八 恐怖の上陸
アランはふだん通りに出勤し、仕事に忙殺される毎日に戻った。キングス・カウンティ総合病院は連日大盛況をみせ、アランの心中などまるで関係なく患者は担ぎ込まれる。しまいには頭の芯が痺れるような感覚が襲い、なにも考えられなくなってくる。自分がメスを握って手術しているのか、それともメスがアランを操って手術を代行しているのか……いま世界に存在しているのはメスを握る自分と患者とスタッフだけしかいないのではないか……むしろ患部とアランの左右の手しかこの世に存在していないとまで錯覚しはじめる。いま縫い合わせているこの傷口も、元を正せばただの複数のアミノ酸からなるたんぱく質を主成分とした細胞の塊にすぎない。この下には迷宮が潜んでいる。クレタ島のラヴィリンスとはちがい、この肉質の迷宮には出口がある。出口があるということは、答えがあるということだ。複雑に絡み合っているようでも、つねに入り口と出口は開かれている。それはなんと素敵なことだろう。行き詰まる袋小路もない、遅滞なき透徹な真理がそこに隠されている。アランはその迷宮の探索者になりたいと思った。どんなに迷おうとも、終わりがあると知っていれば耐えられる。それは抗いがたい魅力に満ちていた。出られるとわかっているならわざと迷うのも一興だろう。アランは恍惚として、日常にあっては皮の下一枚に忍び、きょうアランにその姿をみせ、そしていままたアランの手によって人目のつかぬところへ押し込められているそれが、妍麗な笑みを浮かべて手招きしているような気がした。もういちどそれを強烈な照明のもとにさらけ出せたら、そしてニューヨークに吹きわたる夏風にあてることができたなら……。
「完璧です、エイブラムス先生。予定より三分はやく終わりました」
助手のなんとかいう看護師の声で、アランは我に返った。そこは手術室の一室で、患者を横たえている手術台を中心に、何人もの若い助手たちが、バイタルサインを管理したり、使用済みの器具をしかるべき方法で処分したり、麻酔の効きを厳密に調整したりしていた。かれらは任された仕事を忠実にこなしていた。なんの不平も不満も言うことなく! アランは新たな自覚に目覚める予感がしていた。仕事に従順なかれら。まるできょうこの日のこの手術のためだけに、神がその場で創造したのではないかと思われるほど、個性を抑圧して仕事に取り組むかれら。かれらにも、他人からすれば些末な、しかし本人には重大にすぎる日常の苦悩があるのだろうか。取り返しのつかない失敗がもとで懊悩に情熱の熱量をうばわれ、解決の糸口さえ見せぬような、精神をぼろぼろに食い荒らす芋虫を飼っていたりするのであろうか。悩むあまり、その苦しみから解放されたいがために、大人も子供も、男も女も、自分も他人も分け隔てなく押し潰して抹殺する天の圧搾機のようなものを望んだりしないだろうか。悩み事が圧倒的な破壊の力でなにもかもご破算になってしまうような、恐るべき破局の到来を夢見たりは?……
アランはひとり胸のなかで自嘲した。むかし学校に寝坊して遅刻しそうになったときに、いっそのこと学校に隕石でも落下してくれないかなどと夢想していた幼い時分から、なんら成長していない。人間は霊長類のネオテニーとはいうが、ここまで内面に成長が見られないのは我ながら嘲笑に値する。
アランは、傍らに置かれたステンレスのバットを見た。蒸留水を浅く張られたバットには、使用した鉗子などの金属製器具が沈められている。薄く血に濁った水のなかで妖しく光を反射するそれらの道具たちは、血を吸って喜悦に浸り、快楽の霊光を放っているようでもあった。アランは、飲み介な友人に見つかり、誘いの声をかけられているような感覚がした。鋭利なメスの刃先が、アランを虜にしていた。いまここでメスをとって、自身の首筋に刃を走らせたら……アランはその抗いがたい魅力に囚われそうになった。
しかし実際には、血に汚れたゴム手袋と手術着を丸めてゴミ箱に捨て、「あとを頼む」と助手たちに委ねるだけだった。助手たちも、アランをとくに引き止めはしなかった。アランにしかできない工程は完遂されていたし、この時点で彼の連続勤務時間がすでに二十四時間を超えていることを知っていたからだった。
オペ室を出て煙草を吸おうと箱を取り出したが、目の前の廊下の壁に全館禁煙と書かれたプレートが掲げられているのが目に入り、右のポケットに押し込むように戻した。
仕事はまだ終わりではない。終わるのはあと十二時間後か、それともさらに二十四時間か。
しかしアランは、これまでとはちがい、際限なくのびていく勤務時間に、むしろ奇妙な感謝さえおぼえるようになった。こうして仕事に没入しているあいだは、ジェシカのことを……どこへともなしに消えてしまった妻のことで思い煩わずにすむ。アランの胸中に関係なくやってくる患者たちに、以前は憤りさえ感じたが、いまではその無慈悲さがありがたい。変に親切にされるよりもいっそ無視してくれるほうが心地よくなるときがある。そうしてつぎつぎ来る重傷患者を相手していれば、しだいにジェシカの家出や、その原因となったアランの失態といった嫌なことが、現実には起こらなかったことで、ただの悪い夢だったのではとさえ思えてくる。
携帯に電話をかけようと思えばいつでもかけられた。だがかけなかった。かけられなかった。もしジェシカが電話に出なかったら……よしんば出たところで、なんといって謝ればいいか。アランには勇気がなかった。謝る資格もないと、自分自身に言い訳をした。時間が経てば経つほど事態は悪化することを、心のどこかで感じながら。
「先生、救急です」
振り向くと、グレースが息を弾ませて走りよってきていた。ヒアシンスの巻き毛が激しく躍動していた。
「ビルの窓の清掃作業員なんですが、作業中に転落して……一命はとりとめたものの、左大腿骨が解放骨折、肋骨も何本か折れてそれが肺に刺さって空気が漏れています。脊椎にも骨折がみられるようで……」
「もう到着しているのか?」
「あと五分で救急車が。先生はさきほどオペを終えたばかりですから、ほかの医師をあたったのですが、救急隊の所見を見るかぎり、先生に頼むしか……もうしわけありません」
「きみが謝ることはないさ。頼られるうちが医者の華だよ。助手を頼めるかい?」
グレースは肩で息をしながらいきおいこんで頷いた。
「喜んで!」
アランはふたたびすべてを忘れさせてくれる修羅場へ戻った。しかしこんどは、なぜかジェシカの横顔が脳裡にちらついて離れなかった。
夏のニュージャージー州はきょうも輝かんばかりの晴天に恵まれた。その一日は、天使の祝福にあずかるような壮麗なる日の出から始まる。大西洋より太陽が昇ると、マンハッタンの摩天楼をぬって射し込んでくる朝陽が黄金の光芒となって、ハドソン川で待ち合わせしていた靄と妖精のように戯れるのだ。人人はそんな神々しい光景のなかを、会社へ出勤し、また朝の日課にしているランニングの舞台にしていた。ニューヨークもまた朝空に目覚め始めていた。リバティ島の自由の女神像も燦然と朝陽をうけ、光輝あふれる美しさで街を見守っている。
まだほの白さを残す青空の下、ニューヨーク沖の海は、なめらかな瑠璃いろをたたえている。すぐ西にいけばもうそこはロウワー・ニューヨーク湾だ。
海面を辷るようにモーターボートが走っていった。操縦していた彼は知っているだろうか。その真下に、鋼鉄の魔王が息を潜めていることを。
「USS<プロビデンス>より入電。ソナー監視システム、異常なし」
「大統領より命令の変更は?」
「きておりません」
海中にてしずかに敵をまっているのは、四隻の原子力潜水艦だった。ロサンゼルス級攻撃型原潜USS<プロビデンス>とUSS<ピッツバーグ>、USS<オクラホマ・シティ>。そして、それら三隻を大きく上回る長躯をもつのが、キングス・ベイ海軍基地からやってきたオハイオ級弾道ミサイル原子力潜水艦、USS<ネブラスカ>だ。
原潜には、攻撃型原潜と弾道ミサイル原潜の二種類がある。攻撃型は、敵水上艦船や潜水艦を文字通り攻撃するために建造され、空母や艦隊の護衛をおもな任務とする。ロサンゼルス級は攻撃型原潜として代表的な艦だ。
弾道ミサイル型は、攻撃型では不可能な弾道ミサイルを発射する能力を備えたもので、つまり潜水艦そのものが弾道ミサイルのプラットフォームである。可潜深度が攻撃型より劣るなどの欠点はあるが、敵国ちかくの海から突如として核弾頭を搭載した弾道ミサイルが発射できるとあって、戦略上重要な存在意義をもつ艦である。
その弾道ミサイル原潜であるオハイオ級USS<ネブラスカ>がこんな近海で警戒行動をとっているのはほかでもない。米本土に接近しつつある巨大生物の脅威を水際で食い止めることにある。とはいえ、核兵器をこのような米本土の目と鼻の先で炸裂させるわけにはいかない。USS<ネブラスカ>は、弾道ミサイルだけではなく、巡航ミサイルの運用も可能としている。ソナーがそれらしき音紋をとらえしだい、重魚雷と長射程の巡航ミサイルで仕留めることを任務としていた。むろん、<ネブラスカ>は本懐たる核弾頭と弾道ミサイルも装備している。大統領からの命令さえあれば、<ネブラスカ>はいつでも核ミサイルを任意の座標に落とす用意があった。核兵器使用による海洋汚染など、もはやだれも気にとめていない。すでにフロリダ半島からニューヨークの沖合いは汚染されている。
「本来なら、いまごろは南シナ海へ向け『快適しごくな』遊覧航行中のはずだったのだが」USS<ネブラスカ>艦長のベニート大佐が帽子を深くかぶり直した。「まさかブルックリンを背中に負うとはな。人生どうなるかわからぬものだ」
副長が皮肉げに笑った。
「潜るミサイルサイロとして敵国沿岸に隠密裡に接近するのがオハイオ級の運用思想だったのに、これほど本国のちかくで潜航待機するというのも、思ってもみなかったことですね」
そのとき、ソナー室から連絡があった。
「艦長、こちらソナー。十二時の方向、五十海里に反応を探知。――潜水艦ではありません」
ベニート艦長がマイクを手に取る。
「深度および針路は」
「深度、二〇〇〇フィート。針路2−7−0。こちらへ一直線です。速力三十ノット」
「総員、戦闘配置」
「了解、戦闘配置に移行。護衛潜水艦に連絡。魚雷装填、全砲門注水開始」
艦内の照明が赤色に変じた。臨戦態勢だ。
「艦長、ちょっと待ってください」
ソナーの焦燥を帯びた通信に、ベニート艦長は不意をつかれた。
「なんだ?」
「アンノウンが停止しました。本艦より、距離、四十五海里前後でロスト。音源がないのでパッシヴ・ソナーでは捜索できません」
「よーし、USS<ピッツバーグ>にピンガー(探信音)を打たせろ。正確な位置が特定できしだい雷撃を開始する」
「了解」
<ネブラスカ>がピンガーを打たなかったのは、オハイオ級に探査用アクティヴ・ソナーが装備されていないためだ。オハイオ級は徹頭徹尾、弾道ミサイル発射のためだけに特化しているのだった。
USS<ピッツバーグ>のソナーがボタンを押し、探信音を発信する。巨大な鐘を金槌で叩いたような音響波が放たれ、それは音速の見えざる無数の手となって周囲の物体を探る。
探信音が反射して、<ピッツバーグ>のもとに戻ってくる。
「USS<ピッツバーグ>より入電。いました。距離、四十七海里。深度二〇〇〇にて定位。完全に停止しています」
「ロサンゼルス級に雷撃準備命令。攻撃は斉射でおこなう」
「アイ・サー」
潜水艦には、とうぜんだが窓はない。潜望鏡はあっても海中のようすを観察する用途には使えないし、海中を探査するカメラもない。つまり深海を潜航中の潜水艦は外を目視する手段がない。外界の状況把握はすべてソナー、音による類推で補完している。
もし、これらの原潜に、肉眼でもカメラのモニター越しでもよいから船外を見ることのできる目があったならば、海中にて繰り広げられたその光景に息を呑んだに相違ない。
原潜四隻から九〇キロメートル弱離れたところで、深度六〇〇メートルの、暗い、わずかに青みがかった深海のただなかでとまった巨大物体から、だしぬけに、目もくらむ閃光がほとばしった。青白い閃光は指向性をもった一条の光線となって、探信音を打ったUSS<ピッツバーグ>を襲った。光条がもつ膨大な熱量に、行く手を遮る海水はことごとく瞬時に蒸発。あまりの超高熱に膨張速度が音速を超え、水蒸気爆発をおこして道を譲る。
<ピッツバーグ>らが定位していたのは深度二五〇メートルだったから、光線は斜め下の前方から突き上げるようにして<ピッツバーグ>を呑み込んだ。青い光条は排水量七〇〇〇トンの金属と最新電子機器の塊のロサンゼルス級原潜USS<ピッツバーグ>など存在しないかのようにやすやす貫通し、爆発的なエネルギーを解放して海をかき乱した。
<ピッツバーグ>の船殻を構成するチタン合金と無反響タイルは光条に呑まれた瞬間に、内部構造と、艦内で右往左往していた乗組員ごと液化を通り越して昇華、つまり蒸発した。気体となった金属と百名あまりの人肉は爆散した海水と水蒸気にまぎれ、その一部となった。これほどの大爆発だと衝撃波は海中だけにとどまらず、ありあまる力を横溢させ、海上に出てもなお暴れ狂うだろう。その轟きは大気を割り砕き、マンハッタンにまでおよぶと思われた。
水中衝撃波が残りの三隻の原潜にも殺到した。空気中より水中のほうが衝撃のエネルギーははるかに伝達されやすい。これほどの爆音が轟いているなかではソナーなど役に立たない。
「なんだ。なにが起きている。なにをされている?」
衝撃で横に激しく傾斜する艦内でベニート艦長が叫ぶが、ソナーという目を潰された潜水艦に状況を知るすべはない。唯一わかっているのは、
「USS<ピッツバーグ>との通信途絶! 完全にロスト!」
ただ、それだけだった。狂った楽士が調子っ外れな楽音を鳴らしているような狂気の海で、光線を放ったアンノウンが時速二〇〇キロちかい猛スピードで<ネブラスカ>に接近しつつあることにも気づかない。
突如、<ネブラスカ>艦長以下乗組員たちは、みながみな、だれかに背中を突き飛ばされたかのように、前方につんのめった。隔壁にしたたか頭を打ち、頭部がスイカのように割れたものもいた。赤い照明のなかにあってさらに赤い花を壁面に咲かせ、倒れて転がる士官の頭の割れ目から壊れた水道管のように血が噴き出す。
潜望鏡につかまっていた艦長も、つかんでいる腕が肩から引きちぎれそうな重力に苛まれていた。
「どうなっている!」
「わが艦が……勝手に、勝手に逆進しています!」
「バカヤロー、勝手に後ろ向きに進むなんてことがあるか。機関全速、メインバラストタンク、ブロー。緊急浮上!」
機関室から悲鳴が届いた。
「こちら機関室! 艦長、スクリューが回りません! まるでゴリアテの手に鷲掴みにされているかのように!……」
ベニート艦長と副長は、お互いに顔を見合わせた。恐怖と絶望に支配された顔だった。
ロサンゼルス級USS<ピッツバーグ>が光線に呑まれる十分ほどまえ、緊急搬送されてきた重傷の清掃作業員の治療を終えたアランは、幽鬼のような足どりでオフィスに向かい、山積みの書類と格闘していた。IT全盛ともてはやされるこのご時世でも、書類仕事は根絶されるにいたらなかったわけだ。
機械的に片付けているところへ、オフィスにもうひとりの医師が入ってきた。大柄な黒人医師だ。同僚のギャンボル医師だった。
「よう。勤勉だな」
黒人医師の挨拶に、アランは書類から目を離さず生返事をした。ギャンボルが自分のデスクに座った。
「景気の悪い面だな。よし、原因をあててやろう。おまえ、ジェシーとうまくいってないな」
はっとして顔をあげると、黒人医師の意地の悪そうな笑みが待っていた。
「図星か」
「なぜわかった?」
「サイキック・パワー……」
不自然な沈黙が降り積もった。巨漢が人懐こい笑顔を浮かべる。
「冗談だよ。おれにも経験があるからな」
ギャンボルの逞しささえ感じる黒い肌と分厚い唇、大きな瞳で形作られた顔には、疲弊のいろがあった。
「人を助けてばかりで、子供の授業参観にも行けない、家族の急用にも駆けつけてやれない。因果な商売だ」
アランはギャンボルの述懐に、じぶんでも気づかず頷いていた。同じ穴のムジナ、といえば聞こえは悪いが、精神的な意味での仲間を見つけたようなきもちだった。苦しいのはじぶんばかりではない。時としてそれは逃げる言い訳を喪失せしめるが、いまこの時だけは、ギャンボルのような存在が途方もなく頼りになる思いだった。
アランは、話すべきか話さざるべきか迷った。愚痴を聞かされて快い気分になる人間などいない。話せばギャンボルに対する甘えになる。
そのまま書類をやっつけていると、両手を頭の後ろで組んで椅子にのけ反っているギャンボルが、
「で、どうなんだ、実際。カミさんとはよろしくやってるのか?」
誘導するような問いに、アランは、話してもよい許可証をもらったような心持ちがした。アランはペンを投げるように置いて、肘をついた右手で頭をかかえた。話し相手がほしくないといえば、うそになる。
「ジェシカが家出をしたんだ」
「ワーオ」
「結婚記念日に帰れなくてね……ぼくがことしこそはと約束したんだが、結果的にすっぽかしてしまった。笑えよ」
「はっはっはっはっは!」
ギャンボルが真顔でアランを見据えながら大笑した。白目が黄いろく染まったその目はまったく笑っていなかった。
包丁で切ったように笑うのをとめたギャンボルは、じっとアランを見る。
「くだらないな。まったくくだらない。おまえがひとこと謝ればすむことだろう。意地を張ってもいいことはひとつもないぞ。とくに男はな」
「謝ろうにも、電話をかけづらくて……こわいんだよ。別れようなんて言われたらと思うと」
「ガキかおまえは。そんときゃそんとき。人生なるようにしかならんし、人間てのは日頃のおこないの報いを受けるようにできてるのさ。おれなんてこのザマだぜ」
アランは思い出した。たしかギャンボルはおととしに離婚していたはずだ。
「おれも家庭を顧みなかった。仕事に打ち込んだ。医者の仕事はいやなこともたくさんあるが充実してたし、なにより家族に経済面で不自由させなくなかったからな。金を稼ぐのがおれの役目で、おれとしては最大限の愛情表現のつもりだった」
ギャンボルは短く刈り込んである頭髪を大きな掌で撫でながらいった。
「ある日、一歳の息子、ジミーって言うんだが、そいつが熱を出した。医者から見りゃ子供が熱を出すなんてよくあることだし、べつにうろたえなきゃならんようなことでもない。でもおれの女房、あいや、元女房はちがった。『いますぐ帰ってきて! ジミーが死にそうなの!』。おれは仕事の真っ最中だし、そもそもおれの専門は消化器だ。だから、暖かくして、みだりに薬は飲まさず寝かしとけ、三日経って下がらないようなら小児科に行けっていったんだ。熱が出始めて三日経たなきゃ、ただの風邪なのかインフルエンザなのか、専門医でも判断できんからな。そうしたら元女房はこういった。『なんでもいいから帰ってきて。不安なの!』。むりに決まってるしおれが帰ったところで意味がない。仕事が一段落しておれが家に帰ったのはそれから四日後だ。けっきょくジミーの熱は軽い風邪で、おれが帰るころにはピンピンしてた。どっこいカミさんはカンカンだった。なんで帰ってきてくれなかったの、わたしがどれだけ不安だったか、あの子がどれだけ苦しがってたか知ってるの。けっきょくあなたはわたしたち家族が死にそうになっててもなんとも思わないひとなんだわ……。さすがのおれも頭に血が上った。だからこういってやった。『おれが帰ったからといってそれでジミーの熱が治るわけじゃないだろう』。どうも禁句だったようだ」
ギャンボルが苦笑し、アランもつられそうになった。
「それで女房は出ていった。親権は彼女に譲ったよ。いまは寂しい独り身さ。ところで女ってのはどうして決まって仕事とわたしとどっちが大事なのって訊くんだろうな?」
おどけていうギャンボルに、ついアランも吹き出した。ぜんぜん身におぼえがないわけじゃない。男にとっては永遠の難問だ。
一拍か二拍の間があった。天使が通りすぎるようだった。
「おれはだめだったが……おまえにはまだ糸口があるんじゃないのか」
ゆっくりとした口調のギャンボルに、アランはしかし息を吐いた。
「ぼくもきっとだめだ。彼女が許してくれるとはとうてい……」
ギャンボルはアランよりさらに長い溜め息をついた。
「バカなやつだな」
容赦ないひとことに、アランのからだが硬直する。ギャンボルは微塵も許さずつづける。
「いいか、たしかにおまえは医者としての腕はばつぐんだ。ニューヨーク中をさがしてもおまえほどの逸材は見つからないだろう。だがおまえはバカだ。バカで幼稚な間抜けだ。クソがつくくらいにな。そんなおまえの面倒を見てくれる女が世の中にどれだけいると思う? そこへきてジェシーはとても魅力的な女性だ。おまえが捕まえていなくてどうする?」
アランはこんどは両手で頭をかかえた。ギャンボルが畳みかける。
「彼女はおまえが迎えにくるのをまってる。いまこの瞬間もだ。なのに当のおまえはこんなとこでいつまでもぐずぐずしていて、それでいいのか? おまえは後悔するしか能のない女々しいオカマ野郎なのか? あ?」
ギャンボルはまるで過去の自分自身に忠告しているかのように言い聞かせる。アランが煩悶を洩らす。
「どうしたらいいんだ」
「簡単なことさ! おまえがしたいようにすればいいんだよ。どうなんだ。おまえは彼女を愛しているのか! いないのか!」
「……ああ、愛しているよ。愛しているさ!」
「よし! ならいますぐ彼女を抱きしめに行くんだ。相手が勝手にこっちの心中を察してくれるなんて思ってたらとんだ勘違いだぞ。こっちからストレートに思いをぶつけるんだ。もしハート・ブレイク・ホテルになったら夜通し奢ってやる。そんな心配はいらんだろうがな!」
よっしゃあ! みずからの両頬をたたいて気合いを入れ直したアランが立ち上がろうとした、そのとき。
眼前で落雷があったかのような轟音とともに、オフィスが、キングス・カウンティー総合病院ごと激しく揺さぶられた。デスクと椅子が足踏みして不協和音を奏で、これでもかと積まれていた書類や分厚いファイルの山が崩れ、床に散らばった。だれかのデスクの上にあった飲み残しのコーヒーカップがスケートのように滑って机上から転落、粉々に砕けて冷めきったコーヒーをブチ撒けた。同時に電気が消えた。窓のないオフィスは朝なのに一寸先も見えない闇に早変わりした。ギャンボルはデスクにしがみついて突然の揺れに耐えていたが、立ち上がりかけていたアランはバランスを崩して無様に転倒した。建物が揺れたというより、ふたりにとっては、世界が揺れたような感覚だった。
動揺がしだいに終息し、轟音も通り過ぎて遠雷のように残るだけだった。消えた蛍光灯が軽い金属的な音を立てながらふたたび光を灯していく。
灯りが回復し、揺れも収まって、アランとギャンボルはおそるおそる立ち上がった。あまりのショックに膝が笑う。それもあって、無意味な反応だけれども頭を低くし、わけもわからず警戒して中腰になった。
「なんだったんだ、いまのは」
ギャンボルが図体に似合わない震えた声でいった。なにかことばを紡がなければ、という妙な強迫観念にとらわれて、アランも、
「いまのが、地震ってやつか?」
とどもりながら、だれともなく訊いた。アランもギャンボルも生粋のニューヨーカーだから地震の経験はない。地震と衝撃波のちがいなどわからない。
つぎにふたりの脳裡をよぎったのは、患者たちのことだった。
弾かれるようにアランがドアを開けると、廊下は部屋から飛び出してきた入院患者とパニックに陥った通院患者、かれらを落ち着かせようと奮闘している病院のスタッフとで騒然となっていた。廊下から人が溢れんばかりになっており、身動きがとれない濁流のようだった。
人間の濁流のなかに、アランは必死に患者たちの混乱を抑えようとひとりひとりに説得にかかっている女性医師を見つけた。金糸で編まれた豊かな頭髪は乱れ、オリーヴの瞳には現状を把握し打破するための知慧を模索しているようすが窺えた。
アランは人の波をかき分けて近寄った。
「グレース! 無事かい?」
アランが呼びかけると、反応したグレースが振り返った。グレースははっとしたのち、どこか安堵したように上気した頬をわずかに弛めた。
「エイブラムス先生、ご無事でしたか」
「ああ、ぼくは。しかしいったいさっきの揺れは? 地震だろうか」
グレースは思案しながら、
「いえ……たぶんちがいます」
「どうして?」
「地震は、こう、なんていうか、地面ごと揺れが来るんです。でもさっきのはなにかちがう感じでした。わたしはカリフォルニア出身ですから、地震には慣れているんですが……」
「じゃあ、なんだろう」
グレースはわからないというふうにかぶりをふりながら前髪をかきあげた。さっき遠目に見たときは気丈さを感じたが、近くで見ると彼女の美貌には不安と焦燥が滲みでていて、それをどうにか理性で押さえつけているような葛藤と危うさに彩られていた。
「とにかく、パニックを収めないと……ギャンボル!」
アランにグレース、それにギャンボルも加わって、海瀟のように押し寄せてくる患者たちをとりあえずなだめにかかった。だが、安心して部屋に戻ってといくらいっても、生まれてこのかた地震をしらない人間は恐怖におののくばかりでなかなか聞いてもらえない。それはそうだろう。アランもギャンボルも内心こわくて発狂しそうな始末だったから。
そうしているうち、同僚の医師が声を張り上げた。
「テレビで臨時ニュースをやってるぞ!」
こんどはそちらのほうへ人津波が流れ始めた。将棋倒しになってしまうことを恐れたアランたちの、落ち着いてという注意もまったく効果がない。
病院中のテレビというテレビに、患者や医師、看護師などなど、どこにこんなにいたのかというくらいの人数の人人がかじりついた。ブレイキング・ニュースが始まり、女性ニュースキャスターが困惑したようすで語りかける。
「さきほど二十分まえに、強い地震のような揺れがニューヨークで起こりました。揺れはマンハッタンやブルックリンなどでも観測され、ロウワー・ニューヨーク湾では潜水艦のような船が燃えながら浮かんでいるという情報もあり……」
「ロウワー湾なら、屋上に上れば見えるかもしれない」
だれかがそういったので、興味を覚えた人たちはぞろぞろ病院の屋上へむかった。
「いってみようぜ、アラン」
ギャンボルに背中を叩かれ、アランも同道した。グレースも怪訝そうな表情でアランにしたがった。
エレベーターは止まる恐れがあったので階段を使った。みんな駆け足だ。小屋状の出入口の扉をくぐる。
屋上は平坦な空き地というわけではなく、避雷針や警戒灯がそそり立っているし、空調の室外機や配管もある。また一角にはドクターヘリ発着用に、屋上の床から一段高く組まれたヘリポートがある。ロウワー・ニューヨーク湾はキングス・カウンティー総合病院の南西だ。ヘリポートのある一角がまさに南西だった。
キングス・カウンティー総合病院は建物が「コ」の字型をしており、凹んだ部分には駐車場がある。対して出っ張った部分はそれぞれ西側と東側で、ヘリポートは西側の端のほうにしつらえられていた。
いち早く屋上にたどり着いた物見高い医師たちがヘリポートに上がり、掌を目の上にかざして遠方を注視する。朝になったばかりなのに、すでに陽光は熱をもち、屋上のコンクリートを焼き炙っていた。
屋上に出ると、さっきの揺れで反応したのだろう、路上駐車していた車の防犯警報がおちこちでけたたましく鳴り響いて朝空にこだましていた。
「なにか見えるか」
アランが叫ぶように医師たちの背中に問うと、
「海から煙があがってるが、よくわからない」
とそのうちのひとりが答えた。
「あ? なんだありゃ」
ヘリポートの上のだれかがいった。
ロウワー湾から白浪が孤峰のように高く立ち、朝陽をうけて銀いろの紗幕となる。その中心から、なにか黒い、葉巻型の物体が躍り上がるように飛び出した。一瞬、みなは、すわミサイルかと思ったが、黒い葉巻は不規則に捻りをくわえた回転を繰り返しながら空へと上昇。やがて重力にしたがい放物線を描いて下降を開始した。
黒い葉巻のようなそれが、しだいに大きさを増し、日光を撥ね返す金属の輝きがアランたちの目を射抜く。
かれらは知らない。それがニューヨーク沖で警戒を続けていたオハイオ級戦略原潜USS<ネブラスカ>だということを。
知らぬまでも、それの大きさが急激に増していくにあたり、本能的な恐怖が屋上の観衆の全身を貫いた。
「……まずい。こっちに来るぞ、逃げろ!」
言うがはやいか、屋上にひしめきあっていた人人は悲鳴をあげて逃げ惑った。出入口はひとつしかない。人ひとり通り抜けるのがやっとなドアに全員が殺到し、押し合いへし合いし、つまって動けなくなった。振り返ったアランは息を呑んだ。USS<ネブラスカ>、その全長はじつに一七〇メートルをほこる。アランのアパートは六十階建てのビルだが、それがそのまま飛んでくるような圧迫感だった。摩天楼の高層ビルのように巨大な原子力潜水艦の黒い表面の仔細なディテールや、後部にスクリューがついているのまで確認できるにいたって、間に合わないととっさに思った。グレースだけはなんとか守ろうと、彼女の蜂腰を抱き寄せ、背中に覆い被さった。
海から飛んできた巨体の頭部がヘリポートの一角に激突、それでも勢いを減殺できず、コの字型をしているキングス・カウンティー総合病院の西側を屋上の人間ごとさらうように破壊した。アランの目の前を漆黒の船殻が横切り、大質量が病院の東側にまで襲いかかる。
黒い魔王は東棟をウエハースのように半分ほど押し潰し、軋む音を断末魔として、やっと、やっと停止した。
半壊状態になった病院の屋上でひしめきあっていた人たちが、眼前でおきた信じがたい出来事に恐慌し、われ先に逃散しようとする。
「どうしよう、どうしよう、逃げないと」
みな混乱しおびえきっている。ひとつだけの出入口にみなが押しかけるため、かえってつかえて時間がかかる。
「神さま……神さま」
「くそ、なにがどうなってるんだ、くそ!」
同じ波形の波長が合うと増幅するように恐怖が共振と共鳴を呼び、パニックが人人に伝染していく。危険な兆候をアランはみた気がした。自然にことばが弾き出されていた。
「黙れ!」
腹の底からの怒声に、全員が首をすくめ、アランをみやる。
「ここでわめいていてもしかたがない。病院内の患者を避難させよう。このぶんだと病院が倒壊するかもしれない。そのためにはまずぼくらが落ち着くんだ。いま重要なのはアレよりも患者の安全の確保だろう。ちがうか?」
アランが潜水艦を示しながらいうと、みなが周りの同僚たちの顔を見回しながら納得したように頷いた。
「ありったけの救急車にスクールバス、なんでもいい。とにかく患者たちを搬送できるものをかき集めてくれ。助かった患者だけでも避難させるんだ。もうここはだめだ」
大声で指示するアランに、スタッフたちは秩序を取り戻して動き始めた。ニューヨーク中のあらゆる病院にかたっぱしから連絡し、避難させた患者の受け入れを要請した。
「崩壊が激しいところへはむりに行くな。われわれでは手がだせない。レスキューの到着を待とう。グレース、911に連絡してくれ」
「わかりました」
「ギャンボル手伝え。足が不自由な患者を運ぶ手助けをするぞ」
「よし!」
左足を折って入院していたダイエットの必要な男性に肩を貸して病院の外に出たアランは、飛来した魔神の威容にあらためて驚愕した。外観から潜水艦であろうことはアランにもわかる。潜水艦は、東棟にもたれるように倒れかかっていた。円みを帯びた頭部が駐車場のアスファルトにめり込み、胴体が建物の半ばにまでくいこみ、船尾部分は朝の薄い青空にたかだかと伸びていた。船尾にはスクリューがあったが、そのプロペラがいびつな形に歪んでいた。建造物や地面に接触して破損したというより、なにか巨人のようなものに握り潰された感じに見え、アランは身慄いした。
「なんでこんなもんが空飛んでくるんだ」
ギャンボルが真っ黒な顔を青ざめさせていった。その問いに答えられるものは皆無だった。
サイレンをけたたましく鳴らしながら消防とレスキュー・チームが駆けつけてきた。かれらも病院にもたれかかる大型潜水艦に度肝を抜かれながらも、さすがにプロというべきか、すぐに仕事に取りかかった。潜水艦の衝突で破壊された西棟と東棟の部分で人命検索をするのだ。
おくれて黄いろのスクールバスや市が運営しているバスなどが続々と集まり、患者たちを乗せて指定された病院へと向かっていった。病院周辺は、オブジェと化した潜水艦を携帯電話のカメラ機能で撮影しまくる野次馬でごった返していて、アランたちは野次馬を下がらせて車輛が入るためのスペースを確保するのに盡力を余儀なくされた。患者を病院から出すよりもむしろそちらのほうが苦労した。救急車はともかくバスは大小さまざまなのが後から後からつぎつぎ来る。バスの応援は、予想を上回る台数が集結してきてくれて、搬送手段が不足したらどうしようかと考えていたアランの心配は杞憂に終わった。嬉しい誤算だった。
あらかた患者を搬出し、いつのまにか全体の指揮をとっていたアランは、疲労を覚えて、駐車場に転がっていた、大木の切り株ほどもある瓦礫のひとつに腰をおろした。
両肩をつかまれて、ぎょっとして振り向くと、巨漢のてっぺんに据えられたギャンボルの顔が笑っていた。
「おつかれ」
アランも薄笑いを返そうとすると、妙なものが視界に入った。
キングス・カウンティー総合病院の駐車場に面するクラークソン・アヴェニューを、多くのニューヨーク市民がなにかを目指すように進んでいる。みんな、アランたちから見て右のほうへ、つまり、西のほうへ向かっていた。ほとんどの物は小走りで、スケートボードや自転車でそのマラソン大会に加わっているものもいた。
なにかあるのか? アランは疑問を解消するべく立ち上がり、参加者のひとりのヒスパニック系をつかまえた。
「どうしたんだ?」
「わからない。でもおれが聞いた話じゃ、海からなんか、青い光が空へ向かって伸びて、爆発音がして、そのあとそこの」彼は総合病院に倒れこんでいる原子力潜水艦を指差した。「そのでかいのが海からジャンプしたらしい。だから海に行けばなにがあったかわかるんじゃねえかと思って」
ヒスパニックの血を受け継ぐ男性は早口でそうまくしたてると、ふたたびクラークソン・アヴェニューを駆けていった。道路は歩行者で埋めつくされていた。搬送作業があとすこしでも遅れていたら、バスや救急車がとんだ足止めをくらっていたかもしれない。
「行ってみよう」
アランがつぶやき、ギャンボルも応じた。
アランはグレースにいって聞かせた。
「きみはここに残っていてくれ。なにがあるかわからん」
グレースは何度か小刻みに首を縦に振った。こういうとき、わざわざ見物にいきたがるのは概して男だけだ。
アランとギャンボルをふくめた群衆の群れは、格子状に形成されたブルックリンの街を南西に下り、海を間近に望める海岸へ向かった。アランとギャンボルとは、キングス・カウンティー総合病院から約十キロほど離れたカルヴァート・ヴォークス公園に集った。コニーアイランドにほどちかいこの公園は、都会のなかにあって計画的に植林された木々と緑に満たされた癒しのレクリエーション帯であるが、整然としたその佇まいは自然の雑木林とはちがい、無条件で人間を迎える笑顔のみで固定されている。美観を損なわぬように隅々まで整備の行き届いた樹木の集まりは、剥製のコレクションか、工場で大量生産された工業製品を陳列しているふうにも見える。葉を繁らせた本物の植物であるのにどこかコンクリート・ジャングルと似た人工的なにおいが拭えず、結果、それは森という木の社会ではなく、あくまで木がただ並べられて、憩いを求めに訪れた人間が心地よく寝そべることができるように短く苅られた芝生との雑居房となっていた。
入り江のグレーヴスエンド湾を臨むこの美しくもいびつな公園に、やはり海のようすが気になる市民が大勢あつまって、アランたちもそのなかに混ざった。押しも押されぬ大集合に人いきれしそうだ。いま、ニューヨーク湾に面した海岸線は、どこもここと同様に多くの観衆で立錐の余地もない状態であろうことは想像に難くなかった。海は、たいしてそう荒れているという感じでもなく、朝陽を浴びておだやかに凪いでいた。右手にはベラザノ橋、少し海を進めばロウワー湾に出る。その外はもう北大西洋だ。
海上から運ばれる生ぬるい潮風とまばゆい陽光が目に沁みた。
そのとき、芝生を踏みつけている革靴の底から、腹に響くような重低音を伴う揺れが伝わってきた。思わず足下に視線を落とす。
「いまの感じたか?」
ギャンボルも同様の震動を受けたらしく、背中越しにアランにいった。その声は不安に上ずっている。
「ああ」
アランが芝生に覆われた地面を見ながら返事をする。
また、重低音とともに、大地がわずかに揺れた。公園に集った大多数の市民たちもそれを感じ、驚きの声をあげながらあとずさった。
グレーヴスエンド湾が、自然の波とはちがう表情をみせた。海面が煮えたぎっているかのように奔騰をはじめた。白い気泡が大量に海面で弾けているのだ。攪拌された海面は同心円状の波をつくり、それはアランたちのいるカルヴァート・ヴォークス公園にもさざ波となって到達した。人人は一様にぼこぼこと泡を噴く海を指さし、何事かと口々に言い合った。
しばらく海底火山の噴火のように立ち昇っていた膨大な気泡は、やがてその勢いを弱め、ついには海面から姿を消した。
そして今度は一転、海が渦を巻いて局所的に潮位を下げはじめた。まるでバスタブの栓を抜いたかのように穴が穿たれ、海水が吸い込まれる。渦の直径はしだいに大きさを増し、目測で二〇〇メートルを超えんとしていた。
大渦の魔手は海水ごと海上のあらゆるものを引きずりこんだ。公園のすぐ横にあるマリーナから興味本位でもっとちかくで見ようと出てきた一隻のクルーザーが、おもむろに渦の外縁に触れた。その時点で手遅れだった。逃げようとするクルーザーの推進力などまったく問題にせず、渦は獲物を捕まえて放さなかった。まるで事象の地平面に踏み込んだかのようだった。クルーザーはルーレットの玉とそっくりに渦の内周を旋回しながら、中心に船体を丸呑みにされた。みなが神の名を叫ぶ。
刹那、渦に全身を吸い込まれたクルーザーが、海に拒絶されたように、天地を逆さまにしながら海面から飛び出してきた。宙に舞い上がったクルーザーは、海の上を走っているときとは見違えるほどに大きく、きらめく雫の尾を曳きながら半弧を描いてアランたちのいる公園の波打ち際に落下、マストや操船室を押し潰して逆さの瀑布をあげる。野次馬たちはたじろいで一旦は後退したが、湾の渦がおさまっていくのを見て、ふたたび青い波の打ち寄せる汀にまで足を進めた。
地球上のすべての音が消失した気がした。
次の瞬間。
唐突に海面が持ち上がり、それは見上げるような丘陵のごとくに天へ聳える。まとっていた海水の衣が剥離するように流れ落ち、その中から、空を覆い地を踏みにじるような体躯が現出した。
それは異形だった。湾の海底を踏みしめる四本の脚は筋肉の束を撚り合わせたかのように太く、力強い。前肢は胴体からほとんど横むきに生えており、鈍い銀に輝く装甲のようなもので鎧われて、人間でいう肘か膝にあたる部分からさらに突出伸長して天空を突かんとしている。後肢は獣脚で、爪先だけを地につけているため、膝関節が二ヶ所あってひとつは逆方向に屈曲しているように見える。胴体を包む漆黒の鱗が太陽を裏切るように禍々しく光を反射する。その巨躯の後部は長大な尾へと流れるようにつながっていて、縦に幅のひろい側面に異国の文字のような紋様が刻み込まれた尾は先へいくほど細くなり、鋭い先端に収束する。
その胴の前部から垂直に生えているのは、同じく黒鱗に守られた腹部、威風堂々たる胸郭、装甲された広い肩幅と隆隆たる両腕。頂上に傲然と掲げられた頭部は、太古の恐竜のようだった。
幾本も屹立している角は威厳さえ感じさせ、大きく裂けた口腔には鰐のごとき獰猛な牙をそなえる。
そしてその眼は、黒目がなく白目をむいており、果てしない憎悪と憤怒に狂っているかのようだった。
その下の胸部には、小さな孔のようなものが……むろん小さいというのは、怪獣の躯に比較してのことで、じっさいにはトンネルほどの直径があるのだろうが……蜂の巣よろしくいくつも密集して開いており、どこかしら固着したフジツボの群れを思わせた。
全体としては、四足獣に人間型の上半身を接合させたような姿をしている。いうなればケンタウロスの形態をとった六肢の邪竜であった。
むろん、アランたち群衆にそこまで詳細に観察できる余裕をもったものなど絶無だった。アランを含めた人人は怪獣が現れたとき、それがあまりにも巨大だったので、眼前に幾星霜を重ねた荘厳な神殿が突如として顕現したような圧迫感に圧倒され、肝をつぶして反射的に逃げまどっていたのだ。また同様の理由で怪獣が視界に収まらず、全体像がまったく把握できなかったからだ。呆然と立ち盡くすのは、非現実的な光景に脳の対応が追いつかなくなり、逃走行動にまで思考がいたらない人たち。かれら彼女らは放心状態になって怪獣を虚ろな目でみつめている。
怪獣が顎を開いて呪詛の咆哮をあげ、大気をびりびりと慟哭させ大地を鳴動させると、そこではじめて緊急事態であることをさとり、雷に打たれたように仰天して逃走の波の尻に追いすがった。
悲鳴をあげ算を乱した市民の群れは、本能的に怪獣から百八十度うしろへ反転して遁走した。アランもギャンボルも無我夢中で走りまくった。道路を横切ろうとしたとき、アランに先んじて飛び出したブルネットの女性が左から走ってきたイエローキャブと衝突。ボンネットに乗り上げ頭部をフロントガラスに強打した彼女は、四肢から力の抜けた状態で十メートルほども撥ね飛ばされ、受け身もとらずうつぶせにアスファルトに叩きつけられた。彼女はそのままぴくりとも動かなくなった。急停止したイエローキャブの後部に後続者がつぎつぎ追突し、玉突き事故となった。そんななかを縫うようにして、もつれる足をむりにまわして逃げる。
アスファルトが一瞬沈んで跳ねかえされるようにもどる地響きがアランの足元をすくった。上体だけひねってふりむくと、怪獣が湾からカルヴァート・ヴォークスパークに上陸し、木々を踏み倒しながら進行をはじめていた。樹木を薙ぎ倒し、へし折る四つの脚はそれだけでも強靭至極な怪物、指の先端から生える鋭利な鉤爪は死に神の大鎌よりも禍々しく大きい。圧倒的質量に、歩くだけで地震がおきる。
海から完全に上陸し全容を現した怪獣は、さらに巨大になったように見えた。
それは、体高一二〇メートル、頭頂から尾の先までの全長二六三メートルという堂堂たる威容。これまで地球に存在したいかなる生物をもはるかに凌駕する巨体だった。でかい。あまりにでかすぎる。怪獣とアランの距離はゆうに五〇〇メートルは離れていたが、アランはまるで怪獣がすぐ目の前にいるかのような錯覚をおこした。大怪獣は、四つの脚の右前肢と左後肢、左前肢と右後肢をセットにして前へと進め、前進を開始した。巨大であるがゆえに一歩の間隔がとてつもなく長い。スケールの大きさから見かけ上の速度は緩やかに見えるが、実際には疾走する自動車なみの速度で移動している。もうすでに広大なカルヴァート・ヴォークスの敷地を越えようとしていた。原始的な恐怖がからだを突き動かす。やつの真正面に逃げてはだめだ。追いつかれる。
「ギャンボル、こっちだ!」
怪獣の進路から真横にそれ、ギャンボルを大声で呼ぶ。気づいたギャンボルが逃げ惑う市民と垂直にぶつかりながらアランに駆け寄る。
だが遅かった。
ギャンボルの姿が周囲の風景ごと影に呑まれ、直後、黒人医師をふくめた、影のなかの市民たちが消失した。
直上より降ってきた、空母のように大きい大怪獣の前脚によって。
脚は怒れる神の杭のように地上に打ちつけられ、爬虫類に似て先から爪の生えた指をもつ足裏が、たまさかそこにいた市民を踏み潰した。アスファルトが爆発したようにはじけ、粉々になって巻き上げられる。それが破片の小雨と化して、アランたちに降りつける。小規模な地震様の揺れと吹きつける風圧に煽られて転がるように倒れたアランは、ただ愕然として怪獣の前脚に釘付けになるほかなかった。脚の重心が移動し、足裏が地面から剥がされる。前へ出された怪獣の右前脚は、自動車が詰まって数珠つなぎとなっているショア・パークウェイを踏んだ。足の裏の範囲にいた車や人間ごと。
自動車道路を越えた先はもう街だ。怪獣は進路上にあった、ブロックごとに区切られそのなかに押し込められた家々をなんの躊躇もなく踏み潰し、そして進撃した。四本の脚が歩く、ただそれだけで家が破壊され、爆発が起き、下敷きにされた人人が蛙のように潰れて内蔵と血をブチ撒け、深く沈んだアスファルトの一部となる。それを一二〇メートルの高みから見下ろす竜の頭部は、瞋恚の赫怒に堪えきれぬように吠えた。白目をむいたまま……。
怪獣の右側に逃げていたアランは、擬似的な地震と恐怖に足がすくみ、ショア・パークウェイとクロップシーアヴェニューが鋭角に交わるところに植林された街路樹にしがみつき、荒い息に肩を上下させながら、目はしっかり悪竜のほうを見ていた。大怪獣は行く手にあるものすべてを粉砕して進んでいる。
アランの背筋に、悪寒。暴風をともなった濁音が津波となって迫ってくる。
極度の緊張に耐えられなくなった下半身が脱力し、うつぶせに倒れる。起き上がろうとしても、足がいうことをきかない。
〇・一秒にも満たない刹那、伏せたアランの頭上をなにかが超高速で掠め、軌道上に存在していたものをことごとく粉微塵に破壊し、それでも勢いを衰えさせず通過していく。アランが身を寄せていた、人ひとりの姿を余裕で隠せる大木も、頑強なセルロース構造からなるからだを真っ二つに叩き折る。のみならず、折られた大樹は踏み固められた地面から引き抜かれ、土煙をあげて放射状に広がる根を露出させ宙を舞う。
怪獣の、高硬度の鱗で覆われた尾が振るわれたのだ。膨大な質量と大きさというものがもつエネルギーが凄絶無比な破城槌となって、家も人も車もなにもかも叩き壊し、吹き飛ばしていく。ブロックのグリッドに詰め込まれた家や店が、まるで枯れ草のように刈られていった。直撃をうけた人間は、吹っ飛ぶどころか原形も残さない挽き肉となって爆散した。
いまだ吹き荒れる颶風にうめきながら、アランは上体だけ起こして、怪獣のいる方角をみた。尾は、まだ先端がすぐちかくで振られているが、怪獣のすべてを拒絶するような背は、すでに砂煙に霞むほどの遠方にあった。歩いて巨体が鉛直に揺れるたびに起こる地面の震動も、だんだん小さくなっていった。
アランは、その後ろ姿にほとんど釘付けとなって、両手で頭をかかえたまま視線を送り続けていた。一瞬でも目線をはずしたらいつのまにかまた目の前に怪獣が立っているのではないかと、ありもしない妄想に囚われていたのだ。
すぐそばを、砂埃まみれの若い黒人男性が駆けていって、アランはぎくりとさせられた。ギャンボル、と声をかけようとした。けはいを感じて走りながら振り返ったその男性は、ギャンボルとは似ても似つかない別人だった。アランの伸ばしかけた手は虚空をさまよった。
慚愧の念に苛まれながら、アランはふたたび怪獣の去っていった方向へ首をめぐらした。怪獣は、海岸をショア・パークウェイ沿いにマンハッタン方面へ向かっているようだった。
地響きがほぼおさまったころ、そこにはアランの姿はなかった。