三十二 翼をください
わたあめをちぎったような白雲がたゆたう晴空を眼下にのぞみつつ、浅間たちは南進した。
キャノピー越しの日射でコクピットは温室状態だ。熱気が五体から容赦なく水分を奪う。全身の毛穴から噴射された汗を飛行服が貪欲に吸いとって、重みをさらに増している。
「各機、電子妨害空域に接近。警戒せよ」
E-767空中管制機アマテラスからの指示。浅間らがジャミングの影響下へ飛び込めば、AWACSからの支援も受けられなくなる。
「レーダーが使えないのでは、ミサイルはもちろん、バルカンも照準できない。どう戦えばいい?」
シクリード四番機パイロットが不安をもらした。全員の内心を代弁する言葉である。
「いくら高性能なミサイルをもっていても、ロックできないのでは使い物にならない。まるで目隠しをされたあげく落とし穴だらけの巨大な地下迷路に放りこまれるようなもんだぜ」
「不用意につっこめば確実にやられる。中に出したら妊娠するくらい確実だ」
シクリード4につづきシクリード3も本音を口にした。死地を前にして、退嬰のきもちが、水に落とした墨汁のように編隊にひろがる。
浅間は無線を操作し、あらかじめ取り込んでおいた音声データを起動。僚機たる七機に送信した。
音楽だった。しびれるようなベースからはじまり、ターボファンエンジンの轟音にも負けないドラムスと、スティンガーミサイルよりも攻撃的なギターがドッグファイトのごとくからみあう。
甘くそれでいて力強いヴォーカルが熱唱。
聴いた全員が噴き出した。
浅間がかけた曲は、F-14トムキャットの若き米海軍パイロットが、強敵との戦いや女性教官への思慕をへてたくましく成長していくさまを描いた、ハリウッドにおける戦闘機映画の金字塔、その主題歌だったのだ。
「ポリプテルス1、作戦に関係のないことに無線を使うな。おい、聞いているのか」
「こちらポリプテルス1。敵の電波妨害で聞こえない。どーぞー」
「聞こえてるじゃないか。さっさと音楽をとめろ!」
アマテラスの激昂もよそに、金本や早蕨だけでなく、シクリード・フライトの二番機から四番機までもが、浅間の意図を察して、曲にそって下手くそな英語で歌い出した。サビのときなど、拳を天に突き上げているやつさえいた。
たしかにポリプテルス、シクリードの両フライトがむかう先は、危険地帯であるにちがいない。
「あんたんとこのリーダーは、いっつもこうなのか?」
「ええ、まあ」
高度三万五〇〇〇フィートの合唱会のなか、歌っていない秋霜と占守がぽつりと言葉を交わした。
「意外と苦労してるんだな……」
苦笑する秋霜に、占守も笑いで返した。深く息を吐く。
「でも、あの人だからこそ、どこまでもついていこうっていう気になるんです」
戦闘機パイロットらの絶唱が回線をかけめぐる。
浅間のしかけた遊びで、戦士たちの恐れも不安も完全に霧散した。
歌が終わるころ……。
レーダーに緑のノイズが混じりはじめた。
「全機、ここからは敵のフィールドだ。だがやつらの空ではない。ここはおれたちの空だ。平常心を忘れるな」
無線にも川のせせらぎみたいな雑音がはいるなか、浅間が注意を喚起。
さらに進むと、音声は選局をしていないラジオのような砂嵐へと悪化。
ついには、完全に途絶する。
レーダー・ディスプレイも緑一色に塗りつぶされた。
つながりを断たれた孤絶空間が不安感をかきたてる。
まるで、人込みのなかで母とはぐれた幼子のような孤独感。見知らぬ異界に迷い込んでしまったかのような錯覚。
敵の術中、電子の結界にはいったのだ。
レーダーが効かないため、目視で見張る。
正面を注視。頭をゆっくり右に動かしながら、水平線を中心に視線を移す。
真横、後方まで目を皿にして敵機の姿をさがす。
片側が終わったら、反対側も、なめるように見張りをつづける。
ときおり機体をかたむけて、機首や主翼の下、じぶんの真下、尾翼の向こう側などの死角も確認する。
敵が風防の枠に隠れていないか。雲の上に影を落としていないか。飛行機雲はないか。
見張りの視線が一巡しおわったら、燦々たる頭上の太陽をあおぐ。
天空に鎮座する烈日は、遮光バイザー越しでも、眼底が串刺しにされたように痛くなるほどまぶしい。
スロットルレバーから離した左手の、人差し指の先で太陽をかくす。片目だけをあけて、じっと太陽のほうを見る。
指先と太陽がほぼおなじ大きさになっているので、ぎらつく光輝がさえぎられる。
異状、なし。
ふたたび時計回りに見張りを続けつつ、浅間は、肩で風を切るような心持ちでぐんぐん進んでいった。
ぜったいに敵はいる。探しものは、いると思って探さなければ見つからない。
敵より先に敵を見つけねばならぬ。
ただでさえ、こちらはレーダーが使えないのだ。
何巡めかの見張り。敵の隻影すら認められない。
(どこだ。どこにいる)
焦燥ばかりがつのる。いっそのこと敵の大歓迎をうけたほうが気が楽だ。
敵からのレーダー照射を報せる機上のレーダー警戒受信機は、まだ反応していない。
レーダー波は、距離の二乗に比例して減衰する。
捜索側、この場合は敵だが、それが照射したレーダー波は、目標物、つまり浅間たちにとどくまでに、すでに距離ぶん減衰している。
浅間らの機体は敵からのレーダー波を検知すればいいだけだが、敵側は、さらに跳ね返ってくるレーダー波を受信しなければならない。
だから敵がうけとる反射波は、単純計算で、浅間らに照射されるレーダー波の、四分の一の強度しかない。
理論的には、捜索される浅間らの機体が気づかず、敵が先に探知できているはずはない。
けれども、人間というのは、不安に駆られているときは、とかく、理窟ぬきに、悪い予想をたててしまいがちなものだ。
浅間も、その心理で、
(敵はなにかしらの方法ですでにこちらを発見していて、そうと悟られないように、空戦の準備をととのえているのではなかろうか)
もしそうなら、
(将棋でいえば最初から飛車と桂馬が使えないうえに、歩もぜんぶ取られたにひとしい)
などと考えている。
僚機のようすにも気をくばる。浅間の右後方を飛ぶのは、二番機の金本だ。垂直尾翼には、箱館戦争で榎本武揚らが立てこもったことで有名な五稜郭を題材にとった五芒星が、正午の陽光にきらめいている。千歳基地第210飛行隊の機体だ。いつもと方面隊ごとちがう機体を駆る相棒も、敵機の片影だにも見ていないようであった。
岩手県盛岡上空を通過し、奥州にさしかかろうかというとき。
全身を目にして、全方位をにらみまわしていた浅間の網膜に、何分の一秒かだけ、なにかが左前方、高度八千メートルちょっと、はるか何万メートルもの遠い空に、こちらの進路を横切るように動くのが映った。
ような気がしたのだが、目の乾きに耐えきれずまばたきした拍子に、見えなくなってしまった。
いまたしかになにかがいたはずだ。さきほどの方角を、眼球に血がにじむほど見つめる。
きらり、と空の一部がかすかに光ったように感じられた。ちょうど、渓流を走る鮎の背が光るのにも似ていた。
全神経を集中して凝視する。
するとこんどは、塩の結晶よりちいさい、白い点のようなかすかな機影が、朝陽をきらきら反射させながら編隊を組んで飛行しているさまを、確実に視認しえたのである。
一機ではない。十以上はいる。
翼をちいさく左右にふり、敵機発見を列機にしらせる。
敵は、まだこちらが見えていないらしく、澄まし顔で飛んでいる。
レーダーが使えるのに情けないやつらだ。
もちろん囮の罠ということも考えられるので、目標ばかり見ず、周囲に神経を尖らせつつ機体を操る。
はやく敵編隊のうしろにつきたいが、大きな旋回をすると、機体の腹を相手に見せつけることになる。
投影面積、つまり見える面積が大きくなってしまい、見つかる可能性が高くなるので、もどかしくても機体の傾きも浅く、ゆるやかに左へ旋回する。
右うしろにいた金本が、推力をおとして、浅間の左翼後方にうつる。占守と早蕨が空けた空間に、機体をおさめる。
一番機たる浅間を始点にした、左ななめの編隊へと移行。こうすれば、敵からは浅間一機ぶんの機影しかみえない。被発見の確率を、すこしでも軽減できる。
シクリードの四機も、浅間に引っ張られるようにして旋回をはじめている。
相手方が、右へ流れていく。
もう、敵編隊の数が十二機であることも、はっきりつかめている。
電波状況はますます悪化の一途をたどった。火器管制レーダーは完全に沈黙。目標物との距離測定すら不可能。
第二次大戦のプロペラ戦闘機時代さながらに、直接照準でねらい撃つしかない。
敵は、四機ずつが左手の人差し指から小指までの爪の位置に機体をならべた隊形、いわゆるレフトフィンガーのかたちで三個編隊をくみ、五〇〇〇メートル程度の間隔をあけて巡航している。
まずは最後尾の四機に第一撃をかけよう。同時にシクリードに、第二群を葬らせる。
最後が先頭の第一群だ。
つごうのよいことに、敵も四機編成単位にわかれている。
無線がつかえないのでどれを殺るか命令はできないが、こういうとき戦闘機パイロットは、自分とおなじポジションの敵機を自然とねらう心理がある。浅間なら一番機、金本なら二番機を、というぐあいだ。おのおのに任せればいい。
秋霜を指でまねく。
シクリード一番機が、やや増速して浅間の横にならぶ。
浅間は、前を指差してから二本の指をたて、ついで親指を下にむけた。敵編隊の後下方につき、第二群を攻撃せよ、という意味だ。
親指をたてて了解の意をしめした秋霜が、もとの位置にもどり、列機に段取りを伝達する。
もちろん浅間の先導で大回りに右旋回、ぬき足さし足で、敵の最後尾の編隊に対し、右ななめ後ろから忍び寄りながらの意思統一である。
ふだんからの、地道で高度、かつ峻厳なる訓練があってこそなせる業であった。
浅間らは、敵編隊の後上方、秋霜らは、やや高度を低めにとって真後ろにつけた。
かくして、敵のまったくあずかりしらぬところで、浅間たちは、理想的な諸元をととのえることができたのである。
もはや一瞬のためらいも許されない。
浅間はスロットル・レバーを倒して加速をはじめた。全機がそれに続く。
──戦闘開始!
最後尾編隊の一番機をつとめる敵機にねらいをさだめ、射撃システムを、レーダーロックなしの機関砲モードに設定。
HUDにもともと表示されていた十字型の照星の下に、照準点を二重の同心円でかこった固定式照準と、蛇のようにうねる緑の線が現れる。
線は、機銃弾の飛んでいく予想軌跡をしめしている。自機の加速度や挙動をもとに算出しているので、電子戦下でも使用できる。
機体の微妙な揺れにも敏感に反応する線のうえに敵機が乗るよう、綱渡りよりも慎重に操縦。
推力を加減して、そろりそろりと近寄る。
機関砲を撃つ距離は、現代では平均して三〇〇メートルほどだが、目視なのでさらに近づかなければならない。
彼我の距離が、目測で二〇〇メートルをきった。
全方向に放射されていた浅間の気が、前方の一点に収束。ジャミングに妨害されない、集中力というレーダー波を目標に照射。
操縦桿の引き金に、人差し指をかける。
瞬間、F-15Jイーグルの右翼付け根に内蔵されたM61バルカン砲が覚醒。
六本の砲身をまとめたガトリング砲が高速回転し、口径二十ミリメートルの砲弾を、嵐のごとく撃ちだした。
射撃時間は、わずか一秒。
背後からの一閃をうけた最後尾編隊の一番機は、爆弾でもしかけられていたかのように火炎をふいた。
韓紅の火を長衣のようにまとい、狂ったようにきりもみ回転をはじめ、編隊から抜け落ちていった。脱出装置も作動させないまま……。
浅間は推力をそのままに、エアブレーキをつかって加速を抑制。
破片を吸い込まないように注意しながら、味方の攻撃を見守る。
金本、占守、早蕨が、それぞれと同位置の敵機に接近。浅間の第一撃を合図にして、M61バルカンの鉄火を解放。
勘で撃たれた機関砲に、敵機が粉砕されていく。
爆発して機体が真っ二つにちぎれるものもあれば、真っ黒な煙を曳きながら地上へまっ逆さまにおちていくものもある。
五〇〇〇メートルさきの第二群をみやると、浅間らの奇襲と相前後して、シクリードが同様の攻撃をしかけていた。
戦闘機の最大の死角である後下方からの、突き上げるような射撃。背後から刺されたようなものだ。敵はなすすべもなかった。なにをされたかもわからなかっただろう。
機体の三倍も長い炎を引きずりながら落ちていくもの、燃料に引火したらしく爆発四散するもの、さまざまあった。
と、黒い煙を曳いて惰性のまま滑翔していた一機から、まるで花火を打ち上げるようにして、座席ごとパイロットが飛び出した。
すぐに座席と分離したパイロットが、落下傘を開傘。ふわりふわりと降下をはじめる。
追い越していくとき、脱出して落下傘に吊られるパイロットが、こちらに向かい、顔の前で激しく両手を振っているのがみえた。撃たないでくれ、といっているようだった。
浅間は一顧だにせず航過した。列機もつづく。
脱出したパイロットを攻撃することは、国際法により明確に禁じられている。
禁止が明文化されていなかったとて、浅間に撃つ気は毛頭なかった。敵は北朝鮮であって、兵士個人ではない。
ともかくも、レーダーを封じられし盲目の荒鷲は、いずれもが、ただひと太刀で、敵十二機編隊の八機までを墜とした。
さて、先頭の最後の一群も……浅間がねらいをつけたとたん、前方を悠々と飛んでいた敵編隊のあいだに、ざわあっと動揺が走ったかとおもうと、四機ともが、いっせいに左右に割れて、急旋回に入った。
弾を撃ち込まれた雁の群れのごとく、ばらばらに乱れて逃げていく。
さすがに背後で味方が続けざまに空中爆発して、自衛隊機の接近に気づいたようだ。
釣り針からのがれて海中へのがれる魚のように、きらりと腹を見せて急降下、重力で速度をかせいで、反撃にうつろうとしている。
浅間率いるポリプテルスに、秋霜がリーダーをつとめるシクリードが合流。
こちらは八機、敵は四機。数だけなら、浅間らが圧倒的に有利である。
しかし、こちらは、レーダーも、無線も使えないのだ。
敵もそれを承知のようで、数的劣勢もなんのその、果敢にも格闘戦を挑んできたのである。
右手で操縦桿を、左手でスロットル・レバーを、両足で方向舵をあやつり、敵機のうしろをねらって追いかける。
敵もまた、こちらの追跡からのがれつつ、旋回して後方につけようとする。なかなか軽敏で良好な運動性能だ。妙にやりづらい。こちらが増槽をかかえたままだからだろうか。
機体は重いけれども、増槽は、まだ落とすわけにはいかない。
追いつ追われつしながらも、全方位を見張る。眼前の敵に集中しているときがいちばん狙われやすい。
首をまわすと、案の定、七時方向に、胡麻粒みたいにちいさい敵機が、浅間をその射程にとらえようとしていた。
右に傾けていた機体を、左へ横転。
そちらに逃げると思わせた刹那、さらに百八十度の横転を追加して、操縦桿を限界までひき、推力を足して増速。
荷重に、筋肉と骨格がきしむ。膝の上に力士が座っているかのようだ。うめき声がもれる。
肉と骨がきしむなか、敵機を確認すると、浅間が旋回したのと正反対の方向に飛びゆく北朝鮮空軍機の、無骨な姿容。
奴め、しくじったことに気づき、あわててこちらに機首をむけようとしている。
きらめく双翼。シクリードの一番機と二番機が、助勢に参上。
浅間をねらっていた敵機に肉薄、バルカン砲の制裁を加えんと、相互に射撃位置につく。
秋霜のF-15Jが、機関砲をはなつ。
炸薬を込めし真紅の砲火は、しかし、敵機をわずかにかすめるのみ。
秋霜は連続で二秒撃ったが、敵機は、ゆるやかに旋回するだけで、ことごとくを回避。おのれに弾がふれることを許さない。
砲身の冷却時間にはいった一番機にかわり、二番機が前進。攻撃位置にいく。
一番機が見守るなか、機関砲を連続発射。
赤く光る二十ミリメートル弾の群れは、一発たりとて敵機に着弾することかなわず、虚空のかなたへと吸い込まれていった。
浅間は奥歯をかみしめた。
音速の三倍で飛翔する弾は、秒間百発の発射速度で撃ったばあい、十メートルおきに一発という高密度で存在していることになる。
ただし、これは直線飛行しながら射撃したときの話だ。
じっさいには急旋回しながら射撃するので、角速度が横やりをいれてくる。
敵機のいる空間にとどくころには、五十メートルに一発以下の密度になっている。
戦闘機の全長は、大きいものでも二十メートル程度だから、敵からみれば、かなりまばらに撃たれていることになる。
浅間らの第一撃が完璧にきまったのは、直線に飛んでいる敵機の真後ろから撃ったからだ。
戦闘機どうしの戦いで、距離を測定し敵機の未来位置を計算するためのレーダーをつかわず機関砲をあてるのは、成層圏から目薬を差すよりむずかしい。
圧倒的劣勢でいどんだ千歳防空戦をおもいだす。舊式であったとはいえ、六十機のミグによる一斉掃射すら、浅間らにかすりもしなかったのだ。
蒼穹にあって、強烈に存在を主張する眩光。浅間より二〇〇〇メートルほど高位を翔る味方のイーグルが、フレアを乱発しながらミサイルをかわしていた。
空は、乱戦の様相を呈している。
頭をあちこちにむけて状況確認。
イーグルは全長二十メートル弱と戦闘機のなかでは大型だが、十キロメートルさきでは、見かけ上の大きさは、一メートル先にある二ミリメートルの物体とおなじになる。それが時速五〇〇から八〇〇キロメートルで飛び交っている。一瞥しただけでは敵か味方か見分けがつかない。
耳をつらぬく電子音。心臓を不可視の矢で射抜かれる。
一機の敵が、左の横合いから背後につこうとしながら、レーダーを照射してきていた。
F-15Jの機体が、敵レーダー波の特徴から、敵火器管制レーダーの種類を特定。レーダー警戒受信機の画面にうつる光点が、『SPHIR23』と銘打たれた記号にかわる。
照射してきているのは“サファイア”RP-23レーダー。
浅間はそのときはじめて気がついた。“サファイア”23型レーダーということは、敵はMiG-21“フィッシュベッド”ではなく、MiG-23“フロッガー”だったのだ。どうりで手強いわけである。
レーダー警報がさらに激しくなった。敵機のレーダーに完全にロックオンされた。敵がミサイルの発射態勢にはいったのだ。
F-15J搭載の日本製戦術電子戦システムが、真髄をみせる。
機体各部のレーダー警戒装置アンテナが受信した、敵レーダー電波の成分を、機上の超高性能コンピュータが即座に解析。自己防御手段を遅滞なく作動。
不可視の結界が展開される。
直後、レーダー警報がとまった。敵からのロックオンが解除されたのだ。
F-15Jが装備するJ/ARQ-8電子妨害アンテナは、レーダー警戒装置が検知した敵レーダーと同じ周波数の電磁波を発信、中和することで、脅威レーダーを攪乱し、ロックオンを外すことができる。
いわばF-15Jは、敵からのロックオンを無効化する力場につつまれているようなものなのだ。
本職の電子戦機ほど強力で広範囲なものではないが、自機を守る目的ならじゅうぶんな強度だ。なみの電子機器では、F-15Jの結界を突破できない。
とまどう敵機の、さらに後方より、空を裂く灼熱の線が伸びる。
機銃弾にかすめられた敵機が、口惜しげに退避。
急旋回していく敵機のむこうに、日の丸をいただくF-15Jの銀翼。垂直尾翼には五稜郭の部隊章。
浅間への攻撃は、二番機たる金本が許さぬ。
背中を相棒にまかせた浅間は、喰うべき敵をさがして旋回。
全身に荷重がかかる。旋回と逆の方向にからだを引っ張られる感覚。
後方についている金本も、浅間とまったくおなじ飛行で追随。
おたがい間合いをセンチメートル単位で把握し、あらゆる癖を知悉しているので、浅間は遠慮なく全力で飛べる。
二時の方向、ほぼ同高度に機影。目をこらす。垂直尾翼が一枚だ。イーグルではない。
こちらに対し、鋭角に左へ向かっている。
浅間は見定めて上昇。
下方を敵機が雷速でつらぬいていくのを見はからい、機体を天地逆さまに横転。左の方向舵ペダルをふみこみ、操縦桿を最大まで引く。
山のかたちに飛行することで距離をかせいで、時機をあわせ、見えない綱をひっかけたかのように敵機の後方につく。
単発の排気口が、HUDにおさまる。
浅間に気づいたか、敵の排気口がすぼまって増速。鋭く旋回し、ふりきろうとする。
水平尾翼の動きから機動を先読みしていた浅間も、エンジン出力を上げ、同じ挙動で追っかける。
HUD内の敵機は、小指の爪におさまるほどの小ささだ。もっと近づかなければ機関砲が当たらない。
しかし敵もさるもの、つねに上下左右に蛇行し、なかなか尻尾をつかませない。
HUDに表示されている機関砲の弾道予想軌跡の線が、さながら雲海を縫って雄飛する龍のように体をくねらせて踊る。それだけ、敵機を追う浅間が激しい機動をしているということだ。
敵が旋回するたびに、浅間は急上昇と急降下で山なりに飛び、よぶんな距離をつくって、相手を追い越さないよう必死に食らいつく。
格闘戦をしながら、浅間は、敵機の性能と、相手パイロットの技量とをたしかめた。なるほど旋回性能、横転の機敏さ、加速力、どれをとっても、いままで浅間らが相手にしてきたどの北朝鮮空軍機より優れている。
敵機が、何度めかの急旋回。
浅間に背中を見せつつ、右下方へのがれようと翼をひるがえす。その主翼は、獲物を追うはやぶさのごとく後ろにたたまれ、ミグ特有の、全体的に直線を多用した無骨な外形に、先鋭的な印象を加えるとともに、高速飛行に適化していることをしめす。
直線翼から後退翼へと、主翼を自在に動かせるMiG-23の可変翼は、角度制御こそ手動だが、
(自動前縁フラップもあいまって、速度域をとわず高い運動性を実現していやがる!)
機動性も、速度性能も、攻撃力も、“フロッガー”とてイーグルの敵ではないが、レーダーがつかえないという究極の悪条件が、ほんらい雲泥の差であるべき性能差を、悪辣なまでに縮めている。
と、せわしなく旋回していた“フロッガー”が、ふいにおとなしくなり、水平飛行にうつった。
あきらめたのか。
いや、ちがう。
排気口が瞳孔のようにひろがり、排気の色も変わった。
推力をしぼり、こちらを前へつんのめらせる準備をはじめているのだ。
すかさずエンジン出力をしぼり、スロットル・レバーにあるスピードブレーキに指を運ぶ。
目は、相手の昇降舵にそそがれている。
敵の昇降舵が、上げ舵になった。
瞬間、浅間も操縦桿をひいて、上げ舵をとる。 敵は、方向舵を右に極限まで倒してぐるりと回転しながら、スピードブレーキをひらいて急減速。
一気に浅間と位置を入れ換えて、後方につこうとする。
急横転、それは形勢を逆転させる、空戦機動の切り札。
クイックロールを打ちおわったMiG-23が、機体を水平にもどし、低速のまま直線飛行。
みずからの前方にいるべきF-15Jがどこにもいないので、あわててさがしている。隙だらけの姿をさらしていることにも気づかずに。
切り札は、大穴ねらいの博奕と同義。通じなければ、巨額の負債を支払うことになる。
浅間は、いまだに真後ろについていた。
敵機のエンジン排気口の様子から、意図するところを読んでいた浅間は、さきんじて推力をおとし、相手がクイックロールを打つのにあわせて、いっしょに急横転。同時にエアブレーキも開いて、相手よりも減速。前へ出てしまうことをふせいだのだ。
しかも、敵がわざわざ減速してくれたのである。
相手との距離も、必然的に近くなる。
敵機の後ろ姿が、目と鼻の先までせまる。
HUDのガラス板で暴れていた龍も、直線になった。
FOX3、とマスクのなかでつぶやき、引き金をひく。
毎分六〇〇〇発のバルカン砲弾が、たがわず“フロッガー”の尻を貫いた。
排気口に飛び込んだ二十ミリ弾が、エンジン内部で炸裂。
白熱した黄色い炎に機体がつつまれ、ながい煙をひいて落ちていった。
仲間をみやる。
早蕨が一機の“フロッガー”を、遮二無二、追いかけている。
うしろに、べつの“フロッガー”がぴたりとついていることに気づいていない。目の前の敵についていくのに、せいいっぱいのようだ。
その“フロッガー”の背後を占守がとり、さらに後方に最後の“フロッガー”がいる。
敵と味方が数珠のように連なって、いつ果てるともしれぬ追跡劇を演じていた。
占守は早蕨をねらう“フロッガー”を攻撃したいのだが、うしろの敵機が気になって、なかなか機会をえられない。埒があかぬ。
浅間は数秒だけアフターバーナーを焚いて、速力の落ちていた機体を急加速。埒をあけるため蒼穹を翔破。
数珠つなぎの一行に対し、右から直角に接近。
五感が研ぎ澄まされていく。
もはや、浅間とイーグルは、パイロットと戦闘機ではなく、機体が身体の延長となり、機首レドームが己のひたい、両翼の先端は真横に広げた両手の中指の先と思えるほど、一体化してしまっている。
早蕨たちの四機と、浅間ら二機とが交差する。
すれちがいざま、浅間は占守を追う最後尾の“フロッガー”にねらいをさだめた。
敵の飛行速度と彼我の距離から、バルカン砲弾が到達するころに相手がどのくらい進んでいるかを、直感で計算。
ねらうべき敵機のやや前方に、半透明の敵機が幻視できた。
それこそ敵機の未来位置。
そこへ機首をむけ、引き金をひく。はた目には、敵機が追っている占守へ撃ちこんでいるように見えた。
機関砲弾の束は、角速度で横にばらけながらも、吸いこまれるようにして敵機に命中した。
空中爆発する敵機を横目に、通り魔が居合いで斬り捨てたがごとくそのまま航過。
事態は打開された。
うしろを気にする必要のなくなった占守が、前方の敵機を捕捉。いままさに早蕨にミサイルを発射しようとしていた“フロッガー”に機関砲をたたきこみ、爆散させる。
ほぼ同時に早蕨も好機をえたか、右翼付け根から一閃。北朝鮮の国籍マークをいただく戦闘機を、炎と無意味な金属の破片へと変じせしめた。
周囲の視程内に敵影なし。
もとどおりに編隊を組み直す。
早蕨の機体が妙に揺れている。はしゃいでいるようだ。レーダーなしで敵を墜としたことが、よほど嬉しいらしい。
実際は、占守の援護と浅間の助太刀があったからこそできた撃墜である。無線が不通でなかったら、いまごろ占守に大目玉をもらっていただろう。
(デブリーフィングが楽しみだな)
そのためには、生きて還らねばならないのである。
(しかし、予想していたとはいえ……)
電子戦下での戦闘は、やはりきびしい。かき乱されたレーダーディスプレイをみて浅間は吐息した。さきほどは運よく敵よりさきに敵を発見し、勝つことができたが、しょせんは運だ。
(幸運は二度もつづかない)
ならば、
(問題の根元を絶つしかない)
おなじく編隊行動にもどっていた秋霜のすぐそばに機体をよせ、
「距離をとってスパローの用意」
旨を、手信号で意思伝達。
コクピットのなかの秋霜は、一瞬とまどうような素振りをみせる。有力なセミアクティヴ・レーダー誘導ミサイルたるスパローとて、ジャミング下では、誘導波がさえぎられて使用できない。
それでも信ずるにたるものを浅間から感じとったらしく、すぐに親指をたてて了承。列機に命令をつたえ、シクリード・フライトが統率された動きで離脱した。
のこったポリプテルスの四機が、数十キロメートルの間隔をあけ、真横にひろがる。
切っていた音声無線を起動。
ヘルメットのなかが空電の雑音に満たされる。視界にまでざらつく砂嵐が現れそうだ。
目視の見張りをおこたらないまま不協和音に耳を傾けつつ、直進。
雑音はそのまま。
右にゆるく旋回。
砂嵐が強くなった。
レーダー画面のノイズもさらにひどくなっている。六〇年代のSFドラマみたいだ。
右旋回をつづける。
九十度あたりで妨害がいくぶん緩和した。
(あっちか)
左に旋回しなおし、推力を強める。
妨害が加速度的に悪化。無線は、ほとんど機械の悲鳴となる。
(これでいい)
砂嵐に耳をかたむけながら、目は三六〇度、全方向を見張る。
まばたきせずに時計回りに視線を移動させる。まばたきすると、焦点が明視の距離に合ってしまい、遠くのものが視野にはいっていても見えなくなるからだ。
見張りしているあいだも、大音量の砂嵐が、耳の孔に絶え間なくその身をねじこんでくる。
鼓膜を通じて脳に流れこんだ雑音は、頭蓋骨のなかで反響をくりかえす。
ずっと聴いていると、いま耳にしている砂嵐が、じっさいにヘッドフォンから鼓膜を振動させている音波なのか、脳内でたゆたう残響なのか、区別がつかなくなる。
騒音のなか、見張りの視線が一周したら、太陽をみあげる。左手の親指でかくし、陽光をさえぎって、太陽に重なっている敵機がいないかをたしかめる。
無線のノイズが最高潮に達したときである。
進行方向正面、水平線のすこし上に、ガラス細工のように空に溶けこみながら浮かんでいる物体を、浅間の双眸が目ざとくとらえた。
電子妨害もこれ以上ないほど強烈になっている。もとめていた機体にちがいない。胸が弾んだ。おちつけと自身に命令。周囲を警戒しながら、機体を見失わないよう目と気を配る。
相手は単機のようだ。
お互い空を飛行しているのに、あまり動いていないように見える。
ならば相手はこちらから見て、左へむけ飛んでいると推定。
右の方向舵ペダルを踏んで、緩旋回。見とがめられぬように忍びよる。
機影は、まばらな雲の上を辷るように巡航している。
まだ、あわただしい動きはみられない。
接近するにつれ、機体が、明瞭な輪郭を現しはじめる。
寸胴な胴体に四発プロペラの、輸送機然とした大型航空機。
尾翼に描かれた北朝鮮空軍の標識と、稲妻を吐く有翼の竜が、日本の空を睥睨していた。
この灰いろの機体こそ、ジャミングの張本人。妨害電波を垂れ流している電子戦機というわけだ。
ジャミング源にちかづけばちかづくほど、レーダーや無線はノイズがひどくなる。
逆にいえば、よりジャミングが悪化する方向をさぐっていけば、妨害電波の発信源にたどりつくことになる。
そう考えた浅間の策がみごとにあたった。
さっそく真後ろにはいり、飛行機最大の死角たる胴体の真下にかくれながら、鯨の子が親の乳をのみにいくように接近する。
相手はプロペラで、こちらはジェット戦闘機である。たちまち追いついて、敵の真下、手を伸ばせば届くような至近距離の、ちょうど影になる空間にくっついた。
あしもとにまとわりついているようなものなのに、敵はまだ気づかない。
欲がでてきて、もうすこし、もうすこしと高度をあげる。
もう相手の機体の、鉄板の継ぎ目までみえる。
目標は、舊ソ連の輸送機アントノフAn-12“カブ”を電子戦機に改造した機体のようだ。
機首や胴体側面に、もとのAn-12にはないおおきな瘤が、いくつも認められる。機外にとりつけられた妨害電波の送信アンテナを、空力のじゃまにならないよう、覆ったものだろう。
敵電子妨害機は、浅間が仔細に観察しているあいだも、カルガモの雛鳥よろしく空自の戦闘機がうしろにつらなっているとも知らず、遊覧飛行のようにのんびりと巡航している。
電子戦機はパイロットに航法士、通信妨害やレーダー妨害をそれぞれ担当する電子戦要員など、何名もの搭乗員が乗りあわせているはずだ。
単座戦闘機の何倍もの目があるのに、ここまで接近されてもまだ、相手の搭乗員たちはこちらに気がつかないのだろうか。
あるいは、
(高度な精密機械のかたまりたる電子戦機を実地で運用するだけでせいいっぱいで、見張りなどやっていられないのかもしれない)
そう思惟していると、みあげる機体のなかで、搭乗員らが無数の電子機器をまえに懸命にはたらいているのが、透けてみえるようだった。
顔も、名もしらぬ。
けれども、たしかにそこに、生きている人間が乗っているのだ。
操縦桿の引き金にかかった浅間の指が、止まる。
指にあと羽毛ひとつぶんの重さがかかれば、六本の回転砲身から二十ミリ弾が秒間百発の超速度で発射され、敵電子戦機を粉微塵にくだく。なかに乗っている搭乗員ごと……。
「生きている人間が乗っている」
感が、いまになって、浅間に強烈なためらいを生じせしめたのだ。
じぶんはいま、まぎれもなく殺人を犯そうとしている……。
むろん、これまで敵戦闘機を撃墜したときだって、緊急脱出を確認していない機体がいくつもあった。
すでに浅間は、何人もの人間の命を奪っている。
けれどもそれは、戦闘機どうしの空戦の結果によるものだ。
空戦であれば、相手はじぶんとおなじ戦闘機乗りだから、遠慮がいらない。闘う相手は、
「ターゲット」
であり、
「敵機」
である。あくまでも、
「戦闘機」
を墜としているのであって、そこには、
「人間」
だという意識は発生しない。
じぶんでもふしぎだった。いまさっき、北朝鮮軍機からパイロットが緊急脱出したのを見届けたばかりというのに、どうしてだろう。戦闘機に人間が乗っているという、小学生でも理解できることが、なぜいままで意識に上らなかったのだろう。
それは、撃墜が確定した瞬間から、相手が敵機ではなくなるからだろう。浅間にとって、撃墜ずみの戦闘機と、機から脱出したパイロットとは、もはや脅威とはなりえないがために、敵機から、またべつの存在に変質してしまうのである。
そも、生え抜きの戦闘機パイロットであり、敵機撃墜による防空をこそ至上命題とするイーグルドライバーの浅間にとって、敵戦闘機とは、戦って墜とさなければならないものだった。
なにしろミサイルを積んで、こちらを墜としにきているのである。撃墜して文句をいわれる筋合いはないという意識もあった。
だからこそ……。
目の前をたゆたうように飛ぶ電子戦機が、非武装で無抵抗であるがゆえに、攻撃してしまってもよいかどうか、かえって悛巡してしまったのである。
身体中の汗腺から、汗が絞られるように噴き出す。
(やつらは敵だ。おれたち日本人を大量虐殺した憎むべき敵だ。殺さねばならない!)
妄念をふりはらうようにかぶりをふり、そうじぶんを納得させようとすると、どこかから姿なき何者かがささやくのだ。
(ちがう。敵だから殺してよいという論理は、人を人と見ずけもの同然とみなし、やがては殺戮にたいする倫理観を麻痺させる。敵を殺すことに呵責もなくなり、ついには殺した敵の数を誇るようになってしまう。それでは市民の頭上に爆弾をばら蒔いた北朝鮮とおなじではないか! 敵とて人間なのだ。戦争は、あらゆる殺人を肯定しない。そもそもわれわれは、憲法で戦争を放棄しているのだ。だからせめて、殺さずに敵を無力化する方法があるのなら、どれだけ困難であろうとも、そちらに力を傾注するべきではないのか……)
われわれは、北朝鮮になってはいけないのだ。徹頭徹尾、正義の味方でなければならない。
(威嚇射撃で、機体からの脱出をうながすか?)
それとも、
(撃墜か)
自身の呼吸音が、砂嵐にもまさるほどやかましい。
内心の動揺が、操縦桿をにぎる右手につたわったらしい。精密で敏感なF-15J戦闘機が小刻みにふるえて、電子戦機が、HUDの固定式照準からはみ出てしまった。
いけない! よけいな動きをすれば、こんどこそ敵機の乗員に発見されるかもしれない。
思い直し、マスクのなかで深呼吸。機体を安定させる。
たしかに電子戦機は非武装ではあるけれども、電子妨害はあきらかな敵性行為であるし、現代戦においては爆弾やミサイルよりもある意味で凶悪だ。
現にわれわれは、電子妨害下で敵戦闘機と戦ったとき、一歩まちがえれば全滅の憂き目をみるところだったではないか。
運よく、こちらが先に敵編隊を発見して奇襲できたからこその辛勝であって、かりに中距離からレーダーで捕捉されていれば、こちらはなすすべもなく、レーダー誘導ミサイルでなぶり殺しにされていたのだ。
そう考えれば、安気法楽に飛んでいるこの電子戦機こそ、むしろ優先して撃墜するべき目標なのだ……。
(警告射撃して、脱出をうながすことは……)
可能だ。
しかし、敵電子戦機の搭乗員は、脱出するまえに、自衛隊来襲の報を基地や仲間に告げるだろう。
敵の増援がわんさとやってくる。
脱出すらもしないかもしれない。
無駄弾になるだけでなく、ジャミングをうけている状態で、敵の大編隊に囲まれてしまう。
そうなれば、勝ち目も生きる芽もない。
編隊長として、列機をいたずらに危険にさらすわけにはいかない。かならず連れて帰るのが、じぶんの義務なのだ。
(そのためには……)
電子戦機を墜とすしかない。
搭乗員らを殺してしまうことになっても、電子戦機を葬り、健常な空を取り戻さなくてはならないのである。
出撃前、じぶんは長良二佐に、手を汚す覚悟はできていると、えらそうに宣言したではないか。
(そうだ。汚れ仕事とはいえ、だれかがやらねばならないのだ。いまここで電子戦機を撃墜できるのはわれわれだけで、しかもおれは編隊長なんだ。ほかのだれかに押しつけることはできない。これが、おれの仕事なんだ。ほかの人間にできないこと、やりたくないことを、率先してひきうけるのが、自衛官というものではないのか。ならば、罪は、おれが背負う)
さきほど交戦した戦闘機編隊が、闘いのさなかにすでに司令部へ通報しているかもしれない。
いままさに、敵の増援が駆けつけてきている真っ最中なのかもしれない。
迷えば迷うほど、貴重な時間が出血しつづける。
燃料も無限ではない。
浅間は、腹をくくった。
機首をこころもち引き上げて、下方から敵機の右翼にねらいをさだめ、
「FOX3」
操縦桿の引き金を、一秒だけ、ひいた。
発射速度が速すぎて発砲音がつながり、一連の振動音と化すほどの超連射で、M61バルカンが火を噴いた。
浅間の機より伸びた灼熱の砲弾は、勘で撃たれたにもかかわらず、吸いこまれるように敵機の右翼内側のエンジンに着弾。
徹甲弾がエンジンとプロペラをつらぬき、炸裂弾が爆発の力をもって、機体から翼をひきちぎった。
右主翼を一瞬にしてなくした電子戦機は、右側の揚力を喪失。右足を落とし穴にとられた人間のように右にかたむき、そのいきおいで、きりもみ回転に突入。
翼の断面から黒い煙をひき、青空に汚れた螺旋模様を描きながら、力なく落ちていった。
(いまにパラシュートが飛び出すだろう)
どこかで期待しながら、浅間は墜落しゆく敵電子戦機を見送っていた。
落下の空気抵抗で、機体はさらに各部位ごとに分解。ばらばらに解体されながら、やがて浅間の視界から消え去った。
パラシュートは、ついぞ飛び出さなかった。
(あの無数の、赤々と燃える破片のなかに、搭乗員が混じっているのだ)
直接その姿を視認できたわけではないが、浅間はおのれの攻撃のもたらした結果を、網膜と海馬体に焼きつけんがごとく凝視した。
手にかけた事実と死にざまをわすれないことで、かれらへのせめてもの弔いとする。
殺しにたいする感覚を麻痺させないための、自分自身への戒めだ。
空自パイロットとして、夫として、父親として、じぶんを慕ってくれる璋子や香寿奈の視線をそらすことなく受け止められる人間でありたい。そうでなくてはならないのだ。
レーダーと無線の妨害は、いまだ改善されていない。
電子戦機は、ほかにもまだいる。
指示をださなくとも編隊を組み直す部下らを率い、浅間は、つぎなる目標をもとめて耳を澄ました。
いまとおなじ要領で、ジャミングがはげしくなる方角を見定め、妨害電波の発信源をさぐる。
もちろん見張りもおこたらない。周囲に間断なく気をくばる。
そうして山狩りならぬ空狩りで、十五、六分も電子戦機をさがしていたころだ。
白く燃える太陽をあおぐ。さっきから、太陽の方向がやけに気になる。
何度めかわからない、太陽の確認。スロットル・レバーからはなした左手の親指で太陽をかくし、陽光をさえぎる。右目をとじ、左目だけあけて、まばゆい白光と、キャノピーに虹色の六角形のつらなりを投げかける太陽を注視する。
見かけ上、太陽とおなじおおきさとなった親指のさきから、黒い影が一瞬はみ出たのを、浅間は見のがさなかった。
機体を反転、太陽の直下へと移動。
僚機らも連動する。
四機の戦闘機が、ひとつの生き物のようにおなじ動作で、三万フィートの空を辷る。
すると、太陽のなかからこぼれ落ちるようにして、逆光に黒く染められた敵機群がふりそそいできた。翼をたたんで急降下してくるさまは、さながらはやぶさのようである。十機をこえるMiG-23“フロッガー”の編隊だ。
太陽を背にしてこちらを見下ろし、戦機が熟すのを舌なめずりしてまっていたところを、浅間らがおもむろに、戦闘機の死角である真下にもぐりこんできたので、あわてて攻撃をしかけてきたという式である。
燃料計を確認。巡航時間と戦闘機動の記憶から、味方の残量を概算。
増槽も捨てていない。
いましがたの戦闘で、レーダーをつかわぬ射撃の感覚もつかみはじめている。
総合して問題はないと、パイロットとしての思考に特化した頭脳が判断。
非武装の電子戦機とはちがい、戦闘機を墜とすことにはためらいがうまれない。
はやぶさと化したMiG-23と、空を支配せし大鷲たるF-15Jが、機翼をまじえる。
◇
韓英徹らの操縦するТу(トゥー)-22ПД(ペーデー)電子戦機、魔術師四〇四号に不穏な無線がはいったのは、三機いるうちの一機の電子戦機と、三個もの戦闘機部隊との通信が途絶したことをうけ、ほんらいの任務と並行しつつ、原因について、さまざまな可能性を検討しているときだった。
「交信可能な全部隊、こちら緑九号。現在、自衛隊機と交戦している」
戦闘機パイロットの切迫した声に、英徹と崔明学、全昌明航法士の表情に、電流のような緊張がはしる。
「やっぱり、自衛隊がきていたのか」
不安をかくせずつぶやいたのは、若輩の全航法士である。
通信がとだえた原因のひとつに、敵襲による撃墜も候補にあげられていた。
明学さえも、可能性は低い、日本へ機体ごと亡命したというほうがまだ現実味があると反論した最悪の説が、にわかに現実味を帯びはじめた。
「案ずるな。われわれが電子妨害をかけているではないか。目のつぶれた鳥は、飛ぶだけでせいいっぱいだ。獲物をねらうなど、できるわけがない」
半分はじぶんにいいきかせるような英徹のことばに、前に座る航法士は、ちいさく首を縦にふったが、
「くそっ、なんだこいつら。なんて動きをしやがる」
無線からは、戦闘機部隊の苦鳴。機内の空気が硬質化する。
「青三号もやられた。五号機、応答せよ。だめか。だれでもいい、被害状況をしらせろ。のこり何機だ」
「チョッパリめ。この電子戦下でなぜ戦える!」
「敵は無線もレーダーもつかえないはずなのに。自衛隊は新兵器でももってきたのか?」
畏怖と混乱が、通信回線をミサイルのようにかけめぐる。
「いまやられたのはだれだ。おい電子戦部隊。ちゃんと電子妨害は効いているのか!」
するどい非難。英徹があわてて送信ボタンを押す。
「とうぜんだ。機器は正常に作動している」
「ならなぜチョッパリはこんなに……」
音割れするほどの轟音ののち、途絶。雑音にまみれる。
「緑二号も墜とされた。撤退だ。司令部、撤退の許可を。やつらは化け物です!」
べつの戦闘機の音声無線が飛びこんできた。司令部あてのはずだが、かなり混線しているようだ。
「緑十号、こちら司令部。撤退は許可できない」
司令たる朴経哲大佐の冷徹な宣告に、緑十号機パイロットだけでなく、英徹たちもが息をとめる。
「なぜですか。すでにかなりの損耗がでています。この兵力では撃退は不可能です」
「こちらが絶対的に有利な電子妨害下で、しかも戦略上はこちらが攻めている側なんだぞ。攻勢側が逆に襲われているだけでも前代未聞なのに、敵前逃亡までしたとあっては、現地司令官たるわたしの立つ瀬がない。トンムはわたしの顔に泥を塗る気か?」
責任者とは、責任をとらされるがゆえに責任者なのだ。
「なら増援を。こいつらは悪魔だ、黄泉の国よりいでし死神だ。おれたちでは歯が立ちません。カマクナラ中隊でもなければ……」
仮想敵部隊にして、督戦隊もつとめる最強の飛行隊の名をだされ、飛行服につつまれた英徹の二の腕に、鳥肌がひろがる。
「いかん。増援を要請するとなっては、本国の国防委員にことの次第をしられることになる。それではやはりわたしの失態となる。わが基地の戦力だけで対処しなければならん」
無理難題に戦闘機パイロットが絶句する。黙ってしまったのをさいわいに、朴大佐がかさねる。
「黒部隊と赤部隊を追加で発進させた。なんとかしろ。トンムたちの武運をいのる」
それだけ伝えられて、司令部との通信は、一方的にきられた。耳をそばだてていた英徹らにも、重い沈黙が降り積もった。
「たしかに、黒飛行隊なら、いまから上げても間に合うかもしれないし、赤隊なら勝機はあるかもしれないが……」
明学の、ともすれば上官批判ともとられかねない発言にも、英徹たちは無言で同調した。
黒隊の駆るМиГ(ミグ)-25は、額面上はマッハ二・八三という、西側の戦闘機でも出すことのできない最大速度をほこる韋駄天だ。くわえて、長射程のセミアクティヴ・レーダー誘導ミサイルと、長距離ミサイルの性能を最大限にいかす超強力なレーダーをもつ。
「紅い燕」
の異称をとる赤飛行隊もくわわれば、勝率はさらにあがる。
「全機、黒と赤がくるまで耐えろ。相手はたったの四機だ。チョッパリに身のほどを教えてやるんだ」
МиГ-23をあやつる緑飛行隊のパイロットが仲間を鼓舞するが、
「青十一号、だめだ、そっちへ逃げるな。鴨撃ちにされるぞ!」
「いやだ、いやだ。オンマ(おかあさん)、死にたくない。オンマ……」
耳を針で刺すようなするどい雑音。
「チョッパリめ、くそっ! 青十一号が撃墜された。あいつだ、あの紫の蝶をえがいたF-15。あいつが戦力差をひっくりかえしている」
「そのうしろにいる奴もだ。たがいの死角を補いあいながら戦っている。つけいる隙がない」
「あの仲良く飛んでいる目障りな二機を撃ち墜とせ!」
「できればやっている。できないから苦労しているのだろうが!」
「ミサイル発射不能だと。整備兵の馬鹿イノシシどもめ、ちゃんと整備しておけよ! こちら緑七号、たのむから撤退させてくれ。ミサイルが射てないんじゃ話にならない」
「いま撤退したら、軍籍剥奪されるぞ。死にたいのか」
「じゃあどうしろっていうんだ、いったい!」
「ロックオンしてもすりぬけていく。なんなんだ、こいつらは」
「また一機墜ちた。やつら、どんな機動もきかない。気がつけば後ろをとられている」
「おそろしい奴らだ。こちらを追いかけているというより、奴らの射界に味方がみずから飛びこんでいってる。逃げたさきが、奴らの狩猟場になっている」
英徹の操縦する電子戦機と、死闘がくりひろげられている戦空とは、かなり距離がある。肉眼では確認できない。
「自衛隊にこんな奴らがいたとは。金上佐が言っていたのはこのことか?」
勝って当然のはずの自軍が追いつめられていることは、いやでも理解できた。
「よし、ケツについた。仇をとってやる」
いずれのパイロットかの弾んだ声に、英徹もおもわず応援したくなった。
つぎの瞬間、戦闘機パイロットは、すっとんきょうな嘆声をあげた。
「なんだ、いまの機動は! どこへいった?」
一転、怯懦にふるえる無線。聞いている英徹の精神までもが千々にみだされる。
無線から、息をのむ音。
「どうして……どうして」
パイロットは涙声でくりかえした。
「どうして。おまえは、さっきまで前方にいたはずだ。なのになぜ、おれのうしろにいるんだ。いつの間に、どうやって? あのF-15には、魔法使いでも乗っているのか!」
予想だにしない事態に、パイロットが狂乱におちいる。
「離れろ、離れろよ。だれか援護してくれ。こいつ、背後霊みたいにぴったりくっついて離れない!」
「こっちも手一杯だ。行けない!」
直後、耳もとで花火が弾けたかのような炸裂音がとどろいた。
「被弾した。油圧ゼロ。緊急脱出。……作動しない!」
絶えた無線に、緊張がはしる。無意識にくちびるをかみしめる。
「おい、まさか、おれひとり! ミサイルが射てないんだぞ。援軍は、黒と赤は……」
土砂崩れが起きたような爆音がなだれ込んできて、音圧に脳髄をゆらされた英徹は顔をしかめた。
「被弾した。キャノピーに貫通。ちくしょう、破片が腕に。コクピットが血まみれだ。助けてくれ、ちくしょう!」
救援をもとめる声に答えられるものは、いない。距離的にいちばんちかいのは魔術師四〇四号だが、電子戦機型Ту-22は、機銃さえ積んでいないのだ。
「敵が変針した。魔術師四〇四、やつらはそちらへむかったぞ」
いまわの際の報告に、機内の温度が急低下する。
「操縦桿がきかない。コクピットにも煙が。脱出する!」
その無線を最後に、通信がとだえた。
緑と青、両飛行隊が全滅した瞬間であった。
「そんな。ぼくは、ちゃんと電子妨害しているのに。なにもまちがってないのに」
「全特士、おちつけ。じぶんの仕事に集中しろ」
「わかってる、わかってますよ、そんなことは! ちゃんと妨害かけてますよ。なのになんで友軍が全滅してるんですか。ここには自衛隊はこないっていってたじゃないですか。ぼくらがいちばん安全だっていってたじゃないですか!」
航法士は完全に平静をうしなっていた。英徹にしても、信じられないという思いだった。
現実的にかんがえて、不可能な所業であった。大空という広漠な三次元空間で、レーダーが使い物にならないなかを飛び回る神韻縹渺たる戦闘機編隊の位置を突き止め、あまつさえ駆逐するなど、まさしく雲をつかむような至難のわざであるはずだった。それこそ魔法でもつかわないかぎりありえない事象が、こうもやすやすと現実のものとなってしまっていることは、青天の霹靂以外のなにものでもなかったのである。
「しかも、さっき最後の一機が、自衛隊機がこちらにむかっていると……」
たしかにそういっていた。
「ぼくらの位置までチョッパリに筒抜けってことですか?」
そこで、英徹の脳裡に、電光がひらめいた。魔法だ。
「そうか。妨害電波か。やつらは、こちらの妨害電波をビーコンのようにたどって……!」
「アクティヴ・レーダー誘導ミサイルには、レーダー誘導で飛翔中に電子妨害をうけると、妨害電波の発信源にむかって飛ぶようにプログラムされているものがある。ミサイルならともかく、それを戦闘機で真似するなど、正気ではない。どんな馬鹿だ」
蛾の雄が、雌の発するフェロモン物質をたよりに数キロ先からでも異性の位置を突き止めるがごとく、敵が妨害電波をたどってこちらにむかってきていることは、ほぼまちがいない。
「なら、電子妨害をきれば……」
「いま妨害をやめれば、自衛隊機がレーダーを使いたい放題になる。敵には早期警戒管制機もいる。ミサイルでなぶり殺しにされるぞ」
全特士の意見を明学が一蹴した。英徹もうめく。
「かといって電波妨害をつづければ逆探知される」
つまり、詰んでいる。
喉まで出かかったとき、
「英徹、六時に機影。急速に接近中」
ヘッドフォンに、背中合わせで座っている明学の疾呼がひびいた。
「あれは……味方機ではないぞ」
戦慄に、背筋が凍った。
ろくに稼働機もないはずの自衛隊機どもが、この電子戦下で、戦闘機部隊を狼のように屠っただけでなく、英徹ら魔術師四〇四号までも発見しおおせたのだ。
「全特士、電子妨害をきれ」
明学のことばに、英徹すらも耳を疑った。
「自衛隊に攻撃をやめさせるには、こちらに敵意のないことをしめす必要がある。電子妨害を中止すれば、交渉の余地がうまれる」
「交渉して、どうするんですか。まさか、日本に投降しろと?」
「命にはかえられない。このままだと死ぬぞ」
「電子妨害をかけているから、まだミサイルにロックもされずにいられるんじゃないですか。電子妨害をやめれば、敵は待ってましたとばかりにミサイルを射ってくる」
それに、と全の反論はつづく。
「日本に投降したところで、待っているのは拷問と、豚みたいな死だけです。みっつの空港を占拠していた同胞の最期を忘れたとはいわせませんよ。やつらは根っからの民族差別主義者だ。捕虜なんてとらずに、皆殺しにするにきまってます。どうせ死ぬなら、ぼくは任務を遂行して死にたい。崔少尉、あなたの発言は、祖国と党にたいする重大な反逆行為ですよ」
英徹も、そうだ、と内心でうなずいた。
「三空港に駐留していた同胞らをチョッパリが惨殺したという話だが」
後ろ向きに座る明学が問いを返す。
「それを、おまえはじぶんの目でみたのか?」
意表をつかれた英徹と全が、最後部席の明学をふりむく。背をむけている明学がどんな表情をしているかは、うかがいしれない。
「しかし、司令部がそうだと……」
「司令部が宇宙人をみたといえば、おまえは宇宙人の存在を信じるのか。司令部が虚偽を伝えていると疑い、情報をじぶんの頭で考えたことはないのか?」
明学に、全は怒髪天を衝くがごとくになって、速射砲のような非難の猛攻をはじめた。そうこうしているうちに自衛隊機の機影が大きくなってくる。英徹が音速ちかくまで増速しているが、追いつかれるのは時間の問題だ。
「英徹、これが最後の機会だ」
全特士がわめき散らすなか、明学が背中越しに告げた。
「いまからでも間に合う。亡命するなら、これが最後だ。この電子戦機には、自衛隊のもちいるレーダーや通信機器の周波数帯の情報がつまっている。これは、亡命の有力な手土産になる」
英徹は息をのんだ。たしかに電子戦機の情報を機体ごとわたせば、こちらがどの程度、自衛隊の電子情報をつかんでいるかを、日本がつまびらかにすることができる。
そうなれば、こちらが保有している対自衛隊の電子情報は、まったくの役立たずになり、自衛隊は、電子妨害なぞにまどわされることなく戦えるようになる。
操縦桿をにぎるこの手に、祖国と戦争のいくすえがかかっている。
それよりも英徹を動揺させたのは、明学がこの期におよんで亡命をふたたび提案してきたことであった。
まさか、最初から、本気でいっていたのか?
「韓少尉、だめです。崔少尉は反乱分子だ。党と指導部を裏切った宗派野郎だ。しかも、ぼくたちまで罪の穴蔵にひきずりこみ、巻き添えにしようとしているんだ」
「英徹、この機の機長は、きみだ。すべての決定権はきみにある。きみのいかなる選択をも、おれは尊重する。だから、後悔しない選択をしてくれ」
両手がふるえる。怯えからなのか、機体の震動が操縦桿をつたわっているのか、わからなかった。
「敵を信じることは、むずかしい」
英徹は訥々とこぼした。
「こちらが刃をおさめた瞬間に、むこうから斬りかかられるかもしれない。危険を冒してまで先におさめる義理もないだろう」
全特士の同意しようとするのを、英徹はさえぎった。
「ならばそれもひとつの道。もし、おれたちが投降して、司令部のいうとおり捕虜などいらぬと殺されたなら、そのときこそ、チョッパリの残虐性が白日のもとにさらされることとなる。おれは同胞の闘いを、あの世からよろこんで支援できる。もし逆だったなら、わが国がおこしたこの戦争には正義がないことが証明される。おれたちが世界にむけて祖国の間違いを訴えたなら、世界もほうってはおくまい。共和国の軍人であるおれたちのことばだからこそ世界も耳を貸す。その価値を日本もわかっているだろう」
前席の全が唖然とし、後席の明学が随喜する気配が、それぞれから感じられた。
「機長として、おれはおまえたちを死なせない義務がある。たとえ命令違反だとしても」
いいながら、英徹は、身も心もすっかりと軽くなっていくのを感じ、またそれを泰然と受け入れているじぶんがいることに気づいた。祖父の自殺が発覚したときから胸にわだかまりつづけていた、どうしようもなく濁った部分が、英徹の身体のなかには、もうどこにもない。あらゆるところが透明になって、そこをさわやかな薫風が吹きぬけている。
「全特士、機長命令だ。すべての電子妨害を中止せよ」
航法士は、ぐっとことばにつまった。
「正気じゃない……」
「恨んでもらってもかまわん。明学、自衛隊機と交信をこころみる。すべてのチャンネルでよびかける準備を……」
そのときである。
すばやく安全バンドをほどいた全特士が、その身をひるがえしたかと思うと、乾いた火薬の音が機内に弾けた。
悪寒に上体をよじらせていた英徹の頬に、灼熱。鼻をかすめるのは、硝煙の刺激臭。
炸裂音でしびれている耳朶を打つのは、友の真紅の断末魔。
「秀卿……いまいくぞ」
安全バンドで座席に固定されたまま、背中を合わせていた明学の首が、がくりとうなだれた。
「ぼくは、こうみえても党に忠誠をちかった戦士ですよ。この機体をわたしてわが国が不利になるくらいなら、死をえらびます」
英徹の見開かれた双の眸は、銃口より白煙をたなびかせる白頭山自動拳銃をむけて構える全特士に、釘付けとなっていた。さらに、航法士の背景、複雑きわまる電子機器に席巻された制御卓の状態に、目をうたがう。妨害電波が、最大出力で発信されていたのだ。
「ぼくはさきに逝きます。あなたの処刑も、この機体の始末も、すべてやつらがやってくれる」
全特士が弛緩した笑みとともに、白頭山をみずからのこめかみに当てる。
そのとき、搭乗席前方の風防ガラス左側から、ふいに、黒い影が差した。影には鼻があり、唇があり、ながい髪があった。女の横顔だった。
女は、風防のむこうからこちらをむいて、粘つく笑みを投げかけた。あらわとなった女の顔の左半分は、腐乱のあまり赤紫いろに変色し、そこに白い蛆が無数にむらがりうごめいていた。高度八〇〇〇メートルを遷音速で飛行する電子戦機の機外から、血まみれの女が、操縦席を覗いているのだった。
気づかぬ全特士は、女とおなじ笑い顔のまま、白頭山の引き金をひいた。銃口をつけた部分と、反対側のこめかみから鮮血が飛び散り、唇にまがまがしい三日月を固定した状態で倒れた。
どこからか赤子の泣き声が響くのは、幻聴なのか。
電子妨害をとめようにも、電子戦要員でない英徹には不可能だ。このままでは自衛隊が攻撃してくる。
英徹は意を決し、射出座席のハンドルをひいた。
反応しない。
混乱し、両手でひいても、緊急脱出装置は、沈黙したままだった。
一般の軍用機は、非常脱出時には上方へむけ座席を射出するが、Ту-22は、下方へ座席を飛ばす。構造が独特なので、整備や補給がむずかしい。
射出座席こそ、英徹らが飛行前の点検を省いた箇所のひとつであった。
衝動的にバンドをはずし、なんとか電子妨害を切断しようと、航法士の席へ身体をねじこんだ、その直後。
脳天を裂く轟音とともに、世界が揺れた。操縦席を炎が踊る。衝撃で座席の足置きに頭をぶつけ、視界が暗転する。
まぶしい太陽、身を切る烈風。
青空を背に、火をふいて空中分解している乗機が目にはいった。だが、なにかおかしい。視界が半分しかない。右が見えないのだ。どうしたのだろうと、妙に冷めた感覚で疑問をいだく。たしかめようとしたが、左腕がうごかない。高空から風をきって落下しながら、右手だけで、顔の右側をさわってみる。手袋ごしに、軟体動物のようなぬるりとした感触があった。右手を顔の前にだす。指には、脳漿まじりの血液と、薄桃いろの汚泥。脳味噌だ。英徹の頭部は、右半分がくだけて、消失しているのだった。
朦朧としはじめた意識のなかで、宙を舞う英徹が最後にみたのは、高速で視界を横切っていく俊翼。白にちかい明灰白色の機体に、単色の赤丸。航空自衛隊のF-15Jだ。垂直尾翼に緑の五芒星が描かれているのが、なぜか印象にのこった。
青いはずの空が色をなくし、急速に暗くなっていく。
あとに残るは、永遠に明けることのない闇夜のみ。