三十一 北の国から
参加するパイロットは、とうぜんのように浅間ら四人が指名され、ほかにシクリード・フライトの四人が選出された。
講堂からの帰るさ、飛行教導隊の長良二佐に呼び止められた。
「厳しい戦いになるな。不安はないか?」
空自の戦闘機パイロットたちから鬼とも悪魔とも恐れられ、戦技競技会では最強の敵となって挑戦者らを悉皆撃ち墜とす教導隊にあるまじき血のかよった心遣いに、胸を衝かれる。
暴力男がたまにみせるやさしさのせいで別れることができない女のきもちが、なんとなくわかった気がした。
「たしかにきつい作戦ですが、今までみたいに指をくわえてなにもできないよりははるかにましです。それにこの数で成し遂げてこそ意味があるというもの。うまくいけば敵軍の戦意を挫くことにもなります」
内心をおくびにもださず、かえって笑いながら返事した。
「わたしたちはHAVCAP(高価値航空機護衛)につく。できればおまえらとともに戦いたいが……」
「教導隊がAWACSの護衛についてくれるなら、うしろを気にせず戦えます。おれたちのためと思ってこらえてください」
本心であった。教導隊ほどたよりになる護衛はない。
「すまないな。おまえたちばかりに人殺しをさせてしまう」
「手を汚すのも仕事のうちです。だれかがやらねばならぬこと。罪を負う覚悟はとっくに決めています。まぁ、ヒロイズムに酔っているだけかもしれませんが」
「命を懸けている。それくらいは許されるだろう」
「仙台市には一般市民がまだいるでしょうか。東京が陥ちて、きょうで九日。救出が間に合えばいいですが」
「偵察飛行隊が何度も偵察機を飛ばしているが、完全に敵地なので接近できず、くわしい様子はつかめていない。敵に民間人を皆殺しにする趣味がなければそのまま置いておくはずだ。ぶじであることを祈ろう」
長良は深く吐息した。
「宮城を解放したところで、おれたちを待っているのは怨念と呪詛だろうな。しかたなしとはいえ一度撤退したわれわれを国民が許してくれるとは思えん。そもそもの原因は自衛隊ではなく法律なのだが」
空自最強たる教導隊のパイロットが長嘆する。
「専守防衛……敵が攻めてくるまで攻めぬ。それが最初から本土決戦を宣言しているも同義と、いったい何人が理解して声高に叫んでいたことか」
「お忘れですか長良二佐。われわれは英雄と褒め称えられるために戦うのではありません。文民統制から外れて勝手に武器弾薬をつかって反撃していることへの裁きを受けにいくのです。ただ、裁かれる側にも、裁くものを選ぶ権利がある。われわれを裁くのは北朝鮮ではない。日本国民です。われわれは、われわれの罪を償いにいくのです。日の丸の小旗をふって歓待されるなど期待してはならない。われわれはただ伏して国民の許しを乞うだけ。すくなくとも、われわれ自身はそのつもりでいなくてはなりません。わたしたちは正義を信じて戦っていますが、正式な命令もなしに交戦している現状は完全な違法状態です。それを正義だから許されてあたりまえだというのは、反日デモで破壊や略奪をしても愛国無罪とほざくシナ人とおなじです。われわれは、かれらになってはいけないのです。ちがいますか」
長良はしばらく黙っていたが、やがて感服したようにうなずいた。
「平和憲法の生んだ鬼子というわけだな。そうだな。いかにもそうであった」
それからくすくすと笑った。
「あまりに自虐的だ。狂気にも近い。士気を保っていられるのが不思議なくらいだ。どういう精神構造をしている?」
「頭のネジが緩んでいるような人間でなければ、戦闘機パイロットなど務まりません。できることをやるだけです」
AWACSとともにひと足早く出撃する長良二佐と礼をかわしてわかれ、パイロット控え室に回る。
「朝廷と戦った蝦夷でもあるまいし、寡兵でいどむことにどれほどの意味が? 態勢を立て直さないうちに出撃すれば、それこそやつらの思う壷です」
ポリプテルスにさきんじて控え室でGスーツや酸素マスクの動作確認をしていたシクリードの二番機パイロットが、だれにともなくこぼしたのを聞いた。たしか、ディスカスというTACネームだったか。
シクリード・リーダーたるオスカーこと秋霜一尉が、ディスカスの肩に手をおく。
「もっともだけどな、かといって、このまま手ぐすね引いていたのでは、もっと少ない数で決行しなきゃならなくなるかもしれない。飛べる機体がなくなってからわめいても遅いんだ」
「主動の原則は、戦闘における基本です。こちらの都合に敵を付き合わせるようでなければ勝てません。敵機がちょろちょろやってくるから叩いておくというのでは、逆に相手の主動に乗っていることにほかならない。こちらが耐えきれなくなって少数で殴りこみをさせることこそ、やつらの狙いなのかも。もしそうだとしたら、敵は周到な待ち伏せ策を講じているはず。現に空域はジャミングされています。そんな死地に旧陸軍みたく無策で突っ込んだら、われわれは全滅です」
「滅多なことをいうもんじゃない。もしほんとうにただの苦しまぎれの作戦なら、おれとて編隊長として出撃を拒否する」
そこではじめて浅間らが話を聞いていたことにきづき、秋霜らが姿勢を正す。
「おんなじパイロットなんだから、そんなかしこまらないでくれ。なんか尻の穴がぞわぞわする」
浅間に金本が眉をひそめた。
「蟯虫でも住みついてんじゃねえか? それとも、カマキリの寄生虫みてえに、いきなり尻から飛び出してくんのか?」
「女を見ると寄生されたカタツムリのように目の色をかえるおまえには言われたかないよ。じつはおまえ、ここに合わせ味噌でも詰まってるんじゃないのか?」
自身のこめかみを指でたたきながら返す浅間にも、袖から抜いた右腕を飛行服の内側から突き破るようにして「エイリアン」とぬかす金本にも、シクリード・フライトは笑わなかった。
「なんだかんだ言って、今回の作戦は少数精鋭。ポリプテルスの四人が選ばれるのはまず当然。それにわれわれが肩をならべることができて嬉しいんだ」
「なんだかんだという部分の詳細が気になるが、誉め言葉だと受け取っとくよ」
直截的な好意の表明に、浅間も金本も毒気をぬかれて苦笑した。
「それで、今回の作戦だが」
浅間に皆も聞き入る。
「忘れてはいけないのは、なにもおれたち八機だけで敵を殲滅しようってんじゃないってことだ。任務はあくまでも強行偵察。偵察機じゃもぐり込めないところまで飛んでって、霞目飛行場や周辺の様子をさぐって、ついでに敵機を墜とせるもんなら墜としといて、とっとと帰る。そいでおれたちのもたらした有用な情報で、上のお偉いさんがたがありがたい作戦を練る。それだけだ」
ディスカスらが、いっぺんに安堵に胸をなでおろす表情をみせた。
「主動の原則はたいせつだ。では北朝鮮軍の立場になって考えてみろ。強烈なジャミングをかけているところに戦闘機の部隊が殴りこんでくるなんて、だれが予想できる? 敵はジャミングのおかげでむしろ油断しているとおれは見る。電子戦下で戦うのは正直きびしいが、不可能なことを達成してこそ敵の裏をかける。敵の思惑を食い破る、これも一種の主動の原則となる」
小松基地所属のパイロットたちは、考えてもみなかったことを聞かされたという面持ちで息を呑んだ。
敵の土俵では戦わないのが戦争の定石だ。
そこをあえて定石をやぶることで敵の意表をつく。
まさしく奇襲となろう。
「きつい戦いではある。だがそれがいままでとなにがちがう? 国土を九割がた取られ、全滅どころか民族浄化寸前まできていたんだ。そしてその危機はいまだに去ったわけでもない。戦いをひとつでもしくじれば、敵は一気に喉元まで食らいついてくるだろう。ぎりぎりの戦いばかりだ。ここがこらえどころだぞ。おれたちが苦労したぶん、あとの仲間が楽をできると心得ろ。それに……」
笑いをこぼし、声をひそめる。
「おれたちの土地や基地を、北朝鮮のやつらが悠々と使ってるかと思うと、腹がたつだろう?」
そのひとことで、シクリードの四人が破顔一笑して同意を示した。
金本、早蕨、占守は顔を見合わせて含み笑いをみせた。浅間には仲間を導くなにかの力がある。
「仙台は、うちのリーダーの生まれ故郷なんです」
ディスカスが切り出した。三番機のペルヴィカと四番機のアーリーもにやにやとしている。
「こんどの作戦は、仙台を解放する戦いでもある。浅間一尉、おれの街を取り戻すためにも、よろしく頼む」
シクリード・フライトがそろって頭をさげた。
「言われなくともそうするよ」
浅間たちもまた腰を曲げた。
◇
格納庫にて、機付き長をはじめとした列線整備員らと敬礼をかわす。
皆、狸のような隈が目立つ。
用意された八機は、浅間に割り当てられた、オオムラサキの部隊章がかがやく第307飛行隊のもの以外、どれも所属がばらばらで、いかにも、
「動ける機体をかき集めた」
感に満ちている。
整備隊の苦闘を物語るにあまりある光景だ。
「苦労をおかけします。われわれももっと機体に負担をかけないように飛べたらいいんですが」
浅間が申し訳なさそうにいうと、機付き長はとんでもないというふうに手を振って、
「死ぬ危険もあるパイロットとちがって、われわれなんか、ただしんどいだけです。機体を整備するのがわたしらの仕事。どうか遠慮なくつかってください」
真剣な眼差しでうったえた。
浅間もうなずいて理解を示した。勝利こそが整備隊への最大の礼にちがいない。
「この戦争が終わったら、『カンザスの戦い』を『千歳の戦い』に改めさせましょう」
「じゃあ、なんとしてもポリプテルスには勝ってもらわないと」
陽炎にゆがみ足下に逃げ水のひかる主翼の下では、武器小隊の整備員らが、滝のような汗を流しながら長細いミサイルを神輿のように担ぎ上げて、人力でランチャーに装着していた。
AIM-9Lサイドワインダーとは、外見が微妙にちがう。
浅間の視線にきづいた機付き長が、もっていた消しゴムつき鉛筆の尻で機体をさして、
「今回の作戦からは、短射程ミサイルはサイドワインダーからAAM-3に、スパローはAIM-7FからAIM-7Mにかわります」
きっと活躍してくれますよ、と誇らしげに笑った。
「AAM-3、正式名称、90式空対空誘導弾。ご存じ、国産初の実用空対空ミサイルです。サイドワインダーと同様のIR(赤外線)誘導式短射程AAM(空対空ミサイル)ですが、先端部のシーカー・ドームはより大型で、シーカー視野が拡大されています。そのシーカーは、赤外線と紫外線を認識する二色シーカーを使用しており、温度差の検知追跡能力が向上。赤外線だけでなく紫外線も捕捉するので、IRCCM(赤外線妨害排除)能力も高められていて、ただ赤外線を放出するだけのフレアには欺瞞されません。弾体後部への乱流の発生をふせぐAAM-3独特のカナード翼と、操舵の動力として電動アクチュエータの採用、旋回時に戦闘機のように最適なバンク角をとる機構の導入で、AIM-9Lよりも高い運動性を実現しています。最近の訓練では、模擬弾もAIM-9LよりAAM-3のほうが多くつかわれていますから、より効果的な作戦行動が可能なはずです」
「若手と訓練をやるときは、おれたちがAIM-9Lで、若いのがAAM-3をもってハンディとするくらいですからね。心強い」
つまり、いままでサイドワインダーやAIM-7Fが使われていたのは、古いミサイルの在庫処分もかねていたというわけだ。
ともあれ……。
「では、機体をお借りします」
あらためて敬礼すると、整備隊は踵をあわせて返礼した。
機体の周囲を時計まわりに一周しながら、点検孔の蓋をとめるボルトひとつひとつがちゃんと締まっているか、燃料や弾薬が正しく積まれているかまで、整備状態を手と目で仔細に確認。
機体にそなえつけの『計器のみを信じよ、ほかは疑え』と表紙に英語で書かれた帳簿に署名、問題がない旨を記入する。
三十分後……。
浅間と秋霜にひきいられた強行偵察部隊は、整備員や居残り組のパイロットらに敬礼で見送られながら、蒼天をつらぬく轟音とともに飛び立っていった。
◇
日の丸のかわりに北朝鮮の赤い旗が掲揚された霞目飛行場では、風にはためく旗とおなじ赤星をいただく軍用機が、ひっきりなしに離着陸をくりかえす。
いましも白隊のМиГ(ミグ)-21六機が刻限どおりにもどってきたのといれかわりに、緑隊の戦闘機編隊が鵬翼をひろげて空へ旅立っていったところだ。
戦闘機とは異なる爆音も響く。
天地を鳴動させる大騒音とともに、本国から大量の整備物資や人員を搭載したミルМи-26輸送ヘリコプターが、八翅の回転翼を光輪のごとく背負いながら駐機場におりたつ。
機内と機外を合計しての最大積載量は、アメリカのC-130ハーキュリーズ輸送機をもこえる二十トン。兵員輸送の場合でも、同輸送機とかわらない九十人を一気にはこべるという世界最大級の積載量をもつМи-26は、ヘリでありながら全長は四十メートルをこえる。
ヘリというより、大型艦船が回転翼とともに空に浮かんでいるかのような威容だった。
空前の巨大ヘリをかくも自在に運用できるじぶんの祖国を、ほんの数日まえまで日本のものであった、陸上自衛隊霞目駐屯地の清潔な宿舎の窓から飛行場をながめながら、韓英徹空軍少尉は、素直に自慢に思った。
「英徹、これいるか? うまいぞ」
同僚のひとりが、腕に山とかかえたスナックやチョコレート菓子を示しながら呼んだ。基地施設内の売店にあふれる、北朝鮮ではまずお目にかかれない菓子類は、いちおう、施設を接収した軍の管轄下にあるが、そこは戦時である。菓子だけでなく、基地や街にある食料品、くさぐさの家電製品は、占領地の物品を管理する警備係から、底なしのふところをもつ軍官らが、はやくも横流しさせている。かれらは口止め料として、その余禄にあずかっているというわけだった。
同僚の好意に、しかし、英徹は首を横にふった。同僚は、こんなにうまいものを、ばかなやつ、と笑い飛ばしながら部屋を辞した。
油断はならない。たかが菓子とはいえ、建て前は軍のものだ。業務上横領である。いつどこで保衛部警備課の保衛員が目を光らせているかわからない。ばれなくとも、横領した品をうけとったら、いつか弱みとして利用されるかもしれない。
脛に傷をひとつでももってはならない。
英徹ら、朝鮮民主主義人民共和国空軍第03航空連隊第022電子飛行隊、通称、魔術師隊のあらたな勤務地、日本は、菓子だけでなく、あらゆる物質にあふれていた。
まず、自動車が、すべてガソリン車であることからして、衝撃的だった。
北朝鮮にもガソリン車はあるが、燃料たるガソリンがないので走ることができない。
ガソリンはあくまで戦時や緊急用の貴重品。供給も使用もすべて政府と軍部の管理下におかれていて、そもそも販売されているようなものではない。
トラクター、ブルドーザー、トラックなど、軍でふだんつかわれる車輛さえ、すべて木炭車なのだ。
時速三十キロメートルそこそこが限界で、上り坂では人間の足よりも遅く、故障も多い木炭車に頼っていた英徹からすれば、ガソリン車が街にあふれ、町辻ごとにガソリンスタンドが看板を掲げている日本の光景は、異常のひとことにつきた。
(これが自由資本主義か)
故郷の平安北道の新義州など、日本にくらべれば、田舎どころではない、世界の果てにひとしい辺境であったとおもいしらされる。新義州にも、たとえば高層の集合住宅はあるが、対外的に見せるために建てられただけで、じっさいにはほとんど人は住んでいないのだ。
この仙台という街は、東北地方第一の大都市であるらしいが、ここですら日本からすれば地方都市のひとつにすぎないという。認めたくはないが、内包している充実さでいえば、平壌ですら、仙台にかなわない。
(おなじ東アジア、それも東海をはさんだ隣国どうしでありながら、なぜこれほどまでにわが祖国と日本とでは、貧富の差がはなはだしいのか?)
驚嘆し、また、世界の理不尽さに唇をかみしめた。
北朝鮮では都市部でさえ停まりがちな電気も、日本では湯水のように消費されている。
発電所をはじめとしたインフラは、すべて北朝鮮の支配下におかれているが、じっさいに働いているのはもともと勤務していた日本人だ。戦争状態にあっても、たとえ敵のためであっても、まじめに働くのが日本人であるらしい。
「あたりまえだ。社会主義と偉大なる首領様の敵だぞ。いますぐにでも皆殺しにしてしかるべき畜生どもを、わざわざ生かしといてやるのだ。犬でさえ飼い主にしたがう。こちらの最大限の寛容と人道的配慮に礼をつくさぬどころか刃向かうなど、けもの以下であろう」
後方部大隊長がそうわらっていたのを聞いたが、ようするに電気やガス、水道といったライフラインを利用するには、本職の日本人が必要だったからというくらい、英徹にも理解できた。
仙台市は人口百万をこす大都市であるので、区分けして管理することとなった。区分けに手間をかけるのも時間のむだであるということで、もともと市を構成していた五つの行政区分をそのまま流用した。青葉区、宮城野区、太白区、泉区、そして霞目駐屯地のある若林区である。
区におく現地司令官の人選においても、いささかの軋轢があったことを思い出す。青葉区が人口三十万といちばん多く、若林区が十万強ともっとも少ない。やはり人口の多い区のほうを階級的に上だと感じるし、そこを任されることを名誉と思うものであろう。
若林区に配置がきまった現地司令官がひとり、朴経哲大佐は、辞令を不服とし、忠烈な軍人たるじぶんが青葉区を治めたほうが祖国の益にかなう、というような内容を長々としたためた書簡で、こともあろうに党の執行部に直談判した。英徹にはおそろしくて金を積まれてもできない所業である。どうも、青葉区に配属されることがきまった許基洪大佐と朴大佐は、大学時代に同期の間柄であったらしい。軍事称号もおなじなので、些末なことでも差をつけられることを矜持が許さなかったのであろう。
けっきょく、若林区は人口規模こそ小さいものの、霞目駐屯地という軍事拠点を擁するということで価値が高いと評され、なんとか朴大佐の面子をつぶさずにすんだのであった。
紫煙の刺激的な匂いが、物思いにふける英徹の鼻をかすめる。
煙草をくわえた姜明学少尉が、神妙な顔をして立っていた。
気のおけぬ盟友の登場に、英徹も顔をほころばせる。
「おれにも一本くれ」
手を差しだすと、明学はくわえ煙草のままふところに手をいれ、てのひらに収まる箱を取りだした。マイルドセブンといかにも西側の色使いで印刷された箱をみて、英徹は眉をひそめる。
「ポンテギじゃないのかよ」
明学は皮肉っぽい笑みを浮かべて、
「いまさら、あんなものを吸う人類はいないよ」
箱を懐中へともどした。
北朝鮮で市販されている煙草はまずい。だから自作するほかない。見た目が蚕の繭に似ていることからポンテギと称される自作煙草は、味がよいことから下戦士のあいだで人気がたかく、物々交換にもちいられることもしばしばだった。
日本を事実上征服したかれらの大半は、日本製の煙草や酒や菓子の豊富さと味のよさにいちいち刮目し、舌鼓をうって顔をとろけさせたが、英徹は、敵国の嗜好品にいっさい手をつけなかった。マイルドセブンもハイライトも口にせず、北朝鮮製のものよりいくぶん質がよいとはいえたかがしれているポンテギを、あいかわらず好んで喫んだ。
そうしたこまごましたことで、じぶんの忠誠心を党と軍に宣伝しなければならないのだ。
「きみがなにも受けとらないから、不安になってるやつもいるぞ。第022電飛の韓英徹少尉は、じつは保衛員なんじゃないかって」
沈むようにやわらかい長椅子に座っていた英徹と、背の低い卓をはさんだ長椅子にむかいあって座りながら、明学は冗談めかしていった。英徹は自嘲ぎみに笑った。
「おれが保衛員になれるわけがないだろう」
事情を知る明学にしても、肩をゆすり、紫煙を吐き出している。
正規の軍人とはちがい、国家安全保障部に所属する保衛員は、北朝鮮のKГБ(カーゲーベー)とでもいうべき存在だ。軍人であると同時に秘密警察でもあり、最高指導部の親衛隊もつとめるという複雑な役割をもつ。軍を監視下におく性質上、へたな軍官より立場も上だ。くわえて、全員が労働党の党員資格を有している。国への忠誠心がとくに強く、経歴にいささかの失点もない人間だけを選りぬいているのだ。
「まぁ、ここでの任務がおわったら、おれもおまえも軍事称号の星が新しくなる。党のためにも、またおれたちのためにも、瑕疵のないよう任務に精励しよう」
英徹と明学は、一定期間の電子戦任務に従事したのちは、ともに少尉から中尉への昇進、さらに本国への凱旋が確約されている。一族郎党、ひもじい思いも、冬の寒さに震えることも、またようやく当局の目を気にすることもなく暮らしていけるようになるだろう。
「きみは、まだ労働党やわが軍を頭から信じているのか?」
ちいさな着火器具をもてあそびながらの明学の言葉に、英徹は一瞬、理解が追いつかなかった。母親の性別をうたがったことがあるのかといわれたようなものだ。
「めったなことをいうな」
英徹はせきこんで注意した。日本の煙草は、副流煙すらうまかった。
「だれぞに聞かれたら、どうする?」
明学は気にしたふうもない。
「この自由主義の国では、指導者に敬称をつけなくても、政府を公然と批判しても、どんな宗教を信じても、罪にならないらしい。まさに、自由だ」
「それが、そもそもまちがっているんだ。人間は、法の束縛がなければたちまち堕落してしまう。欲望は重力だ。放っておくとどこまでも落ちていく。悲しいが、そういうものなんだ。たしかに、日本は、物質的には満たされているようにみえる。だが飽食と淫蕩にふけるこの国は、それだけ罪に満ちている。物質的な豊かさと精神的な堕落とは、双子のように似た顔をしているんだ」
「英徹。おれたちは、その飽食と淫蕩に代表される堕落した豊かさとやらを横取りしに、日本に戦争をしかけているんじゃないのかい」
通路や広間から下戦士らの陽気な声が響く。明学があごをしゃくる。
「あいつらだってそうだ。口を開けばチョッパリへの怨言に悪口雑言ばかりだが、やつらはその口でチョッパリの菓子や煙草や酒を食らっているんだ。しかもその矛盾に気づいていない。滑稽ですらある」
「だから、おれはチョッパリのものは口にしない。おれは誇りある朝鮮人民空軍だ」
「それは、首領様への忠誠かい。それとも、保衛部ににらまれたくないって意味かい」
いつになくふみこんでくる明学に、英徹は当惑した。
「物質的豊かさとは、国力だ。現代の戦争は、百姓に武器をもたせて突撃させる人海戦術は通用しない。こんにちの兵器は、正確無比な結果をだす電子機器や、強力かつ堅牢な動力、それらを設計、安定的に生産できる技術力と、つかいこなすために専門の教育をうけた兵隊、そのすべてを結集させなければならない。それを可能にするのは、国力であり、最後には財力となる」
明学は確認するように語った。
「そう考えれば、日本の戦力はおそろしい。イージス搭載艦をはじめとした護衛艦隊が海を鉄壁のごとく守り、移動目標をも百発百中で撃破する74式戦車に、蛇行行進しながらの射撃を可能とする10式戦車、自身が射程二〇〇キロメートルの対戦車ミサイルとなるAH-1Sヘリがまちうけ、F-15とF-2、F-4からなる戦闘機部隊が空を支配し、空中警戒管制機が高精度なレーダーで指揮する。さらにはそれらを、高い錬度と稼働率が強力に支える。われわれが正攻法で勝てる相手ではない」
あらためて現実をつきつけられ、英徹も黙考する。
軍人、それも空軍は、徹底した現実主義者だ。どんなに烈々たる情熱をもっていても、燃料がきれれば飛行機は墜ちるし、失速速度を下回れば失速する。職業柄、冷厳な物理法則に支配された現実と、つねに向き合っていなければならない。現実のまえには、根拠なき理想論がなんの役にも立たないことを、身をもって知っている。
「しかし真におそろしいのは」
明学は続けた。
「これだけの近代兵器を量産し、兵器を運用する人材を育てられる日本の経済力と文化だ。たとえばF-4は、日本としては舊式ではあろうが、わが国の技術力では、同等の戦闘機を独自開発することもできない。F-15など、もってのほかだ」
明学の声に、硬度が添加される。
「F-15の火器管制レーダーは、八十浬さきの目標を捕捉でき、プログラム可能型シグナル・プロセッサをそなえ、捕捉した全目標のうち十個を指定して追跡、その間にも他の目標を捜索することが可能なサーチ・ワイル・トラック機能が付与され、パイロットがひとりで操作できるよう高度に自動化されている。増槽をつんだ状態で八発もの空対空ミサイルを搭載できるため、高い攻撃力を維持したまま、長大な航続力を発揮できる。大型の機首レーダーと豊富な搭載量のために肥大化した機体を、推力重量比のおおきい発動機がありあまる推力でぶん回す。さらには、日本が独自に開発したという戦術電子戦システムが、電子的、物理的に機体をまもる。友軍の戦闘機部隊にとってF-15と刃を交えるなど、悪夢でしかないだろうな」
冷酷な事実をのべていく。
「これほどの有力な兵器を、アメリカにライセンス生産を許可させた日本の国力をこそおそれるべきだ。高性能なだけあって、F-15は取得価格も高騰した。導入できたのは、産油国ゆえに潤沢な予算をもつサウジアラビアと、国防に金を惜しまぬイスラエル、そして日本だけ。導入に耐えられる予算と、ただの同盟国以上の信頼関係がなければ不可能なことだ」
「だからこそ、アメリカ軍が日本から撤退したいまの時期を狙ったのだし、われわれ電子戦部隊が警戒しているのではないか」
英徹は内心ひやひやしながらさえぎった。汗をふく。
「おまえ、きょうはおかしいぞ。事実であるとはいえ、そんな敵をほめるようなことを話していたと軍官の耳に入ったら、生活除隊もありうる」
軍職を解かれ、軍から追放される生活除隊処分は、北朝鮮の軍属にとって、社会的な死を意味する。みずからが運命の鎌に刈り取られる未来を想像すると、吐き気にも似た不安がこみあげる。
「きみは同年度入隊生であり、親友だ。だから言えるんだよ」
唖のようになった英徹に、明学は二本めの煙草に火をつけながら聞かせた。
「きみの祖父は自殺したと、前に話してくれただろう」
明学はそのときだけ、声をひそめた。
自殺は、北朝鮮では山よりも重い意味をもつ。つまり、体制の抑圧に耐えきれなくなって、死をもって反逆の意思をしめした、とみなされるのだ。したがって、ただの自殺か、謀叛の声明としての自殺なのかは、徹底的に調査される。どちらにしても、自殺者を親族にもつものは、政府から永久的に猜疑の目で監視されることとなる。
「いまでも思い出す。母は、労働党への入党を熱望して、くる日もくる日も熱心に活動していた。けれど待てど暮らせど保留ばかり」
英徹はぽつりぽつりと述懐した。
明学も耳をかたむける。党に入れば生活と未来が保障される。党員になりたいというきもちは痛いほどわかっている。
「あやしいと思った母は家族と縁者の出身成分を調べた。そうしたら、父方の祖父が自殺していたことがわかった。あのときの母の怒りようといったら……心火病を発症しそうなほどだった。髪をかきむしり、激昂して父につめよった。入党の夢に命を捧げていた母の、怪鳥のような怒声が、いまでも耳朶にのこっている」
英徹自身は自殺した祖父に会ったこともないが、もはや党員になる望みはついえた。入党はおろか、知らぬ間に、韓一家は人生の断崖に追いつめられていたのである。
「一族に着せられた汚名を返上するにはどうすればいいか。おれは考えに考えた。最終的には、国の役にたつ人間になれば失点を巻き返せると思い、軍に入り、猛勉強をはじめた」
日中は職務と訓練に追われ、勉強の時間がとれない。夜に勉強するしかないが、慢性的なエネルギー不足になやむ北朝鮮では、軍の宿舎といえども、夜間にあかりをつかうなどというぜいたくはゆるされない。
夜八時には消灯となる。
英徹は、衛兵の監視の目をすりぬけて外へでて、冬はシベリアからの寒風吹きすさぶなかで、月や星のあかりだけをたよりに勉強にはげんだ。
監視がきびしいときは、便所で勉強した。消灯時間をすぎても、便所だけは常夜灯だったからだ。雨でも勉強できることから、夜な夜な便所に引きこもることになった。
しかしまもなく衛兵に露見し追いはらわれたので、知恵をしぼって新しい勉強法を発明した。
布団に寝た状態で頭から毛布をかぶり、光がもれないようにして、なけなしの小遣いで買ってきた懐中電灯をともして勉強したのである。
そのかいあって優秀な成績をおさめ、精鋭中の精鋭しかえらばれない航空学科へ抜擢された。
「出身成分に汚点があり、当局の監視下にあるはずのじぶんがえらばれた!」
達成感というより、国からの信用を回復できたことへの安堵感が胸を占めた。
自殺の件を明学に打ち明けたのは、ちょうどそのころのことだ。前途がひらけて、張りつめっぱなしだった気がゆるんだのかもしれない。閉塞された監視社会のなかでひみつを共有しあえる仲間もほしかった。
そのとき、明学はなんどもうなずき、はげましてくれたものだ。
「親族の自殺で、なんら落ち度のない個人の自由をうばう。この国の政策は、まちがっている」
明学がそうこぼしたときはさすがにあせったが、反面、それだけ親身になってくれているのだとおもうと、すなおにうれしい英徹であった。
「あのとき、きみはひみつを打ち明けてくれた。だからいえる」
聞いてくれ、という明学の声で現実に引き戻される。煙草を灰皿におしつけた明学が、けわしい顔であたりに注意をはらう。部屋にふたり以外だれもいないことをあらためて確認してから、顔を寄せた。
「英徹、亡命しないか?」
一瞬、なにかほかのことばと聞きまちがえたのかとおもい、咀嚼し味をたしかめ、英徹の呼吸が停止した。心臓さえも鼓動をわすれた。あまりの不意打ちに思考が空転し、理解がおいつかない。
「おれはな、英徹。空軍にはいるまえは、完全統制区域に勤務していたんだ」
明学はたたみかけるように告白した。
麻痺した頭のなか、ほとんど自動的に記憶から該当することばをさぐりあてる。英徹の瞳孔が開いていく。
「政治犯が収監される管理所(収容所)にはふたつあることは、きみも知っているだろう。ひとつは革命化区域だ。革命化区域に送られた政治犯はさいわいだ。わが国の思想がじゅうぶんに身についたと見なされれば、釈放もありうるからだ。もうひとつの管理所、完全統制区域に、それはない。革命化区域の囚人にくらべて更生の余地がないほど罪が重い、つまるところ指導部がこの世から抹消してしまいたい人間が送り込まれてくるからだ。完全統制区域に収容されたが最後だ。死ぬまで出られないなんてものじゃない。死んだら区域内に埋められるか軍用犬のえさにされる。死んでも出られない」
明学の顔に、感情の波紋がかすめる。
「おれたち警備隊は、政治犯と言葉をかわすことさえ禁じられていた。かれらは豚小屋か牛舎のような、窓もなくいまにも崩れそうな掘っ立て小屋におしこめられ、食事もほとんどあたえられず、雑草や木の皮、蛙の卵、肥溜めに捨てられた残飯で命をつないでいた。どぶねずみを見つけたときなんか大喜びさ。だれもかれも体は皮と骨だけ。着るものもろくになく、女でさえも、けものみたいに乳房をぶらさげて、男といっしょに手作業で畑や炭鉱ではたらかされていた」
ひとえの目は、日本の青い空ではなく、故郷の荒涼とした地獄を映していた。
「おれたちは毎日、上司の軍官に繰り返し聞かされた。こいつら政治犯どもは、われわれ人民の血と汗をしぼりとった悪党どもだ。祖国解放戦争(朝鮮戦争)時に南についた恥知らずや、資本主義をもちこんでわれらの共和国を破壊しようとした不純分子、首領様と指導者同志をうらぎり、国家に反逆した邪悪なる者どもだ。トンムらの祖父や父たちの代からの仇敵だ。やつらにひとかけらの慈悲もあたえてはならん。やつらはトンムらの前ではへこへこと追従笑いを浮かべるが、その後ろに回した手には短刀をもち、すきあらば脱走の機会をうかがっているのだ。逃亡や反抗のそぶりをみせたら、トンムらはやつらをどのようにでもできる。ただでさえ重罪を犯している連中だ。生かしてやってるだけでももったいないのに、それがわからないクズは、トンムらの思うままにしてよい。……そうなんども扇動演説をぶたれた。それこそ時報がわりにね。そして最後にこうつけくわえるのさ。トンムらが政治犯に同情したり、人間あつかいしたり、あまつさえ共鳴をおぼえて助けようとするようなことは、言語道断だ。指導者同志は、われわれを信頼して、この管理所の任務をあずけてくださっている。そのわれわれが政治犯を助けるようなことがあれば、偉大なる指導者同志にご憂患をかけることとなり、ひいてはトンムらと、トンムらの一族も政治犯とおなじ末路をたどることになる。ゆめゆめ肝に銘じておくように、と。つまりは、脅しだよ。いまおもえば、やつらにトンムとよばれることもけがらわしい」
仲間や同志、友人といった意味をもち、親しみがこめられているトンムの呼称を、明学はゴミのように吐き捨てた。
「おれも最初は軍官らのいうとおりに職務にはげんだ。そこで評点をあげれば大学へ行かせてくれるといわれていたんだ。区域内の政治犯のあつかいは、ひどいなんてものじゃあなかった。トウモロコシ一粒さえはいっていない白湯みたいな飯で強制労働させられ、毎月の戦闘捜索訓練では射撃の的にされ、若い女は人間寝台にされていた。人間寝台って、わかるかい。女を何人か筏のようにならべた上に布団をしき、そこで寝るのさ。よく眠れると上級者のあいだでもちきりだった。最初はとまどっていた警備隊員も、相手がなにをしても無抵抗だとわかると、だんだんと変化していった。政治犯をいかに無慈悲にあつかったかで競いあうようになった」
明学は滔々と語った。英徹は、いまだひとことも発することのできぬまま親友の過去をたどった。明学の暗い目が、英徹を射ぬく。
「英徹。人間は釜で茹でられても、十分は生きていられるって知ってるかい?」
明学の目をみていると、完全統制区域でくりひろげられた、いや、いまも祖国の管理所でおこなわれている惨劇が覗けそうで、真夏なのに氷室にいれられたかのように寒気がした。
「けれど、それはしかたないんじゃないか」
もつれる舌をうごかして、なんとかことばをつむぐ。
「政治犯は、それだけの罪を犯したんだろう?」
明学の顔に、寂寥感が影となって現れる。英徹が、はじめて見る朋友の表情だった。
「どんな罪だい? おれがみた政治犯とやらは、三十八度線によって分断された離散家族で、南にわけられた家族がたまたま南側について戦ったというだけで送られてきた者だった。あるいは帰国船に乗って日本から祖国に帰ってきたまったくの同胞だった。北送同胞は、首領様(金日成)に帰ってこいといわれて帰ってきたんだ。なのにそのほとんどが日本の情報員だと断罪され、おれたちのいる区域で畜生にもおとる生活を強いられた。いまでも、日本から戻ってすぐ管理所に連れられてきたという老婆の、孫ほどの歳の警備隊員に拷問される悲鳴が耳を離れない。毎夜毎夜、壁をへだてても、耳をふさいでも、夜通し響いてくるんだ。鞭が肉と骨をうつ音。老婆のうめき声。気をうしなった老婆に水をかける音。意識がもどった老婆の絶望のさけび。老婆は悲鳴の合間に繰り返していたよ。日本から戻ったってだけでこんな目にあわせるなんて、これが祖国か。わたしは、北は地上の楽園だと聞かされて帰国船に乗ったのに。日本へ送り帰せ。さもなくばいますぐ殺せ!……」
独白が室内にこだまする。
「日本へ帰せ!」
だれかに盗み聞きされないように小声にしてあっても、明学の口を借りた老婆の訴えは鼓膜をつらぬいた。
「喉から血が出そうな大声でそうさけんだかとおもうと、にぶい音がして、不気味なほどひっそりと静まりかえった。つぎの夜から、その老婆の声は、二度と聞こえることはなかった」
むかいに座る明学は、壮絶な記憶を思い起こし、ふるえていた。深く息を吸って吐き、ふるえを追い払う。
「かれらに罪とよべるほどの罪などあるのか? 軍官らは政治犯をけもの以下だと口を酸っぱくして言っていたが、それはほんとうなのか? かれらもわれわれとおなじ、楽しければわらい、悲しければ泣き、家族を愛する人間なのではないか? 管理所に勤務しているうちに、おれはそう思いはじめた」
とんでもない反逆思想に、しかし英徹は反論できなかった。おのれの人生に暗い影を落とすこととなった、出身成分の汚点を惹起させられたからである。
「英徹、きみに会えて、おれはその考えがまちがいでなかったと確信をえた」
明学は話を進めた。
「きみのように、直系の親族に問題があるというだけで一族ごと管理所送りになる例は、枚挙にいとまがない」
「おれも、完全統制区域に送られていたかもしれないってのか」
おそるべき事実をどもりながら確認すると、盟友は深くうなずいた。
「なのにきみはこうして少尉の軍事称号もえているし、電子戦機の操縦士にまでなっている。これこそ、政治犯はただの濡れ衣で、かれらも人間だというなによりの証拠だとおもわないか?」
北朝鮮における真人間にとって、政治犯とくらべられることは屈辱だが、英徹はむしろ身につまされた。英徹とても、祖父の自殺の件で、保衛員の影に脅える日々を送っていたからだ。その恐怖はいまだに去ってはいないのである。
「きみは、こういっては失礼だが、たかが親族の自殺で人生を狂わされるようなこの国を、おかしいとは思わないか? 同胞を犬畜生どうぜんにあつかうんだ。敵国である日本にはもっと容赦しないだろう。おれたちのあやまちの報いを、ほかの民族にはあたえられない。そのためには」
「亡命して真実を白日のもとにさらすしかない……ということか」
英徹が先取りすると、明学は顎を引いて肯定した。
「電子戦任務では、おれたちはТу(トゥー)-22ПД(ペーデー)に乗る。おなじ電子戦部隊のY-8よりだんぜん速い。戦闘機部隊もすぐには気づかないだろう。ふりきれば勝算はある」
英徹はあわてた。任務は二時間後だ。いまそんなことを急に提案されても、すぐに答えをだせるわけがない。
「Ту-22だって、おれたちふたりだけで操縦するわけではないだろう?」
「電子戦任務ではそうだが、飛ぶだけなら、操縦士のきみさえいればことたりる」
明学の抜き身のような目つきは、障害となる同乗者の殺害をも示唆していた。
外堀は埋められていた。英徹はなんとか反対材料をさがした。親友を大それた危険にさらしたくなかった。
「それに、明学。かならずしもチョッパリが、管理所の政治犯のようなあつかいになるとはかぎらない」
とっさに見いだした突破口に、
「朱光烈副司令官か……」
明学も顎をなでた。
「朴司令官は、捕虜にしたこの若林区の市民たちを、それこそおまえのいう政治犯みたいな処遇にせしめようとなさっていたらしいが、朱副司令官が反対したのだそうだ。チョッパリに戦争がはじまる以前とほとんど変わらぬ生活をさせ、われらの爆撃で家をうしなった者には、体育館や公民館を避難所にあて、食料や水などの物資もあたえているとか。ほかの区はどうかしらないが、あんがいと杞憂なのかもしれないぞ」
「それで、捕虜たちの反応は?」
「又聞きではあるが、わが軍への反抗は皆無といっていいほど良好で、恭順したもどうぜんだとさ。まぁ、全土を焦土にしたあげく原爆を二個もおとした敵国にギブミーチョコレートなんていってた民族だからな。勝ったほうにしっぽをふる習性があるんだろう」
明学に亡命をあきらめさせるべく、英徹は矢継ぎ早にまくしたてた。たしかに完全統制区域で無実の罪を着せられた同胞がしいたげられているのは事実だし、一歩まちがえればじぶんがそこに入っていたかもしれないが、だからといってたかがひとりやふたりがうごいたところでなにが変わるのか。いたずらに人生を棒にふるだけだ。まして日本人なぞのためにはたらく必要はない。
明学は、顎に指をあててむずかしい顔をしていたが、やがて、
「それが目的かもな」
ぽつりとつぶやいた。英徹にはなんのことかわからない。
「考えてもみろ英徹。いきなり敵が攻めてきて、軍隊も追い散らされて、いよいよ皆殺しにされるかもしれない、というときに、予想に反して敵に優しくされたら、きみはどう思う?」
「どうって……」
「しかもだ。ここを占領した初日に、われわれは自衛隊に扮した部隊に、市民のまえで降伏の演技をさせた。市民は、自衛隊が敗北し、完全にわれわれの軍門にくだったと考えている。じぶんたちの生殺与奪の権限はわれわれがにぎっていると、やつらも理解しているだろう。やつらにとってそんな絶望的な状況で、敵から厚遇されたら?」
明学の問いに、英徹はやはり答えが見いだせない。いったいなにがいいたいのだろう。
「朱副司令官は、鬼だ……」
明学だけが、なにかを過敏におそれている。
「敵対的に接するぶん、日本人にとっては朴司令官のほうがやりやすい相手だろう。朱副司令官は、狡猾にすぎる。まるでやけどだ。煮えたぎるやかんは熱いからすぐ手をひっこめられるが、低温やけどは痛みを感じないからそのままにしてしまい、やけどが深部まで到達し、取り返しがつかなくなるのににている」
明学は唐突に英徹の肩をつかみ、ゆすった。
「たのむ、英徹。電子戦機の操縦士であるきみだけがたよりなんだ。きみに反対されたら、おれは亡命などできない。超音速の機体に搭乗するいましか機会はないんだ。きみは告発の場にたたなくてもいい。内部事情をしるわれわれを、日本も鄭重に保護するだろう。身の安全は保障される。きみは、人を人とも思わない国に一生をささげる気か?」
悲痛なさけびだった。腹臓からの慟哭に、さすがの英徹の心も亡命へとゆれうごいた。
明学から聞かされた強制収容所の実態。むねのうちにしまいこんでいたはずの、祖国への疑念。自由への羨望。そこで気づいた。
もしかしたら、じぶんは、壮大な試験を受けているのではないだろうか。明学は、じつは保衛員かなにかで、親族に自殺者のいる英徹が真の革命戦士にたるか否かを、こうして判定しているのでは……? そう考えると、妙にようすがおかしい明学の言動も説明がつく。ここで英徹が亡命の誘いにのると、親友は神経質な顔を嗜虐的な笑みに変えて、こういい放つのだ。宗派野郎の血統は、やはり糞以下だな。あとは明学がいっていたとおり、完全統制区域での長くて短い余生がまっているというわけだ。もうすこしでひっかかるところだった。
「わるい冗談だな、明学。その手にはのらないよ」
頬がひきつるのをむりやり不敵な笑みに変えてみせると、明学はおどろいたように目をみはり、それから気のぬけた顔になって、英徹の肩から手をはなした。
「そうか。乗ってくれないか」
まるで世界から見放されたようにうつろな声だった。胸が痛かったが、精神の強靭なることを試されているのだと思うと、痛みは潮のようにひいていった。
「ついでだから聞いてくれ。区域内では、警備隊員は叱責以外、政治犯と口をきいてはならないといっただろう」
ひとりごとめいた述懐だった。明学はおのれの内面と向きあっているかのようだった。演技だとしたら俳優顔負けである。
「政治犯に同情したり、慈悲心をいだくのも許されなかった。政治犯を人間だと思うな。それが絶対の法律だった」
外の飛行場では、Ми-26重輸送ヘリコプターが大直径の回転翼を高速回転させて離陸をはじめる。雷鳴のような轟音が、基地施設ごとふたりのいる部屋をゆらす。卓上の灰皿が小刻みに踊っている。防音仕様の二重窓という堰をきって、巨大ヘリコプターの騒音が、濁流となって押し寄せてきていた。
「だが、おれはその禁を犯した。政治犯の女と関係をもったんだ」
爆音の洪水のなかで、自在に身をおどらせる魚となったそのことばを、英徹の聴覚は翡翠のように寸分の狂いもなくひろいあげた。
つかまえた魚は、遅効性ながら、剣呑な毒をもっていた。
「おれが寧辺の管理所にいたころだ。おれはどうしてもほかの警備隊員のように政治犯を非人あつかいできず、できる範囲でなんとかたすけようとしていた。もちろん表立ってはそんなことできない。上層部にばれれば、おれ自身が政治犯になる。慎重の上にも慎重をかさねなければならなかった」
重輸送ヘリコプターの大音声が、徐々に遠ざかっていく。
「政治犯にゴミの処理をやらせるときに、ゴミの山にこっそり煙草や石鹸をもぐりこませておくんだ。ゴミはひとつひとつ分別しなければならない。するとかれらが、ゴミのなかから煙草なり石鹸なりをみつけられるというしかけだ。ほかにもあの手この手で、肉や魚、果物、靴やなにか、できるかぎりのものを分け与えた。政治犯たちもおれに心を開いてくれた。つらい力仕事を率先してやってくれたし、上等な剃刀をこしらえて贈ってくれたこともあった。憎むべき警備隊員である、おれにだ。おれはますますかれらを無碍にできなくなった」
騒音が去ると、外界から隔絶されたような静寂がみちて、そこに明学のことばだけが唯一の音となって響いた。
「そこの35号管理所に、梁秀卿という、おれよりふたつ歳上の政治犯がいた。きれいな女だった。最初は煤や垢で薄汚れていてわからなかったが、さっきいった石鹸で顔を洗うと、餅のように色が白かった。秀卿はいじらしいほどおれを慕ってくれた。気がつけば、人目のつかないところで密会するようになっていた。それからなんども逢瀬をかさねたよ。命がけでね」
明学が、つかの間、笑顔をみせる。
「秀卿も、事情をしるほかの政治犯たちも、けっしておれとの仲は口外しなかった。おかげで何ヵ月もつづいたよ。しだいにおれは、彼女をここから救いだそうと考えるようになった。区域から脱走して、共和国からも出て、中国でも南朝鮮でもいい、とにかく脱北して、どこかでふたりいっしょに暮らそう。夢想でおれの頭はいっぱいになった。秀卿に話すと、彼女は、おれにそんな危ないことはさせられない、じぶんはいまのままでじゅうぶん仕合わせだから、どうかやめてくれと切々と訴えてきた。おれのこころは、よけいに彼女をたすける方向にかたむいた。けれど、わが身ひとつならともかく、ふたりで脱走するうまい方法がなかなか見つからなかった。管理所は、高圧電流の鉄条網と、警備隊員や保衛員が二十四時間まもっているし、越えられたとしても、こんどは国境の警備がまっている。方法をさがしているあいだに、時間だけがすぎていった。そのうち配置がえで、秀卿に逢う機会も減った」
明学の顔から、表情とよべるものが急速に抜け落ちていく。
「ひさしぶりに35号管理所にいってみると、秀卿の姿がない。政治犯の班長に問いただすと、一週間まえ、いきなり中隊長と中隊政治指導員、それに軍犬手までもがやってきて、理由も語らないまま秀卿を逮捕していきました、と涙ながらに教えてくれた。おれはすぐに中隊長のもとへ飛んでいきたかったが、できなかった。笑ってくれ。班長ははっきりとはいわなかったが、彼女が逮捕されたのは、つまり、おれとの交誼がばれたからだとすぐに思いあたってね。こわかったんだ。免職され、生活除隊をくらうだけじゃすまない。いままで憐れんでいた政治犯に、おれがなるのか。いくさきは炭鉱か、大建設か……」
記憶をたどる明学の声がしずむ。
大建設といっても、なにかしら建物を建てるわけではない。生きて帰さぬ目的で政治犯を徴用するときの隠語であることくらい、英徹も知っている。核燃料精製施設のような危険な場所での作業や、生体実験など、使い捨てにするつもりで政治犯をかり出すことを、大建設にいく、というのだ。
「情けないだろう。彼女の身を案じるよりさきに、おれはほとんど本能的に、じぶんのことをかんがえていたんだ。一週間もまえに逮捕されていながら、いまだにおれになんの沙汰もなかった意味もしらずに」
明学は、うなだれたまま肩を震わせた。笑っているのか、泣いているのか、それとも笑い泣きなのか、英徹には判断しかねた。
「なんとか口実をつくって、好物の蛇酒をもって、その夜、中隊長の自宅へいったよ。ぐうぜん、中隊政治指導員に保衛課長もいっしょにいた。中隊長は土産に大喜びでね、ねらいどおり、夕食に同席するようさそってきた。その席で、さりげない世間話をよそおって、秀卿のことを聞いてみたんだ。酒のまわった三人は、なにも怪しまずに答えてくれたよ。秀卿の腹がおおきくなっていることに気づいた戒護員から報告をうけて、相手を聞きだすために逮捕したのだと。おれはそこではじめて、秀卿が妊娠していたことを知った。もちろん、おれの子だ」
「で……その女はどうなったんだ」
「中隊長がいうには、裸にして鞭でうっても、焼きごてをおしつけても、生爪をはいでも、まったく口を割らない。しょうがないんで大の字にしばって、火かき棒を陰部につっこんでかきまわして、腹のなかの子をむりやりひきずりだし、彼女の目の前で犬に食わせた。それでも相手の名をいわない。業を煮やした中隊長は……そういうわりにはげらげら笑いながら話していたが……銃剣で、陰部から腹、喉までを一直線に切り裂いて殺してしまった。あのときの三人の顔は、人間じゃなかった。人間の皮をかぶった鬼だった。その場で皆殺しにしたいほど憎んだが、それはおれも同罪なんだ。秀卿は最後までおれの名をださなかった。彼女が拷問に耐えているあいだ、おれはのんきに新天地での彼女との暮らしを想像していたんだ。おれもあの中隊長たちとおなじ側なんだ」
淡々と語られる事実に、英徹はことばをうしなった。
「夜が更けるのをまって、おれは秀卿の死体を捨てたという山に入った。死体はすぐに見つかったよ。秀卿は埋められることもなく、雑巾のように打ち捨てられていたんだ。腹が魚みたいに開かれて、肉も内臓も腐りかけてた。イノシシやオオカミに食い荒らされたあともあった。きれいだった顔もぐずぐずに崩れて、口と鼻のまわりには、かぞえきれないほどの蛆が湧いていた」
軍人として恥ずかしくない体格の明学が、やけに小さくみえた。
「なにも考えられなくなって、呆然と彼女をみていると、彼女が、腐った目を動かして、おれをみたんだ。声も聞こえた。わたしを思って泣いてくれますか。そう聞こえた……」
相棒が、苦悩をもらす。
「いまこの瞬間も、共和国の各地にある管理所では、秀卿みたいにしいたげられている人たちがおおぜいいるんだ。手を貸してくれないか、英徹」
きた、と思った。惰弱な恋愛話をからめて最後の検定をはかるつもりだ。なにしろ英徹は自殺者を縁者にもっている。これくらい入念に思想を試されてもふしぎではない。
「おれには……できない」
直線で見据えてくる明学の視線にたえられず、目をそらしながら答える。視界のはしで、芝居だとわかっていても気の毒なほど、明学が肩を落とした。
「きみがだめだというなら……しかたない。おれひとりでなんとかするよ。さっきの話は、わすれてくれ」
英徹は、明学のことばを、試験に合格したという意味にうけとった。解放感にこころが軽くなり、そらしていた視線を親友にもどす。
と、そのとき、むかいの長椅子に腰かけている明学の背後から、髪のながい、女の顔のようなものが、こちらを覗きこんでいるのに気づいた。乱れた前髪の間から覗く血走った目が、すさまじい形相で、英徹をにらみつけていた。
「どうした?」
腰を浮かせた英徹を、明学が怪訝そうな顔でみあげた。女の顔など、どこにもなかった。
「いや……なんでもない」
だが、こんどは蛍光灯がつくる明学の影までもが、消えてなくなっているのであった。
空咳をした英徹は、座りなおすこともなく、席をたった。電子戦機は出撃の準備に時間がかかる。明学も英徹にならう。
「亡命のことは、聞かなかったことにするよ」
なんとかそれだけ伝える。たとえ試験官だったとしても、明学が親友であることにちがいはない。
「ああ。ありがとう」
駐機場に出、多数の戦闘機や電子戦機がつくる列線へむかいながら、さびしそうな笑みとともに明学が返した。いつも見ている相棒の顔にもどっていた。
かがやくような青空のもと、Ту-22超音速爆撃機を改造した電子戦機のそばで、ともに電子妨害を担当する航法士と合流する。
ロシアで錐ともよばれていただけあって錐のように鋭い外形のТу-22には、電子戦機であることをあらわし、また魔術師隊の部隊章でもある、赤い稲妻を吐く竜が描画されている。
魔術師隊は、舊ソ連のアントノフАн(アーン)-12輸送機を中国が製造したY-8を電子戦機に改造した機体が二機と、英徹らの乗る電子戦機型Ту-22一機を装備している。滞空時間にすぐれるY-8電子戦機の二機は、すでに定時の哨戒任務で空の上にあった。
「トンムたちは、偉大で親愛なるわれらの指導者同志の革命戦士らしく勤務に奮励努力しなければならない。トンムたちは党の宝だ。トンムらの両親が指導者同志に忠誠をささげたように、トンムらにも服務を遺漏なくまっとうすることがもとめられている」
英徹ら飛行隊員を整列させ、小隊長の厳一天少佐が朗々と訓辞をぶつ。炎天下である。毎回おなじ内容なので、聞いているうちに日射で頭が熱をもって茫洋としてくる。小隊長が話しているあいだは直立不動でなければならない。珠のような汗が噴きでてもぬぐえず、背に鉄棒をいれたような傾注を強いられるのだった。
「ここ日本は、われわれにとって、まさに熾烈な階級的闘争の最前線だ。日本は、太古より、われわれの祖先にたいし、卑劣かつ邪悪な侵略をくりかえしてきた。ふるくは神功皇后が東海(トンへ。日本海)をわたり、李氏朝鮮の時代には豊臣秀吉が、平和で美しく誇り高い朝鮮の大地に戦火をもたらした。日清、日露戦争に端を発する日帝の大東亜共栄圏なる軍国主義による侵略行為は、トンムらも知ってのとおりだ。われわれは、二千年もの長きにわたりチョッパリに悩まされながらも、ただ平和だけをのぞんで隠忍自重してきた。しかし、いまや変革のときがきた。アメリカのアジア前線基地と化した日本は、より悪質に姿を変えた列強主義により、銃火ではなく、資本主義による経済攻撃をもって、わが国に間接的、長期的に打撃をあたえ、致命的な堕落と崩壊を招来せしめようとしている。その証拠が、トンムらの目の前にひろがっている、この光景だ。この国は豊かだ。この豊かさはすべて、わが国をはじめとしたアジア各国から日本が富を吸い上げた結果だ。こんな不平等がまかり通ってはならない。われわれは人道国家として、正義をなさねばならん。だれかが日本に天誅をあたえねばならん。その役目には、いにしえより不当な差別と殺戮をうけつづけ、臥薪嘗胆してきたわれわれこそが適任なのである。トンムらの双肩には、全アジアの未来がかかっているのだ」
電子戦機は精密機械のかたまりなので、出撃まえには時間をかけて入念に点検しておかなければならない。演説が長引いても、あらかじめきめられた出撃の時間がずれることはない。となると、点検の時間を省略するしかなくなる。英徹は、汗ばむこぶしをにぎってただ耐えるほかなかった。
「先日、自衛隊は、秋田空港、大館能代空港、三沢飛行場を拠点にしていたわが軍にたいし、なんら通告もなく攻撃をしかけた。これはあきらかな戦時国際条約違反であり、仁義もわきまえぬ豚のごとき蛮行である。さらには、断腸の思いでやむなく投降したわれらの同胞を、やつらは容赦なく皆殺しにした。これがチョッパリの本性なのだ。チョッパリが世界地図から消えないかぎり、われわれは永遠に悩まされつづけるということが、最悪のかたちで証明されたのだ。いいだろう。やつらがその気なら、われらもやつら宗派野郎どもを一人残らず狩りつくそうではないか。これ以上、われわれ同胞のあたら有為な命を散らせてはならない。トンムたち電子戦機は、敵と直接戦う機体ではないが、友軍をまもることのできる機体であることを鑑みれば、これほど有意義な任務もあるまい。そのための空中電子妨害ということを、ゆめゆめ忘れぬように。トンムらのさらなる自彊をのぞんでやまない」
以上、と挙手の敬礼をする。英徹は盡悴しながらも勤厳の仮面をかぶり、敬礼をかえした。
いそいで最終点検にとりかかる。整備兵らと機体の状態を打ち合せしているとき、英徹は、年若い航法士が、話していて、心ここにあらずというような、なんとなく精彩を欠いているように感じられた。
「全昌明特士、なにか心配事でもあるのか?」
全特務上士は、雷にでも打たれたみたいにからだを強ばらせたのち、
「いえ、なんでもありません」
はきはきと答えはしたものの、目の翳りは、いぜん残ったままである。
出撃の時刻がせまっている。やはり機体の点検を、一部省略せねばならない。ならばせめて、搭乗員の心身だけでも万全の状態で任務にのぞみたい。
「ほんとうになにもないのだな? 電子戦は、繊細な技術と、長時間の微調整に耐えられる集中力を要する職務だ。なにかにこころを煩わされたまま遂行できるほど、きさまの仕事は甘くないぞ」
きつく問いかけると、全特士は目をふせた。目にみえるほどの葛藤のすえ、航法士は、おずおずと顔をあげた。
「自衛隊が、反撃に出たという話についてです。自衛隊が本気で攻めてきた場合、われわれは勝てるのでしょうか」
宿舎で明学が話していたことでもあるが、客観的に考えて、正面火力で北朝鮮が日本に勝てるわけがない。くやしいが、穴居人が恐竜と戦うようなものだ。
だが、なにも日露戦争時に日本が無策でいどんだ旅順攻囲戦とおなじ轍をふむ必要はない。
「なればこそ、われわれ魔術師隊が電子妨害をかけるんだ。自衛隊機は、たしかに技術の粋をあつめてつくられた強敵だ。だが、いや、だからこそ、行動のほぼすべてを、レーダーに代表される電磁波に依存している。われわれの魔法がかかった空域にはいった瞬間、自衛隊機は自動的に無力化されるだろう」
英徹は、自身もどこかでかかえている不安を糊塗するかのように、若い特務上士に力説した。
「まして航空自衛隊は、連日の我が方の攻撃により、ただでさえ稼働機を消耗させている。かりにきょう攻めてくるとしても、数などたかがしれている。おれの見立てでは、稼働可能な機体は、一個中隊ぶんもない。そんな寡兵で、電子妨害がかけられている場所に、だれが突っ込んでくる? くるとしたら、よほどの馬鹿だ。捕足すると、妨害電波の発信源であるわれわれの機体周辺は、それだけ電子妨害の強度もたかい。つまりわれわれがいちばん安全なのだ。安心しろ」
航法士の童顔から暗雲が取り払われ、輝きを取りもどしていく。
「こちらは戦略単位で作戦を展開している。もはや日本に勝ち目などない。ないが、問題は市民だ」
かたわらの明学がつけくわえた。
「市民は自衛隊が降服していると思っている。だからわれわれの支配にも従順に応じている。だが、もしとびっきりの馬鹿が自衛隊にいたとして、ここへ強襲をかけた場合、自衛隊機をみた市民が、こちらのうそに気づいてしまう可能性がある。それが引き金で市民たちが結束をかためたときがやっかいだ」
英徹が全特士を見据え、結論をくだす。
「だから、われわれは、自衛隊機をぜったいによせつけず、市民にその影すらも見せずにおかなければならない。さこそ魔術師隊の任務だ。わかるな?」
得心した全特士が、元気よく「わかりました!」と返答した。
あわただしく準備をととのえ、各種の確認もそこそこに、Ту-22の前部胴体、ちょうどコクピットの真下に位置するところからみっつ吊りさがっている昇降式の座席にそれぞれすわり、ハーネスをしめる。座り心地はよくないので、三人とも自前の座布団を用意してきている。
航法士、兼、電子妨害担当の全特士は、いちばん前の席。操縦士たる英徹は真ん中。通信士と通信妨害担当をかねる明学は最後尾の席に、うしろ向きに乗り込む。
おのおのがスイッチを押すと、昇降式座席が機内にひきあげられ、コクピットへと収納された。
車輪どめをはずした整備兵らが、機体から離れる。
英徹らの電子戦機、呼び出し符丁、魔術師四〇四号は、なんとか時間どおりに発進することができた。
魔術師四〇四号の離陸をもって、魔術師隊は、すべての機体が出撃していることになる。
濃密をきわめた電子妨害は、磐石の結界となって、友軍の安全確保に寄与するであろう。まして、魔術師隊のほかの二機とちがい、音速を突破できるこのТу-22ПДは撃墜など不可能だ。
なにも心配することはない。
やや左舷よりの操縦席から一面の青天井をのぞみながら、英徹はあたえられた職責を消化するべく、操縦桿をぐっとひいた。