四十四 頭上の敵機
笛を吹くような風切り音。
部下らに怒鳴ってよびかけ、みずからも身を縮め、両手で耳をふさいで防御態勢をとる。
直後、衝撃と烈風が、木の葉を散らせるどころか幹ごと叩き折る。
内臓の底を震わせるような震動。頭蓋を貫通し脳髄を揺らす轟音。吹き散らされた大気が、つぎの瞬間にはあたりの物体ごともとにもどろうと不可視の手となってつかみかかる。
「点呼!」
あらかじめ決めておいた順に部下たちが姓名と階級をさけぶ。
最後のひとりの声がない。となりにいたはずなのに。
土煙と熱風のなか、鉄帽がずれているのを直し、口に入った土を唾ととともに吐き出しつつ、小隊長の榛名辰巳二尉は蛸壺とよばれる一人用の塹壕からよろよろと立ち上がった。
左足を支える地面が崩れる。
となりの蛸壺は、潜んでいた部下ごと深い擂り鉢状に変形させられていた。榛名の足は、その縁に立っていたのだ。
歯噛みして匍匐に移行、有線の黒電話のような通信機をとる。
「加賀将補、救援はまだですか!」
「もちこたえろ、おまえたちをかならず助ける!」
空虚な言葉だった。いまの状況で、だれがどうやって救援にくるというのか。
力任せに受話器を叩きつける。空港施設の地下で耐え忍んでいる加賀陸将補自身も、生きて小松市を脱出できるかどうかわからないのだ。
べつの通信機に怒鳴っていた鳥海曹長が、いまの効力射で第五班との通信回線が寸断されてしまったこと、第三班は六名が死亡し部隊として機能できなくなったことを早口で榛名に報告した。
かたわらで、鉄帽に雑草をはさみ、古い64式小銃をお守りのように抱いている峯風一曹が絶望に塗りこめられた顔で吐息した。
「われわれは、見捨てられたのですね……」
小隊長で第一班の班長も務める榛名のそばにいる八名は、いずれも恐怖と疲弊、負傷による苦痛で顔がゆがんでいた。
小松基地を防衛する最後の砦の一角、滑走路の南西にひろがる人工の森林地帯。
臨時に編成された、榛名たち普戦チーム第二小隊は、まだ若い櫟や小楢で形づくられた、屋根の低い雑木林にきょうまで身を隠していたが、もはや限界が喉元にまで迫っていた。
日に何度か、こうして地上部隊の後衛が長距離砲やロケットを散発的に撃ち込んでくる。
おそらくはこちらを完全に包囲していることの示威行為だろう。
ジェット音が大気を切り裂く。この一週間ですっかり聞きなれた音だ。音源がツマンスキーR-195ターボジェットであることを聴覚が正確に教えてくれる。
近づいてくる。
「Su-25だ。伏せろ!」
さけびつつ空を見上げる。
新緑の梢のむこうから、ちいさな螺旋を描きながら飛来するミサイルの影がみえた。
こちらにきている。
峯風一曹の右袖をつかんで退避。木立にかくれる。
爆風が樹木を張りぼてのようにひきちぎり、大地をえぐる。榛名たちも背後からの衝撃波に吹き飛ばされた。それ自体が音速を超える圧力波に殴りつけられ、脳震盪を起こしそうになる。
着地に失敗し、ぶざまに転倒。耳鳴りが鼓膜の内側で反響する。すべての音が、まるで水中にいるかのようにくぐもっている。
かまわず部下に命令しようと、つかんだままの袖をひく。
異様に軽い。全身に鳥肌がひろがる。
焦点のあわないまま目をむけると、そこには右腕だけ。持ち主である峯風一曹は不在。
筒状となった袖から、腕が滑り落ちた。赤黒い筋繊維と、外周をとりまく黄色い脂肪の粒の層、白い尺骨と橈骨の断面がさらされる。
五指が、なにかを摑むかのように、ゆっくりと閉じていく。生きたい、という峯風の慟哭がきこえた気がした。
悠々と低速攻撃機が飛び去っていく。はらわたが煮えたぎる。だがどうにもできない。装備のなかに91式携帯地対空誘導弾はある。バズーカみたいに肩に担いで射つ地対空ミサイルだ。
勇気ある者たちがこれでSu-25に挑んだが、いずれも犬死にで終わった。やつらは携帯型地対空ミサイルを二発くらった程度ではびくともしないのだ。
天地を鳴動させるSu-25のエンジン音が、本能的な恐怖をさらに煽り立てる。
班の陸奥祐司一士が、おもむろに腰の9mmけん銃をとりだす。
遊底をひき、薬室へ初弾をおくる。
「陸奥一士、そんなもんじゃ“フロッグフット”とは闘えないぞ」
榛名の言葉も聞こえていない様子の陸奥は、拳銃の銃口を迷わずみずからの顎の下にあてた。あまりに澱みのない動きに、榛名らの反応が遅れた。
「待てっ……!」
榛名が飛びかかるより、陸奥が引金を引くほうが早かった。
耳をつんざく銃声とともに、金属弾頭が下顎と上顎を貫通。眼窩と鼻と口から鮮血を撒き散らし、陸奥は仏倒しにたおれた。
膝をつく隊員が数名。木の根本で震えながらうわ言をつぶやいているのは小隊最年少の伊十八二士だ。榛名は無言で近くの落葉樹に裏拳を叩きこんだ。
「榛名二尉、わたしたちはいつまでこうしていれば?」
鳥海曹長がわかりきったことを問う。榛名は答えるしかない。
「籠城戦というものは、味方の増援がくること、もしくは敵が季節や天候の変化、兵站不足などの理由により一定期間をすぎると撤退せざるをえないことが決定していて初めて意味のあるものだ」
喋る口中に苦い味がひろがる。
「この場合は、両方ともない。戦術的には意味がない籠城だ」
沈黙。班には失望が降り積もる。
「鳥海曹長、名案あるか?」
「長い棒の先に白い布をくくりつけて思いっきり振るってのはどうです」
「ふざけるなといいたいところだが、驚きだ。若干賛成してもいいと思ってるおれがいる」
大きく息を吸い、吐く。
「おれたちに不利なことばかりではない。基地そのものが、おれたちを守ってくれる」
榛名はむりやり笑い顔をつくってみせた。
基地に籠城して半月。
敵は日に何度か散発的に砲撃や空爆をおこなってくるが、いまだ一斉攻撃はない。
弾薬がつきてしまうという事情もあろうが、敵もできるなら小松飛行場の施設と滑走路を無傷で手に入れたいからだろうという推測で小隊の意見は一致していた。
基地ごと吹っ飛ばされる心配はないはずだ。だからなんとか戦闘になっている。
「おれたちがここであきらめず闘えば、それは敵への強烈な宣戦布告となる。日本人は最後まであきらめない。最後のひとりになるまで闘う。そう敵に思わせることができれば、心理的な抑止力となる」
榛名はなかば自分に言い聞かせるように部下たちに力説した。
「日本人を追いつめればなにをしでかすかわからないと刷り込む。それがおれたちの任務だ。おれたちの命はおれたちのものにあらず、市民たちの明日のためにあるものだと心得ろ。戦術的には意味のない籠城といったが、戦略的には大いに意味をもつ。おれたちは、歴史となる」
隊員たちが悲壮な決意をかためて、思い思いにうなずく。
「もういやだ! もう耐えられない!」
うずくまっていた伊十八が爆発したように立ち上がった。
「死ぬのが任務だって? 戦略的には意味があるって? 笑わせないでくださいよ。なんでおれたちが死ななきゃならないんですか!」
ひび割れた眼鏡の奥にある瞳は、虚ろな深淵となっていた。
「おれは、いろんな資格をもってる。体力も技術も、一般市民よりすぐれてる。市民は飯くってクソしてセックスするだけ。やつらがのうのうと遊んでるあいだ、おれは歯を食いしばって訓練に耐えてきた。人間としての能力は、おれのほうが市民より上なんだ。おれのほうが生きる価値がある。なんの技能も資格もない市民なんかのために、なんでおれが! 死ぬべきは、おれじゃない。市民のほうだ!」
軸流式エンジン特有の騒音がふりそそぐ。Su-25だろう。
「おーい! おれは投降する。撃たないでくれぇ……」
伊十八が飛びだす。鉄帽をはずして大きく振りながら、森を縫う国道一五八号線へと躍りでる。
「おい、まて! もどれ!」
榛名の制止は、はるかに音量を凌駕する音波にかき消された。
エンジン音に重なって、百万のティンパニを打ち鳴らすような連続的な重低音。
飛来するSu-25の機首下、中央やや右寄りから、水しぶきのように火花が散っていた。
そのとき榛名の脳裡に、間欠泉のように噴出した記憶があった。
幼少の時分、まだ存命していた祖母が、なにかのきっかけで語り聞かせてくれた挿話のひとつである。
戦時中、郷里の愛媛も、松山や今治、松前といったおもだった都市は苛烈な空襲に見舞われた。米国は焼夷弾で焼け野原にするだけにあきたらず、戦闘機をよこして機銃掃射で民間人を狙い撃ちすることもままあった。
当時、女学校の勤労奉仕として東洋レーヨンの軍需工場で特攻服をつくっていた祖母らも、工場が街ごと焼かれたあとは、毎日のように戦闘機に追いかけられたという。
何人もの友だちや近隣住民が目の前で撃ち殺されるなか、必死に逃げまわる日々をすごすうち、祖母は、ある法則を発見した。
戦闘機の機銃掃射は、機体の角度が的に対して四十五度にならないとあたらないということである。
逆にいえば、機首がこちらをむいて四十五度にかたむいていれば、もう助からないという意味だ。
北からうなりを上げてくるSu-25は、手を振る伊十八にたいして、四十五度につっこんでいた。
「伏せろ!」
両手をメガホンにしてさけぶが、毎分三〇〇〇発の射撃速度を有するSu-25のAO-17A連装機関砲の轟轟たる発砲音にかなうはずもなかった。
連射される砲弾が地面を蹂躙する。立て続けに起こる砂柱が、伊十八にせまる。
伊十八の顔が凍りつく。
砂柱は一陣の風のごとく、さながら姿のみえぬ鎌鼬の疾走のように伊十八を縦貫し、アスファルトに醜い弾痕でひとつづきの線をえがいた。おくれてSu-25が航過していく。
二連装機関砲から発射された三十ミリ砲弾は、直撃はせずに、手をあげていた伊十八の右の脇の下あたりをかすめていった。
それだけでじゅうぶんだった。
砲弾を中心に円錐状に発生していた衝撃波が、不可視の爪となって脇腹を掘削。さらに、路面で炸裂した砲弾の破片が、上半身をずたずたに引き裂いて挽き肉へと変えた。
腰から上をうしなった下半身だけが、血を噴水のように噴き上げながらむなしく走り続ける。
五、六歩も進んだところで、右足に左足がからまり、もつれて倒れる。
断面からは、ぬめぬめとした大腸や小腸とともに、おびただしい血潮がこぼれた。
ほとんど朱いろに近い鮮血と、暗赤色をした血とがあふれ、まじりあいながら夏の道路にひろがっていく。人間には二種類のいろの血が流れているのだと、はじめてしった。
歯をかみしめていると、伊十八の下半身から離れたところで動くものが目に入った。
背筋が寒くなる。
注視すると、肉片や戦闘服の残骸が散乱するなか、握りこぶしほどの大きさのものが規則的に脈動をくりかえしていた。
榛名は吐き気をけんめいにこらえねばならなかった。
転がって拍動しているのは、伊十八の心臓だった。
まるでまだ自身の死を理解できていないかのように、すべての血管がちぎれ体外に飛び出してなお、心臓は鼓動をつづけていた。
排気音の残響を嘲笑のように残しながら、Su-25が旋回し、福井空港のある西の方角へと飛び去っていった。
榛名の胸に黒い嵐が吹き荒れる。
われわれは、遊びで人間を殺戮するような残虐非道な敵に対し、なにもできないのか。ただ家畜のように屠殺されるのをまつしかないのか……。
絶望に押しつぶされそうな榛名の頬を、海からの潮風が撫でていった。
◇
小松市がのぞむ日本海の沖合い約二〇キロメートルのところに待機している三隻のフリゲートは、ここ数日の沈黙をやぶる活気ににわかに沸いていた。
とうとう攻撃命令が下されたのである。
首都陥落の偉業は空軍に独占され、直接占拠……英語でいうところの“ブーツ・オン・ザ・グラウンド”は陸軍の独壇場。
半島から荒波の日本海を越えてこなければならない朝鮮人民海軍だけが出遅れたかっこうとなり、これまでなにひとつ手柄をあげていない。
いまこそは、海軍の存在意義を平壌に知らしめる絶好の機会であるのだった。
二隻の羅津級フリゲート、すなわち<瑠璃明>と<大武神>、さらにソホ級フリゲート<月光太子>が、一発ずつ対艦ミサイルの発射用意に入る。
発射装置付近で作業に追われる乗員らの表情は固い。
なにかのまちがいで、いまこの瞬間に弾頭が炸裂したならば……という不安と恐怖がつねに内心に根を張っている。
弾頭がただの火薬であれば、なにが起こったのか知覚するひまもなく焔と爆風で死ねるだろう。
弾頭の死神が解放されれば、かれらは地獄の責め苦を味わいながら絶息し、骸は瓶かビニール袋に入れられる運命をたどる。
しかし、それだけの苦痛をいまから驕敵日本に与えることができると考えると、水兵らは皆、そろって爛熟した果実の笑みを実らせるのだった。
祖父や父らがにっくきチョッパリに延々といわれなき屈辱を強いられながらも耐えぬいてきたのを、臥薪嘗胆、われらの世代がこの手で鉄槌を下せるとは、なんという幸福だろう!
攻撃は、全艦一斉ではなくて、まず、<月光太子>が一発だけ発射し、効果を確認する。
しかるのち<月光太子>は対空監視任務につき、つづいて<瑠璃明>と<大武神>が基地へミサイルを射つ算段だ。
三発も命中させれば皆殺しにできよう。
ついに時間となる。
<月光太子>の船体中央に設置された発射筒から、爆音と閃光。
舷側へ爆炎と排気煙を吹かせながら、太く長いミサイルが矢のように飛びだした。
ミサイルは慣性航法装置で舵を調整、指定された地点へみずからをみちびく。
めざすは、小松基地の南西部。
◇
榛名たちは伊十八の死骸を回収することもできないまま伏せていたが、どこからか轟然たる響きが風に流されてくるのを耳にとらえた。
またSu-25か? いや、ちがう。ターボジェットの高速排気ではない。どちらかといえば……固体燃料ロケットの噴射音のような……。
一様に顔をあげて仰ぎみる。
海の方向から、一発の弾体が、明瞭な白い航跡を空に曳きながらまっすぐこちらにむかってきていた。
退避の命令をだす間もなく、ミサイルは高速度で接近。榛名たちのいる地点から四〇〇メートルほどの、工業地帯と海岸線のあいだを走る北陸自動車道の安宅パーキングエリア上空あたりで、慎ましやかな爆発をみせた。
おくれて、ちいさい花火のように軽い破裂音が響いた。
静寂。
耳元で海風が笑う。
木々の梢もつられて憫笑する。
弾頭内に装填されていたのは、二種類の物質。
すなわち、メチルホスホン酸ジフルオリドと、イソプロピル化合物をそれぞれ別個にわけて封入した、ゴルフボール大ほどのステンレス製球。それが、優雅な真珠の首飾りのように数十も繋げてつめられていた。
併載された少量の火薬の炸裂が、弾頭ごとすべてのステンレス球を破壊。
単体でもきわめて毒性の高い二種類の毒物が混合。化学反応をおこし、さらに凶悪な化学物質へと昇華する。
気化した化学物質は、無味無臭にして、無色。
比重一・〇八と空気よりわずかに重く、見えない霧となって風にのり、見上げる自衛隊員たちに影よりひそかにしのびより、無音の抱擁を浴びせた。
呼吸、または皮膚からすみやかに吸収されたその有機リン系の化学物質は、ねらいすましたかのように神経機能に作用した。
人間をふくむ生体の筋肉は、神経によって制御されている。
筋肉をつかうとき、脳からの指令で、動かしたい筋肉付近の副交感神経や運動神経から、神経伝達物質であるアセチルコリンが放出される。
筋繊維には、アセチルコリンの受容体がある。アセチルコリンをうけとると筋肉が収縮し、筋力を発揮させるしかけだ。
アセチルコリンがあるかぎり筋肉は収縮しつづけるが、神経組織からは、アセチルコリンエステラーゼという酵素も分泌されている。
アセチルコリンエステラーゼには、アセチルコリンを即座に分解する働きがある。
つまり筋肉は、アセチルコリンに刺激されることで収縮し、アセチルコリンエステラーゼによって緊張を解き、弛緩する。
この神経伝達物質と酵素の精妙な連係により、生体は自由闊達な運動を可能にしている。
化学物質は、この精密無比につらなり回る歯車に、小石を噛ませた。
すなわち、先立ってアセチルコリンエステラーゼと結合してしまうことで、アセチルコリンを分解する働きを阻害したのである。
筋繊維中のアセチルコリンは除去されないまま、濃度ばかりが高まっていく。そうなると、筋肉は収縮したままになってしまう。
随意筋のみならず、肺を動かすための横隔膜や外肋間筋、胸鎖乳突筋などの呼吸筋までも制御不能となる。
いまの榛名たちのように。
空中でミサイルが爆発を起こしてから五分後、榛名は、唐突に視界が影に閉ざされたように暗くなったことに混乱した。
目をこすっても治らない、と思った瞬間に、胸の奥に激烈な痛みが生じた。まるで胸郭にガラスの破片を埋めこまれたかのような激痛。
さらに両腕、両足が硬直。強張って、じぶんの意思とは関係なく痙攣をはじめる。
股間にぬるい液体。失禁だ。
ほかの隊員たちに声をかけようとしたが、息ができなかった。呼吸しようと喘いでも、肺に空気が入っていかない。
減退していく視力で周囲を見渡すと、どの隊員もじぶんとおなじように痙攣し、血のまじった泡をふきながらもがき苦しんでいた。
鳥海曹長にいたっては、自身で制御できない筋肉の暴走に、体を逆海老に反らせていた。後頭部が尻に届きそうなほど反り、限界をこえ、ついには背骨の折れる音が響く。
榛名は急いで防護マスクを被ったが、まったく効果はなかった。
からだが、火のように熱い。まるでガソリンをかけられて燃やされているようだ。熱い、熱い……。
「か……ひい……」
かすれたわずかな呼気が、榛名の、第七小隊第一班の発した最後の音だった。
透明な死の霧が、隊員たちを優しく無慈悲に包みこむ。
それは、生物への毒性が強すぎるがゆえに、大量殺戮にしか用途がないと世界に断罪された神経ガス。
名を、イソプロピルメチルホスホン酸フルオリダート。
俗に、サリンとよばれる化学兵器である。
◇
「ガス攻撃、だと!」
小松基地の地下二階に設置された臨時の戦闘指揮所で、加賀陸将補は腰を浮かせた。
「化学室をよべ。一帯の風向きを表示しろ」
自衛官のひとりがデスクトップを操作。
液晶の地図に、現在の風の向きを矢印で表した風向図が重ねられる。
加賀の顎が落ちる。ひしめく自衛官らの顔からも、プラスチックで固めたようにのきなみ表情が消えていく。
矢印は、日本海のある北からおおむね南、あるいは南南西へ頭を向けていた。
小松基地の南側には、小松市の一角を形成する新保町や柴山町、佐美町、干拓町などの住宅地がある。
毒ガスをふくんだ死の風が、それらの市街地に流れ込む。風力から考えて、あと一時間もすれば、基地の南西部三キロメートル圏内は死の街となるだろう。
加賀はこぶしを固くにぎりしめた。
ほんの三時間まえ、斥候にだした普通科分隊から、敵包囲部隊の一部が撤退をはじめたという情報がもたらされたばかりだった。その撤退したというのが、まさに基地南西に展開していた部隊だったのである。
情報の確度が低いうえ罠の可能性も否定できないため、様子見をつづけさせていたが、まさか化学兵器をつかうためだとは……。
「やつらが市民ごと撤退したとはおもえない。加賀将補、敵はガスにそなえ南西から完全に引き揚げているはずです。いますぐ救助に向かわなければ」
「われわれにとっても、そこを突破口にできるかも」
部下たちに加賀は首を横に振った。
「逆にいえば、敵が空けてくれた道をのこのこ通るようなもの。出たとたんにアウトレンジから集中砲火を浴びるだろう」
加賀が通信手を呼ぶ。
「ほかの展開部隊をいちばん近い建造物にただちに後退させろ。外気を完全に遮断するよう伝えるのを忘れるな」
「ですが、それでは敵戦力への防御が……」
「むだだ。もとより対BC装備に余裕がない。敵は最初からこれが目的だったんだ」
自衛官らが加賀に注目する。
「砲弾ではなく、化学兵器なら、施設も滑走路も傷つけず、人間だけ殺せる。サリンは自然環境中で簡単に分解されるから、しばらくすれば無害となり、インフラを安全に接収できる」
脱力したように腰を椅子へ沈める。
「小松基地の建造物には空気清浄装置がある。施設内ならサリンも防げるだろう」
「加賀将補、方位2-3-2より航空機接近。針路0-5-2」
監視装置をにらんでいた自衛官がいった。
画面には、回転翼の回転も勇ましく、低空を堂々と進んでくる無骨な機影。
図太い機体の左右から生える小翼は、翼端が下がりぎみになっている。
機体の上、双発の吸気口が、暗闇で生きる深海魚の巨大な両目のようだった。
「“ハインド”……!」
加賀は、どこまでも自分の読みが甘かったことを悟った。
サリンが使われたことをしれば、ろくに対生物化学兵器装備もない状況下では、ガスの侵入を防げる施設に逃げこむほかない。
そうして自衛隊員を集めておいたところで、輸送ヘリコプターでもあるMi-24“ハインド”で強襲部隊をおくりこみ、一網打盡にする。
“ハインド”の一機がまっすぐここをめざしているのがなによりの証拠だ。
「入り口にバリを構築。机、ロッカー、本棚、なんでもいい。出入口を塞げ!」
自衛官たちが大慌てで作業にかかる。事務用机をひっくりかえし、積み重ねていく。
むだな抵抗であることは、加賀も重々承知していた。
もうすぐ、あのヘリから降下してきた朝鮮人民軍兵士がやってきて、あらゆる手段をもちいて突入してくるだろう。
「総員、手榴弾の用意はいいか」
問いに、狭い部屋にあふれかえる自衛官が返事する。
敵につかうためではない。
だが、どうせ死ぬなら、敵をひとりでも多く道連れにしてやろう。
「おまえたち、いままでよく頑張ってくれた。すまんな、みんな。すまん」
加賀は起立してから頭をさげた。部下たちの胸にも響く。
直後のことだった。
画面で、空中静止した“ハインド”からいよいよ降下用のロープが垂れ下がりはじめたとき。
画面の死角から超音速で飛来した槍が、“ハインド”の肥満体に命中。画像が焼けつくほどの閃光を放って大爆発し、空中で木っ端微塵となった。
なにがおきたのか理解できないでいると、画面の背景を右から左へ高速で横切っていく精強優美な英姿。
映ったのは一瞬だったが、見間違えるはずがない。
あの機体は、空自のF-15Jイーグル。
機首横と広い主翼にいただく赤い真円がはっきり確認できた。かつて、日の丸がこれほど美しく見えたことがあっただろうか。
しかも、一機だけではなかった。
ほかの監視装置の画面にも、敵のヘリコプターを墜としていくF-15J、F-2A、F-4EJ改の編隊がいた。
「救援だ」
だれかがぽつりとつぶやいた。
「救援が、きたんだ!」
興奮は伝播し、室内は熱狂の渦に巻き込まれた。
闇に射しこんだひとすじの光明に、涙を流して歓喜する。
加賀は、自分を落ち着かせるために、肺臓が破裂しそうになるほど大きく息を吸いこんだ。
「各員、手榴弾はお預けだ」
加賀が自信に満ちた声で命令する。
「われわれはこれより、反攻作戦を決行する。機甲部隊、普通科連隊、対戦車ヘリコプター部隊、特科ならびに施設小隊の再編制だ。通信手段の回復作業続行。いそげ!」
活力に満ちた動作で、自衛官たちが奔命をはじめる。