アラン……」
電話口に出たジェシカはそういったきり、黙ってしまった。だが、受話器を強く耳に押し当てて、アランは彼女が沈黙しているのではないとわかった。聞こえてくるのは、苦しげな息づかい……呼吸も満足にできず、そのうえなにか強烈で、断続的な刺激に意識を邪魔され、喋ろうとしてことばになり損ねた、吐息の風音だった。
アランは胸騒ぎがした。これは、激痛に耐えかねている声だ。
「ジェシー、だいじょうぶかい? ジェシー……」
「わからない……わからないの……」
ジェシカは電話のむこうで苦鳴まじりに答えた。声がひどくかすれている。喉を傷めているのか?
ジェシカは枯れた声を振り絞るようにつづけた。
「いきなり、アパートが崩れて……天井が落ちてきて……わたし、たぶんそれの下敷きになってるの。身動きがとれないのよ……アラン……」
アランは呪わしき神の名を呼んだ。嗚咽がまじっていた。しゃくりあげながら、
「ジェシー、アパートってことは、ぼくたちのアパートか?」
と訊くと、ジェシカは荒れた声で、
「いいえ、ちがうわ……ジャスミンのところ……」
ジャスミンのアパートならアランも知っている。ジャスミンはジェシカの再従姉妹にあたり、ジェシカとほんとうの姉妹同然に仲のよかった女性だ。結婚する以前から、アランはジェシカに招かれて彼女の家でたがいの友人たちを集め、パーティーをしたこともなん度かあり、もちろんジャスミン自身とも面識がある。結婚式の一週間前、ジャスミンに、ジェシーを幸せにしなかったらぶっ飛ばすわよ、と笑いながらいわれたのを思い出す。アランのアパートに帰らなかったジェシカは、そこに一時的に厄介になっていたというわけだった。
となれば、アランの行動は決まっていた。
「そうか、ジャスミンの住居ならぼくにもわかる。いまから助けに行く。待っててくれ」
「だめよアラン……部屋がめちゃくちゃに崩落してるのよ。もうこのビルそのものも倒壊するかもしれない……来ちゃだめよ……」
「ならなおさら行かなければ。そこにジャスミンはいるか?」
「わからないわ……さっきから呼んでるんだけど、返事がないの。なにもかも崩れてて、なにも見えないし……」
ジェシカの声が妙にしわがれている理由がわかった。ジェシカは崩落のあと、血をわけた親類の名をずっと叫びつづけていたのだ。細かった喉が潰れてしまうほどに。
「アラン、ここは危ないわ。ぜったいに来てはだめよ。あなたに万が一のことがあったら、わたし……」
「ジェシー……」
アランは受話器をもっているのと反対の手で頭をかかえた。思考はまとまらない。だが考えている時間はないし、考えなければならない理由もない。
「ジェシー、ぼくは……」
熱くなった鼻腔の奥で後悔を噛みしめ、アランは語りかける。
「ぼくは、きみにまだひとことも謝っていない。きみに会って、直接謝りたいんだ。ジェシー……」
「アラン……あなたが謝ることなんてなにもないわ。わたしがつまらないことで怒って……わたしが大人になりきれていなかっただけよ」
「いや、そもそもはぼくが……」いいかけて、かぶりをふった。「よそう。いまはきみが助かることだけを考えなきゃ。この話の続きは、またゆっくりしよう。ぼくは、きみと話し合いたいんだ。いいね、きっと助けに行くから。約束する」
胸に、疼痛。返しのついた棘が刺さったような痛みに、アランの顔は苦みばしった。
「ぼくの約束なんて、破りつづけで信用してもらえないかもしれない。でも」アランはうそいつわりのないおのれの心情を吐露した。「ぼくはきみを愛しているんだ! 愛している人を助けに行っていったいなにが悪い?」
アランの背中で、グレースが口元を手で覆い、オリーヴの瞳がいっぺんに水っぽくなった。
アランはいわば胸の棘を力のかぎり抜き去ったのであった。返しがついていようがかまわない。どれほどの傷を負おうとも、その棘とは決別しなければならなかった。
胸から鮮血がほとばしるようだった。だが、それくらいしなければ、ジェシカに約束をする権利さえない気がした。
「アラン……」ジェシカが消え入るような涙声で呟いた。「でも……わたしみたいな女……」
「いや」アランはジェシカのことばをさえぎった。「きみだからこそだ。きみだからこそ、ぼくは迎えに行きたいんだ。たとえきみがぼくを嫌っていたとしても」
「嫌いだなんて」ジェシカはわずかにせき込んでいった。「嫌いだなんて……ひとことも言ってない」
電話口から、ジェシカがむせぶのをこらえるのがわかった。
「わたし、ほんとうは……怖くて……不安で……心の底ではあなたに助けに来てほしいと」ジェシカもまた、アランと同様に魂の流血を辞さない告白をしているのだった。「じぶんから家を出ておいて、身勝手な女だと思ってる?」
「勝手だな」アランは即答し、自嘲ぎみにつけ加えた。「ぼくの足下にも及ばないが」
ふたりは、すこしのあいだだけ、時間にすればたったの数秒だけ、笑いあった。おたがいを求めているにもかかわらず離れつつあった魂が、ほんのわずかに寄り添いあった、そんな気がした。
「ジャスミンのアパートは、五十五階のいちばん奥だったかな」
「ええ……そこのダイニングよ。ホールみたいに広い……みんなでよくここで飲み明かしたわね……おぼえてる?」
「ああ。またみんなでバカ騒ぎしたいもんだな」
そのためにも、アランには決意と覚悟が要求されていた。
「よし。待ってろ、飛んでいく。ジェシー、愛してる」
「わたしもよ、アラン。愛して……」
そのとき、すさまじい轟音が電話口から炸裂し、アランは耳を串刺しにされた気がして思わず受話器を遠ざけた。そしてすぐにふたたび耳に当てた。聞こえてくるのは、山崩れのような、大量の岩石が崩れ落ちる音響。音割れせんばかりの、がらがらがらっという音波がひとしきり荒れ狂ったのち、通話は途切れた。
むなしい電信音が響くなか、アランはしばらく、呆けたように受話器を耳に当てつづけた。ゆっくりと耳から離し、電話機のフックにかける。なにが起こったのか、考えるまでもないことで脳があふれていた。
だが、アランはもう迷わない。携帯をポケットにねじ込み、向かうべき道筋を頭のなかで構築する。
グレースのほうへふりむいたアランは、意を衝かれた。グレースの目はいつのまにか赤く腫れ、透明な涙が美しい目じりから溢れそうになっていた。
「どうしたんだ」
「いえ……べつに」グレースは薬指で目をこするように拭い、「行かれるんですか?」
アランはグレースのようすにとまどいながらも首肯した。感情を冷却し、すこし脳内の地図を俯瞰してから、
「グレース、きみはコニーアイランド総合病院にむかってくれ。“奴”はマンハッタン方面へむかった。コニーアイランドなら安全なはずだ」
「奴?」グレースの顔に疑問符が浮かんだ。「奴ってなんです?」
アランは答えなかった。正直に答えても信じてはもらえまい。じっさいに見たじぶんでさえ、いまだに信じられないのだから。
「先生は」グレースが畳みかけるように問う。「エイブラムス先生は、どちらへ? 奥さまのところへ行かれるとおっしゃいましたが、奥さまはどちらに?」それは詰問に近くなっていた。
「マンハッタンだ」アランはためらいなく答えた。「家内はマンハッタンにある知人の家にいる。建物が崩れて、生き埋め状態になっているらしい」すこし間をおいて、「ぼくが助けに行かないと」
「先生……」グレースははかなげな声を出した。「さっきも聞いたでしょう。マンハッタンに避難命令が出たと……。よくはわかりませんけど、危険すぎます。いやな予感がするんです。よしてください」
アランは揺るがなかった。「その危険なところに妻がいるんだ。ぼくが行かなくてどうする」
グレースはことばを失い、大きな瞳にまた涙をいっぱいに溜め、うつむいた。そして、顔をあげた彼女は、涙こそこぼしながらも、清洌な笑顔を見せた。冬の高く澄んだ夜空をひとりで照らす月のようだった。
「きっと……」ふるえる声で、グレースはいった。「きっと、無事に帰ってきてください。おふたりで」
アランはうなづき、翻ってグレースに背を向けた。クラークソン・アヴェニューに出、一路、マンハッタンを目指し、ひた走る。
たとえ、軍に邪魔されようと、どんな危険が待っていようと、ジェシカを助けにいく。ジェシカとそう約束した。
これまでじぶんはなんどもジェシカとの約束を破ってきた。だからこそ、この約束だけは、一命を賭してでも守らなければならない。
駆けるアランの前途は長く、遠い。