四十三 怨鬼
難民を荷台に乗せたトラックがあてもなく走る。
どこが安全かわからない。奏のためにも、落ちついて産める場所が必要だった。
行けども行けども、廃墟か、街ごと無人になっているかのどちらかである。病院など望むべくもない。
日本であることはたしかなのに、平穏だったつい二週間ほどまえとはまったくちがう異国、異界に迷い込んでしまったかのようだった。
運転は、璋子ばかりではなくて、拾った人間のうち免許をもっている者たちで交代してうけもった。
中型トラックは普通免許で運転できるが、璋子らが乗っているのはマニュアル車だった。免許があってもオートマチック限定という者も多く、運転できる人間は璋子をいれて三人だけだった。負担は疲労となり、疲労は頭痛と眠気となって運転手をむしばんだ。
「それで、とつぜん自衛隊がやってきてな」
璋子の疲弊に拍車をかけたのは、荷台で交わされるうわさ話だった。
「いきなり、おれたちに鉄砲うちだしたんよ」
「撃ったって、自衛隊が?」
青年に、いちばんの年長の菊造という男が神妙な顔でうなずく。
「もうおれら必死で逃げてな。まわりの人らばったばった倒れよったわ」
染みの浮いた拳が握られ、震える。
「わたしらも、自衛隊に撃たれたわ」
肥り肉の古川という中年女も告白した。青年が納得顔となる。
「最初はなにかの見間違いだと思ったけど、やっぱりあれ自衛隊なのか。迷彩服着てたし」
「瑛太くんもみたの?」
「人いっぱい並べて、ダダダダダって撃ちまくってたぜ。あいつら、笑いながら殺してた」
そのときの光景を思い出したのか、瑛太の顔が蒼くなり、眉間に嫌悪の亀裂が入る。
「でも、まあ、よく生き残れたよな、おれたち」
瑛太はむりに笑ってみせた。
「そうねえ。それこそ死にものぐるいで逃げたもの」
古川女史もほほに手をあて、
「菊造さんも、生きてただけでもめっけもんじゃないのよ」
いうと、菊造はひびわれた唇を噛みしめた。
「ほやけんど、孫が撃たれとった。抱きかかえて逃げて、ようよう自衛隊のおらんとこまでいったおもうたら」
老眼がうるむ。古川は絶句していた。
「孫の体が、氷みたいに冷たくなっとった。幹也はまだ小学生やったのに」
固く閉じられたまぶたから、透明な雫がこぼれ落ちる。男の嗚咽に、何人もが伝染していく。
「おれは、自衛隊がゆるせん」
菊造が憎悪のしたたる声で告げる。
「自衛隊いうんは、おれらを守るためにあるもんやないんか。なんで、おれらが自衛隊に殺されないかんのぞ」
孫を奪われた祖父の怨嗟に、二十人ちかい難民らが同調し、心からの相槌を打つ。
「でもなんで、自衛隊がおれたちを殺すんだろう? 理由は?」
「そりゃ、クーデターとかいうやつだろう。そうとしか考えられない」
「どうせ、軍部が政治を牛耳ってた戦前戦中の時代がわすれられないんじゃないの。怪獣さわぎで在日米軍がいなくなったのをいいことに、日本を支配して、じぶんたちの復権をたくらんでるんだよ」
根拠のない推測をならべては、ひとびとはそれをすべて真実ときめ、自衛隊への敵意をつのらせていく。
「理由なんぞどうでもええ」
菊造がズボンの膝のところをにぎりしめ、怨念を吐き出す。
「もし、万々が一、自衛隊の家族でもみつけたら、泣こうがわめこうが、かまわず八つ裂きにして殺してやる。やつらに、おれとおなじ思いを味わわせてやる」
汚泥が沸騰するような声と、老体の全身から発せられる殺意が、香寿奈の全身の産毛を逆立たせた。息を呑む悲鳴をあげてしまう。
気づいた菊造が、あわてて、
「ごめんごめん。女の子のおるとこでいうことやなかった」
悪鬼の形相から、目尻をさげたおだやかな好好爺へと変わる。
璋子も香寿奈も、奏以外には、身内が自衛官であることは明かしていない。
もし知られたら、どうなるだろうか。璋子は暗憺たる気分に襲われた。
皆、いい人たちだ。だが、自衛隊の話をするときは、そろって醜悪な顔となり、復讐の念をむき出しにする。
たがいを助け合い、いたわりあう顔と、自衛隊へ怨念をぶつけるときにみせる鬼のような顔。どちらがほんとうの素顔なのだろう。
璋子は香寿奈の耳に口をよせた。
「わかってると思うけど、みんなのまえで、おとうさんが自衛隊だってことはいわないのよ」
「なんで? おかあさんは、この人たちのいうことを信じるの? ほんとに自衛隊がクーデターを起こしたとでも思ってるの? おかあさんは、おとうさんが信じられないの?」
「ちがうわ。そうじゃないけど……」
子供ゆえの純粋さと潔癖さに、璋子は苦いものを感じた。
「おとうさんや自衛隊がそんなことするわけないってことは、わたしだってわかってる。でもね……」
「でも、なによ。信じてるなら、みんなのまえでそう言えばいいじゃない」
正論に、璋子の喉がつまる。
璋子もわかっている。菊造たちは、たしかに本心から自衛隊が憎いのだろう。
しかしそれ以上に、かれらには共通の敵というものが必要なのだ。敵をつくって皆の心をひとつに結束しなければ、あすをも知れぬ現状を乗り越えることができない。
その敵が目の前にいるとなれば、どんなことになるか。あまり想像はしたくない。
「かあさんはね、おとうさんと約束してるの。あなたとお義母さんを守るって。だから、お願い。おとうさんのことは、内緒にしておいて」
香寿奈は、泣き出しそうな顔になっていた。
「どうして? どうして、わたしのおとうさんは自衛隊に勤めてますって、堂々といえないの? 自衛隊って、人にいえないような恥ずかしい仕事なの?」
「いいえ、そうじゃない。そうじゃないけど、いまは、がまんして」
「どうして? どうして……」
ついに涙をあふれさせた香寿奈を、母は優しく抱きしめた。
むせぶ娘の体温を感じながら奏に目をやる。この数時間というもの、ずっと苦痛の表情を脂汗とともににじませている。
視線に気づいた奏が、珠のような汗を流しながら強引に笑みをつくる。
「だいじょうぶ。ぜったいにばらしたりしない。あなたたちは恩人だもの」
ほかの人間にはきこえないようにささやいた。璋子は軽く頭をさげた。
いよいよトラックは山へと入る。
梢が屋根を架する山道をぬけると、里に出た。
おもわず、感嘆のためいきがもれる。
地は輝くような緑に覆われ、ゆるやかな稜線と接する空の青と雲の白との対比をなす。
田畑が広がり、間を畦道が縫うように走る。
人と自然が適度な距離で交流していた時代の名残をいまにとどめる、心の原風景のような景色。
はじめて訪れる場所なのに、ふるさとに帰ってきたかのような懐かしさを感じる。
「おりてみよう。人がいるかも」
瑛太のひとことで、皆の胸に希望がともる。
里には、草花や木々と仲間であるかのような家屋が点在していた。いずれも、冬場に雪をおろしやすいよう屋根が傾斜のきつい三角となっており、切妻造りで、茅が葺かれている。
璋子の第一印象は、マッチ一本の火で全焼してしまいそうな家だな、というものだった。
相倉合掌造りとよばれる古民家の集落である。
集落には、三十戸あまりの相倉合掌造りの家々があったが、やはり人はひとりもいなかった。
散らばっていた難民らがもどってきて、今後の方針をたずねる顔となる。
奏はもう限界だ。いつ産気づいてもおかしくない。
璋子は茅葺きの家がならぶ集落を見渡した。へたに人がいないぶん、略奪を目的とした暴徒に襲われる心配はないかもしれない。東京を空爆していた連中も、こんな辺鄙な片田舎にわざわざ兵隊をよこしたりはしないだろう。
「だれもいないみたいだし、しばらくここのお家を借りましょうか」
皆が安堵したような表情をみせる。荷台にゆられるのにいいかげんうんざりしていたのだ。
「でも、相倉合掌造りの家って、たしか世界遺産じゃなかったっけ?」
住むにあたって男は力仕事、女は掃除と役割分担にわかれていくとき、香寿奈が小声で訊いた。奏に肩をかして、古民家の一軒に上げながら、璋子は笑った。
「人の命より大事な遺産なんてないわ。それに、いくら遺産ったって、ようするに家よ。わたしたちの家だって、五百年たてば世界遺産になるわ」
「そういうものかなぁ……」
香寿奈は祖母の手をひいて母につづいた。祖母はうつろな目をしている。
富山県の越中五箇山相倉合掌集落が、石川県小松市から五十キロメートルしか離れていないことを、璋子たちは知る由もない。
◇
神奈川県横須賀市根岸町の馬門山墓地は、舊海軍墓地である。
明治一五(一八八二)年に海軍埋葬地として設けられ、東には東京湾、西を相模湾にはさまれた三浦半島の小高い丘にひっそりとその身を置く。
潮の香をはらんだ風が無言ですぎゆくこの軍用墓地には、軍艦河内や愛宕の戦死者、上海事変戦死者などの慰霊碑とは別に、二一七柱の個人墓も建立されている。
ふだんから、人が絶えて訪れない場所である。
そこへ、幽谷の蛩音を響かせる者がある。
ヒタヒタと草履を擦らせてくるのは、夜の闇が凝結したような漆黒の糞雑衣。
顔は、深くかぶった菅笠に隠れて見えぬ。
弓手につまんだ鈴が、ときおり高く澄んだ音を奏でる。
影が人の形をして歩いているかのような托鉢僧は、草履に包まれた足をとめた。菅笠がわずかに動く。
「憐れだえ。むごいわえ」
男とも女ともつかぬ中性的な声が、古い畳の色をした笠の下から洩れた。
高台にあって竹藪とともに潮騒を聞く慰霊碑は、なるほど見栄えのするよう手入れされて、正午の陽射しが美しく跳ね返されている。
しかるに、雲水はそちらを見ていなかった。
人の身の丈ほども伸びた雑草の隙間からのぞくのは、幾星霜の風雨に耐えかね荒廃した、二一七柱の英霊の墳墓。
磨かれたことが久しくないであろう棹石は、いずれも表面がまだらに薄汚れ、まるで皮膚病に犯されているかのようである。
なかには、土台である下段から倒壊していたり、赤や青のカラースプレーで『人殺しの墓』『オマンコおいしい』などと落書きされているものまであった。
軍用墓地は、戦後、当時の大蔵と内務の両次官の通牒により都道府県または地元市町村に無償で貸し付けされた。
かつて横須賀鎮守府に運営されていた馬門山海軍墓地は、現在、横須賀市の墓地として管理されている。
しかし、市は所有者不明の個人墓については関知していない。
いわく、土地は市のものであるが、そこになんの墓があろうがしったことではない。
軍や戦死者にかんする問題は、ふつうは国家が解決するべきものである。だが、いまの政府にとり、舊日本軍は葬り去りたい過去そのものであり、恥部でしかない。
国は市に丸投げし、市は妾腹の子供の世話のごとくにいやがり、日本軍の後裔たる自衛隊も、文民統制の名のもとに勝手に手は出せない。
管理者がいないのであれば、死者のための箱庭たる墓地が荒れるのは必然といえよう。
「たかが國のために死地へおもむき、命をかけて鬪った同胞への報いが、このざまかえ。そりゃ怨んで当然だわえのう」
むせかえるような草の匂いと青葉、夏の花が、ただ墓地を彩り、優しく見守っていた。
蝉の声も、さながら歌をささげて鎮魂しようとしているかのように高らかである。
打ち捨てられた墓地のかなり低空を、いくつかの戦闘機が、おさえつけるようなジェットの轟きを残し、去っていった。