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十六  悪魔の翼

 朝陽のなかで、夜行バスを降りた将希まさきは、早くも人いきれを起こしそうになっていた。

 東京にくるのはこれで四回目を数えるが、人の多さにいっこうに慣れない。めまいさえ覚える。おりしも季節は夏まっさかり。すさまじい数の人間が発する汗の臭いと体臭が、よどんだ風となってわだかまっている。

 これだけの人間があつまるのは、愛媛のような田舎では、祭りのときくらいしか考えられない。だが、東京ではこれがふつうなのだ。

 よくこんな街で生活していける。毎回おもう。たまに遊びにくるにはいい街だが、住むとなると別問題だ。秋葉原最高、もう愛媛には帰りたくないという兄の精神構造が、将希にはちょっと理解できない。

 携帯で兄を呼び出しつつ、東京駅東口のバス乗り場から、外へ向かって歩いた。はじめてきたときはコンクリートの迷宮だと思った東京の街並みも、いまでは狭い範囲ながらおおよそ把握できている。いまのように電話をかけながら歩いていても、迷わない。

「はいーもしもしー」

「ういー。いま着いたでー」

「早くねー? あーもう八時か。おれまだ家でてないけんさー、ちょっとそこらへんぶらぶらしよいてやー。地下鉄とかももうわかろー?」

 東京で長いこと暮らしていても、身内としゃべるときはやはり方言が丸出しになる。そんな兄に親しみを覚えつつ、わざとだらしなく返事をする。

「まあ、ほんなら前哨戦でアキバでもいってぶらぶらしよくわ。こっからやったら、歩いていけんこともないし」

「軍資金はよぶんに持ってきたー? なにが欲しなるかわからんでー。予備の財布は用意したやろな? コミケはスリがおるけんなー、ダミー必須やでー」

「あー、まあ一ヶ月生きていけるくらい持ってきた。これくらいあったらさすがに足りろー? ダミーもくそ安いやつ買ってきた」

「おっけー」

「兄貴はスられたことあるん? サイフ」

「おまえ、おれをだれじゃ思とんぞ。この界隈じゃスられの霧島いわれとんやで」

「ないわー」

「ちゃんと両替しとるかー? 諭吉なんか出したら公開処刑ぞ」

「小銭もありまっせー」

「タオルとか飴はー?」

「あ、それはもってなーい」

「うわっ……おれの弟、知能低すぎ……? まあべつに明日やけんな、今日とかにでも水とかといっしょに買うとったらええか」

 言っているうちにターミナルから出る。夏本番の強烈な日射と、ビルや道路からの照り返しが肌に刺さる。さらに地熱と、祭りかと見まがうほどのおおぜいの人間の体温が、熱風となって吹きつけて、体から容赦なく水分を奪っていく。

「なんで東京は愛媛より北にあるのに愛媛より暑いんやろなー」

「大人の事情よ。あーあと前も言うた思うけど、東京駅出たとこの画廊には絶対入んなよー。なんか買うまで出てこれんけんなー」

「エウリアンがおるんかえー、東京は怖いね」

 と、将希ははたと気づいた。

 地を揺るがすような振動。耳元でくまん蜂が大群をなして飛翔しているような、空気をかき回す大音声。轟く音波が頭上から降り注いでいたことに。

 打ち鳴らされる水軍太鼓のように腹に響く重低音は、しだいしだいにその音量を大きくしていく。

 兄が呼びかける声を発する携帯もよそに、将希は反射的に空を仰ぎ見た。

 駅前を埋めつくすように行き交っていたひとびとも、異変に気づき、つぎつぎに頭をあげる。

 かれらが見たのは、巨翼ひろげる鋼鉄の悪魔。かつてこの国を焦土にせしめた、厄災の翼の影。

「もしもーし。まーくん? どしたんでやー。もしもしもしもしィ?」

 おどける兄に、将希はなかば放心状態で答える。

「なんか……B-29みたいなのが……」

 空を飛んでいてさえ手のひらほどもある大きさの飛行機に、将希はただ圧倒された。

 将希はべつに軍用機にとりたててくわしいわけではない。

 その巨躯。長大な直線翼にかかえた四発のプロペラ。いっさいの遊びを排した無骨な外形。それらの要素をもとに記憶野にあてはまる情報を探してみたら、むかし金曜ロードショーかなにかで見た長篇アニメ映画の一場面が思い出されたのだ。

 戦災孤児の兄妹が懸命に生きようとして、結局ふたりとも死んでしまう悲惨な物語。

 その冒頭で、兄妹の住む神戸を無差別爆撃していた、あのB-29とかいうやつに似ている気がする。そんなあやふやな検索結果である。

 あながちそれは間違いではなかった。

 東京の空、わずか一〇〇〇メートルたらずのところを飛行してきたそれは、アメリカのボーイングB-29を旧ソ連が模造したTu-4“ブル”。またの名をボーイングスキー、すなわちボーイングB-29の模造品とも呼ばれる戦略爆撃機だったからだ。

 それが、皇居のある方角から、まっすぐこちらに向かってきていた。

「ママ見て! かっこいー」

 左隣から、黄色い声。小学校低学年くらいの男の子が、母親とつないだ手と反対の腕を上げ、空を指さしていた。母親のほうも、

「すごいねー、帰ったらパパにもお話ししてあげようね。写真撮っとこうか?」

 と笑いながら言い、子供が元気よく返事しながら首を大きく縦にふった。

 悠々と通過したボーイングスキーが東で笑う太陽を隠し、地上の街を、人びとを影のなかに呑み込む。

 空を割る雷鳴のごとき爆音はおさまらない。

 ボーイングスキーは、一機だけではなかった。

 素人目にもみごとなV字編隊を維持しながら、十機以上の巨人機が頭上を航過していく。

 周囲のひとたちが口々に言い合いながら空を指差し、携帯のカメラで撮影をはじめる。

「かっけー。これジエータイ?」

「なんかの撮影?」

「いやだから、さっきから言ってるじゃん! すげえでけえ飛行機が来てんだって。おまえんところからも見えねえ? マジヤバいんだけど」

 異様な喧騒と不気味なエンジン音がからまる混沌のなか、将希は阿呆のように口を半開きにして上空の機影を見続けた。

 なにかが、巨人機から落とされた気がした。

 いや、気のせいではない。機体の腹から、葉巻みたいな形をした黒い物体が、ぼろぼろとこぼれ落ちている。

 なんだろう。物体が重力加速度にしたがって落下していくのを、将希はまばたきもせずに目で追いかけた。

 やがてそれはビル街のむこうに隠れた。

 心臓が一回拍動するくらいの間があった。

 突如、影となっていた丸の内ビルの背後から、橙いろの閃光が走った。

 光は炎となり、高々とその手を空へ伸ばす。

 おくれて、特大の花火のような、瞬間的な重低音が地を揺るがした。吹きつける風は、爆風なのか。

 将希もふくめ、その場にいたひとびとは一様に麻痺したように火炎を見守った。現実のできごとだと、即座に脳が理解できなかったのかもしれない。

 将希は知るよしもない。いまの爆撃で、空自の市ヶ谷基地と海自の幕僚監部、それに陸自の市ヶ谷駐屯地が、防衛省ごと跡形もなく吹き飛ばされたことを。

 風を切る鋭い音。聴覚が脳の記憶連合野に届けられ、自動的に過去の記憶から似たような音を聞いたときの状況を引っ張りだす。

 あ、この音も、例のアニメ映画で聞いたな、と思った。空襲を受ける場面で、焼夷弾が空から落ちてくる音……。

 真正面に伸びる広い道路、都道404号線と曰比谷通りの交差点に、葉巻状の物体が落着。爆発して、周囲一〇〇メートルに存在していたいっさいがっさいを破壊した。

 砕かれたアスファルト片が爆風で加速され、四方八方に飛散する。

 礫片のひとつが、目がついているようにこちらに飛んでくる。ひとかかえほどもあるそれが、身じろぎもできない将希の、すぐ左隣で炸裂した。

 スイカをベランダから落としたような音がした。

 熱い水が将希の左顔面を叩きつける。

 かん高い悲鳴が中天を切り裂く。将希は錆びついた機械のような動きで、そちらに首だけを動かした。

 男の子が、仰向けに倒れていた。頭部の上顎から、上がなかった。

 子供の柔らかい頭は、下顎の歯並びだけをのこし、中身ごと頭蓋を粉砕されていた。焼けたアスファルトに、下痢便のような脳味噌や、脳漿まじりの血潮がブチ撒けられ、残酷な混沌をさらす。

 わが子の無惨な死を目の当たりにした母親が、狂乱の叫びをあげながら、撒き散らされた脳や肉片をかき集める。母の手は、たちまち、血と脳髄の汚泥にまみれた。

 将希が左頬に二指をそわせ、凝視。人差し指と中指に拭われたのは、血の混じった、脂ぎった豆腐のようなもの。男の子の脳組織の一部だった。

 ことここにいたって生命の危機を感じた将希は、本能的に安全と思えるところ、つまり隠れる屋根のある建物をさがした。

 そびらを返した将希の目に映ったのは、赤レンガをまとった瀟洒な東京駅の姿。

 将希はそのなかに避難しようと一目散に駆け出した。

 だが、いきなりの爆撃にパニックに陥った、とんでもない数の人間が同時に逃げ惑っている。もみくちゃにされ、前に進むこともできない。

 と、悪寒が将希の頭を上へと振りあおがせた。

 頭上を通りすぎていった爆撃機から、あの葉巻が落ちてきていた。

 ちょうどそれは将希の目の前に落下した。体感時間が妙に引き延ばされ、そのさまをまざまざと見せつけられた。自動車ほどの大きさの爆弾が、頭を下にして、弾体後部の安定翼で空気を切り裂いてくるさまを。

 たまたま落下地点にいた人を、空き缶のように垂直に潰すさまを。

 そして、オレンジ色の爆光が自分たちを包み込むさまを。

 その光が、将希がこの世で見た、最後の光景だった。


  ◇


 日本海洋上、高度一万メートルあまりの高空。

 気象現象が起こる対流圏の上、夏でも零下をはるかに下回る凍てつく天空世界を、悠然と遊弋ゆうよくする機体があった。

 図太い図体と、持ち上げられたお尻のラインから、輸送機、ないし、輸送機を改造した派生型であることは明白だ。

 機体の大きさにたいして、主翼が小ぶりな印象がある。その小さい翼にターボプロップのプロペラを二発ずつ、計四発を搭載している。ために、エンジンたちが、窮屈そうに肩を寄せあっているように見える。

 背中から大振りな円盤型のレーダードームが屹立しているのも、やけに目をひく。

 天道にきらめく垂直尾翼に、紅星を赤と青の円で囲んだ国籍標識が鎮座している。

 北朝鮮人民空軍の紋章である。

 アントノフAn-12“カブ”は、ソ連が開発した戦術輸送機だ。電子戦機や電子偵察機などの、いわゆる派生型も数多く存在する。

 レーダードームを装備した、このY-8AEWも、そのひとつ。

 回転する円盤型レーダーは、全周を見渡し、敵機をいちはやく発見、味方を指揮管制する能力をあたえる。

 北朝鮮空軍所属Y-8AEW空中指揮機、コールサイン<黄蓋号こうがいごう>は、いままさに麾下の爆撃機部隊へ指令を下していた。

蒙古驪モクリ一号より入電。爆撃開始。防衛省庁舎の破壊を確認」

「先行の九号および十号、百里基地空爆。阻止攻撃完了。こちらの損害なし」

「基地空爆の直前に、航空自衛隊のF-4ならびにF-2、アグレッサー部隊のF-15が離陸。空中退避したとのことです」

「退役目前の老朽機に、米帝に強姦されて生まれた不義の子か。アグレッサーは厄介だが、攻撃命令など出ないだろう。なんのこともあらん。敵が状況を把握するまえに叩きつぶす」

 空中指揮機は、各部隊からの情報を集積、処理し、航空兵力を誘導する任務を負った機体だ。空飛ぶ天幕といってよい。

「手加減するな。日本は腐った納屋だ。戸を蹴破れば、家全体が崩壊する」

 制御卓や操作端末などの電子機材に席巻されている狭苦しい機内で、黄蓋号管制官が発破をかける。

「とうとう始まってしまいましたな。もう後戻りはできませんぞ」

 かたわらの副官が管制官に言った。

「これでよかったのでしょうか。正直、この作戦には疑問を禁じえません」

 管制官は暗い目をして副官をふりかえった。会話は監視、録音されている可能性がある。

「ならば、それをおまえが国防委員長どのに奏上しろ」

 そう言うしかない。不用意な発言を軍上層部や政府に密告されれば、一族ごと処断されるか、生涯を炭鉱で過ごすことになる。

 この場にいる部下たちさえも信用はできないのだ。

「われわれ個人の思想など考慮されない。われわれは命令どおりに動けばいいのだ」

「しかし……在日米軍がいないからとはいえ、あまりに無謀です。この攻撃に……どれほどの意味が?」

「おまえには、平壌に家族がいたな」

 副官の顔に緊張の色がかすめる。

「女房と三人の娘が大切なら……よけいな考えは起こさんほうが身のためだ」

 副官は唇をかみしめ、うしろに一歩下がることで同意を示した。

「後続機、目標直上に到着。爆弾投下します」

 情報士官が報告する。

「打撃、打撃、打撃!」

 管制官の大音声が波動となって機内を打つ。

「まだだ。まだ足りぬ。もっと戦火をあげよ。すべて消し去れ。燃やして落とせ。爆撃機部隊は全機全弾投下。親愛なるわれらが同志書記長からの御命令はたったひとつ。東京を火の海にしろ。資本主義の陋劣ろうれつな悪思に染まった堕落の園をこの世から放逐し、すべての日本人を誅戮ちゅうりくしろ」

「管制官どの。国会議事堂はいかがしましょう」

「吹っ飛ばせ。欠片も残すな」

「先任管制官どの。靖国神社は?」

「空爆しろ! とうぜんだ。存在そのものがゆるせん。汚らわしい戦犯どもの霊魂ともども、われらの炎で浄化しろ」

「首相官邸はどうしましょう管制官」

「爆破しろ。あの無能の頭上に五〇〇キロ爆弾を進呈してやれ。きっとおもしろいぞ。鼻歌でも歌いながら、行きがけの駄賃がわりに吹き飛ばせ」

「警視庁はいかがしましょう」

「破壊しろ。あたりまえだ。虹色橋レインボーブリッジは落とせ。総務省、国交省、外務省、金融庁、財務省、法務省もぜんぶ霞ヶ関ごと焼き払え。不愉快だ」

「東京都庁はどうしますか管制官」

「薙ぎ払え」

 モニター類の淡い明かりのみが灯る薄暗い機内で、黄蓋号管制官が吠える。せいぜい忠烈の士を演ずるために。

「第一目標は皇居および天皇だ。千代田を念入りに攻撃しろ。一木一草とても残すな。上から押し潰せ。いまいましき皇族の血を根絶やしにせよ」

 芝居がかった物言いは、真に迫っていた。

「天皇を殺せ。さすれば日本はおのずから膝を屈する。やつの抹殺が最優先だ」

「万が一取り逃がした場合は?」

「航空機による脱出を考慮し、戦闘機部隊を空中待機させておけ。ただし、別命あるまで空域には進入させるな。あまり晒すべきではない」

「了解」

「爆弾をのこして帰るなよ。イルボン(日本)のダニどもに腹一杯喰わせろ!」

 朗々と宣告を下す。

「蒙古驪隊全機、敵からの反撃は心配するな。やつらは国土を踏みにじられても見ているだけしかできん。やつらにできるのは、専守防衛という名の威嚇だけだ」


  ◇


 四ッ谷から紀尾井町を経由して航過していったTu-4の一機が、永田町上空に差し掛かる。高度は八〇〇メートルもない。巨体とあいまって、ほとんど腹が地表にこすれそうだ。

 摩天楼の尖塔をかすめる胴体下の爆弾倉が開かれ、搭載された大量の爆弾が顔をのぞかせる。

 国会議事堂前から真正面に伸びる銀杏の並木通りにいた人たちは、青空を黒翼で覆いながら飛んでくるTu-4の巨体に釘付けになっていた。

 観光客らが指さしながら仰ぎ見る。記念撮影を始める者もいる。

 タクシーの運転手がハンドルにもたれかかって運転席から見上げる。

 かれらの目には、おどろきと、一種の物珍しささえある。

 人びとの注目を集めるなか、長距離戦略爆撃機Tu-4“ブル”が死のあぎとを開いた。

 開放された爆弾倉のなかで金属の腕に支えられていた五〇〇キロ爆弾が、つぎつぎと切り離され、宙へと舞い踊る。

 人びとの目が落ちゆく鉄塊を追う。

 Tu-4の投下した漆黒の雨は、耳鳴りのような音とともに自由落下。重力加速度にしたがい地上へむかう。

 それは鉄火の雨、災厄の暴風。

 何発もの爆弾が、国会議事堂の中央塔の天頂に着弾。接触信管が起動し、弾頭の五〇〇キロもの炸薬が起爆。音速をはるかに超える爆風を発生させ、さらに弾殻の破片を加速、吹き飛ばすことによって、周囲の物体を破壊する。

 議事堂が大爆発を起こし、中央塔の塔屋が削り取られる。さらに第二撃めがおなじ箇所をねらい、中央塔の三階部分が完全に粉砕された。

 伽藍となった中央塔に、追い討ちの空爆。建物の内部へと爆弾が吸い込まれていく。

 爆風の刃が疾走し、風圧と轟音が人間たちを襲う。皆、ことここにいたってようやく本能がはたらき、悲鳴をあげて逃げまどった。

 路駐したタクシーから爆撃機を仰視していた運転手はあわてて車を発進させた。あまりに急ぎすぎて後方確認をしなかったため、うしろから来たボルボの進路を妨害するかたちになってしまい、ブレーキも間に合わず激突した。両者が食い込みあって身動きできないなか、前を見た運転手の顔から血の気が引いた。

 国会議事堂の正面玄関にそそり立つ白柱が、内部からの爆風で、上下の接合部を破断。続く衝撃波に引っ張られ、うなりをあげてこちらに飛んできていたのだ。

 千年の樹齢をかぞえる巨木に匹敵する白柱が、アスファルトの上を竜のごとく跳ねながら、脇目もふらずに迫ってくる。

 ドアが開かない。ボルボに押さえつけられている。そのボルボの運転手は、車を後退させることなく、運転席から下りて逃げていった。

 助手席側から逃げようとして、帯状の衝撃。シートベルトがかれの身体を拘束していた。

 解除ボタンに手をかけたとき、殺意なき死神が到来した。

 フロントガラスに真っ向から突き刺さった白柱は、勢いをまったく減らすことなくリアガラスへと貫通、タクシーを串刺し刑にした。後部ガラスをぶち抜いた純白の柱は、真紅に輝いていた。

 炸薬量にして三トンをこえる爆撃を受けた国会議事堂は、すでにその英姿を失っていた。中央塔は巨人に踏み潰されたように倒壊し、無意味な瓦礫の山となっていた。火災が発生し、黒煙がたちのぼる。残された両翼の衆議院と参議院が、無惨な断面を晒していた。

 つい一分まえまで威風堂々と鎮座していた、立法府の象徴、日本の民主主義を象徴する白亜の殿堂は、一瞬にしてもろくも崩れ去ったのだった。

 突発的な大惨事に、人びとは恐慌状態になった。土地に不案内な観光客たちは、自分らのバスにわれさきに乗り込もうとした。ひとつしかない乗り口に殺到したので、つっかえて、押しくら饅頭のようになった。

 ひとりの老婆がバスに乗ろうとしてつまずき、ステップに前のめりに転倒した。その背中を狂乱した観光客がつぎつぎと踏んでいった。老婆は何十人もの人間の足とバスの階段に圧迫され、黒血を吐いて絶命した。

 総務省や外務省など、日本の中枢をになう各省庁が一点にあつまった霞ヶ関上空には、三機のTu-4が陣取っていた。腹の爆弾倉が、地獄の門のように開かれる。

 黒々とした航空爆弾が立て続けに投下され、大都市へと放たれた。地上で爆発の衝撃波が同心円状に広がる。人が空へ放り投げられ、建物が爆風で引き裂かれた。

 気味の悪い風切り音とともに落下した三発ほどの爆弾が、財務省と、屋上が緑化された合同庁舎4号館をミニチュアのように爆破した。かつて大蔵省とよばれ、いまなお日本の国家予算をあずかり絶大な権益をにぎる省庁も、空爆の前には無力だった。

 国交省と総務省のあいだにある駐車場に落ちた五〇〇キロ爆弾が、両者の壁面を大きくえぐる。続けて桜田通りに落とされた爆弾で、総務省はビルの表と裏、両面の低階層を損傷。自重を支えきれなくなって、沈みこむように倒壊した。地獄に引きずりこまれたようだった。

 さらにボーイングスキーの一派は爆弾倉から死と破壊を撒き散らしながら進撃した。警視庁と、通りをはさんだ法曹会館。公正取引委員会や最高検察庁などが入っている合同庁舎6号館C棟。その目の前に建つ法務省旧本館が犠牲となった。

 地上二十階もある6号館C棟が空爆の衝撃で、日比谷公園のほうに倒れる。

 地上からみれば、まるで空に蓋をされるような光景だった。

 圧倒的質量は雪崩のように落ち、大地に激突。爆発音を上回るほどの轟音に、土煙。風圧で日比谷公園の木々が薙ぎ払われ、繁っていた葉が飛ばされる。

 逃げていて運悪くビルの下にいた人たちは、あらがうすべもなく圧殺された。

 法務省旧本館は、ネオバロック様式の赤レンガをまとった堂々たる建築物だ。関東大震災さえ無傷で生き残り、東京大空襲をもかろうじて乗りきったこの重要文化財にも、最期のときがきた。

 Tu-4の爆弾が屋根部分に直撃。爆発とともに、外装の赤レンガが代赭たいしゃ色の粉塵をあげながら飛び散る。格調高く美しい建物が、悲鳴をあげて崩壊。無惨な瓦礫の山へと強制変換させられた。百年以上の歴史に、幕が閉じたのだった。


 四ッ谷上空で分かれたTu-4の一機は、北東に変針。中央本線を沿うようにして侵攻する。

 戦略爆撃機の大きな影は、九段坂を暗く覆っていた。

 直下にあるのは、戦争に殉じた御霊を祭神とする神社、靖國神社だ。

 ボーイングスキーが、胴体内にかかえていた爆弾を投射。

 総量でトン単位の火力が、正確に目標めがけ降りそそぐ。

 母機に搭載されている地上攻撃用レーダーや火器管制装置は旧式もはなはだしいが、低空飛行により命中精度の悪さをおぎなっている。

 死の雨が、靖國の社殿に直撃。屋根を貫通し、内部で爆発。神明造銅板葺しんめいづくりどうばんぶきの、至尊の本殿を破砕する。

 神門をくぐって参道の真正面に建つ拝殿にも爆弾が落とされた。爆風が、唐破風からはふのついた向拝ごはいで礼拝していた参拝客ごと、入母屋造いりおもやづくりの荘厳な建物を吹き飛ばす。

 神社が燃える。

 近代日本を形作る礎として、戊辰戦争から大東亜戦争までの戦争で命を散華させた、二四六万六五三二柱の英霊たちの魂。それが、なすすべもなく兵火に燃やされたのだった。

 べつのTu-4は、渋谷上空にいた。人口密度がとくに高いとみて、空爆を開始する。

 空からの爆弾の嵐は、過密を極めるセンター街を悪鬼のごとく駆けめぐった。

 爆風に絶叫。

 烈風の刃が疾走。効果範囲内の人間を手当たり次第に挽き肉へ変えていった。

 爆炎が暴れまわり、市街地を蹂躙。主人の帰りを待ち続けるハチ公像を呑み込む。

 炎は燎原のごとく燃え広がる。

 爆ぜる火焔が新緑の梢に燃え移る。

 明治天皇と昭憲皇太后を祀る神域、明治神宮を、周囲の代々木公園と鎮守のもりごと、煉獄の炎で焼き落とす。うつくしく咲き誇る花菖蒲はなしょうぶも、世を儚むように花弁を散らした。

 爆発で弾かれた空気が、あたりの物体ごと元にもどる。避難する人びとを不可視の手でつかまえ、ひきずる。酸素分圧の劣悪な空気を吸わせて、体の自由を奪う。その上で、追いついた炎が生きたまま肉を焼く。窒息状態で断末魔の悲鳴もあげられないまま、日本人は計画的かつ無秩序に焼却されていった。

 ゴミのように。

 いにしえよりいでし巨人機が航過したのち、そこに繁栄を謳歌していた街衢がいくはなかった。

 アスファルトは擂り鉢状に掘削され、乱立するビル群は、倒壊するか炎上していた。無傷な建造物をさがすほうが困難なありさまだ。

 潰滅した都市の底は、血と肉の饗宴だった。

 火災と黒煙のただなかに、男が倒れている。かれの頭部は真っ二つに割れ、花開くように左右に分かたれていた。薄桃色の脳味噌が露出、頭蓋骨と脳のあいだにある硬膜や軟膜も剥がれ、惨状をさらす。

 白目をむいた目が、かれの無念を物語る。半開きになった口のなかの闇は、どんな夜よりも暗かった。

 横たわっている若い女は、右の頬肉が引きちぎられていて、歯と歯茎がむき出しになっており、大きく口を裂けて笑っているような状態だった。薄く開けられた瞳は、この世のどこをも見てはいない。破れた腹からは、緋色の大腸や小腸、赤紫色の肝臓が溢れ、彼女の下半身を血や粘液とともに覆い隠していた。

 となりでうつぶせに倒れている薄着の女には、背中に大きな裂傷があった。左肩から右の腰までとどく斜めの傷は、まるで大太刀で斬りつけられたかのようだ。おそらく爆弾の破片が当たったのだろう。裂け目は深部にまで到達。黄色い脂肪層や赤黒い筋肉の断面、さらには内臓まであらわとなっている。溢れ落ちる血液の奥に、脊椎やあばら骨まで覗いていた。

 女性の泣き叫ぶ声。彼女の腕には、まだ乳児といっていいくらいの幼子が抱かれている。

 ぽちゃぽちゃした、紅葉のような手、やわらかそうなあんよ。

 その四肢は、力なくぶら下がっていた。

 小さな坊やの首も、ぶら下がっていた。

 座ってもいない首が、無残にちぎれかかっていた。皮一枚だけでなんとかつながっているのだ。

 泣き声さえあげぬ子供を胸に抱き、母親は茫沱ぼうだと涙を流して慟哭した。涙は顔に付着した煤を溶かし、黒い涙となった。

 ほかにも、だれのものかも分からぬ腕や足が、脂肪の黄色い粒や肉片とともにいくつも散乱している。

 周辺では、手を失くしたり全身血まみれの生存者が、うめきながら徘徊していた。かれらにはなにが起きたのかわからない。例外なく瀕死の重傷を負ったからだをひきずり、口々にこぼした。

「なにが……なにが起きたんだ」

「戦争……か……?」

 だれかが呟いた。

「自衛隊は……自衛隊はなにをやってるんだ」


  ◇


 爆音と地響きのような衝撃波が混声合唱を奏で、市民の悲鳴や絶叫の多重奏が輪唱のように重なる。

 都市部が無差別爆撃されているただなかで、日本のホワイトハウスというべき首相官邸では、背広組の職員が血相を変えて、大量の書類を抱えて走り回っていた。

「いったいどうなってるんだよ。説明してくれよ!」

 執務室で官房長官や側近らを前にして、牟田口むたぐち首相は大声を張り上げた。

「ですから、さきほどから申しておりますとおり」官房長官はもう何度繰り返したかわからない説明をまたいって聞かせた。「北朝鮮国籍と思われる爆撃機が、現在わが国に攻撃をしかけてきております。被害は甚大で、民間人にも多数の死者が出ています。航空自衛隊がスクランブル発進して爆撃機を要撃していますが――」

「要撃ってだれがそんなの命令したの! ぼくを通さずに自衛隊を動かすなんて、シビリアンコントロールに反してるよ!」

「総理、ですから、スクランブルというのはいわば自動的に行使されるものでして、総理や防衛大臣の認可は必要なくてですね……」

 側近らはうんざりした表情で首相と官房長官のやりとりを見ていた。牟田口がいちいち口をはさむので、話がなかなか前へ向いて進まないのだ。

「それでいまどうなってるの」

「報告によればジャミング、いわゆる電波妨害ですね。これにより各地の自衛隊基地と連絡がつきません。電波をジャックするのは、戦争をしかけるにあたり用いられる一種の常套手段で……」

「戦争? 戦争っていま言った」

「え、ええ。戦争と言っても差し支えはないかと」

「戦争なんて起こらないよ。わが国には、九条があるじゃないか! 九条を堅持しているかぎり、戦争なんてありえない」

「ありえないもなにも、総理、いままさに敵から絨毯爆撃を受けているのですが」

「なんで」

「知りませんよ。わたしにわかるわけがないじゃないですか。北朝鮮に聞いてください」

 牟田口はしばらく沈黙し、やがて黄金の理論を見つけたように口を開いた。

「これは、国際問題だよ!」

 官房長官のうしろに並ぶ側近たちがため息をもらす。この期におよんでこいつはなにを言っているのか。

「北朝鮮に、遺憾の意を伝えよう。ただし、あまり厳重にやっちゃだめだよ。あくまでも形式上のことに留めておくんだ。総連をむこうに回すと、次の選挙が危ないからね」

 官邸の周辺が空襲されていてなお危機感のまるでない首相。たまらず官房長官が牟田口の座っているテーブルを両掌で叩く。

「そんなことを言っている場合ですか。このままでは日本全国民、ひいてはあなた自身の命も危ないんですよ」

 髪が乱れるのもかまわず詰め寄る官房長官に、牟田口は冷ややかな視線を返す。

「きみねぇ、もうちょっと現実を見たまえよ。北朝鮮が日本を民族浄化するとでも言いたいの? そんな前時代的なこと、あるわけないじゃない。ましてぼくが死ぬだなんて、そんな大げさな。それとも、なに? きみはぼくにそんなに死んでもらいたいわけ?」

「総理の身を案じているからです」

 牟田口はまんざらでもないという顔をした。

「で、ぼくはなにをすればいいわけ?」

「総理には」官房長官はテーブルから手を離し、威儀を正して言った。「われわれや、自衛隊の指揮をとっていただきたく」

「ぼくが?」

 牟田口は目をむいた。

「なんで?」

「なんでとおっしゃられましても……」予想しなかった問いに官房長官はとまどった。「総理は、行政府のトップです。指示をくだすのにほかにだれがいます」

「指揮だなんていわれても、官僚たちからそんなレクチャーは受けてないよっ」

「われわれが全力でサポートいたします。総理のご裁可なくては、なにひとつ事態への対処ができないのです。まずは、緊急非常事態宣言を発令して、自衛隊に出動命令を……」

「ちょ、ちょっと待ってくれよ。なんでぼくがそんなこと。ぼくは自衛隊の指揮なんてしないよ。戦争の片棒を担がされるなんてごめんだ」

「総理。内閣総理大臣は自衛隊の最高指揮監督権を有しているんですよ。いわば総理は自衛隊のトップのトップなんです」

 牟田口はこれ以上ないというくらい驚いて、ひょっとこみたいな顔になった。

「ぼくが自衛隊の最高指揮官だって? 冗談も休み休み言ってよ。そんなの初耳だよ。自衛隊の指揮をとるのは、防衛大臣、きみだろう?」

 官房長官の後方にひかえる防衛大臣を見やる。防衛大臣は汗を拭いながら前へ進み出た。

「は、あのぅ、たしかに防衛省は自衛隊を統括するための行政機関であり、仮に有事となったさい、わたしが自衛隊に対して直接指揮をくだすことになっとります」

「ほら、かれもそう言ってるじゃないか」

 官房長官は侮蔑のこもった視線で牟田口を見下ろした。防衛大臣があわてて補足する。

「ですが、わたしの独断で命令をくだすことはできません。自衛隊の命令系統は、最高指揮官である総理大臣からはじまり、防衛大臣、統合幕僚長、陸海空の幕僚長、各部隊と、上から下に下りていくことになっております。つまり、総理のご了承がいただけないかぎり、わたしも自衛隊に命令はできないのです……」

 最後は蚊の鳴くような声になっていた。

 牟田口が裏切られたような顔で防衛大臣をにらんだ。防衛大臣が恐縮して下がる。

「そういうわけです、総理。一刻の猶予もなりません。指示をお願いします」

 官房長官が有無をいわせない強さで宣告した。

 いよいよのっぴきならなくなって、牟田口の目が泳ぐ。酸欠の金魚のように口を開閉させ、しかしなにも言葉は生まれない。なにも考えがないからだ。

 牟田口は両肘をつき、組み合わせた手の上に顎を乗せた。

 沈黙。室内には遠くの爆発音がくぐもった轟音として響く。

 牟田口は黙ったままだった。思考しているわけではない。黙っていれば、だれかが救いの手を差しのべてくれる。それを期待しているのだ。

 だが数分待ってもだれも助け船をだしてくれない。

 動揺し、官房長官や側近たちにちらちらと視線を送る。

 だれも答えない。

「そういえば、官房長官。爆撃機の国籍は、北朝鮮でまちがいないのか?」

 いたたまれなくなって、政調会長が不安そうな面持ちで訊いた。とりあえず話題はなんでもよかったという顔だ。牟田口総理も官房長官を見上げる。

「ええ。要撃にあたっている空自の戦闘機が北の国籍マークを確認しました。それと、未確認ながら、外交ルートを通して、北朝鮮から声明が」

「それは、つまり……」

 官房長官が顎を引いて肯定し、全員に聞かせるように答える。

「北朝鮮からの、正式な宣戦布告です。おおよそ二時間まえに通告されたもようです」

「二時間だって? なんでそれをもっと早くに言わないんだ」

 牟田口の弾劾。だが官房長官の目にはそれ以上の激情があった。

「わたしも官邸に来るまで知らなかったんです。それに、上林かんばやし外務大臣も不在でしたので、ほんとうに宣戦布告があったかどうか、確証が得られないんですよ」

 牟田口が、思い出したように室内を見回した。

「そういえば、上林くんは?」

「上林大臣は、最初から官邸には来ていません」

 官房長官の顔には苦渋の色があった。

「また行方もわかりません。全力で探させていますが、すでに出国したという情報もあり、事実関係を洗っています。それが本当なら……」

 全員が意味をわかりかね、お互いに顔を見合わせていた。官房長官が解答を示す。

「上林大臣は、北から宣戦布告が発布されたのを知って、総理に報告する義務も果たさず職責を放棄、国外へ逃亡したものと思われます」

 驚愕の事実に、全員がざわめく。かまわず官房長官がつづける。

「ついでに申しあげますと、総理。国外へ出た議員は上林大臣だけではありません。すでに共産党は中国や韓国に亡命手続きをすませたとか。民社党や自由党の議員にも同様の動きが見られます。さすがに怪獣のいるアメリカに行く者はいないようですが、とにかくみんなわれさきに逃げ出してます」

 官房長官は義憤に燃えていた。国難にさいし進んで犠牲となるべき為政者たちがこぞって逃亡しているなど、信じられないことだが、あってはならないことだ。

 その正しい怒りが、内閣総理大臣に伝わると信じ、確度の不明瞭ながらも情報を明かしたのだ。

 牟田口の双眸に、閃光がはしる。

「それだ」

 総理は椅子から立ち上がった。

「ぼくたちも、中国へ逃げよう。あそこの国家首席とは昵懇の仲なんだ。きっと歓迎してくれるよ。こんな国とは早くおさらばしよう。準備して」

 官房長官は一瞬呆気にとられた。

「気は確かですか総理! この国家の一大事に、国を捨てて逃げる総理がどこにいます」

「知らないよ! 一大事とかなんとか、なんでぼくがそんなきつい仕事しなくちゃならないの。ぼくはそんなことのために総理になったんじゃないよ」

「じゃあ、あんたなんで総理になんかなったんだ!」

 爆撃の轟音に勝るとも劣らない怒鳴り声に、牟田口も顔じゅうを口にして叫んだ。

「みんながぼくに総理をやれっていったからじゃないか! 忘れたとは言わさないぞ。与党になったとき、代表にはあなたしかいないって、党のみんながこぞってぼくを推戴しただろう。ぼくがやりたいって言ったわけじゃないよ。ぼくはみんなが言うとおりに総理になっただけなのに、なんでそこまで言われなきゃならないの!」

 防衛大臣に向き直って、

「なにやってるの。早く政府専用機を呼んでよ。きみらも中国に亡命できるように、ぼくが首席に頼んであげるからさ」

 根拠もない自信で傲岸に命じた。じっさいには、牟田口と中国の国家首席とは、牟田口が首相に就任した挨拶のため訪中したさい北京で顔を合わせた、ただそれだけの間柄である。にもかかわらず、牟田口は就任以来、国家首席と自分はお互いいちばんの友人どうしだと主張してはばからない。

「まことにお言葉ですが総理」そういうむなしい事情を知っているだけに迷いつつ、防衛大臣は素直に答えた。「政府専用機は二機とも、千歳に待機しています。いまから呼んでもとうてい間に合いませんし、そもそもジャミングで連絡不能ですし……」

 牟田口の表情が崩れた。

「肝心なときに役に立たないな! だから自衛隊はきらいなんだ。予算ばかり喰って、使い物にならない」

「総理、逃げるにしても、まず天皇陛下の安全を確保するべきでは……」

 牟田口は完全に国外脱出する気でいる。説得は不可能だ。ならばと妥協点をさがし、官房長官が進言する。

「知らないよ! 天皇なんかよりぼくのほうが大事なんだ。ぼくは総理大臣だよ。国民に選ばれたんだよ。そのぼくと、ただ皇室に生まれたってだけで役職を手にいれた人と、どっちが上か。考えるまでもないよね」

 暴論に官房長官は仰天した。

「天皇陛下はわが国の象徴であり、国家元首ですよ! 系譜をたどれば二千年という世界に類を見ない伝統をもち、日本の歴史を国民とともに脈々と受け継いでこられた、至尊の血筋です。それを……」

「天皇の血筋なんて、南北朝のときに一回途切れてるじゃないか。家系図の長さでいうなら冷泉家のほうが上だよ。そもそも天皇なんて、先住民のアイヌを駆逐した朝廷の支配を正当化するためのお飾りにすぎないんだ。そんなものに価値なんてないよ!」

「では国民すらも見捨てると、国民を見殺しにして自分だけ逃げると、そうおっしゃるのですか!」

 牟田口は沸騰した感情を抑えきれないような面持ちで官房長官を見据えた。

「きみは、顔も知らないだれかのために、ぼくに死ねっていうのか」

 官房長官の心拍が、一瞬途絶した。

 牟田口とは、こういう男なのだ。手段ではなく、目的として政治家となった、信念なき愚物。責任を回避するためなら、良心の呵責という踏み絵にためらいなく足を乗せられる凡夫。

 ただ昨日の延長として今日を生き、今日の続きで明日を生きる。理想も展望も持たない、指導者の資質に欠けるばかりかそれを身につけるための努力すらしない男。

 責任ある立場にいるべきではない人間。民主主義の悪弊を体現するべく生まれてきたような存在だった。

 とっさに官房長官が反論できずにいると、衝撃。

 直下型地震のような凄まじい揺れが執務室を襲い、視界が反転する。

 観葉植物が倒れ、青磁の壺が落ちて割れた。牟田口や官房長官も立っているのがやっとだ。

 揺れが治まり、爆音が遠のいていく。遠雷のような重低音がいつまでも尾を曳いていた。

 牟田口のうしろに控えていたSPが袖に仕込んでいた集音器に話しかけ、状況を確かめる。

 あくまでも冷静に、牟田口らに報告する。

「官邸のすぐ南に爆弾が落下したとのことです。ここにとどまるのは危険です」

 SPは、車を回しますのでひとまずは安全なところへ避難を、と忠言した。

 側近たちの目にすがりつくようなものが浮かぶ。

「総理、やつらは本気です。逃げるのはいましか……」

 官房長官は雷の速度で振り返った。全員が、牟田口の逃亡を責めるどころか、便乗しようとさえしている。

「逃げる? 馬鹿言っちゃいけないよ!」牟田口は烈火のように怒った。「帰るんだよ。われわれ大和民族はもともと大陸から来たんだから、中国に行くのは逃げでもなんでもないんだ」

 官房長官は混乱した。日本語のはずなのに何を言っているのかわからない。

 党幹事長が膝を進めた。

「総理。ご一緒してもよろしいでしょうか」

 幹事長の言に、牟田口が二つ返事で了承する。

 それを見ていた側近らが顔を見合わせ、官房長官をおしのけて牟田口に駆け寄る。

「総理、わたしがお側にいれば、かならずや総理の力になれます。どうかご同行をお許しくださいますよう」

 国対委員長が慇懃に言い、

「総理の慧眼とご尽力があったからこそわが党は第一政党になれたのです。総理なれば中国においてもひとかどのお方となられるでしょう」

「願えますならわたしどももぜひその末席に加えていただきたいのですが」

 総務委員長と選対委員長が追従笑いを浮かべる。

 ほかにも党の重要ポストを担う側近議員たちが堰をきったように牟田口に随伴を願いでる。股をくぐれといわれたら先を争ってくぐりそうな勢いだ。

「わたしも、かまいませんでしょうか……」

 遠慮がちな申し出。防衛大臣も控えめながら前へ進み出ていた。

「防衛大臣、あんたまで……」

 官房長官のかすれた声に防衛大臣が振り返る。

 その顔には、表情というものがなかった。

「正義感だの愛国心だの振りかざして、酔いしれるのは結構ですがね、官房長官。死んだらそれで終わりなんですよ。生物は、生きている物と書くんです。どんなにみっともなくとも、汚いとそしられようとも、生物は最後の一瞬まで生きようとしますよ。人間も同じです」

 牟田口へ殺到する亡命希望の喧騒のなか、防衛大臣のささやきは官房長官の耳だけに届いた。

「で、きみはどうするね、官房長官」

 痰のからんだ胴馬声に目線をもどすと、牟田口の勝ち誇ったような顔が待っていた。

「規定では、官房長官はつねに総理大臣と行動をともにしなければならないとなっているが?」

 詭弁だ。亡命するということは、国を捨てるということだ。国を捨てた者がいまさら総理大臣など名乗れるものか。

 再度の衝撃が室を襲った。さきほどよりさらに大きい。天井から砂塵がこぼれ落ちてきた。いつ爆弾が直撃するかもわからない。

「総理、お早く!」

 側近たちはほうほうのていで出入口に急ぐ。牟田口が答え、SPに守られながら移動する。官房長官に残された時間はすくない。

 時間制限と目前に迫った命の危機。特定の状況が入力されればそれに応じた特定の回答を出力するのが人間だ。力なくうなだれた官房長官が出した答えは、ある意味でとうぜんの結果であった。

「……お供させていただきます、総理」

 内閣総理大臣を筆頭とした与党の上層部が、死地からの脱出を始める。

「車を回せ。行き先は、中国大使館だ!」

 牟田口が決然とSPに命じる。

「賢明な判断です総理。北朝鮮も中国の大使館には手を出さないでしょうから」

 国対委員長がすかさず揉み手をした。

 足取りの重さゆえに最後尾となった官房長官。無人となった執務室を見渡す。立てかけられていた日の丸が倒れていた。

「すまない……許してくれとは言わない……」

 官房長官も、室をあとにした。その呟きは、だれにも聞かれることはなかった。


  ◇


 展開したTu-4編隊が、千代田区を中心とした東京都心に次々と投弾していく。

 首都が焼き払われるさまを、浅間たちF-15Jパイロットたちは高空から見つめていた。

 ここからでは爆発と炎しか見えない。だがその下では何百、何千という人間が死んでいるのだ。

 目の前で罪もない一般市民を虐殺されて、浅間は苦いものを感じていた。

「おいアマテラス、連中がマジで空爆始めやがったぞ。攻撃命令は」

 オスカーが鋼の声で、浅間の、いや、戦闘機部隊全員の意見を代弁した。

「だめだ」

 簡潔きわまりない一言。イーグルドライバーたちが色めきたつ。

「なぜだ。攻撃をうけてるんだぞ。専守防衛が成立するんじゃないのか」

 小松のF-15Jパイロットが声を荒げた。小松基地といまだ連絡がとれないため、気が立っている。

「わが国がいま攻撃を受けていると判断するのはわれわれではない。内閣総理大臣だ。総理が防衛出動を命じなければ、交戦を許可できない」

「ばかげたことを! いまさらそんなもんにこだわってどうする。事態は一刻を争うんだ。いまこうしているあいだにも、国民があのくそボーイングスキーに殺されまくってるんだぞ」

「わたしに総理の許可なく攻撃命令を出す権限がないんだ。わたしはあくまで、命令に基づいて貴機らを誘導することだけしかできない」

「くそっ!」

 オスカーが吐き捨て、コクピットの壁を殴る音が無線を通じて聞こえた。

「総理はなにやってるんだ。命令さえくれりゃ、こんなやつら……」

「引き続き官邸や防衛省と通信を試みている。耐えてくれ」

「おまえそれ下で爆撃喰らってる市民にも言えるのか!」

「オスカー、落ち着け」

 浅間は無線で止めに入った。

「アマテラス、総理や国会の許可なくおれたちが敵機を攻撃するにはどうしたらいい」

 浅間の問いに、アマテラスが回答する。

「法律上、正当防衛が唯一有効な手段と考えられる。過剰防衛にならないかぎりは権利行使が認められる」

「なら、いままさに相手から手を出してきてるんだから、正当防衛として攻撃すれば」

 早蕨のしぼりだすような声。

「認められない。正当防衛が適用されるのは、攻撃を受けた本人だけだ。貴機が攻撃されているわけではない。よってこちらからの攻撃は正当防衛とは見なされず違法行為となる。発砲は許可できない」

AWACSエイワックス、あんた本当にぼくらの味方なのか? 現実に非戦闘員に被害が出てるんだ。高見の見物と洒落込んでるあんたにはわからないだろうけどな!」

「パルマス、やめろ」

 厳しい声で制したのは、金本だった。

「日本人の悪いくせだ。原則を遵守しようとせず、それが通らないと融通がきかないと文句をいう。あげくルールを都合よく曲げることを大岡裁きといって称賛する。どこの国に独自の判断で行動する軍隊がいる」

「ルールは人のためにあるもんじゃないんですか。人を守れないルールになんの意味があるんですか」

「ルールを守る義務を果たさない者に、ルールに守られる権利はない。非常時だからってのを免罪符にルールを破っていたら、いつかおれたちが法の外に置かれちまうぞ」

 押し問答をしている間にも、空襲はつづく。都心部は火の海と化し、至るところから黒い煙があがり、ビルは崩れて倒れる。まるで阪神大震災直後の神戸市のようだ。だが大地震とちがうのは、これが人の手によるものであるということと、止めようと思えば止められるということだ。

 浅間は、すぐにでも爆撃機どもを撃墜してやりたかった。簡単なことだ。目標をHUDヘッド・アップ・ディスプレイに収めてロックオンすれば、翼下に二発搭載してきているAIM-9Lサイドワインダーを発射できる。回避機動などできないでかぶつのTu-4はなすすべもなくミサイルの餌食となるだろう。

 爆撃されている地上には、守るべき日本国民がいる。そして、最愛の璋子しょうこ香寿奈かずなも。

 妻子が炎のなか逃げ惑っているかもしれない。逃げ場をうしなって、助けを求めているかもしれない。

 なぜだ。なぜ涙が出る。

 なぜむかしの思い出が脳裡を駆けめぐる。璋子との出会い、駆け落ち同然の結婚、そして香寿奈の誕生。虫の報せとは思いたくない。

 本能が戦えと浅間に叫ぶ。守るべきものを守るために戦えと。そのために戦闘機パイロットになったのではないかと。

 操縦桿をにぎる手に力が入る。

 コクピットという孤絶した環境で、浅間は決断を迫られていた。

 だが、できない。

 金本やアマテラスのいうとおり、法律の呪縛がある。

 編隊長としての規範もある。

 職務中の自衛官は、ひとりの人間である前に、自衛官なのだ。私情をはさむことは許されない。

「パルマス」

 いまだ抗議を続けていた早蕨に、浅間は無線をつないだ。

「正式な命令もないまま個別に好き勝手に攻撃を加えても、統制がとれず効果は薄い。部隊を危険にさらすだけだ。アマテラスの指示にしたがえ」

 部下を諭すというより、自分自身に言い聞かせるような言葉だった。

 早蕨も、直属の上司の命令には逆らえず、不承不承といった様子ながらも言われたとおりにする。

「安心しろ。もしアマテラスが裏切り者だったりしたら、おれがイの一番に撃ち墜としてやる」

 みずからの感情を冷却させるための軽口。早蕨や金本だけでなく、ほかの飛行隊のイーグルドライバーまでもが何人か吹き出した。

「聞こえてるぞ、ポリプテルス1。わたしは警務科に素性や身元を保証されているし、定期的な思想調査と精神鑑定も受けている。疑うならあとでそれらの検査結果のプリントアウトを送付してやる」

 アマテラスが律儀に反応する。杓子定規な性格のようだ。だからこそ信用に値する。

「アマテラスから各機へ。遠距離にレーダーコンタクト。方位3-4-0から当空域へ接近中。多いぞ、大群だ」

 浅間は舌打ちした。

「輪島のレーダーサイトが捉えたやつらか。機種はわかるか」

「Tu-4が十機程度、あとの四〇機あまりはデータにない機体ばかりだ。注意せよ」

 コクピットの中から北西の方向をうかがう。まだ後続の大編隊は何十万メートルもむこうだ。視認はできない。

「十二機のボーイングスキーにてんてこ舞いだっていうのに、追加で五〇も来られたらどうしようもないっすよ」

「空で泣き言を言うな、百里の三番機。いまはジャミングを受けているが、通信が回復して、指揮・命令系統が復旧するかもしれない。総理がおれたちと通信がつながるのを待ってくれているかもしれない」

 オスカーの僚機を務めるシクリード2パイロットが希望を述べる。

「そうだ。手が出せなくてつらいのは、おれたちだけじゃないんだ。あきらめちゃだめだ。あきらめずに指示を待つんだ」

 シクリード3の忍耐強さに全員が頷く。

 金本が「そうだといいんだが、な」と呟く。だが、無線を切っていたため、だれの耳にも届くことはなかった。

 直後だった。

「なに? それは本当か?」

 アマテラス管制官の疑問符に、戦闘機部隊が耳をそばだてる。

「この情報は確かなのか? ありえないことだ。もういちどよく確認しろ」

 管制官が同乗している隊員たちと交わす会話に、浅間は言い知れぬ悪寒を感じていた。

「これが事実なら……なんということだ……」

「アマテラス、こちらポリプテルス1。どうしたんだ」

 しばらくして、アマテラスが重い口を開いた。

「ポリプテルス1、おちついて聞いてくれ」

「やっと思春期になったとか?」

「ちがう。状況を探らせていたブラックホーク部隊から入電があったのだが」動揺を押さえつけるように冷静に語を継ぐ。「それによれば、さきほど首相官邸から数台の公用車が出た。首相以下、閣僚を乗せていると推察される」

「生きてはいたんだな。朗報じゃねえか」

 金本の楽観を、しかしアマテラスは遮った。

「それらの車輛はすべて、中国の大使館へ直行。中国側もこれを受け入れたとのことだ」

 沈黙。十八機のF-15Jパイロットが例外なく唖然としていた。

 この非常時に、他国の大使館へ駆け込む。目的はひとつしか考えられない。

「……逃げた?」

 これまで口をいっさい挟まなかった占守しゅむしゅがこぼした。

「ばかな」

 オスカーの怒声。

「有事のさいに最高指揮官が逃げるだと。亡命だと! そんなことがあるはずがない」

「あの無駄口野郎、正気か?」

「国民や、おれたちはどうなるんだ」

 小松の十四機が混乱に陥る。むりもない。総理大臣ともあろう者が、国民を見殺しにして国外へ逃亡する。そんな超展開を、だれが想定しえただろう。

 浅間は胸中に黒い感情が沸き起こるのを感じた。

「アマテラス。総理不在の場合、法解釈上、自衛隊はどこまで独自に行動していいかわかるか」

「待機せよ。可急的すみやかに検討する」


  ◇


 東京中心部より北西に十キロほどのぼったところにある練馬駐屯地では、出動にそなえ、陸上自衛隊東部方面隊隷下の第1師団が万全の用意を整えていた。だが、精強をもってなる六千名以上の大部隊も、かんじんの命令が令達されてこないため、ただ待機することしかできない。

「おねがいです夕霧一佐。わたしだけでも行かせてください」

 栴檀せんだん三等陸佐が懇願する。栴檀だけではない。防衛出動ができないのなら、災害派遣や救助の名目でもよい、とにかく現地へ向かわせてくれ。そう熱望する隊員が後を絶たない。何かしなければと、いてもたってもいられないのだ。

 同じ自衛官として、部下たちの胸中が痛いほど理解できるだけに、夕霧一等陸佐は切歯扼腕せっしやくわんの思いで言った。

「文民統制の原則以前に、どの程度の規模の被害が出ているのか、敵機の数は、こちらに残された戦力は、それらの情報が不十分な現状下で、いたずらに部隊を拠出するわけにはいかない。おまえたちまでもが命の危険にさらされる。それを容認はできない」

「自衛隊に入ったときから、死ぬ覚悟はできてます」

 壮烈な意思。かれらは他者のために自身の命を捨てられる。おのが命を軽んじているわけではない。死はだれでも恐ろしい。自分の命が惜しいのは生物として正常な思考だ。個体にとって、命は至宝ですらあるだろう。

 そのみずからの命よりも他者の命を大切に思うことができる。ほかの動物にはけっして見られない、地球上で唯一人間だけがもつ精神。

 それは高潔で、人として、自衛官として、えがたい資質であった。

 だからこそ、かれらのあたら有為な命をむざむざ散らせるわけにはいかないのだ。

「栴檀三佐。気持ちはわかる。だがな、おまえも仮にも幹部ならわかるだろう。わたしや連隊長、師団長は、おまえたち一人一人の命を預かっているんだ。出動して何ができるかも見通しがつけられないなかで死にに行けとは言えない。無意味におまえらを死なせて、どの面さげてご両親に報告しに行けばいい?」

「それをおっしゃるなら、国民が皆殺しにされてわれわれだけが生き残ったのでは、国民に申し訳がたちません」

「出動が命じられれば、われわれ陸自は率先して死地に飛び込むこととなる。まだ死ぬときではない。日本のためにもおまえらを失うわけにはいかんのだ」

 議論は平行線をたどった。そもそも議論ですらないのだ。要請、命令、許可。それらがなければ敷地から出ることすらできない。

 世界でも有数の防衛予算をもち、性能面では世界最高水準の武器装備を保有する自衛隊。だが、法律によって使用することができないのでは意味がない。

「しかし、いくら電波妨害されているとはいえ、徒歩かちで隊員を何人か官邸や市ヶ谷に向かわせているのに、なんの音沙汰もないとは……」

 栴檀の唇が止まる。視線は上官の頭上、さらに先の空を見つめていた。三等陸佐の全身が緊張のあまり震えていた。不審におもった夕霧一佐がおもむろに振り向く。

「あれは……」

 遠い遠い蒼穹、霞む連峰の稜線の上に、黒い点のような影があった。ひとつではない。目算で十以上。影は急激に大きさを増し、練馬駐屯地を駆け抜けていく。

 本能的に危険を感じたふたりは近くに停車してあった軽装甲機動車の下に退避。掌で耳をふさぎ、目を閉じる。

 一瞬、すべての音が世界から消え去る。

 刹那、轟音。

 超音速飛行による衝撃波が減衰しないまま地表に到達。風圧ではなく、音圧によって建物のガラス窓を残らず粉砕していく。

 強力な圧力波が地上を蹂躙、ふたりの陸自幹部を軽装甲機動車ごと吹き飛ばす。

 騒音の嵐が過ぎ去ったあと、あたりはまさに台風一過のような惨状を呈していた。

 転覆した車輛の横で、栴檀と夕霧が立ち上がる。あと少しでも軽装甲機動車の位置がずれていたら、ふたりは四・五トンの車体の下敷きになっていただろう。

「あの戦闘機は……」

「見えたのか」

 栴檀は頷いた。飛び去っていった影を視認できた時間は一秒もない。真夜中でも二キロ先の鴉が見えるという驚異の視力をもつこの若い男は、それをはっきり目に焼きつけていたのだった。

「F-15級の大型の機体に長い首、広い翼、双発、二枚の垂直尾翼……」脳内に保存した写真を見るように、外見的特徴を述べていく。「あれは、まちがいなくSu-27“フランカー”系列の戦闘機!……」

 自身の言葉に、栴檀は驚愕していた。

「しかも、テイルコーンや垂直尾翼の形状が微妙にSu-27とは違っていました。カナードがないからSu-30でもSu-33でもない。おまけにわたしの見間違いでなければ、あの“フランカー”、エンジンノズルに可変機構が装備されているようでした」

「待て、待てっておい……」

 夕霧の太い造作の顔にも驚きがあった。その驚きが、畏怖と恐怖に変換されていく。

「“フランカー”シリーズの機体でSu-27でもSu-30でもない、しかも推力偏向装置をつけているとなると……」

 栴檀の童顔が苦虫を噛み潰したようにゆがんだ。

「しかし、いま攻撃してきているのは、北朝鮮空軍なんだろう? 北朝鮮はSu-27さえ保有していないはずだ。ましてや……」

 思考に沈む夕霧。栴檀が詰め寄る。

「あの敵機群は爆撃機編隊の直掩に向かったと思われます。空自のイーグルではあの機体にかないません。武器使用を禁じられているならなおさらです」

 夕霧も首を縦に振った。

「最悪の事態を想定せねばならん。栴檀三佐」

「はっ」

「第1普通科連隊に同行し、現況の把握、『情報収集』を補佐せよ」

 背筋をのばし、半長靴の踵をあわせる。

「了解。情報収集を補佐します」

 そこで敵からの攻撃を受けた場合は、正当防衛として武器の使用が可能となる。そのための一個連隊だ。

 ほんとうなら隊員の犠牲を前提とした出動など、夕霧としても許せるものではない。だが、あの戦闘機が本物なら、状況がまるでちがってくる。

 編制のため駆け出していった栴檀の後ろ姿を、夕霧は言葉もなく見送った。


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