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三十六 夢にささげる鎮魂歌

「高線量の放射線に被曝すると、まず細胞分裂の活発な部分から影響がでてくる」

 無菌治療部のゼラニウム部長が所見を述べた。

「代表的なのは腸の粘膜、皮膚、それになんといっても免疫細胞だ。事実、採取したアラン・エイブラムスの血液は、白血球のなかにおけるリンパ球の割合が一・五%にも満たなかった」

 血液中には、細菌やウイルスから体をまもる白血球があり、リンパ球はそのうち二十五%から四十五%くらいを占める。

 すでに被曝の症状が、数値として出はじめているのだ。

「それで、エイブラムスが倒れたその日に採取した骨髄細胞の顕微鏡写真が、けさ、とどいた」

 コニーアイランド総合病院七階の大会議室の紗幕が自動的に閉まり、窓からの朝陽を遮断。同時に照明も落ちる。

 室前方の投射幕に、画像が投影される。

 特別医療チームの一員として参加していたグレースは、目をうたがった。

「これは、ほんとうに染色体ですか」

 そんな問いが喉まで出かかる。薄暗い室内につめた、三十人を越える各診療科の医師たちのあいだにも、動揺のざわめきが走り回る。

 画像に写っていたのは、紫に染まったアオミドロのような、不揃いで、みじんに細切れになった、いびつな破片の群れだった。

 人間はもとより、生物の染色体には、とても見えなかった。

「染色体は、減数分裂のさいに複写するべき遺伝情報を内包した、生命の設計図だ。生物の種類によって、きまった数のペアをもつ」

 異常な画像をまえに、ゼラニウムが解説する。

「人間の場合は、二十三対。性染色体のほか、一番から二十二番まで配列がきめられているので、パズルのように順番にならべることができる」

 投影光に間接的に照らしだされたゼラニウムの額には、困惑が汗となって現れていた。

「だが、エイブラムスの染色体は、どれが何番のものかまったくわからない。ずたずたに切断されまくっていて、のみならず、ほかの染色体と癒合しているものさえあった」

 血液と染色体の専門家たるゼラニウムが、重い息を吐く。

「染色体の破壊により、血液の組成に深刻な影響がでてきている」

 顔色も沈鬱に、事実をならべる。

「リンパ球は、いわば体内の軍隊だ。ウイルスや細菌といった外敵が攻めてくると、その兵種を倒すのに適切な兵器、つまり抗体を出動させ、撃退する。しかし、いまもいったように、エイブラムスの血液には、このリンパ球がほとんどない。リンパ球どころか、白血球全体も激減している。いま、かれの体は、あらゆる敵や犯罪者が好き勝手に跳梁跋扈できる無法地帯となっている状態だ」

「では、抗体検査はつかえないというわけか」

 イエスタディにゼラニウムがうなずく。

 リンパ球がつくる抗体の種類をしらべれば、逆にどんな病原体に感染しているかを知ることができる。

 だが、アランには抗体をつくるリンパ球そのものがない。

 免疫がないにひとしい。

 ただの風邪でも、いまのアランを殺すにはじゅうぶんだ。

「かれを感染症からまもるには、ごくごく初期の段階で、からだに入り込んだウイルスなり細菌なりをみつけて同定し、増えてしまわないうちに投薬しなければならない」

 イエスタディがレジュメに要項を書き記していく。

「毎日、朝と夕にアランの血液を採取し、日和見感染をおこしやすいウイルスや菌を主にリアルタイムPCR(核酸増幅検査)でみつけだす。アランの血液検査を優先しておこなうよう、検査会社に通達をだそう」

「検査項目はリアルタイムPCRだけでなく、五十三項目にもおよびますが」

「やるしかないだろう。ひとの命にはかえられない」

 医師のひとりの懸念をイエスタディが退けた。

「見込みはありますか?」

 救急医療の医師が、濃い眉も平坦にイエスタディに質した。

「検査会社に事情を説明すれば、朝晩の検討会議に最新の結果を間に合わせることはできるはずだ。マサチューセッツにおなじ釜の飯を食った舊友きゅうゆうもいる」

「わたしがいっているのは、エイブラムス氏の治療そのものです」

 固い英国英語キングス・イングリッシュの医師は、声までも硬くなっていた。

「助かるとお思いですか」

 意識の底に封じこめてきた問いを再確認させられて、グレースは肩を落とした。数字をみれば、アランを運命から救うことは、不可能以外のなにものでもない。

「人の命を召し上げるのは神の仕事だ。われわれは神じゃない」

 敬虔なユダヤ教徒を母にもつにもかかわらず医師をめざし、労苦のすえ大成したイエスタディの顔には、揺るぎがなかった。

「われわれの役目は、患者に天寿をまっとうしてもらうこと。神のさだめたもうた寿命ならしたがおう。だが、アランがあのような状態になったのは、すべて怪獣のせいだ。アランの運命をうけいれることは、ひいては、あの怪獣が神の遣いであるという論理に帰結する。われわれの愛する国とひとびとを焼きつくし、いまもなお多くの血を求めている怪獣を神と認めてはならない。もしもあれが神だというのなら、そのもたらした結果にあらがうことで、われわれはわれわれの意志を天に示さねばならない。人類は、おまえに膝など折らないと」

 医師たちが、顔を見合わせ、うなずく。

「患者があきらめないかぎり、わたしたちの側が先にあきらめるべきではない。医者としての本分をしめす。最高の集中管理をしてやろうじゃないか」

 ここにいる医師は、みな、それぞれの分野で第一線を張る専門家だ。

 専門家の目でみればみるほど、アランの容態がいかに深刻かがわかってしまう。

 イエスタディは、それでも戦いをいどもうとしている。医療にたずさわる者として、賛同しないわけにはいかなかった。

 グレースも気を引き締めなおした。

 たとえ傲慢といわれようとも、アランを死なせるわけにはいかないのだ。


  ◇


 グレースは、アランのいる集中治療室がある第二病棟の無菌室をたずねた。

 真白い壁と床で構成された入り口の脇に、白銀の柩がつめたく光る。

 あらゆるウイルスや細菌、芽胞さえも死滅させることのできる温度、一二〇度の蒸気で殺菌する高圧蒸気滅菌器オートクレーブだ。

 外部から菌をもちこまないため、医療器具やシーツ、ガーゼなどは、高圧蒸気滅菌器で殺菌消毒してから搬入されている。

 室内に流す空気は、高温の空気焼却装置で滅菌して送りこむ。

 人間はオートクレーブにも空気焼却装置にも入れないので、アランの集中治療室に入室するさいは、待機室で三十分の薬浴が必要だ。

 さらに、集中治療室とのあいだには、二枚の扉があり、奥へ進むにしたがって、気圧が高く設定されている。空気の流れを利用して、わずかでも菌を侵入させないためだ。

 最後の扉がひらき、そよ風がほほをなで、つかいすての紙のガウンにかさこそと音をたてさせる。

 アランは、清潔な寝台で横になっていたが、グレースの姿をみとめると、

「おはよう。気分はどうだい?」

 頭だけを起こして、柔和なほほえみとともに挨拶した。

 めだった外傷はない。

 意識も発語もはっきりとしている。日焼け止めをわすれてフロリダの太陽を浴びたみたいに顔面がすこし赤くなって、ややむくんでいたが、その程度だった。いまにも寝台から起きあがって、手術着を着て颯爽と歩きだしそうだ。

「おはようございます。わたしは、だいじょうぶですよ」

 グレースはむりに笑おうとしたが、すぐにやめた。どんなにとりつくろっても、アランにはすぐに看破されてしまいそうだった。

「エイブラムス先生は、お加減はいかがですか。痛いところとか……」

「すこぶる快調といいたいところだが、正直なところ、全身がだるい。なにをするにもおっくうだよ」

 人知およばぬ大量被曝。

 なにがおこるか予測がつかないため、医療チームには、救急部や無菌治療部のほか、眼科、皮膚科、消化器内科など、およそ病院にあるほとんどの診療科が参加していた。

 それぞれの医師がたてつづけに訪れ、診察、検査、血液採取をおこなっていく。

 白血球の状態をしらべるための、背骨に針を刺しての骨髄採取。

 資料としての、鼻やのど、口内の粘膜、各部の皮膚採取。

 エックス線撮影やCT。

 それらが朝と夕の二回、毎日おこなわれるのだ。アランにとっては休むひまもないだろう。

「検査というものが、患者にこれほど負担をあたえるとは。検査される側になってはじめてわかった。もっと患者が楽をできる検査方法をかんがえないとな。いい経験だよ」

 グレースは胸を打たれる思いだった。放射線という災厄を浴びてなお、アランは医師の心をわすれていないのだ。

「血液検査の結果ですが」

 グレースは、意を決し、アランの目をみて切り出した。アランも目をそらさずうながした。

「血小板の数が、一立方ミリメートルあたり一万八〇〇〇にまで減少していました」

 アランの空いろの目が、わずかに曇る。

「血小板の数は、健康な人でおよそ十二万から四十万」

 ニューヨークきっての名医といわれたアランの唇が、事実を確認していく。

「三万をきると、出血がとまりにくくなる。おちおち鼻もほじれないな。鼻血で死にかねない」

 冗談なのかちがうのか、いまのグレースには笑えなかった。

「白血球も、八百なかばまで減っています」

 アランが、ちいさなため息をつく。アランの血液中の白血球は、通常の十分の一にも足りていない。

 おそらく中性子線により、血小板や白血球をつくる骨髄の造血幹細胞が全滅し、ほとんど機能できていないのだろう。

「治すには、造血幹細胞移植しかないか……」

 白血球や血小板などの血液中の細胞をつくるもととなる造血幹細胞を他人から移植し、患者の造血能力、免疫力を恢復かいふくさせる造血幹細胞移植には、いくつかの方法がある。

 健康な人間から骨髄をわけてもらって移植する、骨髄移植。

 新生児のへその緒から幹細胞を移植する、臍帯血さいたいけつ移植。

 末梢血まっしょうけつにごくわずかにふくまれている幹細胞を、薬やなにかで増やしてからうつす、末梢血幹細胞移植などだ。

 いずれにしても問題は、

「ぼくと型のあうドナーがいるか」

 であった。

 臓器移植においても、だれのものでもいいというわけにはいかない。

 造血幹細胞もおなじだ。

「HLA」

 という白血球の型が、幹細胞を提供するドナーと、移植をうけるレシピエントとで合っていないと、体内で拒絶反応が起きてしまい、定着しない。

 HLAが合うドナーを探すことはむずかしい。

「型が一致する確率は、シブリング(同腹の子供どうし。つまり兄弟姉妹)なら四分の一ですが……」

「あいにく、ぼくはひとりっこだ。ついでながら、両親も、もういない」

 血のつながりのない赤の他人とHLAが合致する確率は、数千分の一とも、数万分の一ともいわれる。みつかればそれこそ奇跡だ。

「もしこれが安手の恋愛小説なら、家内と型がぴったり合ったり、きみがわたしもしらない生き別れの妹だったりするんだが。現実は甘くはないな」

 苦笑いをうかべながらアランはいった。グレースが顔をふせる。

「もうしわけありません」

「きみがあやまることじゃない。移植という現実のまえには、どんな幻想や甘えも通用しない。それはぼくたちがいちばんよくわかっていることだろう?」

 アランが天井を見上げる。

「ぼくがブルックリンに転勤してきてまもないころだ。よくおぼえてる。ヤンキースがシアトル・マリナーズにぼろ負けした夜だ。ある少年が心臓発作でかつぎこまれてきた。ヤンキースが歴史的大敗を喫したからじゃない。かれの心臓には、先天的な欠陥があった。少年自身はもちろん、親さえもしらなかった。その日の発作で、ぼくらが精密検査をして、はじめて発覚した」

 記憶をたどる瞳に、哀惜の色がにじむ。

「そのときかれは、まだ十歳だった」

 追想に、グレースもただ黙してつきしたがう。

「それでも、生まれてから十年のあいだぶじだったことがふしぎなくらいだった。それほど重い病気だ、根本的な治療には、心臓移植しかない」

 腎臓とちがって心臓はひとつしかないし、肝臓のように再生することもないので、生きているひとから摘出するわけにはいかない。

 いつ、つぎの発作がおこるかわからない。もしかしたら、きょう、あした、重大な発作がおきるかもしれない。そのまま心臓がとまってしまうかもしれない。

 いつ時間切れになるかもわからない時限爆弾が、胸に埋めこまれているようなものである。

 宝くじにあたるよりひくい確率で適合者にめぐりあえても、爆弾が爆発するまえでなくては無意味となる。

「それからは適合者発見の報をまつ日々だ。心臓に負担をかけないよう、はげしい運動は制限された。大好きな野球もできない。ちょっかいをだしてきた友だちを追いかけることもできない。みるみる元気がなくなっていったよ。それでぼくは、かれに野球のボールとミットをプレゼントしたんだ。病気が治ったら、おもいきり野球をしよう。いつかきみに合う心臓をもったひとが現れるからね。希望をもつんだ、と」

 つかの間だけ口元をゆるめたアランの顔から、ふたたび表情がぬけおちていく。

「そのとき、かれがふともらした言葉が、いまだに忘れられない」

 ──先生、ぼくは、そのひとが早く死ぬように、神さまにお願いしなきゃならないの?

「あの子にくらべれば、いまのぼくなど、苦境ですらない。迷う必要がないからね」

 清潔の極みに保たれた集中治療室に、アランのことばが、あまりにひんやりと響いた。

 骨髄移植や末梢血幹細胞移植は、さながらネヴァダ沙漠におちたひとつぶの砂金をみつけるがごとく、HLAの適合する提供者をさがさなければならない。

 臍帯血移植は、HLAにさほどうるさくないが、逆にいえば、それだけ競争率が高いということでもある。

 しかも、臍帯血が治療に有効な疾患は、物語の登場人物を死なせる口実に乱用される急性骨髄性白血病や、若年性骨髄単球性白血病、急性リンパ性白血病といったくさぐさの白血病だけでなく、悪性リンパ腫、ハンター病、フューラー病、実話をもとにした映画『ロレンツォのオイル』の主人公ロレンツォ・オドーネ氏が罹患していた副腎白質ジストロフィーなど、かなり多岐にわたる。

 アメリカだけでなく、難病にくるしむ世界中の人間が、赤子の臍をまちのぞんでいる。

 需要にたいし、供給量が圧倒的にたりない。

 自然、早い者勝ち、順番待ちということになる。

「ですが先生。先生ほど症状が重篤であれば、優先的に臍帯血をまわしてもらうということも……」

「だめだ。臍帯血にかぎらず、医療資源はひとしく公平であるべきだ。命に軽重はない。あとから現れた者が、症状がより重いからといって列に割りこむことがあってはならない。それでは患者からの医療への信頼がゆらぐことになる」

 グレースをアランが一蹴した。グレースはあきらめきれなかった。

「先生ならいろいろコネがあるはずです。前例のない大量被曝という事情を鑑みれば、だれも先生を非難したりしません」

「医者どうしのコネは、ひとりで診るにはむずかしい患者をたすけるためのものだ。他人をおしのけてじぶんがたすかるためじゃない。まぁ、金がないときに無心するアテにはするかもしれないがね」

 とアランは笑っていった。

「正当な順番がまわってきたのなら、ぼくもよろこんで臍帯血をもらおう。でも、ほんらいその臍の緒をうけとるはずだった患者の手から強引にもぎとってまで、ぼくは生きていたくはないよ」

 すずやかな声でさとされて、グレースはくちびるを噛んだ。本人がそのつもりでも、こちらはアランに生きていてもらわねばならないのだ。その結果、アランから一生憎まれ、蔑まれることになろうとも、生きていてさえくれれば、いっこうにかまわない……。

「いいね、グレース。わたしは医者なんだ。いまは患者の身だけれど、わたしは医者として、じぶんの人生に悔いを残したくないんだ」

 念をおすような物言いに、グレースは、まさか自身の懸想にきづかれたのではないかとわずかに狼狽した。

 けれども、グレースの胸のうちには、ひとつの希望の灯がともされていた。

 アランの受け答えは正確で、冗談をまじえるほどの余裕もある。

 目の前のアランをみているかぎり、減りつづける血小板、白血球といった症状は、一過性のもので、いまを乗りきることができれば、きっとよくなるにちがいないと思えた。

 ちいさいが、闇を赤々と照らすともしびを、アランの愛するひとにもわける必要があった。

「それで、先生。その男の子はどうなったんです」

 去りぎわ、グレースが訊くと、アランは天井を見つめたまま「うん?」と応じた。

「その、心臓病の子供です。再発するまえに、ドナーの発見は間に合ったんですか?」

 アランは、グレースのほうへは首を動かさずに、まるで天井にだれかがいて、その者の話に耳をかたむけているようにじっと黙っていたが、やがて、

「間に合わなかったよ」

 低い声で、つぶやいた。


  ◇


 最初は、微妙な変化だった。

 アランは、ひんぱんに喉の渇きをうったえるようになった。

 口から食べ物を摂ってもすぐに吐いてしまうため、栄養と水分は点滴でおぎなっていた。脱水症状がおきているはずはない。尿の量もふえるどころか減っていた。

 かわりに、下痢をするようになった。

 下痢と表現してよいのかはわからない。

 目が覚めるような鮮やかな緑いろをした、粘りけのある汚水が、ちょうど絵の具のチューブを踏んでしまったときのように肛門から這い出てくるのだ。

 グレースが衝撃をうけたのは、点滴の針や電極の固定のため貼ってある医療用テープをはがしたときだった。

 テープに皮膚がそっくりくっついて、いっしょにはがれてきたのである。

 体表にきざまれたテープの跡は、いつまでたっても消えなかった。

 しかも、集中治療室に移されてから三日めには、テープを貼らなくても、黄色い血漿の汁がじくじくにじみ出るとともに、皮膚が、ひとりでにはがれ落ちるようになっていた。

 室内は、汁がはなっているのであろう、貝が腐ったようなすさまじい悪臭であふれかえり、ときには目にしみるほどであった。

 からだじゅうの皮がはげ落ち、桃いろの肉がむき出しとなる。空気に直接さらされて、激痛をうむ。

 指先がさかむけしただけでも痛む。それが全身を襲っている。さしものアランもうめくことが多くなった。

「まるでベッドが巨大なフライパンになっていて、一日じゅう、からだを火で炙られているかのようだ……」

 事実、部位によっては猛火に舐められたかのように黒ずみ、泡状の水ぶくれができて、火傷と同様の症状を呈していた。

 当初、アランには睡眠薬がもちいられていたが、あまりに痛みがはげしくなって、一日じゅう、からだを小刻みにゆするほどだったので、寝るときには鎮静剤が投与されることとなった。

 呼吸も弱くなってきていた。

 血液中の酸素濃度をふやすため、酸素マスクがつけられた。

 マスクに口元を覆われ、アランの疲労も色濃い顔は、さらに苦悶にゆがんだ。

 医療用酸素マスクは、顔に密着させて圧力をかけ、強制的に肺をひろげて酸素をおくりこむ。じぶんの意思とは関係なく、酸素をむりやり吸入させられるのだ。苦しくないわけがなかった。

 グレースは、いまのうちに、ジェシカをアランに面会させておくべきだと思った。もし、さらに呼吸の状態が悪化したら、人工呼吸器をつけなければならなくなる。のどに人工呼吸器の管を入れれば、声をだすことはできなくなる。会話が交わせなくなるのだ。

 だが、治療チームのリーダーをつとめるイエスタディは、ジェシカの面会を頑として認めなかった。

「なるべくICUに菌をもちこむリスクを増やしたくない。毎日の検査につぐ検査で、ただでさえ人が絶えず出入りしている。まして、医療に関係のない人間を入れるわけにはいかない」

「関係ないだなんて。奥さまですよ」

「だからなんだ。彼女と会えば、アランの容態がよくなるのか?」

 にべもないイエスタディに、グレースは反感をおぼえた。いっぽうで、イエスタディの方針がどこまでも合理的であることも理解していた。

 医者としてのじぶんと、人間としてのじぶんに引き裂かれそうな思いに煩悶する。だが、いちばん苦しいのは、アランとジェシカなのだ。

 痛嘆とともに、アランが面会謝絶である旨を報告すると、病室の寝台に横になっていたジェシカは、失意に眉目をかげらせたが、

「それが主人のためなら、しかたないわ……」

 そう気丈にこたえてみせた。グレースはよけいに不憫になった。同時に、じぶんがとても無力で矮小な存在に思えた。愛しあっているふたりを会わせることすらできない。それがくやしかったのである。

「なら、面会が許可されるまでに傷をよくしとかなくちゃ。どっちが相手の面会に行けるようになるか、主人と競争ね」

 わき腹をなでながら、ジェシカが笑ってみせた。あまりに儚げな笑みだった。グレースには、むしろ泣いているようにみえた。

「エイブラムス先生は、きっと助かります。助けてみせます」

 グレースが去ったあと、ひとりきりになったジェシカは、両手を組み、こらえていた嗚咽をもらしながら、ささやくような小声で祈った。

「神さま。どうかわたしの愛するひとをお救いください。主人はこれまで大勢のひとを救ってきました。すべてをささげ、ただひたすらに、病めるひと、苦しむひとのためにつくしてきました。みずからの危険もかえりみず、こんな愚かなわたしを救ってくれました。願わくは、かれに救いの手を。かれこそ生きるに値する人間です。わたしよりもずっとすばらしい人間。だれの死も望まず、まただれも死を望まぬ人間です。お望みとあらばわたしの命をかわりにさしあげます。ですからどうか神さま、どうか……」

 部屋でひとり、涙をしずくとこぼすジェシカの願いをきく者は、どこにもいなかった。


  ◇


 医療用テープをはがすときにいっしょにむけていた皮膚は、いっこうに治るけはいをみせなかった。

 むけたてのまま、新しい表皮がうまれてこないのだ。

 むしろ、そこをきっかけにして、大火傷でもしたかのように赤黒く変色した表面の皮が、体液まみれになりながら剥離していった。

 髪の毛も、砂がこぼれ落ちるようにするすると脱けてしまい、いまは一本ものこっていなかった。

 髪だけではない。

 頭皮もまた、火傷のような水ぶくれをつくったあと、血液と体液をしみださせながら、アランの頭からめくれるように脱落していった。

 同様の症状は、首、肩、腕、胸、腹、足、股間……およそ全身のあらゆる部位におよんだ。

 滲みでる体液のため、アランは、からだをくまなく包帯とガーゼにつつまれることとなった。

 医療チームにとって、毎日の包帯交換が、欠くべからざる日課になった。看護師もふくめて二十人がかりの、たいへんな日課である。

 まず高圧蒸気滅菌器をとおしたガウン、マスクに帽子、それに手袋を、入念に洗浄、殺菌消毒した身につけて、アランの病室に入る。人数が多いだけに、これだけでも一時間半以上はかかる。

 つぎにアランの血漿や液汁をたっぷり吸った包帯とガーゼをとりのぞき、裸にしたあと、硝酸銀を溶かした消毒液を全身に噴霧する。

 そのあいだ、べつのスタッフが、ガーゼに抗生物質の軟膏を塗布しておく。ガーゼも通常のものではない。いまのアランにはからだをまもる皮膚がないので、ただのガーゼでは無数のちいさな針で刺すような刺激をあたえてしまう。

 ために、通気性のよい合成繊維をシリコンでコーティングした、トレックスガーゼという、表面がゆで卵みたいにすべすべの特殊なガーゼがもちいられた。ひと箱で二百五十ドルもする高級品である。

 いちどの包帯交換で消費される包帯とガーゼは、成人男性がなかに隠れられる大型台車に積みきれないほどだった。

 交換じたいは単純な作業だが、できるだけアランに負担をあたえないように慎重におこなわなければならなかったため、ゆうに三、四時間は要した。

「痛くないですか」

「右足、終わりましたよ。あともうすこしですから、がんばってくださいね」

 作業の最中、複数の鎮痛剤と鎮静剤で沈黙を余儀なくされているアランに、グレースをはじめ、医師らは、つとめて声をかけた。

 背中の包帯をすべてとったとき、うしろで看護師たちの何人かが、嫌悪感からくるうめき声を吐いた。

 アランの背中一面、臀部にいたるまで、皮膚は肉汁となって溶け落ち、肉はまるで耕されたようにじゅくじゅくになり、一部は黄色い脂肪層まで露出していた。

 人間というより、人のかたちをした肉塊といったほうがよいような惨状だった。

 グレースは、シーツの取り替えも、率先して手伝った。どんなちいさなことでも、なにかしてあげなければ、という気持ちでいっぱいだった。

 アランをつつんでいた包帯、ガーゼ、シーツは、からだからしみでる体液を吸いこんで重くなっていた。重さもたいせつな情報だ。アランのからだから、どれくらい水分がうしなわれているかの指標になるからである。

 浸出した体液は、一日半ガロン(二リットル強)にも達していた。

 グレースは、交換のたびに、やるせない気持ちにさいなまれた。

 アランに投与されている塩酸モルヒネは、強力な鎮痛効果があるが、いっぽうで、患者をほとんど眠った状態にしてしまう。

 モルヒネをはじめとした鎮痛剤、鎮静剤を多量に投与され、アランはいま、昏睡状態にあるといってよい。

 以前……。

 十年間もの植物状態から、奇跡的に恢復したというひとに、話をきく機会があった。

 そのひとがいうところでは、いわゆる植物状態になっているあいだも、目はみえるし、音もちゃんときこえる。暑さ、寒さも感じることができる。五感はすべて、ふだんどおり完全に機能していたという。

 だが、それらの刺激にたいして、いっさいリアクションをすることができない。目の前で母親が泣いていても、かあさん、と呼ぶことすらできない。そんな状態が十年もつづいた。

 生き地獄である。

 きっといまのアランも、おなじような状況なのだ。

 モルヒネですら、完全に痛みを遮断できていないかもしれない。べったりと体表にくっついた包帯を解くたび、グレース、痛いよ、やめてくれ、と無言でさけんでいるのかもしれない。けれども、グレースたちには、包帯をかえてやることしかできないのだ。

 皮がなくなり、生肉が丸見えになって、五体を血液と体液で桃いろに濡れ光らせながら眠るアランに、グレースは、心のなかで、なんどもなんども謝罪した。ほかにどうすればいいか、わからなかった。

「グレース先生、きょうかぎりで、辞めさせてください」

「わたしも、もういやです」

 毎日、作業のたび、辞職を願いでる女性看護師らが後を絶たなかったのも、むりからぬことであった。

「きもちはわかるけど、もうすこしがんばってみましょうよ。エイブラムス先生だって、必死にがんばってらっしゃるのよ」

「だって、先生」

 看護師のひとりは鼻にしわを寄せ、アランの病室をゆびさして、

「あんな治療してて、意味があるんですか? そもそもあれを治療とよべるんですか? 来る日も来る日も、ぐしょぐしょの包帯をかえて、重さを量って、ぬるぬるした汁の跳ね返りを浴びて……もううんざりなんですよ」

「そんなことをいうものじゃないわ。人を治すのが、わたしたちの仕事でしょう」

「人?」

 看護師の女性は、疲弊しきった笑みをみせた。

「いまのエイブラムス先生を、人とおっしゃるんですか? あんなの、人じゃない!」

 反射的に、グレースの手は、看護師のほほを張っていた。

 看護師はものすごい目でグレースをにらんだ。ひとしきりそうしたあと、きびすを返して去っていった。ひきとめる力は、グレースには、残されていなかった。

 包帯交換が終わったあと、アランの病状にかんする情報を整理し、しかるべき投薬の指示をすることも、グレースの仕事だった。

 アランのからだから出ていった水分を計算し、補給のため乳酸加リンゲルを輸液する。

 造血能力がないため、赤血球をふやすエリスロポエチンや、血小板をつくる血液細胞をふやすはたらきのあるトロンボポエチンといったホルモン剤が投与されつづけた。

 輸血そのものも、毎日おこなわれていた。赤血球、血小板、新鮮凍結血漿をあわせると、輸血は一日二十回を数えた。それは、日を追うごとに増えていった。

 抗生物質と抗真菌剤、ほかにも、ありとあらゆる文献を漁って、副作用も勘案したうえで治療に有効だとおもわれた薬品はすべて試した。

 毎日二回の検討会議につかう資料づくりも、グレースの重要な仕事だった。

 どの薬品をどれほどつかったか。効果はあったか。

 日々ふえるいっぽうの薬品の量と種類に追われた。

 朝の会議に出席したあと、アランの包帯を替え、治療にあたり、夕方の会議のための報告書をつくる。

 会議が終われば、また治療にもどり、並行して翌朝の会議にむけ報告書を書く。空が白みはじめたころ、オフィスの片隅で仮眠をとる。

 わずかばかり眠ったあと、重くてたまらないからだをひきずって、会議室へむかう。

 その途中だった。

 アランのいる病室に通じる連絡通路のまえに、ちょっとした人だかりができていた。年齢層も人種もさまざまだ。みな、怪獣により被災した入院患者や、その家族のようだ。

 どうかしたのかたずねると、

「エイブラムス先生がたいへんなことになってるってきいて、それでお見舞いにきたんです」

 妹らしい幼女をともなった、中学生くらいの少女が、花束を片手におずおずと答えた。

 いわれて、グレースは、どのひとも、花やメッセージカードなど、思い思いの品を手にしていることに気づいた。

「わたしたちは、両親と兄を先生に診てもらいました」

 少女は訥々と語った。

「両親と兄は、がれきに生き埋めになったまま火事にまきこまれました。なんとか助け出されたのですが、焼けた体どうしが癒着して、三人がひとかたまりになっていました」

 グレースもおもいだしていた。三人を分離させる切除手術は、アランが執刀し、グレースも助手のひとりとして参加した。

 その結果も、わすれてはいなかった。

「けっきょく、両親も、兄も、亡くなりました」

 少女と手をつなぐ妹がむずかる。家族をいちどに三人もうしなった痛みは、幼い子供にはわが身を割かれるに勝るものだろう。

「お気の毒に……」

 口にできることばは、かぎられていた。ことばなど、愛する者をうばわれた人間には、なんのなぐさめにもならない。

「でも、先生は、最後まで、いっしょうけんめい治そうとしてくれました」

 少女はかぶりをふっていった。金色の三つ編みが波を打つ。

「手術したら終わりじゃなくて、そのあともずっとめんどうを見てくれました」

 人見知りする性格らしい妹が、少女の背にかくれる。手には、厚紙でできた手作りの勲章がにぎられていた。

「きっとどなたが診てくださっても、助かりようがなかったと思います。それでもエイブラムス先生は、とても親身にわたしの家族をお世話してくれました。先生に担当していただいて、両親も兄も感謝していると思います。そのエイブラムス先生がご病気だときいて……いてもたってもいられなくなって。わたしたちではなにもしてあげられないけれど、せめて元気づけられたらと……」

 少女が妹に話しかける。妹がためらいがちに前へでる。

「あのね、これ、先生へのお礼につくったの。がんばってつくったのよ」

 謹製の勲章をグレースにさしだす。表には、よく特徴をとらえた、一目でアランだとわかる似顔絵。裏には、スペルこそまちがっているものの、“エイブラムス先生、早く元気になってね”と書かれていた。

「おれは、足を診てもらった」

 白人の男が松葉杖をつきながら手をあげ、

「おれの弟が世話になった。開放骨折やらなにやら大怪我を負ってるうえ、アジソン症候群の持病があって、ほかの医者が匙をなげてたらい回しにされてたが、あの先生が手術してくれたんだ」

 大柄な黒人がつづいた。

「先生は命の恩人だ。あらためてお礼をいいたいし、悪い病気になってしまったのなら、お見舞いくらいしかできないが、なにか力になりたい」

 だれかがいうと、廊下にあふれんばかりの善きひとびとが一様に首を縦にふった。

 グレースは涙がとまらなかった。熱い涙だった。

 見舞いの品は、付着している細菌やウイルスがどうしても百%除去できるわけではないことから、病室にもちこむことはできなかったが、けさ、こういうことがあったと話すと、全身を包帯にくるまれ、ミイラ男となっているアランもまた、感涙にむせんだ。

「ぼくは病気やけがを治してたんじゃなくて、人を治してたんだな」

 アランには、多種多様、かつ、大量の投薬がほどこされていた。

 うちのひとつが、フェンタニルという鎮痛剤だ。フェンタニルは、塩酸モルヒネの二百倍の鎮痛効果がある、医療用の合成麻薬である。

 もう、麻薬でしか、アランの痛みを緩和することができない状態だった。

 フェンタニルは、モルヒネとちがって意識に影響はあたえないので、こうして会話を交わすことも可能であった。

「いまになってようやくわかるなんて。こんな簡単なことなのに」

 心電図は、アランの心臓が強心剤ではげしく脈打つさまを表示していた。心拍数は一分あたり、百三十回ほど。つねに全力疾走させられているようなものだ。呼吸も荒い。

「ただ流れ作業のように手術をしていた日々がうらめしい。もっと患者のことをかんがえて治療にあたるべきだったんだ」

 苦しそうな呼吸の合間に、アランが悔恨を述べる。

「何日かまえまで、仕事がいやでたまらなかった。生活を犠牲にしてでも手術室にはいることに、理由が見いだせなかった」

 声は、酸欠になったかのようにかすれていた。

「でもいまは、はやく仕事に復帰したい。ひとりでも多くの患者を助けたい。大がかりな手術じゃなくてもいい。どんなささいなことでもいいから、患者さんの役にたちたい」

 アランが、薄紅いろに染まった包帯でぐるぐる巻きの右手をかざす。

「いまなら、もっとうまく治療できる気がする」

 手が震え、下ろされていく。筋肉の壊死がつづいている。手をかかげることさえ、困難になっていた。

「ぼくは、治るだろうか」

 グレースは、とっさに答えることができなかった。ようやく紡いだことばは、

「きっとよくなりますよ。そうしたら、またいやになるほど手術の予定が入りますから、いまはゆっくりしててください」

 じぶんでじぶんを呪いたくなるほど、そらぞらしい希望的観測でしかなかった。

「グレース、たのみがある」

 アランがあらたまった。さきほどより発音がわるくなっていた。

「妻に伝えてほしい。愛している、と」

 グレースは胸騒ぎがした。不吉な予感がした。

「そういうのは、ご自分の口から伝えてください」

 冗談ぽく笑いながら返したときだった。

 アランの呼吸が、止まった。

 呼吸困難に陥ったのだった。

 一刻の猶予もなかった。ただちに、気管に人工呼吸器の管を通す処置がとられた。

 人工呼吸器があるかぎり、アランはしゃべることができない。

 アランから、ことばがうばわれた日であった。


  ◇


 人工呼吸器の管をいれられたあとも、アランの意識ははっきりとしていた。

 鎮静剤で眠っているとき以外は、医師たちの問いかけに首を縦にふったり、横にふったりして答えた。

 しかし、それも二日と続かなかった。

 アランは、起きているあいだ、ずっとからだを揺すって過ごした。フェンタニルですら抑えきれないほど、痛みがはげしくなってきたものらしい。

「痛いですか?」

 グレースの問いに、アランは、二、三回、首を縦にふった。

 そういう事情もあって、アランは、一日のほとんどを鎮静剤で眠った状態にされていることが多くなった。

 たとえアランが眠っていても、医師や看護師らは、かならずアランにことばをかけた。グレースはその筆頭だ。

 病室に音楽をながすことを提案したのも、グレースである。

 アランが好きな音楽をジェシカからおしえてもらって、CDを手当たり次第にとりよせ、順繰りにかけていった。

 曲はクラシックが多かった。ギュスターヴ・ホルストの組曲惑星、ロドリーゴのアランフェス協奏曲、モーツァルトのピアノ協奏曲二十三番イ長調K488第二楽章アンダンテ、アルビノーニのアダージョに、四八年に収録されたデュヌ・リパッティとカラヤン指揮のフィルハーモニア管弦楽団によるシューマンのピアノ協奏曲イ短調作品54……。

 アランの耳にとどいているかはわからない。

 すこしでも、アランのこころに安らぎをあたえたかった。

 医学的な治療で力になれない歯がゆさが、チームのあいだに、無言のうちにひろがった。

 入院から五日め。

 アランは通常の寝台から、超重症患者用の褥瘡じょくそう防止ベッドに移された。

 ローリング・ベッドの別名のとおり、電動で左右にそれぞれ三十度までかたむけることができる。

 アランは、鎮静剤でつねに眠らされているだけでなく、人工呼吸器をつけていたため、あおむけのまま、からだをうごかすことができなかった。

 おなじ体位が長くつづくと、重力により血液や老廃物が背中側にたまってしまったり、床ずれが起きたりするおそれがある。そうした危険をさけるためには、定期的に体位をかえなくてはならない。そこで、この特殊な寝台が導入されたのだった。

 寝台がかたむいたときに患者が転げ落ちてしまわないよう、両手両足、頭と胴体を拘束し、固定されたアランは、物言わぬまま、ただ電気駆動のモーター音もむなしく、機械に寝返りを打たされていた。

「人? いまのエイブラムス先生を、人とおっしゃるんですか? あんなの、人じゃない!……」

 看護師の慟哭のごとき非難が、耳朶にこだまする。

 かぞえきれない治療薬の点滴につながれ、褥瘡防止ベッドの周囲には、薬液をとおす管や、医療機器の電源コード、ケーブルが、室内をところ狭しと這いまわる。

 スパゲッティ・シンドローム。

 アランは、いまや機械と薬によって生かされていた。これを、生きているといえるのか。

 皮膚からしみだす水分はさらにふえ、一日一ガロン(四リットル弱)を超えるようになった。

 イエスタディの発案で、アランに皮膚の移植をおこなうことが決まった。

 方法のひとつとして、培養皮膚移植の意見もあった。

 ふつう、培養皮膚は、患者自身の皮膚を培養するものと、他人から提供をうけてふやすものがある。

 アランの場合、染色体が原型をとどめないほど破壊されていて、最新の人工多能性幹細胞、いわゆるiPS細胞技術をもちいても、自分自身の皮膚を培養してふやすことは不可能だった。また、拒絶反応をおこさない提供者をさがすほどの時間的余裕もない。

 そのため、皮膚移植には、人工皮膚がつかわれることになった。

 コラーゲンを主成分とし、牛や豚の真皮または腱を原料に、拒絶反応が出にくいようにつくられた人工皮膚は、発汗や発毛こそないが、皮膚がすべてはがれ落ちたアランには、ないよりははるかにましだ。うまく定着してくれれば、体液が漏れでていく現状をかえられるかもしれない。感染予防にもなる。

 さっそく近隣の州の病院にまでかたっぱしから電話をかけまくり、人工皮膚をありったけかきあつめた。数万単位で被災者がでている。人工皮膚も在庫が底をつきかけていたが、半日もしないうちに百枚ちかくが届けられた。

「ぶじ、生着してくれますように」

 移植ののち、ただただ祈った。

 三日後、皮膚に変化があらわれた。

 皮下組織から、あらたな毛細血管や細胞のもとになる芽細胞が、糸で張りつけた人工皮膚のなかに入りこんでいるのが確認された。まぎれもなく、アランのからだが、人工皮膚をみずからのものとして生着させようとしていた。

「ついたぞ!」

 朗報と歓声が、病院じゅうをかけまわった。ふつう、人工皮膚が定着のきざしをみせるまで、一週間くらいはかかる。こんなにも早く効果がでるとは、うれしい誤算だった。

 全体をみれば、ほんのささいなできごとかもしれないが、人間のもつ力、生命力に、グレースは魂をゆさぶられるほど感動した。

 同時に、アランもまた、生きようとしているのだ、じぶんたちももっとがんばらなければ、と放射線障害にたちむかう決意を新たにした。

 翌早朝、大量の下痢がはじまった。下痢は、破壊された赤血球で真っ赤に染まっていた。下血である。

 とつぜんすぎる事態に、急遽、消化器内科から、内視鏡検査の名手、マクビベンブルックがよばれた。

 四十過ぎの巨漢医師マクビベンブルックは、これまでもアランの内視鏡検査を依頼されていたが、万が一のことが起きたさいの危険性から難色をしめしていた。

 もし、内視鏡の操作をしくじって、腸に穴をあけてしまったら。

 通常なら開腹手術で穴をふさぐ措置がとれるが、アランの体力が手術に耐えられるはずもなかった。

 とはいえ、下血となれば、四の五のいってはいられない。マクビベンブルックは腹をきめた。

 大腸へ、先端に照明とカメラが搭載された細いファイバースコープをそっといれた。モニターに出力された丸い映像に、みなが注目した。

 腸内は、粘膜がぼろぼろになってはがれており、いたるところから血がにじみ出ていた。しみ出した血液が、小腸から大腸へむかって、一目散に流れていく。

 グレースは、いつかニューオーリンズを襲ったハリケーンのニュース映像のひとこまをおもいだしていた。カメラが、どこかのトンネルを映している。道路は冠水して、トンネル内部も、下半分ほどが、うねるような濁流に支配されていた。

 この腸内の映像も、おなじような状況だった。腸がトンネルで、あふれる血液が濁流だ。おぞましい光景としかいいようがなかった。

 下血は、とめどがなくて、一日一クォート(約一リットル)にもおよんだ。

 まだつづいていた皮膚からの血液や体液のしみ出しに、下血のぶんもあわせると、体内からうしなわれる水分は、日に三ガロン(十リットル強)にたっしようとしていた。

 グレースたちは、三十分ごとにアランからでていった水分を量り、おなじ量の水分をそのつど輸液した。

 翌日のことである。

 毎朝の検討会議ののち、包帯の交換のため病室に入ったグレースたちは、ことばをうしなった。

 定着したとおもわれていた人工皮膚が、ほとんど全部、脱落してしまっていたのだ。

 あまりに水分がしみ出てきているため、人工皮膚が内側から押し流されていたのである。

 わずかな希望さえ打ち砕かれた。ふりだしにもどったのだ。

 人の生きる意志をあざわらい、ことごとく阻止する。放射線障害のおそろしさに、グレースは戦慄した。

 包帯交換や点滴などの処置で、手を持ち上げたり、足を動かしたりすると、鎮静剤で眠っているはずのアランは、眉間にしわをよせ、苦痛の表情をしめした。

 こんな状態になっても、まだ痛みを感じるのだ。肉体が総崩れになっていくなか、新陳代謝しない脳と心臓は、被曝の影響をほとんどうけず、健康なまま保たれる。

 アランに投与されている鎮静剤は、2,6-ジイソプロピルフェノールという、全身麻酔の導入にもつかわれる強力なものだ。それが点滴でつねに静脈へ入れられていた。

 フェンタニルのほか、コノトキシンも鎮痛剤としてつかわれていた。

 コノトキシンは、イモガイが獲物を狩るときにもちいる世界最強の神経毒だ。

 イモガイに刺されると人間でさえ死にいたるが、成分比と量を調節して合成された鎮痛剤は、モルヒネのじつに一〇〇〇倍から一五〇〇倍という、超強力な鎮痛効果をもつ。

 毒と表裏一体の鎮痛剤が、脊髄へ直接、注入される。

 有効な打開策がみえないなか、アランの苦痛をとりのぞくことだけが、唯一の治療となっていた。

 あるときから、グレースは、じぶんたちのしている治療が、ほんとうにアランのためになっているのか、疑問におもうようになった。

 ざるのようにとまらない出血と体液の流出。くりかえされる大量の点滴と輸血。

 ふるくなった細胞が死んでも、染色体がこわされているため新しい細胞をつくることができないアランのからだは、徐々に溶解しはじめていた。

 人間としての形状をなくしていく。

 もはや、どんな医薬品や治療も、アランの症状をよくすることはできなかった。

(治療をつづければつづけるほど、それはエイブラムス先生の苦痛を長引かせるだけで、薬や輸血用血液などの膨大な医療資源を湯水のように浪費している現状がつづいても、だれのためにもならないのではないか……)

 口にこそださなかったが、このまま治療をつづけてもよいのか、という疑問をもっているスタッフが、じぶん以外にもいることは容易に察しがついた。しかも、少なくない数である。

「とにかく最後まであきらめるな。なにもかんがえず、治療をつづけるんだ」

 イエスタディは強硬に主張し、チームを引っ張った。リーダーとして、士気の低下を憂えたのだろうと同僚らは話し合ったが、グレースには、有無をいわさぬイエスタディのようすに、どこかしらひっかかるものがあった。

 できることなら治したいという思いは、もちろん変わらなかった。グレースも、ジェシカも、医師たちも、アランに生きていてほしかった。アラン本人も、生きたいとねがっているにちがいない。

 だが、みなのねがいとはうらはらに、アランの肉体そのものが、生きることをあきらめていく。

 いったい、なんのために治療しているのか。

 胸をえぐる懊悩とともに、夕方の会議のために報告書をまとめながら、グレースが、アランの心拍数や血圧などからだの状態を映している心電図を、ふと見やったときだった。

 鼓動の基点たる心房収縮のP波からはじまり、Rを頂点としたするどいQRS波の山が心室の収縮をしめし、最後にT波で心室の収縮の終了となる。

 三つで一組となった波形が規則的に更新され、アランの心臓が正常に脈打っていることを告げている、はずだった。

 心電図が、かぎりなく平坦な線を描いていた。

 血圧は、上が五十以下、下も三十台。

 直後、心停止の警報が鳴り響いた。

「医者をあつめて。大至急!」

 ふだん、アランの集中治療室には、感染予防のために全身を洗い、ガウンや帽子、手袋をつけてからでないとはいることができない。しかし、このときは、グレースもイエスタディも、ほかの医師や看護師らも、そのまま奔流のように駆けこんでいった。

「ヴァイタル確認!」

「呼吸停止。脈拍五十五」

「アドレナリンを三アンプル!」

 強力な強心剤の投与を命じるとともに、イエスタディはアランの心臓マッサージをはじめた。

 クラシック音楽がながれているだけの静寂な部屋が、一転、警報と怒号が飛び交う戦場となっていた。

 二分後、アランの心臓はふたたびうごきはじめた。

 休心もつかの間、十秒もたたないうちに、心電図がいびつな波形をえがいた。P波がなく、針のようにするどいはずのQRS波が、横に長い台形をしめす。

「VT! 心マ続行。アドレナリンもっと!」

 心室期外収縮をきっかけに突発的におきる心室頻拍(VT)は、でたらめな鼓動により、血液をちゃんとおくりだせなくなる。血圧の低下や心拍出量の減少だけでなく、心停止の原因にもなりうる。

 とおもっていたら、また心電図が平らになった。医師たちは汗だくになりながら、交代で心肺蘇生措置をつづけた。

 二十分後、心拍再開。脈拍一五〇台、血圧二〇〇と一二〇。

 十分もたたないうちに、またVTにより心拍停止。それから五分間に、二回にわけて、アドレナリンを三アンプル、計六アンプルを静脈注射。ふつうの人間なら心臓が破裂してしまいそうな量だ。

 ほか、塩酸リドカイン、硫酸アトロピン、ドーパミン塩酸塩、炭酸水素ナトリウム、硫酸マグネシウムといった治療薬がつぎつぎ投入された。

 投薬を準備するグレースの目に、涙がたまった。

「イエスタディ先生。もう、楽にしてあげたほうが……」

「だめだ! なにがあっても、まだ死なせるな」

 憑かれたようにイエスタディは心臓マッサージを継続した。体重をのせたてのひらが胸郭におしこまれるたび、包帯が吸収しきれなかった体液が、ぴゅっ、ぴゅっと飛んだ。

「がんばれ。がんばるんだ」

 はげましのことばがきこえたのか、十五分後、車のエンジンがかかるみたいにして心拍がもどった。

 こんどはVTもおこらず、脈拍、血圧ともに安定をみた。

 停止と再開を五度くりかえし、いくつもの強心剤を注入されたアランの心臓は、ようやくみずからのちからで拍動しはじめた。

「アランもがんばっているんだ。われわれは、なにがあってもあきらめてはいけないんだ」

 医師らは、憔悴しきった表情をならべていたが、こんな状態になってもなお動きだした心臓をまえに、患者たるアランのがんばりに負けてはならない、と口々にいいあった。

 グレースは、どうすればよいか、わからなかった。

 意識のないアランに直接きけるわけもない。勝手な推量をするべきでもない。

 ただ、心臓をめぐるこの一連のできごとは、痛惜の刃となって、グレースの魂に深々と突き刺さった。

 安息をもとめてあの世にいこうとしていたアランを、じぶんたちがむりやりに引き止め、苦痛しかないこの世にしばりつけただけなのではないか……そうおもえてしかたなかったのである。


  ◇


 心停止は、のべ一時間とかなり長期にわたったが、停止しているあいだも心臓マッサージをずっとおこなっていたため、脳死はまぬかれたとおもわれた。脳波にもとくに異常はみとめられなかった。

 グレースたちのささやかな安堵は、ぬか喜びにおわる。

 尿をださせる薬を投与しても、尿が一滴も出なくなったのだ。

 心停止で血流がとどこおったことで、腎機能が廃絶してしまったらしい。腎臓がうごかないとなると血液中に老廃物がたまるいっぽうだ。アランは、人工透析を二十四時間うけなければならなくなった。

 血液検査の結果、肝臓でつくられるはずの血液凝固因子も完全になくなっていた。心停止の影響は、肝不全をもひきおこしていたのだ。

 血圧を維持するため、アランにはドーパミン塩酸塩にくわえて、ノルアドレナリン、ドブタミン塩酸塩といった複数の昇圧剤がつかわれるようになった。

 血圧は上が一五〇、下が八〇くらいで安定していたが、すぐに下がろうとするので、薬をどんどん増量していかなければならなかった。

 薬をあたえると肝臓に負担がかかる。肝不全のアランには酷であったが、投薬しないと死んでしまう。

 アランへの治療は、治すことではなく、いかにしてすこしでも延命させるかに重点が置かれるようになっていた。

 血液中の白血球はほぼゼロ。免疫はまったくなく、改善する見込みもない。

 皮膚がすべてはがれ落ちたあとは、なかの筋肉までもが溶け崩れて、赤黒い泥濘となる。

 人間のからだは、血液にしろ皮膚にしろ筋肉にしろ、つねに新陳代謝がおこなわれ、新しい細胞に入れ替わっている。

 染色体が全滅したアランのからだは、寿命をむかえた細胞が老廃物となって流れていくだけで、新しい細胞をうみだすことができない。

 だから、すべての細胞が入れ替わるころには、かならず死ぬ。

「もう、限界です」

 グレースはイエスタディをつかまえて抗議した。オフィスにはほかのだれもいなかった。

「昇圧剤の種類も量もふえるばかり。硝酸銀の消毒薬漬けになって、薬で強引に心臓をうごかして……わたしたちにできるのは、脳圧が上がったから脳圧を下げるとか、水分が四ガロンうしなわれたから四ガロン足すとか、そういった対症療法だけです。いま、エイブラムス先生にどれだけの鎮痛剤と鎮静剤が点滴されているかご存じですか? フェンタニルだけでも、一時間に一八〇マイクロドラム(約三〇〇マイクログラム)です」

 開頭手術をおこなうときでさえ、フェンタニルの量は一時間に二〇〇マイクログラムだ。

 皮膚とおなじように、細胞の入れ替わる時期がきた臓器が、体内で溶けていく。

 ただのウイルス性腸炎でも、内臓を食いちぎられるような激痛に七転八倒する。アランの場合は、それがすべての臓器でおきている。

 苛烈な痛みとともに液状化した内臓は、出血とまじり、下血となって、肛門から流れ出る。事実アランの肛門は、栓のなくなった蛇口のように、ひっきりなしに黒い血を吐き出していた。

 そうして喪失した血液なり体液なりをひたすら補充する。

 いつまでこういう状態をつづけるのか。

「それで治るのならいいですが、もうエイブラムス先生は治りません。被曝というのは、きっと、放射線を浴びた瞬間に、すべてが運命づけられてしまうのです。ほかの病気とはまったくちがいます。光明などありません。放射線は、浴びてしまったら、もうその時点でおしまいなんです。アラン先生は、わたしたちがなにをどうやっても救えません。時がくれば自動的に多臓器不全で亡くなります。なら……」

 グレースはなけなしの勇気をふりしぼった。

「安楽死も検討するべきではないかと」

「ばかな! 貴重なサンプルだぞ。ありえない」

 反論の瞬間、イエスタディの顔に、しまった、という色がかすめた。

「サンプル?」

 グレースは眉根をよせた。

 イエスタディは、ため息をつき、あきらめたようにかぶりをふって、

「いいかねグレース。これまでアランほど高線量の放射線に被曝して、こんなに生存した例は世界でもきわめてまれだ。怪獣上陸以降も、被曝者そのものは何千人もでているが、かれほど放射線をあびていれば、消し炭となるか蒸発するかで、研究のしようがない。きみも医者ならわかるだろう。外傷がなく、大量被曝だけしているアランは、放射線が人体にあたえる影響をしるための、これ以上ない資料となる。もしかしたら、被曝治療の新たな階梯かいていへ進めるかもしれないんだ。アランを研究、観察することは、怪獣の侵攻でますますふえるであろう被曝者、また、これからさき、たとえば原子力関連施設の事故で被曝したひとたちを救うためのいしずえとなる」

 イエスタディは指を二本たてた。

「二例めだ。怪獣によって大量被曝しながらも救出された海軍パイロットがいた。かれもわたしが診たが、あまりに被曝した線量が高すぎて、しらべるひまもなく脳幹出血で死んでしまった。アランは高線量ながら、脳が破壊されない適度な被曝となっている。あんなサンプルは、今後二度と手にはいらない」

「それはつまり、アラン先生をモルモットにするということですか」

「人聞きのわるいことをいうんじゃない。医学とは科学だ。科学は、実験と観察のくりかえしで進歩する。アランはもう助からない。それはたしかだ。どうせ助からないなら、後学のために最後まで利用させてもらう。アランも医者だ。きっと本人もそれを望むはず」

 いいかけて、イエスタディが口をつぐんだ。グレースの肩越しに視線をおくる目には、驚愕の色。

 グレースがふりかえると、オフィスの入り口に、ジェシカが立っていた。

 泣き腫らしたジェシカの顔には、グレースがいままでどんな人間にもみたことがないような表情が刻まれていた。

 くちびるがなにかをいいかけて、すさまじい自制心で閉じる。ふるえるこぶしから、血がしたたる。爪が、にぎりしめた手の皮を破っているのだ。

「わたしも、医者の妻です。あなたがたに、主人を殺してとはいいません」

 血を吐くように、ジェシカが哀願した。

「けれど、つぎに主人の心臓がとまったら、もう、蘇生措置はとらないでください」


  ◇


 全身消毒ののち、グレースほか、数人の医師をともなって、ジェシカは集中治療室へと足を踏み入れた。

 最後の扉がひらき、風と、優雅なバロックの調べが抱擁をあびせてくる。

 音楽はかわらず流されていて、このときかかっていたのは、英国のロイヤル・フィル演奏によるパッヘルベルのカノンだった。

「主人は、この曲がとくに好きでした」

 通奏低音による二小節の、オスティナートとして二十八回くりかえされるシンプルなテーマの上に、上三声がそれぞれ二小節の間隔をおいてカノンを織り成していく。

 三本のヴァイオリンと、チェンバロ、チェロ、ウッドベースによる大逆循環の和声進行が、病的なまでに無菌状態にたもたれた集中治療室の空間をみたすなか、アランは、頭から足の爪先まで、隙間なく包帯につつまれ、人工呼吸器や多数の点滴につながれ、褥瘡防止ベッドに揺らされながら、全身麻酔のごとき大量の鎮静剤で眠っていた。

 面会がゆるされていなかったジェシカは、被曝治療をうけているアランをみるのははじめてだった。しばらく呆然としたあと、ぎゅっと閉じたまぶたから透明な涙をこぼした。

「あなた、こんな姿になって……」

 グレースもいたたまれなかった。会わせたことを後悔さえしていた。

 視界でなにかがうごいた。

 電動の寝台に寝かされているアランを注視する。

 右手が、わずかに持ち上がった。

 あわてて駆けよる。注意深く、顔を覆う包帯をとる。

 青空をとじこめたような双眸が、開いていた。天井の照明に反応し、瞳孔が縮む。さらに、のぞきこんでいるグレースを見る。

 意識がもどったのだ。鎮静剤が足りなくなったのか。

 点滴をしらべるグレースに、アランは目でなにかを訴えかけた。目線は、みずからの下とグレースをなんども往復した。

「人工呼吸器を……?」

 直感を口にすると、アランはわずかだがうなずいた。人工呼吸器をはずせといっているのだ。

「しかし、それでは呼吸が……」

 アランの目には、動揺や躊躇などいっさいなかった。百も承知だといわんばかりだった。

 グレースは決断した。

 褥瘡防止ベッドの電源をきり、ほかの医師らの手をかりて、アランの気管から、人工呼吸器の管をひきぬく。気管が傷ついてしまったら、血小板のないアランは血をとめることができない。作業は慎重に慎重をかさねておこなわれた。

 呼吸をたすける管を抜かれたアランは、酸素をもとめて苦しげにあえいだ。自発呼吸する力さえ残っていないはずだ。グレースがふたたび管をさしこもうとすると、アランは手で拒否した。

「ジェシー、いるのかい……?」

 浅い息をくりかえすなか、ちいさくささやいたのを、その場の全員が耳にした。

「いる、いるわ!」

 ジェシカが寝台にむしゃぶりつく。漏れでた肉汁がつくのもいとわなかった。

「あなた、ごめんなさい。わたしのせいでこんな……」

「きみのせいじゃない。だれのせいでもない。だいじょうぶ。安心して」

 アランの声は、墓の下からきこえるように遠かった。

「傷はだいじょうぶかい?」

「だいじょうぶ、だいじょうぶよ。もうへっちゃら」

「よかった……それだけが気がかりだったんだ」

「わたしのことはいいから、あなたはあなたの心配をして。お願いだから……」

「ジェシカ、すまない。ぼくは、きみと向き合おうとしなかった。仕事を理由にきみからにげていた。でも、いまならいえる。愛してる……」

「わたしも、わたしも愛してるわ。世界でだれよりも。わたし自身よりも」

「長いあいだ、ほんとうにすまなかった……」

「いいえ、あなたはたくさんの命を救ってきた。あなたは、わたしの誇りよ、アラン」

「おかげでふたりの時間なんてろくになかったけどね。そういえば、ぼくたち、新婚旅行もしてないな」

「そうね……式の日のこと、おぼえてる?」

「ああ。誓いのキスをする段になって、きみのヴェールをあげた瞬間……」

「……呼び出しの携帯が鳴ったのよね」

「あのときはまいったな、さすがに。あれから七年、ぼくはなんにも変わらなかった。夫としては失格だ」

「それはちがうわ、アラン。あなたは、わたしなんかにはもったいないくらいのひとよ。新婚旅行なんていいのよ。あなたのそばにいられるなら、それでいい」

 アランがからだを揺すった。笑ったらしかった。

「ジェシカ。怒らないできいてくれるかい?」

「ええ」

「ぼくは、もし治ったら、また患者さんの治療にあたりたい」

「…………」

「怪獣の被害者はまだまだふえる。ぼくひとりくらい、いてもいなくてもたいして変わりはないだろうが、でもぼくは、ひとりでも多くの人間をたすけたい。だから、またきみにさびしい思いをさせてしまうかもしれない。ぼくのわがままを、ゆるしてくれるかい?」

「もちろんよ。あなたはあなたの信じる道をあるいて。わたし、ずっと待ってるから」

 アランがおおきく、ながい息を吐いた。

「でも、まずはあなた自身が元気にならなくちゃね」

「ああ、そうだな」

 天使が通りすぎるような間があった。

「おや、停電か」

 アランのつぶやきに、グレースもジェシカもいぶかしんだ。見上げるまでもなく、照明は煌々と室内を照らしている。

「心配しなくていいよ、ジェシー。すぐに予備の非常用電源がはいるから」

 おだやかなアランに、ジェシカは、うん、うん、と答え続ける。

「さすがに疲れた……すこしばかり休むよ。きみの顔をみられて安心した……」

 アランの見開かれた瞳孔が、弛緩したようにひろがっていく。

「ひと眠りしたら、またいっぱい患者さんを治療しなくちゃ……」

 直後、心電図がまっすぐな線を引き、長く単調な電子音を響かせた。

 ジェシカは寝台につっぷし、身も世もなく泣いた。グレースも、しゃくりあげながら、ジェシカの肩をだいた。

「先生。わたし、あの怪獣が憎いです」

 アランをだきしめたまま、ジェシカがこぼした。

「ただ殺すだけじゃなく、こうまで苦しめて、いたぶってからひとの命を踏みにじるなんて。わたしは、あの怪獣が憎くてたまらない!……」

 愛する者をうばわれた女は、いつまでも泣きつづけた。


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