十八 東京、陥落
栴檀三佐は決断を迫られていた。
足をつかった捜索が、まったく実を結ばない。
砂をはむような思いで発見した生存者は、みな、栴檀たちを目にすると、かならず脱兎のごとく逃げるのだ。
「人殺し」
憎悪にみちた顔で、あるいは茫沱と涙を流しながら。
いよいよおかしい。栴檀も、栴檀がひきいる二〇〇人の中隊も、全員が疑念を確信へと変えつつあった。
なれども原因も正体もつかめない。霧のむこうになにものかの影あれど、手を伸ばすと、すうっと霧のなかに隠れる。そんな心持ちである。
救出活動を続行しても、もはやこれ以上は徒労なのではないか。
口にこそだれも出さないものの、隊にはそんな雰囲気が漂いはじめていた。
いく手に緋いろの炎が踊っている。炎が巨人のように覆い被さって、建造物を喰らっている。
あちこちで産声をあげた火災は、時間がたってもおさまらぬどころか、より勢いを増しているようだった。
火の手はもとより、膨大な煙が都市に充満していた。うずたかく瓦礫が積まれ、視界がきかないなかで煙に巻かれては、いくら陸上自衛隊といえど命にかかわる。
進めば、火に囲まれる危険がつねにつきまとう。
このまま情報収集を名目にした救出活動を強行するか。
それとも、市民の命をあきらめて、練馬駐屯地にもどるか。
目を閉じると、ここにくるまでに見た、数えきれないほどの遺体が瞼の裏にうかぶ。
無差別爆撃で虐殺されたひとびとの無念を思うと、はらわたが煮えくり返る。ひとりでにこぶしが固く握られる。
ならば答えはきまっている。
「捜索を続行する。ただし、これから先は『情報収集』の命令内容を逸脱するものとなる。有志をつのる。強要はしない。命令違反しようとしているのはわたしだ。おまえらまでがむりに付き合う必要はない。わたしとともに来たいものは手を挙げろ」
中隊の部下らが顔を見合わせる。
つぎに、断固たる決意をかためた表情で、栴檀をあおぐ。
「わたしは行きます」
「おれも、つれていってください」
隊員たちが静かに、それでいていっせいに拳をかかげる。
全員が栴檀にしたがうと意思表示した。二〇〇名の自衛隊員が握りこぶしを突き上げている光景は、壮観だった。栴檀の視界が涙でにじんだ。
「命にかかわるかもしれないんだぞ。それをわかっているのか?」
「それを言うなら栴檀三佐。レンジャー教育課程を、もそっと優しくしてくださいよ」
だれかの返答に、少なくない数の隊員が吹きだす。
「まわりの連中が手を挙げてたからって、ついつられて挙げてしまったなんてやつはいないな?」
栴檀も冗談で返すと、こんどは中隊全体が爆笑の渦につつまれた。
笑い声はすぐさま収束した。隊員のひとりが、まじめな顔にもどして建白する。
「市民は、われわれよりも危険な状況下に置かれているんです。われわれが行かずにだれが行くんです」
栴檀は首を深く縦に振り、腹をくくった。
市民を救い出す。そして、部下たちもひとり残らず無事に帰す。男が一命をかけるに値する仕事だ。迷うことはない。
疑念の靄は吹きちらされ、みなの頭脳は澄明な視野をえるにいたっていた。
しわがれた声が天に舞う。一羽の鴉が、不吉な歌を唄いながら空を横切っていった。
「栴檀三佐、これを」
捜索活動を再開しようとしたとき、通信機を背負った隊員に呼び止められた。
「阿武隈二佐の中隊と連絡をとっていたのですが」
彼の顔には、凶兆が浮かんでいた。
栴檀がどうしたのかと目線で問うと、隊員が無線機を操作し、音声を開放した。
手の中の無線機からは、荒い呼吸。ときおりしわぶきも聞こえる。
「さっきから、ずっとこんな調子で……」
栴檀は無線機の故障かと思ったが、機器はすべて正常だ。
「サザンカ1、こちらツバキ1。状況を知らせ。送れ」
栴檀が問いかけると、無線のむこうに、わずかに反応があった。
「に……げ……」
声は、吐息のようなささやきでしかなかった。
「もっと音量あげろ」
命じられた隊員がつまみを回す。
大きくなった音声が、あたりの空気に浸透する。一同も耳をかたむける。
「や……つら……なり……すま……」
無線機の相手ははげしく咳き込んだ。ついで、なにかを吐き出す気配。
粘着質な水の音がまじる。
「おれ……たちでは、かて、な……」
虎吹笛を吹くような、鋭い風切り音。
それを最後に、無線機はなんの声も発しなくなった。
重苦しい沈黙が、あたりに堆積した。
「ほかの中隊とつなげ」
栴檀が厳しい声で命じ、隊員が周波数をあわせる。
しかし、聞こえてくるのは、いずれもむなしい空電の音ばかり。
真夏の日射と、火災の輻射熱に炙られているにもかかわらず、寒気と鳥肌が全身を駆け抜ける。
栴檀は鉄帽を深くかぶり直した。
「敵地侵攻のさいにおこなわれる空爆は、むしろ前菜にすぎない」
全員が栴檀に注目する。
「前菜がすんだあとは、メインディッシュがくる。教科書どおりの侵略作戦だ」
「敵の地上部隊が? それにやられたと?」
青ざめた部下の問いに、顎を引いて答える。
「現代戦でも、最後は人間が足で上陸して直接占拠しなければ、敵地はうばえない。やつらが本気なら、空爆だけではすまないと思ってはいたが……」
爆撃機のいなくなった蒼穹をにらみながらの、栴檀の述懐。中隊に、とまどいと不安が黒い染みのように広がっていく。
「しかし、どうやって地上部隊を? 北から運んでくるなら、空路か海路しかありません。輸送ヘリや空挺部隊をみたという情報はありませんし、揚陸艦で上陸させるにしても、半島から東京湾に入るには、いったん日本海を迂回して、太平洋側にまわりこむ必要があります。空爆と時刻をあわせるためには、前もって配置していなければなりません」
部下の疑問のとおり、揚陸艦はもとより、輸送ヘリにしても落下傘部隊を空輸する輸送機にしても、速度が遅い。空爆が完了してから進出させていたのでは、時間があきすぎる。
空爆終了とほぼ同刻に地上部隊を送り込めるようにしておくのが理想であり、定石だろう。
「北朝鮮に、朝鮮半島から東京まで翔破できるような輸送ヘリは?」
「ミルMi-26“ヘイロー”なら」携帯型飛行体を手にした隊員が答えた。「兵隊を百人乗せて、無給油で一五〇〇キロは飛べます」
「あの雷鳴のようなエンジンの爆音は、数キロ離れていても聞こえる」
ただのヘリコプターでも、ローターが回転して大気をたたく音は四方に響く。
軍用、それも大量の荷物を積んだヘリはなおさらだ。
じぶんの居場所を、拡声器で喧伝しながら飛んでいるようなものといってもいい。
「そんなものが近づいてきていてだれも気づかないなど、考えにくい」
それは輸送機に対しても言えることだ。候補から自動的に除外される。
「揚陸艦のほうはもっと可能性が低い。何日も前から出航して、どの国の監視からも逃れながら列島を大回りし、決行まで海上で待機させておかなければならない。たしかに、要約すれば不可能だな」
推論をのべるが、なんの解決にもなっていないことに気がついて、栴檀は掌中の無線機をにぎる手に力をこめた。
その無線機から、声が絞り出される。
「だま……さ……な……」
無線の相手が、軽くない負傷をしているのは容易に想像できる。
生死のさかいをさまよいながら、なにごとかを懸命につたえようとしているのだ。
だが、言葉が断片的で、なにを言っているのかわからない。
やがて、その無線も応答しなくなった。
隊員の何人かが掌にこぶしをうちつけ、幾人かが瓦礫を殴る。
「北のやつら、よくもおれたちの仲間を……」
隊員たちの目に、瞋恚の焔が灯る。
自衛隊は家族だ。それもいまどきよくある希薄な関係の家族とはちがう。
苦楽をともにし、おなじ釜の飯を食った自衛隊仲間は、一本筋の通った強固な家族だ。
かれらにとっては、仲間は、ただの職場の同僚ではない。
まさに、父親や兄、弟が殺されたのにもひとしかった。
上陸方法は不明だ。だが、血のつながらない家族が、姿なき敵部隊に残害されていることはたしかだ。
「ほかの中隊で、通信が可能な部隊は?」
「いえ、ありません」
通信手はかぶりをふった。
栴檀が顎に手をそえる。
「第1普通科連隊でのこっているのは、われわれだけか……」
部下がつめよる。
「栴檀三佐、行きましょう。敵の地上部隊がいるなら、なおさら市民が危険です」
かたわらの隊員も肯じる。
「民間人への被害拡大が予想される事態です」
部下らが命令をまつ。
栴檀の瞳に、刃の光が宿る。隊員に向き直る。
「総員、武器の使用を許可する。敵兵を発見したら、まよわず撃て。すべての責任はわたしが負う。おまえたちの仕事は、まずなによりも生き残ることだ。引金を引くのをためらって死ぬくらいなら、敵を殺してでも生きろ。責任を追及されたさいは、わたしに命令されたといえ。捜索を再開する」
よく通る声だった。
場合が場合なら、普通科隊員たちは腹の底から了解と叫んでいただろう。所在不明の敵に発見される愚は犯せないため、目礼だけの返事となる。
それだけでじゅうぶんだった。
武器さえ使えれば、たとえ実戦を経験していないじぶんたちとて、北朝鮮の兵隊ごときにおくれはとらない。
ひごろの血を吐くような訓練が、かれらの心を強堅にささえていた。
なんのために、毎日訓練をつづけてきたのか。
こういった極限状況においても自信や士気をうしなわないためだ。そのことに思いあたった隊員たちは、揺らぐことのない足取りで前へと進んだ。
地獄が口を開けて待っていた。
便宜的に編制した小銃小隊が89式小銃の銃口を向けつつ、先鋒をきって前進。互いの死角をおぎないながら、潰滅した都市を慎重に歩む。
「用心しろ。ほかの中隊が四個ともやられたんだ。もはや爆撃機だけでなく、歩兵部隊の侵入まで許していることは疑いようがない」
首都の防備をあずかり、精強をもってなる第1普通科連隊の四個中隊、計八〇〇人あまりがやられた敵だ。大部隊で重装備、かつ練度もそうとう高いことが予想される。
しかし不明なことだらけだ。どんな武器をもっているのか、戦術は、風貌は、人数は。いっさいが闇のなかにかくれている。
そんな敵勢がどこにひそんでいるかもわからない以上、油断するべきではないのだ。
そのうえ、空爆そのものはやんでも、不発弾が転がっている可能性も考慮しなければならない。知らずにちかづいて、そこでいまさら再活性化、つまり起爆されては目もあてられない。
物音にすばやく反応し、ひとりが小銃を取りまわしつつ体ごとその方向にふりかえる。
瓦礫の山脈から、コンクリートの破片がはぐれたように転がり落ちているだけだった。破片は、灰褐色の山のふもとまで駆けおりると、道路上で死んだように止まった。
ため息をつき、冷や汗をぬぐって前方警戒にもどる。
「緊張するな、とは言わないが」
隊員のひとりが小声でささやく。
「集中しすぎるともたんぞ。散じては集める気が大事というだろう?」
ばつが悪そうに鼻を鳴らす。その瞳には怪訝な色。
「でも、ほんとうに敵兵なんているのかな」
間抜けな行動を糊塗するかのように、疑問をのべる。
「戦術面でいちばんにむずかしいのは、歩兵を安全に敵地へ送り届けることだ。まして、四方を海に囲まれた日本に兵隊を送りこむなんて、なまなかなことじゃない」
「ああ。逆に、日本が北朝鮮に陸上部隊を上陸させるのも不可能だからな。北にとっても難問だろう」
地熱であたためられた熱風が吹きつけて、隊員たちに抱擁を浴びせていった。汗が砂塵を吸いよせ、塩のように体から水分をうばう。
警戒をゆるめずうそぶく。
「幽霊でもないかぎりは、できっこねえな」
風が、聞こえるか聞こえないくらいの笑声を残していった。
崩れた建造物ばかりの街は、はじめて訪う異界のように素知らぬ顔をしていた。ビルは軒並み半壊か全壊し、アスファルトはめくれあがり、信号機が道路に寝ころんでいる。一変した風景が、地理感覚を惑乱させる。
GPSをもっている隊員が現在位置を確認。栴檀に報告する。
「大手町一丁目、永代通りです」
「では、あの高架は、中央本線に山手線か」
栴檀は言葉を詰まらせた。
丸の内北口ビル、ホテルメトロポリタン丸の内といういずれおとらぬ高層ビルが、手を合わせるように互いに倒れこみ、中央本線、山手線、さらに東北上越新幹線の軌道をはしらせる高架橋を叩きつぶしていたのだ。
もうすこし南にくだったところには、東京駅がある。
人があつまる場所は、自然と避難場所にえらばれやすい。
そこへ向かおうと胸中で決定したときだった。
五〇メートルほどむこうに、人が大勢かたまっていた。ざっと数えても、百人ちかくもいる。
戦火のなかを逃げまどってきたのだろう。みな血糊や泥で薄汚れているのがここからでもわかった。
統一感のない、さまざまな服装をしている。
民間人だ。
ひとりが自衛隊に気づき、顔をむける。目が合った。
隊員たちが小銃から手を放し、害意がないことを大仰にしめす。
とはいっても隊員らは半分あきらめていた。きっとあの避難民も、じぶんたちを見たとたんに逃げ出してしまうのだろう。
「自衛隊だ!」
避難民の男が指さして声をあげる。
隊員たちは唇をかみしめた。悪い予想を前もって立てることで、精神への打撃にたいする防御を用意する。
「自衛隊がきたぞ」
「よかった、助かったんだ!」
栴檀らをみつけた避難民が仲間にしらせる。それを聞いたほかのひとびとも、雷に打たれたように顔をあげる。
自衛隊の姿をみとめたその表情に、笑顔が咲いていく。
次いで、天地に轟くような歓声。
男が、女が、子供が、年寄りが。
難民たちが、手を振りながら駆け寄ってくる。
栴檀を筆頭にした自衛隊員らの顔には、小さくない驚愕。やがて、緊張でこわばっていた相好が緩んでいく。
栴檀たちは、恨まれても憎まれても市民を助け出す覚悟だった。じぶんたちが嫌われていても、ひとびとの命を守ることができればそれでよいではないか。そんな、どこか諦念めいた思いをもっていた。
もともと、じぶんたちが必要とされるときは、日本が非常事態に見舞われているときだから、むしろ不要といわれることこそが平和の証明であり、自衛隊の存在意義であるという考えがあった。
じぶんたちが歓迎されることを、手放しで喜んではいけないと自戒してきた。
しかし今、栴檀らは、喜色満面で走りよってくる市民らを見て、逆にじぶんが助けられた側であるかのように安堵していた。涙をこぼす隊員もいた。
頼られるとは、こんなにうれしいことだったのだ。
存在理由を肯定された充足感が、中隊全員の胸腔を満たしていた。
「さあ、かれらを安全な地域までお連れするぞ。救出開始」
感慨深いものに目頭を熱くしながら、栴檀が命じる。部下らが完全に戦闘態勢を解除。こちらに走ってくる何十人という市民をむかえようとする。
避難民たちと中隊のあいだは、もう二〇メートルもない。
それぞれの先頭がふれあうまでに接近する。
と。
中隊の目の前で、難民の表情が、とつぜん、崩れた。表情を変えたというより、別の顔とすりかわったかのようだった。
今の今まで避難民の顔にあった安堵や喜びはどこにもなく、かわりにまがまがしく、般若のように歪んだ醜悪な顔立ちがそこにあった。
次の瞬間、先頭の難民たちの右手がひらめき、普通科中隊に向けられる。
その手に握られていたのは、漆黒の殺意。黒々と光る自動拳銃。
唖然としたままの中隊に反応するひまさえあたえず、トカレフを模造した68式手槍、白頭山と通称される拳銃が火を噴いた。
栴檀の胸に、衝撃。精神的なものではない。物理的な痛みを感じる。
おそるおそる視線を落とすと、戦闘服の胸部中央に、穴が穿たれていた。穴からは、硝煙と、粘着質な血液。
喉の奥からなにかが込み上げてきて、おもわず嘔吐する。吐き出されたのは、内臓出血による大量の血反吐だった。
防弾繊維を織りこんだ陸上自衛隊の戦闘服は、拳銃弾なら貫通をほぼ防ぎきるほどの防弾性をほこる。
だが、難民たちが撃ったのは、貫通力を重視した弾丸ではなかった。弾頭が硬質金属に覆われていないホローポイント弾だったのだ。
やわらかい鉛がむきだしとなった弾頭は、着弾の瞬間、すさまじい運動エネルギーを解放しながら弾けて、対象の内部からずたずたに引き裂く。
防弾衣の上からでも、着弾の衝撃だけで人間を死にいたらしめる、非人道的な殺人兵器。
それが連続して隊員たちに撃ち込まれたのだった。
栴檀や彼の部下たちの体内で軟弾頭の鉛が拡散し、肉や内臓、骨までを食いちぎり、粉砕する。みじかい悲鳴をあげて、くずおれる。
数十人の難民がいっせいに銃撃をくわえる。棒立ちの自衛隊員は、射的場の的でしかなかった。
しかし中隊は二〇〇名からいる。数十人程度の難民が拳銃を撃ち込んだとて、全員に発砲するまえに弾切れになる。
拳銃をもっていた難民が同時に膝をかがめて、後方の仲間に射線をゆずる。
うしろに控えていた残りの避難民、約四、五〇人もまた、銃をかまえていた。
白頭山ではない。
拳銃よりやや大きいが、小銃よりははるかに小さい。
金属の棒をねじ曲げてつくったような単純な銃床は、展開されないまま、銃本体の上部に覆い被さっていた。
それはフルオート射撃のできる短機関銃、Vz61スコーピオンだった。
大人にまぎれて子供までもが冷徹な眼差しで短機関銃を構えていた。その光景をみた隊員らの目に、絶望の色が浮かぶ。
白頭山の射弾が見のがした生き残りの隊員にむけ、マシンピストルが分速七五〇発の発射速度でたたきこまれた。
弾は正確に自衛隊員に吸い込まれていった。赤い霧が飛散し、緑の迷彩服がどす黒く染まった。
女性や子供が、反動に小刻みに震えながら引金を引き絞る。
マシンピストルは拳銃弾を機関銃のように連射する銃だ。ことに、Vz61スコーピオンの初期型は、弾薬に32ACP弾という、直径七・六五ミリメートルの小口径弾をもちいる。
弱装な弾丸だが、そのぶん反動も小さい。非力な女子供でも、フルオートで連射することができる。
男は言うにおよばず、兵士にはとうてい見えない主婦っぽい女、まだランドセルが似合いそうな子供、それに老人が硝煙たつ凶器を手にしていた。
Vz61が弾倉内の弾をすべて撃ちつくしたとき、そこに立っている自衛隊員はいなかった。急所に命中して即死しているか、あるいは一様にうめき声をあげてアスファルトにのたうち回っていた。
訓練を積んだ特殊部隊でも、奇襲をうけると十秒は動けないという。ましてや自衛隊員らは難民らを助けようとしていたのだ。その難民に銃を向けられるなど、完全に予想の外であった。
銃器をしまった難民が、口々になにかを話す。
日本語ではない。
ハングルだ。
リーダーらしき老爺が指示をだす。命令された男らが、腰から球体を取り出す。
手榴弾から安全ピンを抜き、自衛隊員が地に伏しているところにつぎつぎに投げ込む。
爆風と、爆風に加速させられた弾殻が、動けない隊員たちの体を無慈悲に切り裂き、挽き肉にする。
あらかた投げ終わると、難民たちは互いに手を叩きあいながらその場を去っていった。とうぜんのように、その言葉はハングルであった。
栴檀は極限の苦痛にさいなまれながらも、かたわらに、じぶんと同じように倒れている部下に手をのばした。すでに息はない。見開いたままの目は虚空をみつめている。
首だけを動かすと、足どりも軽い難民たちの背中が遠ざかっていくところだった。祝砲のつもりか、散発的に空へむけて発砲していた。
血にまみれた唇を開く。
「あいつらは……まさか、便衣兵!……」
便衣兵とは、軍服をぬいで民間人をよそおった兵士のことだ。つまり、ゲリラである。
「そうか、やつら、陸上部隊は、よそから上陸してきたのではない。最初から、最初からこの国に……」
マグマのようにわきあがる感情に咳き込み、口唇から泡混じりの血が飛び出す。
「これは、孫子の兵法、郷間の一手……」
すでに見えなくなった難民、いや、日本人の難民になりすました敵兵をにらみながら、血反吐と言葉を吐く。
「郷に入りて民の信頼を得、領内深くに潜入する……敵将も容易にこれを討ちがたし……」
立ち上がろうとするが、全身に銃弾をうけ、体を動かそうとするだけで激痛がはしる。視界が真紅に染まる。
「そのむかし、日本にも、その地に根づき、民のなかにまぎれこみ、世代を超えて使命を受け継ぎ、主君の命をまちつづける“草”とよばれる忍者がいたというが……まさか現代の日本に……それも朝鮮兵が日本人のふりをして“草”のようにひそんでいたとは……」
そこで、栴檀の思考に電光がはしる。ここへくる道中、市民がじぶんたちを見るなり逃散していた映像が脳裡を駆け抜ける。
すべての疑問が一気に氷解した。
「われわれが民間人になりすました便衣兵にやられたのと同様に、かれらはわれわれ自衛隊に化けた朝鮮兵に殺戮されたのだ。だから、かれらはわたしたちを……」
絶望が栴檀の心を押し潰した。
まさに究極のゲリラ戦だ。日本人と朝鮮人は、一見して顔の区別がつかない。
その朝鮮兵が戦後数十年間、日本人になりすまし、あるいは在日朝鮮人として、子孫をのこし、子ら孫らに使命をつたえながら、ずっと日本にひそんできたのだ。獅子心中の虫とはこのことであった。
灼熱の激痛が、急速に引いていく。痛覚さえもが正常に機能しなくなっていた。
「だめだ……やつらには、日本は勝てない。だれが敵で、だれが味方かわからないのでは、戦いようがない。庭に侵入した雑草を根絶する方法はない。庭ごとすべてを焼き払う以外は……」
すなわち、打つ手はない。
視界が暗く閉ざされていく。体の感覚ももうない。
「在日を……わが国を明確に敵視している国の人間を、ずっと国内で放置していたのが、すべての間違いだったのか……」
遠くから金属的なうなりのまじった轟音が響いてくる。
知っている。覚えている。このエンジン音は、空自のF-15Jイーグルだ。しかも複数いる。まだ自衛隊が全滅したわけではないらしい。
もう空を見上げる力もない。見上げたとしても、もうなにも見えない。
視力のなくなった栴檀は、それでも死力をつくして手をのばした。
「だまされるな……きっと朝鮮兵は、あらゆる形でまわりにひそんでいる……おまえたちの近くにも……」
手が、糸の切れた人形のように落ちた。
栴檀の開いたままの目が、焦点をうしなう。眼球の表面に、白い膜が張っていった。
風が笑いながら、栴檀たちの死体の上を通り過ぎていった。
◇
「おい、それは本当なのかっ?」
言いつつ、浅間の左手はすでにスロットルレバーを、ミリタリー推力位置におしこみ、音速寸前にまで機体を加速させている。千歳へいく針路からも大きくはずれている。
フライト・リーダーにならい、二番機の金本と三番機の占守、四番機の早蕨も編隊をくずさず追随する。
現在位置は、栃木県足利市上空、高度四〇〇〇メートル付近。住宅地や工場、広大な耕作放棄地といった典型的な地方都市の風景が、後方へと流れていく。
四機のイーグルは南へ針路をとっていた。東京へもどっているのだ。
「本当に、天皇を救出できたのかっ?」
「まっていろ、ポリプテルス1。いまツルヒメ7と通信をつないでいる。そのまま羽田に向かってくれ。くそっ、ジャミングがうるさいな。下品なECMだ」
アマテラス管制官も動揺を隠せていない。それほどの事態だった。
繰り返し流されていた短波無線。それは、羽田空港からU-125Aアスコット、コールサイン<ツルヒメ7>が発信していた救難信号であった。
U-125Aアスコットは、空自の航空救難団飛行群が保有している救難捜索機だ。ビジネスジェットを改造したその機体は、小型ながら時速九〇〇キロメートルの快速をたたき出す。
「コールサインがツルヒメ7ってことは、ビキール」
金本の確認に、浅間も応じる。
「SOSを出しているのは、百里救難隊所属のU-125Aだ。百里の救難機がなぜ羽田に?」
「ポリプテルス1、こちらシクリード1。やはりおれたちも支援に向かうべきだとおもうのだが」
小松のF-15J部隊からの申し出だった。
救難機からの通信を受け取って急行しているのは、浅間たち四機だけだ。小松の十四機は、そのまま千歳へむかう針路をとっている。
浅間がそうさせていたのだ。
「ネガティヴだ、オスカー。さっき言ったように、貴機らは最初にスクランブル発進してからずっと飛びっぱなしだ。もう燃料がないだろう。現針路を維持し、当初の予定どおり撤退しろ」
やや間があった。オスカーが押し殺した苦鳴をもらす。
「了解だ、ポリプテルス1。天皇をたのむ」
「コピー」浅間はつけ加えた。「生き残れよ」
「おまえもな。機体はひろってやる」
「骨をひろってくれよ」
「ポリプテルス1、こちらアマテラス。ツルヒメ7との無線通信を確保した」
シクリード1との無線をきった直後、空中管制機から知らせが入った。
「よし、アマテラス、こちらとつないでくれ」
「ポリプテルス1、こちらアマテラス。了解。通信をリレーする」
そのとたん、浅間たちポリプテルス・フライトのヘルメットに、チューナーの合っていないラジオのような砂嵐が響きはじめた。たがいの距離がちかづけば、電波妨害下でも交信が可能になるはずと踏んでいたが、さすがに完全な通信はむずかしいようだ。
「ツルヒメ7、こちらポリプテルス1。ユー・コピー(聞こえるか)?」
機首を羽田のある南方向に固定、高速巡航しながら、浅間はよびかけた。
「ポリプテルス1、こちらツルヒメ7。アイ・コピー(聞こえる)。よかった、つながった」
ツルヒメ7機長の声には、心から愁眉を開いた響きがあった。
「ツルヒメ7、状況を説明してくれ」
「わかった、ビキール。現在、当機をふくむ百里救難隊は、羽田空港にて天皇陛下、および皇族のかたがたを救出中。収容ししだい離陸したいのだが、空が物騒で飛びたくても飛べない。可能なら支援をおねがいしたい」
繰り返し発信していた短波無線とおなじ内容だ。ただし、今回は確実に聞いてくれる相手がいるとあって、一語一語の発音が力強い。
「了解した。いまそちらにむかっている。敵機の機影は確認できるか?」
「いまのところは見当たらない。空港にも、被害らしい被害は出ていない」
浅間は休心したが、それでも状況が良好とはいいがたい。なにしろ敵にはSu-35を駆るカマクナラ中隊とやらがいる。
連中にみつかれば、その時点で詰みだ。
「ツルヒメ7、こちらポリプテルス2。どうしてあんたらがそこに?」
懸念していると、金本が無線で尋ねていた。浅間も気になっていたので傾聴する。
「ローウェイか。東京が爆撃をうけたのとほぼ同時刻に、百里基地も空襲をうけた」
四人は絶句した。
「基地にボーイングスキーとSu-25、それにSu-24、IL-28や、JH-7とかがわんさか来て、百里基地も茨城空港もまとめて焼け野原にしやがった」
ツルヒメ7の声には、天を呪う響きがあった。
「空爆の直前、友鶴司令の命令で、基地の航空機とパイロットが緊急離陸、空中に退避して、なんとか全滅はまぬかれた」
つぎつぎと出される事実に、飛びながら浅間は混乱する。
ボーイングスキーはすでに浅間たちも目撃、要撃している。
ツルヒメ7が言ったほかの機体名は、どれも地上攻撃用の中型爆撃機、ないし攻撃機だ。
面制圧を得意とするTu-4でおおまかに爆撃して、残ったおこぼれをあとの攻撃機にかたづけさせる。敵は、こちらの航空戦力を徹底的に潰しにかかってきている。
「機体とパイロットは、みんな退避できたんですか?」
早蕨が口惜しさを振りきるように訊いた。
「当機と、われわれ救難隊のロクマル二機。第303飛行隊は、F-4EJ改ファントム十八機、T-4四機、乗員四十四名。第307飛行隊は、F-15JとDJあわせて十四機、T-4四機、乗員三十六名。偵察航空隊のRF-4Eファントムは六機、乗員十二名。飛行教導隊のF-15DJ四機、乗員八名。築城からきていたF-2の飛行隊も、十六機全機が退避完了した。二機のロクマルは、現在、救出対象を羽田までお連れしている最中だ」
ロクマルとは、UH-60Jというヘリコプターの、自衛隊内での非公式愛称だ。UH-60ブラックホークというアメリカの汎用ヘリコプターを、空自が救難任務用に改造したものである。
救難隊が投ぜられる救助任務は、えてして一分一秒の遅れが生死に直結する。
そのため救難隊は、速度が高くいちはやく現場に駆けつけられるジェット救難捜索機と、実際に救出活動をおこなう救難ヘリコプターとで構成されている。
まさにU-125Aアスコットと、UH-60J救難ヘリコプターがそれにあたる。
「第7航空団は、ほぼ無傷ですね」
占守が、一縷の救いをみつけたようにつぶやいた。
機体も乗員も、九割がた生き残ったことになる。悪いニュースばかりではないようだ。
「東京が攻撃されているとの情報があったので、基地を脱出したあと、当機と、二機のロクマル、コールサイン<シャクシャイン1>と<シャクシャイン2>は状況確認のために急行した」
ツルヒメ7がことのあらましを説明する。
「匍匐飛行でシャクシャイン1、2に偵察させていたところ、皇居付近で大規模な火災を確認。天皇、皇后両陛下をはじめとしたかたがたが立ち往生しているのを見つけたため、いったんヘリで救出した。羽田空港で当機に乗り換えていただく手はずになっている。いまはそのヘリ待ちだ」
ロクマルは高性能なヘリだが、ヘリだけに飛行速度に難がある。
ヘリで救助し、高速巡航できるジェット救難機で脱出させる。考えられるかぎり、もっともよい案だろう。
「ヘリでそのまま逃げるのは、自殺行為だからな。とくに、きょうみたいにスホーイ生まれの渡り鳥がきてる日は」
金本がいうように、ヘリは敵戦闘機には無力だ。浅間たち四人は、先刻Su-35に無慈悲に墜とされた陸自のヘリの、無惨な最期を思い出していた。
「どういうことだ?」
金本の声音にただならぬものを感じとったのか、ツルヒメ7が疑問を返してくる。
「敵は爆撃機や攻撃機だけじゃない。戦闘機をもってる。よりにもよってSu-35をな」
「Su-35というと、あの最新最強の“フランカー”か?」
深い憂慮の念が現れる。
「なぜそんなものが? いや、いまは、そんなことを言っている場合ではないな」
元来、救難隊の職場は、つねに死と隣り合わせである。
逆巻く海、吹き荒れる風、あるいは凍てつく極寒の吹雪く山脈。自然が猛威をふるい、神が怒り狂っているような、過酷な環境。
そこへ飛び込んで、顔も名前もしらない人間を救出し、みずからも生還するのが任務だ。
それゆえ、かれら救難員は、あらゆる理不尽を克服するよう鍛えられている。
疑問をいだくなら、なぜ、ではなく、どうすればよいか、と考える。
「なおさらF(戦闘機)の護衛がほしいところだ。しかしおまえたちポリプテルスの四人なら頼もしい。ロクマルはもうまもなく到着する。ポリプテルス・フライト、よろしく頼む」
「ツルヒメ7、こちらポリプテルス1。了解だ。アマテラス」
「こちらも把握した。シャクシャイン1、2の識別信号を受信している。ヘリは、現在、有明を通過。数分で羽田空港に到達する」
アマテラス管制官があらたまる。
「ポリプテルス・フライト、羽田にむかい、天皇、皇后両陛下を乗せたU-125Aアスコットを護衛せよ。ぜったいにツルヒメ7をやつらに撃墜させるな。ただし、発砲は許可できない」
「アマテラス、それは新手のなぞなぞか? それともおれは、日本語に酷似した十一次元の言語を聞いているのか?」
「空気読めよアマテラス。こういうときは、全兵装の使用を許可する! とか、そういうアレだろ」
浅間があきれかえり、金本が茶々を入れる。が、すぐに気をとりなおした。
「もう殺させない。目の前で人が死ぬのを見るのはまっぴらだ。ハードキル以外のあらゆる手をつくす」
「もちろんだ、大将」
「了解っす!」
「ご一緒します」
火災の黒煙でかすむなかに、天突く紅白の鉄塔が現れる。
東京タワーだ。
地獄と同義語となった東京。荒廃した街の空を、使命を背負いし銀翼が駆けぬける。
「しかし、不幸中の幸いとはこのことだ。きてくれるのが、あのポリプテルスのビキールだからな」
アマテラスとポリプテルス・フライトにつないだままの無線で、ツルヒメ7機長が言った。
部下の乗員らしき隊員が引き取る。
「うわさは聞いたことがあります。コープノース・グアムでは、イーグルで米空軍のF-22を撃墜したとか」
浅間は酸素マスクの下で笑みを浮かべた。あまりに無力な笑みを。
「最初からWVR(視程内)戦闘で、たがいにAWACSなし、僚機なしのタイマンという、現代の航空戦ではありえない状況下での模擬戦だ。そんなもん、なんの気休めにもならない」
浅間は自嘲でも自虐でもなく答えた。機関砲もミサイルも使用できないのでは意味のない話だ。
鋼鉄の大鷲の乗り手が、表情をひきしめる。
横たわる東京湾が、瑠璃いろのきらめきを湛える。
戦闘機からの視点では、湾をはさんだ対岸の千葉港や、木更津港、さらに渺漠たる太平洋ものぞめた。
羽田国際空港は、浅間らからみて手前がわの岸に出島のように浮かんでいる。
いったん湾へでて、ひねりこむようにして旋回。高度をさげつつ、空港の南側から接近する。
「各機、レーダーに注意しつつ、目視での見張りもおこたるな。エレメントごとに分散して、周囲三六〇度を警戒しろ」
浅間の指示で、金本はそのまま一番機の右後方を等速飛行。占守が早蕨を引き連れて左にバンクしていった。
日本の空の玄関口ともいえるだだっ広い空港を見下ろしつつ、目的の機体をさがす。
「ポリプテルス1、こちらツルヒメ7。貴機を肉眼で確認した。当機は第1ターミナル16番にいる。みえるか?」
湾上空の浅間は、機体を左にかたむけて視線を集中させた。
羽田空港国内線ターミナルを、首都高速湾岸線が真っ二つにするがごとく走り抜けている。湾側が第2ターミナルで、反対側が第1ターミナルだ。
手前の滑走路と駐機場、第2ターミナル、湾岸道路、さらに第1ターミナルの建物のむこうに、守るべきU-125Aアスコットの姿をもとめる。
いた。民間の旅客機にまぎれて、淡青色の低視認塗装をまとった機体が翼を休めていた。
U-125Aはもともと小型なほうだが、左右を巨大なジャンボジェットにはさまれているので、まるで子供のように見えた。
「ヘリに先をこされたみたいだな」
金本の声がヘルメットのなかで響いた。
ツルヒメ7のうしろに、濃紺の迷彩をほどこされたヘリコプターが二機、地に足をおろしていた。回転翼が、惰性でゆるやかに回っている。
UH-60Jだ。連絡にあった、シャクシャイン1とシャクシャイン2だろう。
「みつけたぞ、ツルヒメ7。こちらは空中で警戒中。いつでも離陸してくれ」
「ポリプテルス1、こちらツルヒメ7。了解」
ツルヒメ7の機長が、部下の隊員に確認をとる声が聞こえた。
「救出対象は全員搭乗されたか?」
「天皇、皇后両陛下、皇太子殿下、ほか四名のご搭乗を確認」
「皇太子妃さまは?」
「いちばん乗りです」
機器や燃料の最終チェックののち、管制に連絡する。
「コントロール、非常事態につき、ただちに滑走路への進入および離陸を許可されたい」
「了解した。滑走路は空けてある。タキシングを開始せよ」
空港周辺を旋回する浅間たちの下で、U-125Aがターミナルから滑走路へ機体を移動させる。
滑走路端についたツルヒメ7が、息をととのえるように一時停止。
唐突に沈黙をやぶり、急加速。数キロもある長大な滑走路を風となって疾走する。
辷るように走行するジェット捜索機。ふいに重力がなくなったかのように浮かび上がる。
機体と、滑走路に落ちる影とが離れていく。
U-125Aが脚を格納する。
早蕨が歓喜の声をあげた。ツルヒメ7は離陸に成功したのだ。
「パルマス、まだ助かったって決まったわけじゃないわ。油断しないで」
「わーってますって」
「ツルヒメ7、こちらアマテラス。誘導を開始する。指示にしたがってくれ」
「アマテラス、こちらツルヒメ7。了解した。貴機の指揮下にはいる」
高度を三万フィートまであげたところで、浅間は列機に指示を出した。
「混成編隊飛行だ。ツルヒメ7を中心に、一マイルの間隔をとって、右翼におれとローウェイ、左翼にエンドリとパルマスが占位する」
四機が散開する。
浅間と金本が、ツルヒメ7の右、一・六キロメートルの位置につく。
それに対し、占守と早蕨が、ツルヒメ7の左側、一・六キロメートルはなれたところに機体をうつす。
数秒後、そこにはツルヒメ7を境目として、鏡でうつしたような完璧な編隊飛行をしているF-15J四機の英姿があった。
おなじ機種どうしでの編隊飛行なら、ある程度密集していても危険はすくない。
しかし、飛行特性のことなる機体が編隊をくむとなると、やはり万一のことが懸念される。むかし、アメリカで、B-70ヴァルキリーという超音速爆撃機と、F-4ファントムとF-104スターファイターという戦闘機が編隊飛行していたところ、B-70とF-104が接触して両機とも墜落する事故があった。本職でも混成飛行はむずかしいのだ。
もちろん浅間としては、そんな下手をうつつもりはないが、いまエスコートしているのは、爆撃機の試作品などではない。おそれ多くも天皇陛下がお乗りしておられるのだ。念には念をいれる必要がある。
浅間は左に首をまわした。雲さえもはるか下に流れる三万フィートの空は、果てしなく広く、そして青い。その青にまぎれるように、U-125Aの小さな機体が飛んでいるのが確認できた。
無意識に身震いがおこる。あのなかに、天皇、皇后両陛下がご搭乗されているのだ。
テレビや新聞などでしか目にしたことはないが、いまは、わずか一・六キロメートルの距離をへだてたところにいらっしゃる。そう考えると、じつに奇妙な感覚にとらわれた。
たとえることが許されるなら、映画俳優を生で見たときのような感覚。
銀幕のなかでしか見たことがないゆえに、無意識下で、現実に存在するというあたりまえの事実さえ忘れてしまっている。そこでいざ本物を目にすると、本人がここにいることが信じられなくて、逆に自分がかれの作品に出演しているような錯覚におちいる。
じぶんの思考を解剖してみて、浅間はかぶりをふって前をむいた。そんな俗な発想しかできないじぶんは、やはり俗な人間でしかないのだろう。
「アマテラスよりポリプテルス・フライトならびにツルヒメ7へ。針路を1-1-5にとり撤退せよ。詳細な航路等はおって通達する」
U-125A捜索機とF-15J戦闘機四機が了解とかえしたとき、ツルヒメ7に通信がはいる。
「ツルヒメ7、こちらシャクシャイン1。われわれも、シャクシャイン2とともに撤退する」
共有された無線は浅間たちにも聞こえている。
ヘリコプターであるシャクシャイン1と2は、最大でも時速二〇〇キロメートル程度しかだせない。
必然的に、ヘリ二機は置き去りにしていくことになる。
浅間たちは現場を見ていないが、シャクシャイン1とシャクシャイン2は、文字どおり捨て身で、天皇や皇族のかたがたを救出した。
火災で皇居が濠の美林ごと炎上するなか、低高度でホバリングし、回転翼の打ち下ろす風圧で周辺を強引に鎮火。火勢が弱まった隙をついて、ロープで隊員が吊り下がり、ひとりひとり機内に収容したのである。
かれらの勇気ある、いや、人間ばなれした果敢な行動がなければ、いまごろ天皇も皇后も、紫の庭と運命をともにしていただろう。
そういう仔細をしらないまでも、救出にそうとうな困難がともなったであろうことは、浅間でも想像くらいできる。
シャクシャイン両機の救難員たちこそ、まちがいなく英雄だった。
その英雄を、置いていかなければならなかった。
後ろ髪を引かれる思いがないといえば、うそになる。
いくら合理的だとはいっても、他人にそれを強要はできない。
かれらは、だれに言われるでもなく、その合理的な判断をじぶんたちに課したのだ。容易にまねできることではなかった。
「シャクシャイン1、こちらツルヒメ7。了解。一足先に千歳へいく。ラヴェンダー畑で会おう」
「この季節に咲いているのか?」
浅間の想念をよそに、ツルヒメ7機長とシャクシャイン1パイロットが笑いあう。
「じつはおれ、実家が北海道なんですよ。小樽でジンギスカン屋をやってるんです」
シャクシャイン2に搭乗している救難員が言い、救難隊の面子が、おー、と感嘆の声をあげる。
「この任務がおわったら、みんなにごちそうしますよ」
「それはいいこと聞いた。おい、もっと飛ばせ。ツルヒメ7を追い越せ」
「ヘリではむりですよ」
「ついでに、すすきのにいい店があったら教えてくれ。夜のほうな」
UH-60Jの乗員たちの快活な笑いが、浅間たちにもつたわる。
「ビキールたちも、ぜひきてくださいよ。うちは味には自信がありますから」
いきなり水をむけられて、浅間はどきっとした。
「ああ、おじゃまさせてもらうよ」
平静をよそおって答えたが、功を奏したかはさだかではなかった。
その直後だった。
絶叫が耳をつんざいた。
人間のものではない。機械の発する鳴動だ。
恐怖中枢を直接刺激するような、究極に耳障りな音。本能的な不安をかきたてるいまいましい波長。
音は、無線の背後から鳴り響いていた。
「レーダー警報。アンノウンからレーダー照射を受けている」
シャクシャイン2パイロットの切迫した声。
「見つかっちまったか。チャフとフレアをありったけバラまけ。遮蔽物をさがせ」
「ちくしょう、アラートが鳴りやまない」
警報音が、ひときわ高い悲鳴をあげはじめた。
「ロックオンされました」
既視感。まったくおなじ状況を、浅間たちは先刻目の当たりにしたばかりであった。
「回避機動。つかまってろ、機体をふりまわす!」
「ミサイル接近。弾着まで10セカンド」
「外れろ」
無線が阿鼻叫喚でうめつくされた。シャクシャイン2の乗員たちの喉からほとばしる怒号と絶叫に、耳をふさぎたくなる。
「ビキール」
シャクシャイン2のパイロットが、かすれた声で浅間のTACネームをよぶ。
「天皇を、日本を、たの」
無線は途中でとぎれた。
一瞬呆然とし、浅間はシャクシャイン2のコールサインを呼びつづけた。
しかし、返事は空電の砂嵐のみだった。
「こちらアマテラス。シャクシャイン2、レーダーからロスト。なんてことだ……」
空中管制機の管制官の声色にも、おさえがたい激情の起伏があった。
「マジもんの『ブラックホーク・ダウン』かよ。シャレになんねぇぞクソッタレが」
金本が間の抜けた笑いをもらす。レーダースコープ上でしか事態を把握できないため、実感を得られていないのだろうか。
「アマテラスより各機、遠距離にレーダー反応。方位2-4-9、距離七十五マイルに国籍不明機の機影あり。複数」
アマテラス管制官にも焦燥があった。不明機は、位置と距離的に、救難ヘリコプターの真後ろに陣どっている。
ただし、かなり遠い。
「データ照合。該当する遭遇記録あり」
無線機のむこうで歯噛みする。
「分析が完了した。国籍不明機群は、Su-35だ」
ある意味で予想どおりといえる状況だったが、それでも動揺は禁じえない。
悪夢はつづく。
「アマテラス、シャクシャイン1。こちらもロックされた」
もう一機の救難ヘリコプターも、狙われていた。シャクシャイン1パイロットの報告を塗りつぶすほどの音量で、レーダー警報が泣きわめく。
「くそっ、北朝鮮のやつら」
「パルマス、編隊を乱さないで。わたしたちは天皇陛下をお守りしなければならない」
「わかってる、わかってるよ、そんなことは!」
ヘルメットに仕込まれた無線機から、警報が絶え間なく響く。レーダー波を浴びているのはシャクシャイン1なのに、まるでじぶんの機体がロックオンされている錯覚におちいる。
不快な周波数の大合唱に、胃が焼けつく。こうも長時間きいていると、聴覚がただしく音波をとらえられなくなる。音が変質して、耳元で赤ん坊が泣き叫んでいるように聞こえてくる。
「くそっ、死にたくない。まだおれは死ねない。あいつのお腹にはおれの子がいるんだ。あいつを一人にはできない。死にたくない、死んでたまるか」
シャクシャイン1の搭乗員のひとりが、うわごとめいた呟きをもらす。
次の瞬間、すさまじい爆音がヘッドセットから炸裂したかとおもうと、シャクシャイン1との通信が切れた。
「シャクシャイン1の識別信号、消失」
アマテラスの報告が、むなしかった。
浅間の脳裡に雷撃。最悪の可能性に思いあたる。
「まさか、ツルヒメ7の救難信号が傍受されたのか?」
からだの芯から震えが起こる。
もしその予想があたっていれば、敵は救難隊が天皇を救出し、東京から脱出させようとしていることを知っていることになる。
「あいつらの狙いは、天皇陛下だ」
天皇は、法律上は日本国の象徴などとあいまいな定義がなされているが、事実上の国家元首である。
その国家元首を討ち取る。これほどわかりやすい勝利もないだろう。
首都を電撃的に空爆したうえで、天皇を殺害し、完璧な決着をつける気なのだ。
「かりにそうだとしても、ビキール。もう天皇はツルヒメ7にお乗り換えいただいたんだ。ロクマルをやる意味は……」
「自閉症じゃないなら敵の立場になって考えてみろローウェイ。相手からすれば、救難隊が天皇を救助したことをつかんでいても、かならずしもツルヒメ7に搭乗させているとは考えない」
浅間はひとつひとつ確認していく。
「おれたちはマジで切羽つまってたから、速度のでるジェット捜索機に乗り換えていただくという、いわば正攻法に出た。避難するのだからヘリよりもジェット機のほうがいいというのは、むしろわかりきったことだ。最善策だけにだれでも思いつく。だが、攻めるほうとしては、確実に仕留めたい。裏をかかれて取り逃がす事態はぜったいに避けたい。ツルヒメ7に乗せかえたと見せかけて、じつは天皇はヘリで脱出していたらと、いらんことを考える」
「ツルヒメ7をオトリだと思ったと?」
「可能性としてそう考えた公算がたかい」
「ヘリコプターのほうに目標が乗っているかもしれないから、とりあえずヘリコプターも墜としておこう。当たりなら万々歳、外れでも、逃がしちまうリスクと引き換えなら安いもの。全部墜としちまえば当たりをひくだろう。そういうことか」
酸素マスクのなかで長く息を吐く。
ミサイルは高い。F-15Jが装備するサイドワインダーなら一千万円、スパローで一千五百万円ほどもする。むこうのミサイルも似たようなものだろう。
わざわざミサイルを使ってまでヘリをねらい撃ちする理由はそれしか考えられない。
浅間は左を飛ぶツルヒメ7に目をむけた。嫌な予感がする。
「アマテラス、こちらツルヒメ7。レーダー照射を受けている」
嫌な予感は超音速で的中した。本命をねらいにきたのだ。
レーダーを見ても、じぶんたち以外になにも映っていない。レーダーのレンジを、より広範囲に切り換えてみる。
すると、ツルヒメ7の後方二〇〇マイル(三二〇キロメートル)あたりにまで近づいてきている光点があった。もちろん敵味方識別装置に応答はない。やつらだ。
「こんな距離から……」
占守のつぶやきが、全員の驚愕を代弁する。
すさまじく長い探知距離だった。三二〇キロメートルとは、ゆうに東京から名古屋間の距離に匹敵する。
ツルヒメ7もF-15Jイーグルも、時速八〇〇キロメートル以上の高速で戦域を離脱している。
だが、追ってくるのは生粋の戦闘機だ。イーグルはともかく、U-125Aでは勝負にならない。土俵がちがう。
そもそも完全に追いつく必要もないのだ。レーダーとミサイルの射程に入れさえすればよい。
レーダー上で、Su-35がこちらに猛追してきているのが確認できた。もう一〇〇キロメートルもない。このままミサイルの有効圏内まで接近する気だ。
「アマテラス、こちらツルヒメ7。敵のレーダー波が索敵から追尾に変わった。ロックオンされた」
U-125Aパイロットの悲痛な声。
浅間たちとアマテラス管制官が、苦鳴に似た呻きをもらす。
ロックオンしたあとはミサイルを発射するだけだ。フレアもチャフもない、アフターバーナーすらない救難機にミサイルは難なく食いつき、搭乗の天皇、皇后両陛下ごと、機体をばらばらに四散せしめるだろう。
破滅の未来が目にうかぶ。
東京を潰滅させられ、さらに天皇家をも滅殺されたとなれば、民族的に依存心のつよい傾向のある日本人は、精神的に完全に屈服してしまうだろう。一種の放心状態となる。
そこへ占領軍がくれば、それが北朝鮮であっても服従してしまうおそれがある。
前例がある。日本人は、戦前、戦中は、軍部や東條英機首相を英雄と讃えていたくせに、負けたとたん、てのひらを返してアメリカ軍に尻尾をふった。
璋子の今は亡き祖母がときおり語っていた昔ばなしを思い出す。
『マッカーサーをはじめて見たとき、世の中にこんなに格好いい人がいるのかとびっくりした』
ついきのうまで全土を空襲して同胞を焼き殺していた相手を、敵視するどころか、むしろあこがれの存在として見るようになる。
長いものには巻かれろ、に代表される日本人の気質はいまも変わっていない。
天皇の弑逆をゆるせば、また大東亜戦争終結のときとおなじか、それ以上の悲劇がおこるかもしれない。
日本語も、日本の歴史も、すべてが奪われ、日本が北朝鮮の属国となる。
北朝鮮は、国民を飢えさせても政府や軍を優先させる国だ。脱北者によれば、政治犯などは、人権すらも存在しない強制収容所で動物のように虐げられていると聞く。
自国民にそんな苛烈な仕打ちをはたらく国が、属国となった日本人をどうあつかうか。想像するだけで怖気がはしる。
そんなことを許すわけにはいかない。
未来は終わらせない。
浅間は覚悟をきめた。
「おい、ビキール?」
金本の疑問の声も無視し、浅間は機を編隊から抜けさせた。
そして、速度と高度を調節しつつ、ツルヒメ7の真後ろ、わずか五〇〇メートルのところに乗機を移動させた。
とたんに機内にレーダー警報の不快な音波が鳴り響く。敵機からツルヒメ7に向けられていたレーダー波を、浅間が間に割り込むかたちで遮ったからだ。
「危険だ、ポリプテルス1」
警告するアマテラス管制官に、浅間は返した。
「戦闘機パイロットには代わりがいるが、天皇はおひとりだからな。これが合理主義ってなもんだ」
口調こそ平静をよそおっていたが、浅間の心臓はかき鳴らされるアラートでこれ以上ないほど早鐘を打っていた。はげしい動悸に、心臓が口から飛び出してしまいそうだ。
パイロットとしての本能が機体を敵の射界から外そうとするが、強烈なまでの意志でそれをねじふせ、浅間はみずからの体でツルヒメ7をかばい続けた。
電子戦システムがレーダー波に対応した妨害電波を発信、一時的に自機へのロックを解除させるが、またすぐに別な周波数のレーダーが照射される。
こちらから先手を打てない以上、いつかはミサイルを発射されるだろう。
この状況でのそれは撃墜と同義語だ。
鳴りやまないレーダー警報に、理性が崩壊しそうになる。
と言って避ければその隙にやつらはU-125Aにロックオンしなおすだろう。逃げることはできない。
かりにミサイルを射たれた場合、あたりどころが良くて任務続行が可能な状態なら、浅間ひとりだけとはいえ正当防衛の条件が成立する。
合法的に反撃ができる。
そうなれば御の字だと、浅間はどこか他人事のように思った。大手をふってこの無法者どもにサイドワインダーの鉄槌を下せる。
しかし同時に、きわめて難度のたかい条件であることも承知していた。
敵からのミサイルを避けずに食らい、なおかつ空戦ができる程度にダメージが抑えられるように当たる。やれるのか?
コクピット内の警報が騒々しさを増した。一機だけでなく、複数の機体からレーダー照射を浴びている。
「コーション、コーション、コーション、コーション、コーション……」
コンピュータが浅間にいますぐ回避しろと、機械的な女性の音声とアラートの混声合唱をもって、狂気のようにわめいた。
威嚇だ、と浅間は自分に言い聞かせた。一機の戦闘機に何機もがよってたかってレーダーロックすることに意味などない。戦うことを禁じられた国の哀れな戦闘機パイロットが、恐怖に耐えきれずU-125Aへの射線を空けるのを、舌なめずりしながら待っているだけだ。
そう思いこもうとしても、背後に何頭もの肉食獣が迫っているも同然の状況に、手が震え、足が震える。ハリソン・フォード主演の『エアフォース・ワン』のクライマックスで、敵のミサイルから大統領専用機を守るためにその身を挺して散った、名もなき戦闘機パイロットの最期が脳裡をよぎる。
死が、明確な形をとって追いかけてくる。
◇
敵軍の通信が聞こえるわけもないので、浅間らは知るよしもなかったが、ツルヒメ7を狙っていた人民空軍パイロットたちは、自軍の空中指揮通信機に下知を求めていた。
「カマクナラ1から黄蓋号へ。我と第一目標との間に自衛隊機が乱入。攻撃の是非を問う」
「こちら黄蓋号。自衛隊機への攻撃は許可できない。すでに大勢は決している。第一目標撃墜は中止。すみやかに編隊へ戻られたし」
「了解。攻撃を中止し、編隊へ戻る」
かれらは賢明だった。じぶんたちの優位性が、自衛隊に戦力でまさることではなく、敵勢力に反撃もできないという自衛隊の特殊性に起因することを知っていた。
Y-8AEW空中指揮通信機のいうとおりだ。むりに深追いせずともよい。
いまここで叩かなくとも、いずれ自衛隊は全滅する。天皇も、むしろあとで拘束して、公開処刑にでもしたほうが民衆へあたえる効果は大きいだろう。
死にゆく者に拘泥するよりも、首府を完全に手に入れることのほうが重要だ。
手段と目的をいれちがえてはならない。
◇
唐突に、あれほど騒いでいたレーダー警報がぴたりとやんだ。
機内に静寂が戻る。なんの音もない。
実際にはエンジンの轟音やそれを上回るエアコンの騒音が響いているのだが、それらの音はほとんど生活音として耳になじんでいるので、とくべつ意識にのぼらなかったのだろう。
アラートの鳴らないコクピットというものは、何とこのような静かなものだったのか。
まだ耳の奥に警報が残響しているが、たしかにアラートは止まったのだ。
レーダースコープを覗くと、後方にいた敵機たちが統率された動きで右に旋回、飛び去っていくのが見えた。
浅間は極大の安堵に胸を撫で下ろして息を吐き、そこではじめて自分が呼吸を止めていたことに気づいた。
「無茶しやがる。見てるこっちがタマ縮んだぜ」
金本の無線に、浅間はわれに返った。
「ローウェイのがそれ以上縮んだら、ステルス性が高すぎて肉眼で視認できなくなるんじゃないか?」
軽口を叩き、過剰な緊張にさらされた心を慰撫する。
ふたたび編隊を組み、針路をもどす。
「ポリプテルス・フライト、こちらアマテラス。空中給油機を上げてある。会合点をそちらのレーダーに表示する。高度を25エンジェルまで下げてくれ」
勤厳なアマテラスの指示も、どこか気づかうような波長があった。
給油をうけ、一路、千歳へとむかう。
北上する中途で、福島の大滝根山分屯基地や、宮城の松島基地から飛び立った航空団とも合流した。
パイロットたちの顔など見えるはずもないが、日本を代表する空のエリートたちが、こころなしか、親から見放された雛鳥のように不安そうに飛行しているように感じられた。
それは気のせいではなかった。
日本は、負けたのだ。
そして、最初の戦役で敗れた国は、往々にして戦争そのものに敗北している。歴史が証明している事実だ。
皆、不気味なほど無言で飛んでいた。飛行機を操縦する作業をしているあいだは、よけいなことを考えずにすむ。
それでも、これからいったいどうなるのだろうかと、暗憺たるきもちが全身にのしかかってくるのは、どうしても避けられないのだった。
浅間はコクピットのなかで、うしろを振り向いた。いま戦闘機は岩手県上空にさしかかっている。東京などもう見えるわけもない。
それでも、浅間は、ひとり、祈った。
「璋子、香寿奈……無事でいてくれ。かならず戻る。かならず戻るから……」
◇
浅間璋子の行動は早かった。異常を察知する端緒となったのは、娘のこんなひとことだった。
「おかあさん、テレビが映らない」
台所で朝食の用意をしていた璋子は、そのときはたいして不審にも思わず生返事をした。
娘の香寿奈はことしの春に中学生にあがって、子供とよばれる時期は卒業したとでもいうようなふるまいをするけれど、やはりまだまだ子供だ。ひとりっ子のうえ、父親が自衛隊のパイロットという職業柄、家を空けがちなため、肉親といえば祖母と母親くらいしかいない。
その祖母は恍惚の人となりつつある。
香寿奈にはまだその病気の意味がほんとうには理解できていないながらも、ときたま会話が成立していないこともある。
親として頼る相手が璋子しかいないということくらいはさとっているらしい。
だから、なんでもないことでも母をよぶのだろうと、まだその程度にしか考えていなかった。
「おかあさん……」
さながら怨嗟の響きをもって催促する娘に、璋子はあくびをかみ殺し、洗った手をエプロンで拭きながら応接間に向かった。
さていまどきブラウン管のテレビは、たしかに砂嵐を放送していた。
灰色のノイズばかり映し出しているテレビの前で、制服姿の香寿奈がリモコン片手に奮闘している。
番組をつぎつぎ変えていくが、どのチャンネルもまったくおなじだ。唯一、国営放送だけがなにかしらの画像を映したが、画面がひどくゆがんでおり、とても見られたものではなかった。
「ほんとね。テレビの機嫌が悪いんじゃないの? それともまだ眠いとか?」
「おかあさん、いくらなんでも、それは非科学的だよ」
大人びたことをいう娘に苦笑しつつ、璋子はテレビの裏側の配線を確認した。
アンテナや入力端子はただしく接続されている。テレビが故障したのだろうか。
璋子はおもむろに右掌に息を吐きかけ、刹那、おもいきりテレビの側面を平手打ちした。
画面が一瞬、はっとしたように光ったが、砂嵐の支配は終わらなかった。もう一回たたく。状況は変わらない。
みたび殴打しようとしたところで香寿奈にとめられた。
「おかあさん、おかあさん、壊れる壊れる」
「でも、ほら、昔とうさんと観に行った映画でそういうのがあったのよ。テレビじゃなかったけど、隕石から地球をまもるために宇宙へ行く映画で、ロシアの宇宙飛行士が故障したスペースシャトルを直すときにばんばん殴りまくってたの。なんでも機械を直すには殴るのがいちばんだって」
「そんな、女子供をしつけるのにはゲンコツみたいな考え方、いまどき流行らないよ。よけいおかしくなっちゃう」
「叩いても直らないんじゃしかたないわね。はやくご飯食べちゃいなさい。遅れるわよ」
目をこすりながら適当にはぐらかすと、電源を切った香寿奈が「朝の血液型占いが見たかったのに」と愚痴をこぼしてのっそりとテーブルに移動した。学校は夏休みだが、バスケットボールの部活は練習を休ませてはくれない。
璋子はくすりと微笑んだ。母親にとっては、娘が頬をふくらます所作さえも可愛くみえるものだ。
「そうね、テレビが壊れたんなら、とうさんに内緒で大型の液晶でも買っちゃおうか?」
「とうさんが帰ってきたら、たぶん一日じゅうテレビにかじりついて離れなくなるとおもうよ」
席についた香寿奈が「いただきます」と手をあわせて箸をとる。
浅間家には、朝食はその日の弁当のあまりで作るという奇妙な習慣がある。もちろん奇妙だなどと思っている人間はこの食卓にはいない。
「おばあちゃんは? 起こさなくていいの?」
「朝の、えーと、四時ごろだったかしら? に起きてて、お腹がすいたっていうから、簡単なものつくってあげたわ。いまはおやすみ中」
新鮮な夏野菜を頬張っていた香寿奈の箸がとまる。母親がどことなく眠そうな理由がわかってしまったからだ。
認知症の人間が未明に起きていて、それだけだったわけはないだろう。
香寿奈の祖母は以前にも、ふたりが寝静まっているときに家をぬけ出したりしたことがあるのだ。
それも、一度や二度ではない。
「ごめんなさい」
「どうしてあなたが謝るの?」
「わたし、ぜんぜん気づかなくて……」
うつむく娘に、璋子は大げさに手を振って笑った。
「あなたがそんなこと気にしなくてもいいのよ。あなたのせいってわけじゃないし、おばあちゃんだって悪気があってやってるんじゃないんだから」
祖母の奇行に母が神経をすり減らしていることは、香寿奈だってよく知っている。
けれど母は気丈だ。弱音を吐いたことはただのいちどもない。娘に手を貸してと頼んだことさえ。
だからじぶんが率先して璋子の負担をへらすよう、できるかぎり手伝わなければならないと、子供ながらに決めているものらしい。
「でも、おかあさん……」
「なあに?」
顔をさげたままの香寿奈が、蚊の鳴くような声をしぼりだす。
「わたしだって、すこしはおかあさんの役にたちたい……」
璋子は一瞬、あっけにとられて、それからやわらかく微笑んだ。
「ありがと」
テーブルごしに娘の頭をなでる。清潔な髪のにおいが咲き誇った。
「でもね、かあさん、おばあちゃんのことを重荷におもったことなんていちどもないのよ。とうさんとかあさんの結婚におばあちゃんだけが賛成してくれたし、いろんなことを教えてもらった。それにね」
おどけたふうに続ける。
「とうさんみたいにひねくれた人を見捨てずにちゃんと育てて、戦闘機パイロットなんて大それたものにしたのは、やっぱりおばあちゃんだもの。そう考えると、すごいと思わない?」
「うーん、まぁ、それはたしかに……」
璋子は器用に片目をつむってみせた。
「おばあちゃんのことはね、だぁれも悪くなんてないの。ただおばあちゃん、いままで頑張りすぎてたから、すこし疲れちゃってるのね。だから今は、わたしがお世話になったぶん、おばあちゃんにお返ししているの。香寿奈が深刻にかんがえすぎることないのよ」
香寿奈が返事もあいまいに塞ぎこむ。
この子にとっては、手伝いを頼まれないことがこのうえなく不満なのだろう。
頼りにされてはじめて家族の一員として認めてもらえる。子供には子供なりの矜持というものがあるのだ。
だから母はやさしく笑いかける。
「とうさんが留守のあいだ、ふたりでいっしょにがんばろうね」
香寿奈が顔をあげ、表情に輝きが戻っていく。
もとより笑うと花がこぼれるような愛らしい香寿奈が、満開の花を咲かせる。
ひまわりのようにまぶしい笑顔で、香寿奈が首を大きく縦にふった。
それをみた璋子の体には、もはや疲労など一グラムも残っていなかった。
「さ、はやく食べちゃいなさい」
言われた香寿奈はすなおに朝食をとりはじめる。
すこしばかり真剣な話をしたあとなものだから、なにか話しかけたほうがいいかな、と思って、適当に話題をふってみる。
「髪、伸びたんじゃない? バスケするんならみじかいほうが楽でしょう」
小学生のころはつねに短めに切っていた香寿奈の髪は、いつのまにか肩にかかるかかからないかくらいになっていた。
香寿奈は前髪を指でもてあそぶ。
「伸ばしてるんだよ。おかあさんみたいにきれいな髪にしたいもん」
そういうものか、と璋子は陶杯の麦茶に口をつけた。
料理の掃討を再開した香寿奈が「そうだ。ネットで血液型占い見ればいいんだ」と携帯電話をとりだして操作。
その首をかしげる。
「どうしたんだろ。ネットにつながんない」
「ご飯のときくらいケータイをしまいなさい。それに変なところで課金しちゃっても、かあさん知りませんからね」
「そんな脳足りんみたいなことしないよう」
娘がさらにむきになって携帯のボタンをあれこれ押す。
みかねて、璋子は「貸してみなさい」と香寿奈に携帯を渡させた。
また叩いて直そうとしないでよ、と香寿奈がつけ加えたのは聞かなかったことにする。
携帯電話の液晶画面には、いましも離陸しようと前脚をあげているグレイの戦闘機、F-15Jイーグルの勇姿が待っていた。
垂直尾翼に、百里基地第307飛行隊の部隊マークであるオオムラサキのエンブレムが描かれている。
香寿奈の父親、そして璋子の夫が所属する飛行隊のエンブレムである。
夫が、離陸するところを仲間に撮影させ、香寿奈にメールで送ってきた画像だ。待ち受けにしているということは、この子なりに、戦闘機パイロットの父親のことを気にかけているらしい。
そういえば、小学生のころは、父親とおなじ飛行隊の占守という若い女性パイロットにべったりで、大人になったらお姉さんと同じ戦闘機パイロットになる、とか言ってたっけ……。
そんなことを思い出していると、璋子のぱっちりした目が異変をみつける。
画面上部、バッテリー残量表示の横。電波の受信状態を示すアイコンが、『圏外』となっていた。
ためしに電話帳機能をつかい、じぶんの携帯に電話をかけてみる。
右耳に香寿奈の携帯をあてつつ、左手に自身の携帯電話をもって待機。
香寿奈の携帯は、呼び出し音すら鳴らずにメッセージを流しはじめた。
「ただいま、通信が非常に混雑しております。しばらくお待ちになってから、おかけなおしください……」
璋子の妍麗な顔が曇る。となりに通話相手の電話があるのにつながらないとは、どういう了見なのか。
ついでにみずからの携帯電話も確認する。タッチスクリーン式の高機能携帯も、案の定、好ましくない情報を表示していた。『圏外』。
東京のような大都市では、携帯がとつぜん圏外になることはめずらしいことではない。電波が過密にすぎて混信してしまうためだ。
しかし、璋子はなにか妙な予兆を感じていた。なんだかわからないけれど、いやな予感がする。見えない蟻が何億匹も足から登ってきているような、ぞわぞわとした感覚。
璋子は勘に突き動かされるままに立ち上がり、応接間を横切って押し入れをあけた。
震災やなにかが起きて避難しなければならなくなったときのために用意しておいた大型のリュックをひらく。夫が自衛官であるだけにもしものそなえはおこたっていない。
リュックのなかに手を突っ込む。
ミネラルウォーターをつめた五〇〇ミリリットルのペットボトル四本に、携帯簡易トイレ、アルミを蒸着させた保温ブランケット、水を汲むのにべんりな釣り用のおりたたみバケツ、サランラップにガムテープ、救急セット、ごみ袋、生理用品、水を入れると熱を発生させて勝手に炊きあがる白飯パックなどなどがひしめく中から、目的のものをとりだす。
手回しで充電してつかえる懐中電灯だ。この懐中電灯は、照明としてもつかえるし、携帯電話の充電もできるうえ、警報もついている多機能型だ。
充電用のハンドルをまわし、その機能のひとつ、FM/AMラジオを起動させてみる。
スピーカーから流れ出てきたのは、テレビとおなじく混沌とした砂嵐だ。チューナーを調整する。ゆっくりと各周波数帯にあわせる。
だめだ。いっさいの放送を受信しない。意味ある音声を拾わない。
震動。
最初は家の前をダンプが通っているくらいの、ふだんなら気にもとめない微細な揺れだった。
それが、しだいしだいに大きくなっていく。はっきりと体感できるほどの震動に化ける。
テーブルの上で朝食を乗せた皿や陶杯が踊る。璋子のマグカップが縁から落ちた。床でばらばらに砕け、満たしていた麦茶がぶちまけられる。香寿奈の悲鳴。
日本でこんな現象が意味するものはひとつしかない。地震だ。
だが璋子は、これが地震でないとわかっていた。
地面が揺れているのではない。
空気が鳴動しているのだ。
璋子は応接間に逆戻りして庭に通じるガラス戸をあけた。
家の中と外との境をなくしたとたん、爆音が奔流となって押し寄せてきた。
天の上で百万のティンパニを打ち鳴らしているような、すさまじい重低音。気合いの入った暴走族が一個師団あつまっても、これほどの騒音はだせない。
空をふりあおぐ。真夏の水蒸気にかすんだ水いろの天井。綿飴のような雲。太陽がまぶしく、彼女は目を細め、手をかざした。
ふいに、それは現れた。
とてつもなく巨大な影だ。それが青空を呑みながら、すーっと近づいてくる。
うしろにきていた香寿奈が、なにあれ、とおびえた声をだす。璋子の服の腰をつかんだその手は、えたいのしれないものに対する純粋な恐怖で震えていた。
戦闘機パイロットを夫にもつ璋子でも機種まではわからない。だが、自衛隊機でないことだけははっきりとしていた。じぶんたちにとってあまり愉快な存在ではないということも。
手にしたままの懐中電灯兼ラジオは、いまだに雑音だけを流しつづけている。
璋子はおもいだしていた。いつか夫に言われていたことを。
日本がどこかの国に喧嘩を売られたとき、戦闘機パイロットの任務を遂行しなければならないから、じぶんはここにはいない。だから、すべてをおまえにたのむことになる。
敵が攻撃をしかけてくるときは、かならずこちらの通信をだまらせてから侵攻してくる。テレビが映らなくなったりケータイがつながらなくなるんだ。
そう、ジャミングだ。
ジャミングをかけられたらまずまちがいない。やばいことになる。
そういうときは、香寿奈を連れて、人口密集地からにげろ。基地もだめだ。基地は敵の目標になる可能性がたかい。
あ、ついでのついででいいから、おふくろも頼む。もうろくしてるから足手まといになるってんならべつに捨て置いても……まて、殴るな。すまん、おれが悪かった。勘弁してくれ。……
夫はふざけ半分でしかものを言えない人間だったが、逆にいえば、だからこそ、万が一のときのことをじぶんに託したのだろうと理解できた。
その万が一が、現実になろうとしている。
璋子はしらない。そこから三〇キロほどの都心部で、千代田区を中心にして絨毯爆撃がおこなわれたことを。
その仕事をおえた爆撃機が、まさに踵をかえして帰還していくところだったことを。
テレビも携帯電話もラジオも、情報媒体はすべて使い物にならなくなっているのだ。知りようがない。
けれども彼女は本能的に察知していた。なにかとんでもないことが起きている。
浅間家上空を通過していったTu-4長距離戦略爆撃機は、四発プロペラの轟音を置き土産に響かせながら遠ざかっていった。
爆音が遠雷のようになったあと、璋子はガラス戸を閉めて施錠して、
「香寿奈、おばあちゃん呼んできて。それと、お部屋のクローゼットに、避難用のリュック置いてあったでしょ。あれ持っといでなさい」
とみじかく言った。
「おかあさん、おかあさん。ねえ、どうなってるの。あの飛行機なんなの」
香寿奈はうろたえるばかりだ。説明しているひまはない。璋子は香寿奈の薄い両肩をつかんだ。
「わけはあとで話すから、言われた通りにしなさい。わかった?」
香寿奈は首をなんども振ってうなづいた。
引き出しから通帳や印鑑、キャッシュカード、保険証をかき集め、リュックに放り込む。
戸締まりを確認していると、じぶんのリュックを背負った香寿奈が義母をともなって応接間に下りてきた。
義母はなにごとかはわかっていないようだけれど、にこにこと笑いながら手を引かれていた。
無邪気な笑顔は子供のようだ。
璋子はラックにひっかけてあった車の鍵をひったくるようにとった。
ふたりで手を貸しつつ、年老いた義母を連れ出す。
家の外は、時ならぬ異変に騒然となっていた。いつもは閑静とした住宅街が、にわかにざわめいている。
あれほどの騒音を撒き散らしながら爆撃機が頭上を飛んでいったのでは、むりもないだろう。
だが、人びとの目にあるのは、好奇心と興味が主成分だ。璋子のように危険を感じている人間はひとりもいない。
「あら、璋子さん、さっきの見ました?」
声をかけてきたのは、野次馬のひとりとなって空を見上げていた隣家の主婦友だちだった。
「けさからテレビは映らないし、電話も通じないし。うちだけかと思ったら、このへんのお宅みーんな、そうなんですって。気味悪い飛行機も飛んでますし、ほんと、どうなっちゃってるんでしょうねえ」
つぎに璋子たち三人のようすに気づき、
「どうしたんですかその格好。どっかへお出かけですか」
と呑気に言った。
「いいから荷物をまとめてください」時間が惜しい。「一刻もはやく逃げるんです。なにが起きているかわかったときには、もう手遅れになっているかも。とにかくここから離れてください」
カーポートに駐めてあるワインレッドのアウディA4アバントに義母と娘を乗せながら、必死に訴える。
かなり急かしこんでいる。
そんな璋子の姿を映す主婦の目に、冷笑の色が浮かんだ。
「奥さん、そりゃあ、毎日毎日、その、ねえ、いろいろとお疲れでしょうし、あんなもの見れば恐くなるのも当然でしょうけどねえ、ちょっとオーバーなんじゃありませんか。もしそんなに危ない飛行機なら、自衛隊が動かないわけないでしょう? まぁ、実のおかあさんをほっぽって仕事に行ってるようなご主人ですし、お仕事くらいちゃあんとやってもらわないとこまるんですけれどもね。わたしたち納税者の税金でお給料もらってるんですもの。ねえ?」
唇が三日月の円弧をえがく。
「ほんと、自衛隊はなぁにやってるのかしら。奥さんなら、ご存じなんじゃありませんか? 自衛隊がお仕事してるんなら、なぁんにもあわてるようなことありませんものねぇ」
「おとうさんのことを悪く言わないで!」
耐えかねた香寿奈が車から下りようとする。璋子はそれを制した。
「だって、おかあさん……」
「いいの。黙って乗ってなさい」
たしなめられて不承不承、後部座席にもどった香寿奈の横で、義母に変調。
幼子のように笑っていたのがうそのように、落ち着きをうしなう。
「おばあちゃん、どうかしたの」
香寿奈が肩をたたくが、まったく意に介さない。彼女の世界は閉じた円環のように外界から孤絶している。
ただ、そのひびわれた口唇が、機械のように言葉をつむぐ。
「おじいさん、おじいさんはどこ。おじいさんおじいさん……」
璋子は柳眉をひそめた。義母の伴侶はとっくのむかしに鬼籍の人となっているからだ。
認知症は記憶だけが過去にタイムスリップするようなものだ。義母のなかでは、まだ亭主が健在な時代をともにすごしているつもりなのかもしれない。
世界から見放された子供のように手足をばたつかせて暴れる義母を、香寿奈が必死になだめる。
璋子はふいに天啓のように思いあたった。
「香寿奈、ごめん、ちょっと待ってて。おばあちゃん見てて」
いちど閉めた玄関の鍵をあけ、家に入る。
廊下をわたり、応接間のとなりの和室の襖をひらく。
部屋の奥には、黒々とした仏壇がひっそりとたたずんでいた。
観音開きの扉をあけはなち、目的のものを手に取る。
急いでもどると、いまにも車のドアをあけて出ようとする義母を、香寿奈が全力でとめようとしているところだった。車のすぐ横では隣家の主婦が憫笑をたたえて眺めている。
「お義母さん。おじいさん、連れてきましたよ」
ぎょっとして香寿奈がふりかえる。少女の顔は死霊でも連れてきたのかと驚いていた。
手にしたものを義母に差し出す。かたわらの香寿奈の大きな瞳には、不可解さと疑問符とがあった。
「位牌……?」
璋子が手渡したのは、黒地に金の字で義父の戒名が掘られた位牌だった。
「おかあさん、これはちょっと冗談にしちゃ悪いんじゃ……」
そう言おうとした香寿奈の口がとまる。
位牌を差し出された義母は、それを見るなりぽろぽろと涙をこぼして、
「おじいさん……」
と、顔をくしゃくしゃにして押しいただいたのだ。
義母は位牌を宝物のようにだいじそうに抱くと、また澎湃と落涙した。まるで位牌が亭主そのものとでもいうかのようだった。
璋子は、義母がふだんいつも仏壇の位牌にむかってなにやら話しかけていたのを目にしていた。だから、なんとなく位牌のことを言っているのではないかと思ったのだ。
横ではあいかわらず主婦が、見世物をみるかのような目つきで一連のできごとを注視している。
念のため、もういちどだけ忠告しておく。
「はやく逃げたほうがいいです。町内のひとたちにもつたえてください」
「はいはい、わかりました。自衛隊がちゃんとしてくれれば避難なんてする必要ないのに、なんの役にも立たないから家を捨てて逃げなきゃいけないハメになったって、ご近所に言っておくわ」
おそらく逃げるつもりも伝えるつもりもないだろう。ただ嫌味が言いたいから了承したふりをしているだけだ。
無菌室でそだった動物は、ただの風邪でも重症になり、死にいたってしまうこともある。
いままでがあまりに平和すぎたがゆえに、危険が目の前に迫っても正常に対応できないのだ。
ともあれ問題はすんだ。あとはここを離れるだけだ。
そのとき。
「あ、自衛隊だ」
車内の香寿奈が道路のさきを指さした。
むこうから、ゼロ戦みたいに地味な暗緑色のトラックが姿を現した。大型トラックは角をまがり、まっすぐこちらにむかってくる。
荷台を箱型の幌で覆ったその見た目は、たしかに陸上自衛隊の輸送トラックのようにみえる。
トラックが車道のど真ん中で停止する。距離的には璋子たちから二、三〇メートルくらいといったところか。
外に出ていた住人たちがトラックに注目する。
荷台から迷彩服がつぎつぎと下車してくる。
下りてきたひとりが言った。
「さきほど政府からこのあたり一帯に避難命令が発令されました。避難地域まで誘導しますので、ちかくにお住まいのかたは全員でてきてください。大至急おねがいします。したがっていただけない場合は、処罰の対象になる可能性があります。どうかご協力をおねがいいたします」
迷彩服の宣告に人びとがあいまいに笑いながらうなずき、隣近所に声をかける。
その風体に緊張感はない。自治体がたまに実施する避難訓練の延長のように思っている感じだ。
ただ、それに本物の自衛隊がきているだけあって、突発的な娯楽行事に物珍しさもくわえられているようだ。
迷彩服たちが横にならび、蝟集する住民を見渡す。
璋子は、その光景に、いちじるしい違和感をいだいた。
なにがちがうのかはわからない。
だがたしかになにかがちがう。
そのとき璋子の胸中にきざしていた存念とは、こうであった。
日本の自衛隊というのは、あんな装備だっただろうか?
璋子とて日常的に自衛隊と接しているわけではない。夫のように戦闘機とか戦車とかの知識にあかるいわけでもない。
ではこの気持ち悪い感じはなんなのか。
まるで靴を左右反対に履いてしまったときのような、あるいは外国人が見よう見まねでつくった、微妙にずれている日本庭園を見たときのようなこの違和感は、どこからきているのか。
「奥さん、自衛隊がおいでなさいましたよ。あなたひとりが慌てる必要なんて、どっこにもありませんでしたね。ばか正直に聞かなくてよかったぁ。わたしまで恥をかくとこでしたわ」
隣の主婦が大仰に肩をすくめながらトラックのもとへと足をのばす。
璋子にはまるで聞こえていなかった。魚の小骨がのどに刺さってとれないような気持ちにさいなまれていたからだ。
わからない。なにがわからないのかさえ、わからない。
では逆に、いったいなにがちがうのか、璋子はトラックから吐き出された迷彩服たちを穴が空くほど観察した。
頭から爪先まで迷彩だ。明るい緑と暗い緑、土のような茶と黒が、複雑なまだら模様をなしている。
頭には、その迷彩がほどこされたヘルメット。正確には、88式鉄帽というらしい。
戦闘服ももちろん迷彩だ。陸上自衛隊で制式採用されている迷彩服2型とよばれるもので、その上からさらに防弾チョッキ2型を装着している。
夫に連れられてなんどか演習を見に行ったことがある。たしかにどこからみても、演習のときみかけた陸自の隊員とかわらない。
さまよう視点が一点に集中する。
迷彩服は、皆、首から負い紐でさげた小銃を両手にかかえている。
その小銃は、前をむいてカーブした、独特なかたちの弾倉が生えているのが特徴的だった。
射撃のさいに肩にあてて安定させる銃床は、直角三角形の枠みたいに簡単なつくりだった。固定式ではない。おりたたみ式なのだろう。
雷に打たれたように璋子は硬直した。
自衛隊が、あんな中東やアフリカのゲリラみたいなライフルをもっているわけがない!
「ねえおかあさん、わたしたちもあっち行ったほうがいいんじゃないかな。もしかしたら、おとうさんにも会えるかも」
不安げに香寿奈がいい、迷彩服のひとりがこちらに気づく。
「さあ、あなたがたも、はやくこちらへ」
そのとき、璋子の目はたしかに見た。
声をかけてきた戦闘服のうしろに立つひとりが、素直に居並ぶ住民をみて、わずかに口角をあげて笑ったのを。
「香寿奈、シートベルト締めなさい。おばあちゃんにも締めさせて」
迷彩服たちのほうから目を放さず、小声でささやきかける。娘はとまどいながら言われたとおりにする。
隣家の主婦があざけるようにふりかえる。
彼女ごしに、迷彩服がはやくこいと手をふって指示する。
璋子は覚悟を決めた。
「あー! あんなところにホンモノの第1普通科連隊の96式装輪装甲車がー!」
あらぬ方向を指さし、よどみない早口で叫ぶ。
迷彩服たちが驚愕に目を見開き、指をさした方向にいっせいにアサルトライフルをむける。その蒼惶の仕方といったら、まるでおそろしい呼び出しをうけた罪人のようであった。
一瞬の隙をつくりだし、車の運転席にすべりこむ。鍵をイグニションに差し込んで起動。金属の猛獣が目覚めの咆哮をあげる。
稚拙な詐術に気づいた迷彩服が、なにごとかを叫びながらアウディに銃口を向けなおす。なにを言っているのかはわからない。日本語でないことはたしかだ。
ギアをニュートラルからローに叩きこみ、クラッチをつなぎつつアクセルペダルを床まで踏みぬく。いまどきマニュアルのワゴンを急発進。香寿奈の悲鳴は無視。
ハンドルを回転させてワゴンの尻を大きくふる。後輪が絶叫をあげ、白煙を吹き出す。ゴムの焼ける悪臭が車内にまで立ちこめる。
完全に迷彩服たちに背をむけ、ローからセカンドへギアを変えてふたたびアクセルを全開。
ライフルを向けていた迷彩服の集団が条件反射的にトリガーを絞る。
車のエンジン音も上回る爆発音とともに、迷彩服のライフル、AKS-74が発砲焔をまたたかせた。
仰天してふりかえる隣家の主婦にもかまわず、アサルトライフルをフルオート射撃。
迷彩服らの射線上に入るかたちとなってしまった彼女は、数十人のもつ突撃銃の一斉掃射を全身に浴びる結果となった。
撃たれるたびに五体から血飛沫を散らせ、奇怪な踊りを披露する。彼女が口から噴水のように血液を噴き上げても、非情な殺戮者たちは気にもとめなかった。
ギアを切り換えながら加速を一瞬もゆるめない璋子の瞳を、バックミラーごしの閃光が射ぬく。
「伏せて!」
香寿奈が倒れこむ勢いで前へかがみ、手で義母の頭を押さえつけて伏せさせた。
だが璋子本人は伏せない。前を見ずに運転してどこかにぶつかれば、そこで終わりだ。
ライフル弾の群れが超音速で追跡。後部のドアやガラスに弾痕をきざむ嫌な感触が恐怖を倍加させる。
リアガラスを貫通した一発が、運転席のヘッドレストを穿孔。そのままフロントガラスをも貫いて前方に飛んでいった。
左頬に熱と、針で刺したような痛みを感じる。弾がかすめていったのだろう。
すくみあがるのを強引におさえて、さらに加速。後輪をすべらせながら十字路を左折。
角を折れると、銃弾の嵐は栓をひねったように止まった。
けれどまだなにかが追いかけてきそうで、璋子は本能のままにアクセルを踏みつづけた。速度計の針が百キロメートルを大きく超えているのに気づいたのは、かなり経ってからだった。
やがて、からだを折り曲げていた香寿奈が、おそるおそる頭をあげる。
塹壕から顔だけ出して偵察する兵隊みたいに、後部座席からリアガラスの外を覗きこむ。
後部ガラスは無数の弾痕で穴だらけになっていた。ひびで全体が白く濁ったようになってしまっている。
だが、車のうしろになにも、だれもいないということはわかったようだ。
混乱がおさまり、恐怖が台頭してくる。
「なんで? なんで自衛隊がわたしたちを撃ってくるの?」
香寿奈の細い声は震えていた。一歩まちがえれば死んでいたのだ。当然の反応だった。
「あれは、自衛隊じゃないわ」
妙に空いている国道を高速で走りぬけつつ、璋子は答えた。
「あれは、自衛隊のふりをした敵の軍隊よ。わたしたちを油断させて、一網打尽にするつもりだったのね」
ルームミラーのなかで香寿奈の顔から血の気が引いていくのがみえた。
「じゃあ、みんなは……」
少女のつぶやきが、ワゴンの車内に落ちた。
璋子も、自衛官の妻でありながらだれも助けられなかったことに、口惜しい思いをいだいていた。
あのあと、近所の住人たちがどうなったかは、想像しなくてもわかる。
とくに、若い女性はただでは死なせてもらえないだろう。
じぶんたちだけが助かってしまった。
それは正しいことなのだろうか。もっと多くの人を助けられるようなうまい方法があったのではないか。
どれだけアクセルペダルを踏みこんでも、忸怩たる思いはライフル弾より速く追いかけてくる。
「おかあさん、おかあさん」
「なに?」
「だいじょうぶなのかな……わたしたち」
鏡のなかで、香寿奈は極大の不安に押し潰されそうになっていた。
璋子はむりに笑顔をつくる。
「だぁいじょうぶよ。自衛隊は世界一強いのよ。あんなやつら、コテンパンにして追い返してくれるわ。それまでの辛抱よ」
娘は迷いつつ、ちいさくうなずいた。
鋭敏な少女が、大人のうそに気づいていないわけがない。だがそんなうそでも、時には信じなければならない。それを、まだ十二歳の彼女はすでに知っているらしかった。
璋子は背後の気配をうかがった。
ちょうど真後ろの座席にすわっている義母は、まだ位牌にむかって話しかけていた。さきほどの銃撃戦も逃走劇も、義母の世界を刺激するにはいたらないらしい。
璋子は気の抜けた笑いをこぼして、運転に集中した。
だれひとり守れなかったわけではない。かけがえのない娘と義母だけは救うことができた。
いまはそれでいい。
この先がどうなるかはわからない。
だが、それでも。
それでも、からくも浅間璋子は、死地を脱出した。
◇
(東京を急襲した北朝鮮の軍隊。その航空兵力とおそるべきゲリラ戦術、さらには首脳部の逃亡、亡命という指揮系統の崩壊により、自衛隊は反撃もできないまま撤退を余儀なくされた)
(全土の基地と音信不通となり、わずかに残った部隊は、はるか北端の北海道にまで追いやられた)
(すでに北海道以外の本土はすべて、北朝鮮の手中におちたとみてまちがいない)
(その日の夕刻、北朝鮮は全世界にむけ、正式に東京占領を宣言した。侵攻開始から、たった一日たらずで、政治中枢をふくめた首都機能をうばわれたのだ)
(東京は陥落した)
(日本そのものがそうなる日もちかい)