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三   西から昇る太陽

 蛍光灯が冷え冷えと照らす更衣室で普段着のワイシャツを素肌に羽織り、音を立ててロッカーを閉めたアラン・エイブラムスは、肩で風を切るようにして室を飛び出した。すれ違う看護士や医師、用もないのに点滴台といっしょに院内を散歩している患者をよけながら、引っかけたワイシャツのボタンを閉めていき、大股で廊下を抜ける。エレベーターのボタンを押す。無意味とわかっていても、ボタンを二度、三度と叩く。その所作には、隠そうともしていない苛立ちがあらわれている。三六時間起きっぱなしで、次から次へと飽きることもなく搬送されてくる怪我人の手術をさせられていれば、こうもなろう。スケボーをしていてクールなところを見せようと手摺にグラインドし、みごとに頭から落ちて額を割るもの、チンピラどうしの抗争で金属バットで殴ってお返しに腹に三八口径をもらうものなど、ニューヨークはとかく負傷して病院にやっかいになる理由にことかかない。昼はイエローキャブにピストバイクのメッセンジャーが轢かれ、夜はチンピラもどきどうしの喧嘩の怪我人というパターンが多い。


 いっそのことピータービルトのエイティーン・トレーラーにでも下敷きにされてぺしゃんこになっていれば、一目みて「死亡」と判定して、それで仕事が早々に片付く。だが、銃弾が頭蓋骨と脳のあいだに挟まるようにして止まって、しかも患者は奇跡的に生きているなどというケースのほうがかえってややこしい。任されれば、全力を傾注して、手術を成功させなければならない。失敗に終われば、査定に響くどころか、おまえがへたくそなせいで息子は死んだ、殺人罪で告訴するなどと口角に泡を飛ばして抗議しにくる遺族もいる。


「あなたは二四時間、連続勤務して、仮眠すらとる間もなく手術して、書類をこなして、より効率的かつ経済的な医療のため、学会で発表された新しい治療法や医療技術の論文を勉強して、さらにそのあとに精密機械より複雑で精巧な人体を手術して、それで百パーセント成功などさせられるとおもいますか」


 そう言えれば、アランもすこしは楽になれるだろう。だが遺族は十中八九、そんなのはこっちの知ったことじゃない、それはおまえらの病院の問題だと正論をもって反論されるのが目に見えている。


 だが、増加の一途をたどる人口に対し、医師や看護士の数が圧倒的にたりない。すでに勤務時間が超過して、帰宅しようとしても、患者は休むことなく担ぎ込まれる。ほかの医師たちも手がいっぱいで、その手が空くまで治療はおろか診察もされないままベッドに寝かされ放置される。救うことができるのはアランしかいない……。


 アランは外科的手術において広範な知識をもち、なまじ腕が立った。そのぶん、医師として要求される責任も増大するようだった。そしてその患者を手術して、帰ろうとすると、また新たな患者が来る。


 いつも、この繰り返しだ。きょうだってそうだったのだ。いらいらするのは責められることではなかった。


 だが、きょうはそれにくわえて、重要な用事があった。正確にはきょうではない。ゆうべの七時だ。アランは携帯電話を見た。ディスプレイの時計は、あと五分で夜明けの四時になることをアランに教えた。アランはジーンズのポケットに携帯をねじこんだ。


 ことしも、行ってやれなかった……。


 きのうは、アランと妻のジェシカの、六回めの結婚記念日だった。こんな仕事をしているから、ジェシカとどこかのんびりとバカンスに行くということはできない。院長からたとえオフの日でもニューヨークを離れるなと厳命されているからだ。事実、ふたりで旅行などしたことがない。結婚式の日だって、ハネムーンには行かず、挙式のあとすぐに職場に直行だったくらいだ。だからせめて彼女の誕生日と結婚記念日くらいはと時間を取ろうとするのだが、この六年間、いずれも成功したためしがない。結婚する前からこの仕事をしているのだし、彼女もそれは知っているから了承してくれているはずなのだが、すまないと思う気持ちがないわけがない。


 なんとか埋め合わせはしなくては。そう思って、アランはことしの結婚記念日のために、予約をとるのに一ヶ月はかかる、ニューヨークでも指折りの高級レストランでのディナーを約束したのだ。アランのほうからジェシカを誘うのははじめてだった。ジェシカも最初は、「ほんとうに?」と半信半疑だったが、アランが「すでに予約はとった。いやだといってももう引き返せんぞ」とにやりと笑いながら言うと、ジェシカはオリーヴグリーンの瞳に涙をためてアランの首に抱きついた。ジェシカのぬくもりを腕に感じながら、アランは、ふたりが出逢ったあのころのようだ、と思った。ふたりは世界に祝福され、邪魔するものなどなにひとつない、いたとしてもふたりならきっと乗り越えていける。根拠もなくそう信じていられたあのころは、幸せだった。と、アランは感慨を覚えながらも、苦笑したい気持ちが自分にあることも発見していた。以前は毎日が幸せに満ちていたが、その幸福感が、ずいぶんひさしぶりなものに感じたのだ。うすうす気づいていながら、意識して気づかぬふりをしていたが、やはりふたりのあいだは、いつのまにか距離が離れ、ぎくしゃくしはじめていたのだろうなと、アランはしみじみ感じた。


 そのディナーの約束の時間は、むなしくもはるかむかしに過ぎてしまっていたのだった。


 こうなることはわかっていた。すくなくとも予想されてしかるべきだった。結婚記念日だから患者の数が少なくなって、いつもより早く帰れるなんてことがあるわけがなかった。けっきょく、いつものように次次運び込まれる患者の嵐に翻弄されるまま翻弄され、ふたりで迎えるはずだった夜明けを職場で迎えてしまった。


 泣きたかった。おもいきり泣いて、ジャック・ダニエルズのびんを一気にあおりでもしないと、ストレスに身も心も虫食い穴だらけにされてしまいそうだった。でも、いまいちばん泣きたいのは、ジェシカのほうに決まってる……アランは自分にそう言い聞かせて、しんぼう強くエレベーターを待ち続けた。こんなときにかぎって、エレベーターはなかなか来なかった。一階に下りて、アランの待つ五階に上がってきたと思ったら、そのまま素通りして最上階まで行ってしまった。そこから、各階に停止しながらのそのそ下りてきている。アランはため息をついた。


 自分は、医者として、もてる力を尽くして、多くの患者を助けてきた。そのことには自信があるし、実績については病院がわに信用も置かれている。だが……見ず知らずの他人ばかりを救ってきたそのいっぽうで、たったひとりの愛する妻を幸せにすることはできただろうか? 手前味噌ながら金のことにかんしては不自由させたことはないが、金の問題ではないということは重重、理解していた。アランは両手で顔をおさえ、天井を仰いだ。


「エイブラムス先生。いまお帰りですか?」


 朗らかななかにもしっとりとした落ち着いた声をかけられて、アランは首を回して振り向いた。空いろの手術着をまとった、若い魅力的な女性が微笑んでいた。


「やあ、グレース。やっと解放されてね」


 アランは心身の疲労を隠して笑顔を返した。同じ職場で働く可憐な女性に、弱っているみじめな自分を見せなくないという自尊心のかけらがそうさせた。


「おつかれさま。はい、これ」


 グレースは両手にもっていたスターバックスのボトルのひとつをアランに差し出した。


「いいのかい?」


「先生にあげようと買ってきたんですから。これからすぐお休みになられるなら、カフェインはNGでしたか?」


「とんでもない。いただくよ。ありがとう」


 アランは飲みごろの温度に温められた乳褐色の霊薬をあおった。心地よく口内に広がる苦味のなかに、ほんのりと香ばしい、優しげな甘味を見つけることができた。


「キャラメルラテか。ぼくがいちばん好きなメニューがよくわかったね」


 グレースは、みずみずしい唇から真珠いろの歯を覗かせながら笑顔を咲かせた。


「たまたまですよ。でも、喜んでいただけたのなら嬉しいです」


 アランは、ふと自身を戒める緊張が解けて、せき止めていた涙がこぼれおちそうになった。必死で覆い隠そうとしたが、表情に険しさがあらわれた。


「なにかあったんですか」


 グレースが大きな瞳に不安のいろを浮かべて、アランの顔を覗き込んでいた。金糸を編んだような豊かなブロンドが輝き、ドレスデンの陶器のような白い肌がアランの眼底に焼きついた。


「いいや」アランはキャラメルラテを乱暴に喉に流し込んだ。カフェインと糖分が肉体の疲れを癒し、グレースの心遣いが精神の疲弊を解きほぐしてくれるようだった。「疲れてるだけだよ」


「……先生、ただでさえむりをなさってるんですから、自分をいたわってください。わたしでよければ、力になりますから」


 そう言われて、アランは、真正面からグレースの顔を見ることができなかった。いま彼女の美貌を見たら、おれは……。


「ありがとう」


 それだけ口にするのでせいいっぱいだった。


 やがてエレベーターが扉を開き、アランを招いた。ひとり乗り込んだアランは、こちらを見送るグレースにボトルを軽く掲げて別れの挨拶とした。


 閉じゆく扉のむこうで、長い睫毛をしばたたかせて、どこか悲しそうな影を秘めた笑顔をしたグレースが、小さく手を振っているのが見えた。


 ひとりになり、下降しはじめたエレベーターのなかで、アランは扉に額を打ちつけた。


 エレベーターを出て、広い待合室を抜けるとき、テレビの音声が聞こえた。チャンネルは深夜から早朝までニュースを流しつづけている番組に合わさっていた。黒人のニュースキャスターが、耳に入りやすい低音の声で、いるかなきかもわからない視聴者に語りかけていた。


「原子力空母と原子力潜水艦沈没にかんするニュースです。昨夜十時に開かれた会見で、ワインバーガー報道官は、沈没地点の海域周辺から、国際的に定められた環境基準値を大きく上回る放射性物質が検出されたと発表しました。沈没した原子力空母か原子力潜水艦のどちらか、あるいは両方の原子炉が破損し、核燃料が海に漏れ出した可能性が高いとみられ、現在対策を検討中とのことです。これをうけて、IAEA、国際原子力機関が近く、調査団を派遣する意向を示し、……」


 正面玄関を出ると、空は深い瑠璃いろに染まり始めていた。すこし歩いてからイエローキャブを捕まえ、アランは運転手に自宅の番地を伝えた。ジェシカの待っているはずの自宅へ、タクシーは走りだした。


 車に揺られているあいだ、早く帰ってジェシカに謝りたいという気持ちと、このまま永久に目的地に着かずに乗っていたいという気持ちがないまぜになって、アランの胸中は複雑だった。


 アランのアパートメントは、タワーのような高層ビルの五一階にある。明けきらない濃紺に輝く空を背景にした高層アパートは、眼精疲労のアランには、尖塔が絶望いろに塗りつぶされているように見える。


 エレベーターに乗っているあいだも、アランはとうにからになったボトルを弄びながら、ジェシカに対する謝罪と言い訳ばかりを考えていた。


 ドアが開き、玄関まで歩く。そこで、グレースにもらったボトルを持ったままなのはまずい気がして、どこか目立たないところにとりあえず置いておこうと、非常階段の入り口で待たせた。後でこっそり回収してちゃんと廃棄すれば問題ないだろう。


 鍵を開けて入る。この時間だから、ジェシカはきっと寝ているだろう。起こしてしまわないように、足を忍ばせる。家のなかは、死んだようにしんとしている。


 こっそりと、ふたりの寝室を覗く。


 ベッドには、ジェシカの姿がなかった。


 リビングで寝てしまったのか? リビングへ足をむけると、そこにあったのは液晶テレビやカウチにガラスのテーブルといった家具類だけ。人の体温はなかった。


 アランは家じゅうを探し回った。だが、ふたりの住居に、ジェシカの影はなかった。




 同刻。サマータイム期間中のニューヨークと日本の時差は一三時間である。とすれば、ここ、日本の現在時刻は午後五時を回ったか、回らないかのあたりだろう。


 赤みを差しはじめた大空を舞台に、天使たちが戯れている。天使たちは、無限に広がるかに思える青と赤光のまじった天空を、縦横無尽に飛びまわり、眼下に雲海を臨んで壮麗な舞踏を刻む。


 高度二万フィートを超える高空で、音速に迫る速度で雄飛するその天使たちは、鋼鉄のからだをもっていた。


「ポリプテルス1、左ロール」


「ポリプテルス2、高度修正、二万三〇〇〇」


 天を駈ける天使が交信しあう。後方に爆音を残しながら、大空を自在に飛翔する。あかるいグレイの鉄の翼に真紅の円、日の丸が聖火のごとく燃えている。


 さこそ、日本の航空自衛隊が保有する主力要撃戦闘機、F-15Jイーグルだ。世界でも最強クラスの性能をほこるF-15を、日本仕様に改修し、オリジナルよりも高い品質のものとなった、対領空侵犯措置をになう日本の空の守護者である。


 四機編成で同高度、等速でF-15Jイーグルが飛行している。ついで、リーダー機<ポリプテルス1>の「ナウ」のひとことで、四機が同時に右へ機体を倒し、見えない糸で繋がれているかのように揃って旋回行動をとる。速力はおよそ時速六〇〇キロ。一瞬、気をゆるめただけで、二〇〇メートル、三〇〇メートルと過ぎさっていく高速の世界で、一糸乱れぬ編隊行動を遂行するには、容易ならざる技術、体力、そして精神力が求められる。ましてかれら、第7航空団第307飛行隊、通称ポリプテルスの四機がいま戦っているのは最強の敵である。


「ポリプテルス2、チェックシックス(後方確認)をおこたるな」


「了解」


「ポリプテルス3、4。速力四三〇(単位はノット。時速約八〇〇キロ)まで増速。よーそろー(よろしく候、の略。そのまま直進の意)。おれたちがさらにケツをとる」


「ポリプテルス3、了解」


「ポリプテルス4、了解」


「ポリプテルス2、ケツとりにいくぞ」


 ポリプテルス1に指示されたポリプテルス2が勢い込んで「了解」と返す。ポリプ隊一番機と二番機が事前に申し合わせていたように反転し、編隊を追い回している『敵』へ反撃にむかう。

 赤と橙とすみれが青のなかにまじりはじめた空のうえで、ポリプ隊の後方四〇キロメートルあたりについてきている機影があった。こちらも四機編成で、機体は花田いろにちかいブルーグレイと薄いスカイブルー、アッシュグレイに彩られている。海洋迷彩仕様に塗装されたその戦闘機は、二枚ある垂直尾翼に白いコブラのエンブレムをペイントしている。一瞥しただけだと、ロシアの高性能主力戦闘機、Su-27フランカー系の機体に見える。すわロシアの戦闘機が領空侵犯をして、あまつさえ空自のイーグルに戦いを挑んでいるのだろうか。しかし仔細に観察すれば、塗装こそフランカーに似ているが、機種そのものはポリプテルスとおなじ、F-15Jイーグルだということが見てとれるだろう。


 青いF-15J四機が、執拗にポリプテルス隊のF-15J四機を追い立てる。ポリプテルス隊が反転攻勢に打ってでる。


 原子雲のように途方もなくわきたつ入道雲を遠望し、ポリプテルス1とポリプテルス2が飛行機雲を曳いて急旋回。腹にオレンジいろの陽光をまぶしく反射させ、機体を左に転回させる。


 キャノピー越しに、敵機の位置を確認する。二機がこちらの航路をそのままなぞるようについてきている。そうすればつねに後方に占位できるからだ。まるで空中の見えざる道を可視化しているかのような正確な操縦だ。それだけでも、青いF-15J部隊の実力が常凡のものにあらずということがわかった。


 さらに鋭く旋回する。だが青いイーグルは、いったん急上昇し、反転して速度を落としてふたたび後方についてきた。上昇反転でわざと減速し、こちらを追い越してしまうことを防ぎながら、なおも後方占位を続けられる。ハイスピード・ヨーヨーとよばれるテクニックだ。


 理論どおりの動きを実際に空の上でやってのける。やはり、ひとすじ縄ではいかない。だが、ポリプテルスのリーダーもいたずらに尻を拝ませていたわけではない。


「ポリプ3、ポリプ4、ナウ!」


 ポリプテルス1の指示で、ポリプテルス三番機と四番機がなだれこんできて、リーダーを追う青いイーグルの後方についた。別行動をとったのは、陽動に見せかけたさらなる陽動だった。だが、そのポリプテルス3とポリプテルス4の後方にも、海洋迷彩のF-15J部隊の残り二機がぴったりついてきている。


 そして、そのさらにうしろに、ポリプテルス2が現れた。ほんとうに、いちど消えて敵機後方に再出現したというような占位のしかただった。


 八機の空の支配者たちは、からみあうように舞い踊り、ダンスを競いあった。やがて、


「予定時刻。本日はこれまで。管制の指示にしたがい、各機着陸態勢をとれ」

 と、ポリプテルス隊のだれでもない声が無線から響いた。



 上空からは、百里基地の特徴的な「くの字」型の誘導路の全容がよく見える。八機はその珍妙な形状の誘導路を眺めながら待機し、一機ずつ、巣に帰る鳥のように着陸していった。


 青いF-15J部隊四機と、ポリプテルス隊のF-15J四機が降り立ち、開放されたキャノピーから、整備士たちの手を借りながら、パイロットが下りる。顔いろに疲労は色濃いが、みな、それを上回る充実さと精悍さがある。


 最後に着陸した機体から下りたのは、第307飛行隊フライト・リーダー、ポリプテルス隊一番機パイロット。浅間一成一等空尉である。高い上背を飛行服に包み、軍靴がエプロンに重厚な蛩音を響かせる。その端整な顔には、生死を超越した剽悍な戦士の表情がでている。


「相棒、きょうは一矢報いてやったな」


 浅間が気付長に機の状態などを報告して基地へ帰ろうとすると、同隊の二番機、ポリプテルス2のパイロットの金本謙省2等空尉に声をかけられた。剃刀のように細く鋭い目をした偉丈夫である。


 僚機パイロットの姿を認めた浅間は、熾火のような静かな闘志に燃えていた表情をいっぺんに崩して、快活に笑って返した。


「おれが誘って、うまいことおまえに尻かみつかせたまではよかったんだがな。しかし最後は見事にケツをとられたからな。やっぱり飛行教導隊はちがうな」


 そしていたずらっぽく肘で相棒をつつき、


「相手が美少女だったら死んでも尻から離れなかっただろう、おまえ」


「そりゃもう、むしゃぶりついてうしろから追突することも辞さないよ。おれのM61バルカン砲をくらえっ! てな感じで」


「早すぎるだろ」


 ふたりが吹き出し笑いをし、整備員たちが不審そうに振り返って、ちらりちらりと見る。空自パイロットのなかでも、世界屈指の主力戦闘機F-15Jを駆るパイロットは、イーグル・ドライバーと尊敬の念をもってよばれている。ふたりのその名誉ある称号らしからぬ奇僑なふるまいは、きのうきょうにはじまったことではない。整備員たちも含み笑いしながら仕事にとりかかった。


「でもなあ、あんなおっさんの尻を眺めながら大空を飛んでもな。こっちはおまえ、おっさんらのジェット噴射浴びながら追っかけてたんだぜ」


「じゃあもうこれしかねーな」


 浅間が両手を合わせて人差し指だけを立てて、何度も突くしぐさをした。金本は身をのけ反らせて大笑した。


 ふたりして笑っているところへ、突然、雷が落ちたようなどなり声が響きわたった。不可視の圧力がかかったかのように首をすくめたふたりは、おそるおそるそちらへむいた。


 飛行服をまとい、浅間と金本より一回りは年齢を重ねたパイロットが四人、傾きはじめた太陽を背に立っていた。体格はふたりとそう変わらないが、内面からにじみ出る迫力のようなものがある。その気迫で、ふたりよりもだいぶ背が高く筋肉の総量も多いようにさえ思える。


 浅間と金本は、すぐさま姿勢を正し、踵を合わせ、敬礼した。


 男たちが、威風をなびかせながら近づいてくる。


 かれらこそ、さきほど浅間らポリプテルス隊を追いこんでいた、ブルー系迷彩のF-15J部隊のパイロットたち、宮崎の新田原基地を本拠地とする飛行教導隊である。


 飛行教導隊は、演習時に仮想敵になりきり、実戦さながらに戦うことで部隊の練度上昇をはかる専門の飛行隊である。この部隊は、飛行パターンや戦法などにいたるまで、敵をそのまま演じる。むろん、塗装も敵機に見えるように変えられている。


 アグレッサーと通称される敵機役を演ずるかれらは、教えるがわなのだから、その技量は空自パイロットのなかでも群を抜いて高い。そのうえ、自国機のみならず対象国(いわゆる仮想敵国)機の編成や空戦方法などを熟知し、訓練でそれを見せて、練習させてやらなければならない。問答無用のエキスパート集団で、挑んでくる“雛鳥”たちをことごとく撃墜する。まさに日本のトップガンである。


 そのエリート中のエリート、最強の戦闘機乗りに睨みつけられて、わかいふたりは萎縮した。アグレッサー部隊のひとり、長良二等空佐が大喝した。


「まだ訓練は終わっていない。ブリーフィングルームに戻れ」


 ふたりはいきおいよく、「了解」と叫ぶように返事をして、踵を返して駆け足した。だがすぐに浅間が「家に帰るまでが遠足だってよ」と小声でいい、金本は「おまえさっき了解って言ったとき声うわずってなかったか」とささやいて、お互いの笑いを誘った。


 ふたりの背を見送りながら、アグレッサー部隊の面々は溜め息をついた。


「態度さえ改まれば、空自きってのイーグル・ドライバーなんですがね」


 長良二等空佐の嘆息に、飛行教導隊フライト・リーダーも渋い顔をしてうなずいた。



 百里基地は、百里空港と併設した自衛隊基地で、離島をのぞけば、関東地方で戦闘機を運用している唯一の基地である。首都圏の防空の要といえ、ここを任地とする戦闘機パイロットは、その責任たるや重大である。百里基地にて空を護る飛行群は、<蒼穹の亡者>と名高いF-4EJ改ファントムで編成された第303飛行隊と、浅間や金本が所属するF-15Jと複座型のF-15DJ部隊の第307飛行隊、そして練習機のT-4部隊を擁する、第7航空団。それと、ファントムを偵察機に改造した、RF-4Eを有する偵察航空隊だ。百里の偵察航空隊は、航空自衛隊唯一の偵察飛行部隊でもある。


 かれら航空自衛隊の戦闘機パイロットは日夜、敵戦闘機との実戦を想定した、きびしい飛行訓練をかさねている。それに加え、任務や演習に参加するためなどの資格取得の勉強もしなければならない。さらにそのうえ、仮想敵国の航空部隊が得意とする編隊や戦術の特徴などを念頭にいれ、それに対しもっとも有効で、かつ隙を生まない飛行を研究する……というのは、いささかむりがある。そこで、それらの空戦研究をアグレッサーが一手に引き受け、全国を転々としながら、各基地の飛行隊に身をもって教え込んでいるのである。空から戻ったあとは、訓練に参加したもの全員で、訓練結果の報告、課題点の発見と、より効果的なフォーメーションを模索するためのデブリーフィング(帰還報告)がある。デブリーフィングは、時に深夜の十一時におよぶときもある。


「なにやってんですか。もう始まりますよ」


 浅間と金本がブリーフィングルームにむかう道すがら、途中でふたりの同僚パイロットが待っていてくれた。


 文句を垂れたのは、ポリプテルス隊三番機、ポリプテルス3のパイロット、早蕨二等空尉だ。あどけなさの抜けない幼い顔立ちをしていて、ほとんど少年のような外見である。だが、現実にイーグル・ドライバーとして配属されている以上、その実力と使命感は本物だ。


「どうせ、またふたりで遊んで怒られてたんでしょ」


 そういって壁にもたれかけて腕を組んでいるのは、第7航空団の紅一点、ポリプテルス隊四番機パイロットの占守明日香しゅむしゅ・あすか二等空尉だ。背がすらりと高く、隠しても隠しきれない、まぶしいほどに洗練された肢体を飛行服に押し込めている。長身だが小さな顔に、強い意志の光を宿した大きな目とそれを華やかに飾る長い睫毛と凛々しい柳眉、通った鼻梁、完熟した桜桃さくらんぼのような口唇が絶妙な調和を見せていた。その愛らしくも美しい容姿とは裏腹に、航空団内の腕相撲では男どもと一、二を争う猛者である。


 この四人が、第307飛行隊の一翼をになうポリプテルス隊を構成するF-15Jパイロットだ。


 第307飛行隊には、ほかにも四人編成の小隊(厳密には空自には中隊や小隊というのはないが、便宜上こう呼ぶ)が三つあり、この一六人を、飛行隊を率いる飛行隊長と飛行班長が統括している。計一八人の精鋭たちである。


 アグレッサー部隊のイーグル・ドライバーも含めて、訓練後のデブリーフィングにのぞむ。


 早蕨と占守はともかく、浅間と金本も、真剣そのものの表情で、きょうの訓練過程を、模型を使って再現し、なぜその機動をしたか、そのときどうすれば最善だったかを模索しあっている。そこには、先刻、飛行教導隊に大目玉をくらっていたような稚気などは微塵も感じられない。ふたりとも、ともすると機上にいるかのように集中した顔になっており、別人のようになっている。浅間は見えない敵に対ししずかに、だが赤々と熱を発する炭火のような目をし、金本は一重の細い目をさらに細めて、自機の模型を操る。浅間と金本がイーグル・ドライバーになれたのは、天性の勘と適性があった、いわゆる天才だったからということも無視できないが、なによりも戦闘機に乗ることに対する飽くなき情熱と向上心が、ほかのだれよりも強靭であったからにほかなるまい。いかに天賦の才をもっていても、情熱の肥料がなければ花開くことはない。傑出した能力をもつと自他ともに認めるアグレッサーのメンバーも、かれらのきわめて高い集中力と探究心、空戦技術に対する真摯さに、表情には出さないまでも、見上げたものを感じているようだった。


「ポリプテルス隊の四機編成時の鋭い連携には、おどろいた。われわれも本気を出さざるをえなかった」


 デブリーフィングの最後、アグレッサーのリーダーがそういった。


「きょう学んだことを忘れることなく、今後も技能向上に邁進していってほしい。以上」


「気をつけ。敬礼!」


 最敬礼するポリプテルス隊を残し、飛行教導隊がブリーフィングルームを辞していった。


 ドアが閉められた直後、金本がこらえきれずに吹き出しながら、


「おまえいいかげんにしろよ」


 と浅間を軽く蹴った。浅間は、すでに顔を取り替えたかのように、にやにやとしている。


「どうしたんですか」


 占守が呆れながら訊く。金本が笑いの発作でどもりながら浅間を指差し、


「こいつ、教官たちが訓示いってるときに、横でぶつぶつ『おれのもみ上げ見てくれ。垂直だろう?』とか言いやがるんだよ。で、おれも小声で『垂直ってどこと?』て訊いたんだよ。そしたらこいつ、『え? 床と』って言って」


 そこでことばが途切れた。わらいすぎて、金本の細い目からは涙がでている。占守のうしろで早蕨がもらい笑いを伝染して発症しはじめている。発作をおさえた金本が説明を再開する。


「で、最後、最敬礼したろ? そんときにこいつ『あ、いま平行になった』って」


 金本がこめかみに青筋をたてるほど笑い、もういちど浅間を蹴る。飛行教導隊が話をしているあいだ、浅間はずっとそうやって金本を笑わせようとしていたらしい。早蕨が笑うのを、占守がうしろも見ずに肘鉄を鳩尾に突き刺して黙らせ、逆の手で頭をかかえた。上の連中がもてあますのも、よくわかる。実力はぬきんでているが、このふたりはかなりのお調子者なのだ。しかも大のいたずら好きときている。素行が空の上にいるときと同じくらいまじめなら、人間としていうことはないのだが……



 デブリーフィングが終わり、浅間・金本のペアが入浴に向かっていると、ちょうど上がってきた男たちとすれ違った。お互いに、「お疲れさまです」と会釈する。


 かれらは、F-2Aを駆る第7飛行隊の隊員たちだ。F-2Aは、浅間たちが乗るF-15Jより小型で、エンジンも一発だが、優秀な機体制御システムによる軽快な運動性をもち、一説にはF-15より機動力が高いとさえいわれている。日米共同で開発され、日本の技術がつぎ込まれた新型支援戦闘機だ。


 F-2Aを運用する飛行隊は全国でも青森の三沢と宮城の松島、そして第7飛行隊の三つしかなく、しかもかれら第7飛行隊の所属は福岡の築城基地である。かれらは制空戦闘機F-15Jと支援戦闘機F-2Aとの合同演習のため、はるばる九州からこの百里基地に戦闘機ごと出張してきているのだった。つまり、いまこの百里には、基地所属の第7航空団と、空自最強をほこる飛行教導隊、そして希少なF-2A部隊たる第7飛行隊が集結しているというわけなのだった。


「聞きました?」


 F-2乗りのひとりが話しかけてくる。


「なにを?」


「空母の話ですよ、ニュースでやってた」


 そう言われても、浅間にも金本にもさっぱりわからない。なにしろきょうはずっと訓練で、一回一、二時間のフライトを四回こなしたのだ。のんびりニュースを見ている暇なんてない。顔を見合わせていると、べつのF-2乗りが首を突っ込んだ。


「いやね、アメリカの空母が沈んだらしいですよ。USS<ハリー・S・トルーマン>が。撃沈された可能性もあるってテレビじゃいってましたけど」


 金本の剃刀の目が鋭く光り、浅間も表情を硬くした。あの不沈艦隊の旗艦が沈んだ? そんなばかな。


「だから、テレビ見てもつまらんのですよ。それ関連のニュースばっかりで」


 いって、第7飛行隊の湯上がり部隊はめいめいの部屋へ帰っていった。


 一回の訓練で、パイロットは一リットル以上の汗をかくという。飛行訓練の過酷さを物語る現象である。疲れを湯に溶かすようにして癒し、浅間は自室へ帰った。携帯電話の待ち受け画面にしている写真を、無言で眺める。写真には、目鼻立ちの整った、浅間と同じくらいの歳の女と、小学生年中くらいのかわいらしい少女が、こちらにむかって笑顔の花を咲かせている。画面をはみだしてあかるい光がこぼれているような、かがやかしい一枚だ。


「まだ起きてたのか」


 金本が部屋に入ってきていた。この男は、ノックをするのとほとんど同時にドアを開けるという、人智をこえたメンタリティをもっている。だが浅間は、とくに抗議しなかった。浅間もノックしながらドアを開ける男だからだ。


 浅間が軽く手を上げて返答とした。金本が携帯電話を覗きこむ。


「奥さんと、娘さんか」


 浅間がうなずく。


「こっちが家内の璋子。怒るとおっ『かない』です」


 ふたりしてしずかに笑う。浅間が少女のほうを指でしめす。


「で、こっちが娘の香寿奈。ことしで中学生になった」


「そろそろ、パパのパンツとわたしの洗濯物をいっしょに洗濯しないでよ! っていいだす時期だな」


「こないだ赤飯炊いたらしいけどな」


 金本は間をおき、語りかける。


「転勤ついでに連れてくればよかったのに」


 浅間は首をふる。


「こんな根なし草みたいな生活に付き合わすことできねーよ。全国津々浦々を転勤転勤、また転勤。落ち着きだしたころにまた荷造りするハメになるからな。おれも段ボールの扱いがプロ級になった」


 浅間は溜め息をついてから、続けた。


「それに、璋子は母の面倒を見てくれてるんだ」


「おまえの?」


 浅間はうなずいた。


「アルツハイマーでな。いいかげんもうろくして、あだあだ言い出し始めた。しかも笑えるのがだな、息子のおれの顔をきれいさっぱり忘れてやがるくせに、嫁の璋子のことは覚えてるんだよ。ある日いつものようにおれが帰ったら、家内のうしろに隠れて『璋子さん、このひとだれ』って。あんたの息子だよ! って叫びたかったけどな。ま、アルツハイマーなんてそんなもんだよ」


 浅間は自嘲ぎみに笑ったが、金本は笑わなかった。


「最初らへんは、トイレで用を足してもどうやって水を流すかわからないとか、そんなんだったんだが、いまじゃ飯ひとつ食うのにも手がいる状態でな。そんな母の世話を、璋子は、義母さんのことは心配しなくていいからっつって、引き受けてくれてな。だから、家族で転勤はとてもじゃないが、できない」


 浅間が携帯のディスプレイに目を落とす。


「まあ、もしかしたら、おれは、空自の任務だからーなんていって、もうろくした母親の介護を家内に押しつけて、仕事に逃げてるだけかもしんねーけどな。だからこそ、この仕事だけは、まっとうしたい」


 浅間は金本に顔をむけた。


「おまえは独身だったっけな」


「独身どころか親兄弟、親戚のひとりもいない。――うらやましいか?」「んなわけねーよ」


 喉の奥で笑って、長く息を吐く。


「こんな仕事だからいつ不慮の事故で死ぬかわかんねーけど、さっきのこと聞いて、なんか不安になってな」


「空母沈没のことか」


「ああ」


 浅間は携帯電話を閉じた。


「死ぬ覚悟はとうにできてるし、その場合、弔意金やらなにやらは全部璋子にって遺言書も書いてるから、その点の心配はないんだが」


 浅間はどこか遠いところを見た。海のむこうに沈んだ太陽は、いまごろ地球の反対側を照らしているだろう。


「今回の件が、日本に悪影響を及ぼさなきゃあいいんだが」




 ホワイトハウスの大統領執務室にしつらえられた大窓から、夜が顔を洗って暗闇を流して落としたような白々明けの空がのぞく。ヒットリアとその側近の面々は、夜通しで今後の方針と国防の対策について論議をかさねていた。ファーロング外相が部下から受け取ったファックスの内容を読んだ。


「イギリスから支援の申し出です。今回のことをうけ、イギリスはあらゆる援助を惜しまないとの声明を出しています。インヴィンシブル級軽空母をはじめとした海上部隊の派遣や、洋上捜索、ならびに対潜哨戒任務の支援として、ニムロッドの出動も用意しているとのことです」


「ありがたいな」


 大統領は椅子の背もたれを深く沈めながら言った。「東海岸から大西洋にかけてわが軍の空母打撃群で警戒を強化すれば、ほかの海域が、手薄になる、とまではいかないにしろ、少なからず戦力に影響がでる。支援はいくらあってもこまらん」


 チトーがうなづく。


「大西洋にはすでに、USS<ドワイト・D・アイゼンハワー>を旗艦とした第8空母打撃群が向かっており、アイク(アイゼンハワーの愛称)のいた海域にはかわりにUSS<セオドア・ローズヴェルト>の空母打撃群が赴いていますが、いかんせん、手が足りません。インヴィンシブルやニムロッドは、われわれにとり、貴重な戦力になります」


「日本はどうだ」ヒットリアが半分笑いながら訊いた。聞かなくても答えはわかっているという顔だ。


「いまだこちらに打診もありません」ファーロングは用紙をめくりながら答えた。「海外に部隊を派遣することは、集団的自衛権の行使にあたるとかで国会でもめているようで」

「やはりな」


「まあ、せいぜいP-3Cの出動に留まるでしょう。日本からはむしろ、資金援助のほうが望みがあるのでは」


「国際社会の枠組みのなかで日本も主要先進国としての責任を果たすべき、とでも圧力をかけたうえで、戦力の支援ができないならせめて資金を、と逃げ道を作ってやれば容易に折れるだろうな」


「失礼します」


 ドアがノックされ、ワインバーガー報道官が執務室に入ってきた。


「マスコミはなにか言ってきたか」


 ヒットリアはワインバーガーにソファーに掛けるように手で指示した。ワインバーガーは腰をおろしながら、


「沈没の原因は、としつこく聞いてきました。発表がなければ、敵国の核攻撃によるものという報道をすると。また、放射性物質の汚染被害についても詳細が知りたいとも言ってました」


「ばかなやつらだ」チトーがため息をつきながら首をふった。

「マスコミは際限もなく情報をよこせとタカってくる。くわしい汚染範囲はともかく、沈没の原因などこちらが知りたいくらいだ」


 すると、いままで黙っていたマヘンドラ国防長官が、室内の者のようすをうかがいながら口を開いた。


「原因なら、もうすでにわかっているじゃないか、チトー将軍。空母は巨大生物によってしずめられたんだ」


 一同はおもいもしなかったことばに肝を抜かれ、マヘンドラに視線を集中させた。当のマヘンドラは、わかりきったことを言ったまでというふうで、どこを風がふくといった顔をしている。ややあってチトー将軍が訊き返した。


「正気か? わが軍の空母打撃群が、怪獣の強襲により潰滅したと、そう発表するのか? なにも証拠を発見できていないのに? 物笑いのタネにされるのがオチだぞ」


 呆れながらのチトーの反論にも、マヘンドラはあくまで真剣だった。


「証拠ならある。あの航空要員の証言だ」


 大統領もマヘンドラの意見に興味をおぼえ、神妙な顔つきで耳を傾けた。マヘンドラは大統領に建白した。


「もし、敵の攻撃により空母が撃沈されたと、そう発表でもしようものなら、わが合衆国軍の信用はどうなります。現代の無敵艦隊といわれ、歴代のアメリカ大統領の名をつけられた原子力空母は、もはやひとつの兵器ではありません。七つの海を支配し、世界の平和を守る重大な責任を負い、またそれを果たしてきた、そしてこれからもそうでありつづけるためのアメリカの象徴そのものです。空母打撃群一個で中堅国家一国の海軍力と互角以上に戦えると喧伝され、仮想敵国の戦意を戦う前から挫くその勇姿に、アメリカ国民は自国の圧倒的強さを実感し、ひとりひとりが自信をつけ、アメリカ国民らしく堂々としていられるのです。だからこそ、アメリカ国民は、ユニットコストだけで六〇億ドルをゆうに超える、天文学的予算のかかる原子力空母の建造と運用をゆるしているのです。国民がこの莫大な国防費のために納税をしているのも、ひとえに世界最強の軍隊に守られているからだという安心感のためなのです。またこんにちのアメリカの、国際社会のなかでの名誉ある立場は、原子力空母がその礎を築いたといっても過言ではありません。現代においても、外交の基本は砲艦外交です。相手と同等か、それ以上の軍事力をもっていてはじめて、相手を交渉のテーブルにつかせることが可能になります。相手からすれば、力で攻めて勝てるのなら、こちらの言い分など聞かず、力で押し切ってしまえばいいからです。ゆえに自国につねに優位に外交を進めるには、世界最強の軍事力が必要不可欠です。アメリカがつねに有利な外交をおこない、アメリカを安全保障理事国のリーダーたらしめているのも、原子力空母をはじめとした、他国の追随をゆるさない磐石の軍事力があってこそといえるのです」


 ヒットリアも、なんとなくマヘンドラの言いたいことがわかってきた。マヘンドラは続けた。


「しかし、その最強のはずの原子力空母が、よその国によって撃沈されたなどと言ってごらんなさい。沈まぬはずのアメリカの象徴がもろくも沈んだ、となれば、合衆国海軍の原子力空母も無敵ではない、ひいては、アメリカはじつは最強ではないのでは、敵が本土に攻めてきたとき、守ってくれるはずの空母は突破され、アメリカ本土はなすすべなく蹂躙されてしまうのでは、と国民は疑念を感じます。疑念は不安をよび、不安は疑心暗鬼を育てます。祖国と国民を守るために、巨額の税金を投入した兵器が、ほんらい防いでしかるべきはずの敵の攻撃で撃破されたとなれば、カネのかかる原子力空母と、それを中核とする空母打撃群という概念の存在意義さえ問われます。いちど目を覚ました幻想は、いわば金融バブル崩壊のときのごとく、不安の増長はとどまることを知りませんぞ。老朽化したニミッツ級にかわる最新鋭空母<ジェラルド・R・フォード>級の建造、取得計画に待ったがかかるおそれがあり、一足飛びに軍の不要論にまで飛躍するやもしれません。それは国家の安全保障をゆるがす一大事です」


 チトーやワインバーガー、ファーロングたち、ほかの者たちも、マヘンドラの主張の論旨が見えてきた。それを見計らい、マヘンドラがいっそう力説する。


「ところが、今回の沈没が、敵攻撃による撃沈ではなく、いち生物に起因する沈没事故、ということにすれば、このような懸念はいっさいしなくてもかまいますまい。なにしろ事故は事故であり、想定外の事態は防ぎようがないのですから」


「それでマスコミと国民が納得すると思うか」


 チトーから発せられた問いを受けたマヘンドラは、チトーのほうを向き、


「納得するもしないもない。このさい真実などどうでもいい。敵にミサイルや魚雷で攻撃された形跡はないし、なによりあの飛行士の証言がある。巨大生物に空母が沈められたと発表しても、ホワイトハウスは目撃者の証言という事実をいっているだけであって、嘘をついているということにはならない。むしろ情報開示の理念に則ったものだ」


 そして大統領に向き直り、


「生物がらみの事故など、空母は想定して設計などされていません。おなじ沈んだという結果でも、敵の攻撃で撃沈されたなら大問題です。敵勢力からアメリカを守り、敵を殲滅することをこそ本業として設計、建造されているのに、兵器としての本分がまっとうできなかったということなのですから。そうなれば責任が発生し、海軍だけでなく軍を総指揮するホワイトハウスにまで累がおよび、さらなる国防費縮小を余儀なくされれば、今後の世界戦略も見直す必要がでてきます。が……未知の生物との遭遇なら、それは不幸な事故です。艦の設計も、部隊の訓練も、対生物戦などという事態は考えられておりません。地球上のだれも予想しえなかった事故なのだから、だれにも責任は発生しません。むろん、大統領にも」


 ヒットリアは不敵に笑い、試すような質問をした。


「総排水量一〇万トンをこえる超巨大艦船をたやすく沈められる、そんな生物がこの世にいると思うかね」


「たった一羽の鳥が大型旅客機を墜落させることだってあります。それに、海は広く、深い。われわれはかつて、月へ人間を送り込むことに成功しましたが、いまだ深海の海底には到達していません。人類にとって海は未開拓地であり、広さは事実上、無限です。これまで人類がしらなかった生物がいたとしてもふしぎではありませんし、探しようもありませんから不在の証明もできません」


 副大統領がうなる。


「しかし、事故、となれば、遺族年金も、事故死扱いのものだろう。いささかむごくはないか」


 軍属が殉職すれば、遺族は遺族年金がもらえる。当該兵士の死亡の態様により、戦死と事故死のものがあり、とうぜん、戦死扱いのほうが受給額が高い。残された家族が、事故死扱いの遺族年金だけで生きていくのは厳しいだろう。家庭におさない子供がいたりすれば、なおさらだ。


 だがマヘンドラの鉄の表情は動かない。


「沈没は事故と公表しておいて、乗組員、航空要員計六〇〇〇名の遺族たちには戦死扱いの年金を払うとなると、情報を隠しきれるものではない。残念だが、事故死扱いとするしかないでしょうな」


 冷酷、といってもよい論理であった。と同時に、ヒットリアにとっては、魅力的な提案でもあった。空母沈没という未曾有の事態に直面して、その責任追及をまぬかれることができる。しかもその素案は、ヒットリアの口から出たのではない。マヘンドラが発案したのだ。国民からみれば、閣僚や大統領をひっくるめて「ホワイトハウスが」巨大生物などという面妖な発表をしたと思うだろう。だが閣内での、冷酷だという評価は、マヘンドラにいくわけであって、ヒットリアはあくまでも、やむにやまれず、その提案を受け入れ、不承不承、発表した、との立場をとれる。そこまで計算して、マヘンドラが汚れ役を引き受けて、ひそかにヒットリアに恩を売ったのであれば、さすがに情報畑の出といえた。


 とまれヒットリアは、沈黙し、たっぷりと時間をかけ、熟慮に熟慮をかさねたすえの、苦渋の判断といったふうに、サラザール主席補佐官を指さして、


「記者会見の用意だ。国民が知りたいことを話す。予想される汚染の範囲を包み隠さず公表する」


「汚染の範囲すべて……ですか」


「公表せずあとでそれらの国の海で放射性物質が確認されたら、かえってダメージが大きい。政府が情報を隠蔽しているとの印象を国民に与えたら、国民は政府に不信をいだくだろう。国民に政府との逕庭けいていを感じさせてはならん」


「はっ」

「それと」


 大統領は決然たるようすで主席補佐官に指示した。


「原子力空母と原潜の沈没は、未知の巨大生物との接触によるものとの公式見解をだす。わたしがじかに会見しよう。わたしのことばをまっている国民も大勢いるはずだ。午前七時までに草稿を用意できるか?」


「十分でお届けします」


 来るべき記者会見にむけ、閣僚やスタッフが自身の職務を遂行するべくあわただしく動きだす。喧騒のただなか、ヒットリアは悄然とバルコニーに出た。暁光に染まりゆく空のもとで、ヒットリアはバルコニーの手すりに両手をつき、うなだれた。チトーがその横に、一日の始まりを告げる空を眺めながら、しずかに立った。


「わたしは道化だな」

 ヒットリアが述懐した。チトーはだまって聞いた。


「事故か撃沈か……国民からみれば、どう発表するかで懊悩しているわたしは、さぞ滑稽に見えるだろうな」


 チトーは、ヒットリアが自身のことばを反芻する時間を与えてから、フォローした。


「大統領のくだす決断には、選択肢がたとえどちらか二種類しかなくとも、どちらも正解ではないという場合も珍しくありません。わたしは、ジョージ・ヒットリア大統領の決定を尊重します」


 ヒットリアは、朝日に消されようとしている星星が、はかない最後の光を放つ空に目を移した。執務室の騒々しさは、遠くの国のように遮音されていた。チトーは続けた。


「マヘンドラ国防長官のいうことも、一理はあるのです。確たる証拠もないまま、撃沈されたと発表し、国内外に無用の混乱と緊張をまねくほうが、よほど罪悪といえるでしょう」


 ふたりは凝然と空を眺望していたが、やがてヒットリアがぽつりとつぶやいた。


「もし、犯人がほんとうに怪獣だったら……」


 そのあと、みるみるうちにヒットリアの目に熱と輝きが戻り、手すりから手を離して、チトーのほうを見た。


「将軍、もし、かりにわが空母打撃群を撃滅したのが巨大生物だったとして、わが軍はそれに対抗する手段を有するか?」


 チトーは一瞬、なにをいわれたかわからないといったふうに呆然としたが、すぐに姿勢を正し、答えた。


「目標となる生物の形態など、詳細が不明ですので、憶測にしかなりませんが……」


 高速で思考をひらめかせて、解答を導く。


「十中八九、苦戦を強いられるでしょう」


「なぜだ」


「数少ないデータから判明しているだけで、目標は深度三万フィートの大深度から、瞬く間に海上付近まで浮上し、海中を一〇〇ノットの速力で駛走しそうする機動力を持ち合わせています。これはわが国のみならず、世界中どの海軍の潜水艦でも足元にもおよばない異次元レベルの潜航・航行能力です。ほとんど、レシプロ機でF-22に挑むようなものです」


 さらに、とチトーは自分の、統合参謀本部議長としての考えを述べていく。


「兵装についてですが、初めての相手ですので、どんな武器をどのように運用した戦術が有効か、まったく見当がつきません。目標の体表温度が周囲の環境よりはるかに高温であれば、赤外線誘導ミサイルが使えるかもしれません。が、それにしたところで、赤外線誘導兵器は敵の戦闘機や戦車のエンジンからの排気熱を捉えるもので、そんな燃えるような、きわめて高温の体温をもつ生物など考えられません。この時点で、わが軍は主力の赤外線誘導兵器を封印されたことになります」


 ヒットリアが頷き、続きを促す。


「レーダーホーミングなどは、目標の体表に電波発信機などを打ち込まないかぎり、命中させることはむずかしいでしょう。あとは、レーザーによる捕捉か、目視による直接照準しかありません。しかし、これらにしても、カタログスペックどおりの性能を発揮することは保証できません。現代の兵器はいかなる形であれ、生物に照準を合わせるようには設計されていないのです」


「強敵ということだな」


「は」


「もしもまた奴が出現したさいに備えての部隊の編成と作戦行動、本土に上陸した場合の国民の避難誘導、陸上部隊、航空部隊の展開などをシミュレートしておいてくれ」


 チトーの目に感情の波紋が走る。


「海洋生物が、陸に上がると?」


「現時点での情報を鑑みるかぎり、やつにはわれわれの常識など通用しない。空さえ飛ぶかもしれんぞ」


 チトーは、イエッサーと答え、いまおおせつかった任務を果たすため、自分のオフィスに戻ろうとした。


 そこで、ふと空を見て、それから逆の空を見た。小さく息が漏れた。


「どうした」


 チトーの表情が不審なのを見つけ、ヒットリアが訊いた。チトーは、西と東の空をそれぞれさししめしながら、


「いえ、なかなかに珍しい現象とおもいまして……」


 ヒットリアも、チトーの指がさした方角の空を見やった。淡い紫とピンク、セルリアン・ブルーのいりまじった、柔らかな色彩の東の天門を押し開き、明るい橙いろの被衣かずきをまとった朝日が、山のを照らしながら歩いてくる。


 ついで西の空を見て、ヒットリアは目を疑った。そちらからも、朝日が揺らめきながら昇っていたのである。西の朝日のほうが、光輝はいささか弱いようである。


「サンドッグ(幻日)でしょうな。天球の逆端にこれほどはっきり現れるとは……」


 ほんらいは陽の沈む方角から昇ってきた太陽が、ホワイトハウスを睨む。偽の太陽が出てきて、地上の民を欺こうとしているかのごとき光景は、これまで世界を支えて維持してきた法則が、音を立てて崩壊してしまったかのような、なにかつねならぬものを感じさせた。


「不吉の前触れでなければよいのですが……」


 チトーのことばが、ヒットリアの頭の中で、なんどもなんども回っていた。


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