十一 はれのちくもり、ときどき、黒い雨
北米航空宇宙防衛司令部(NORAD)は端的にいって、世界でもっとも安全な場所である。コロラド・スプリングスの地下深くに建設されたこの要塞は、世界が全面核戦争に突入しアメリカの存亡をも左右されるような事態になったさい、大統領をはじめとする合衆国の実力者たちが避難して指揮をとる、もうひとつのホワイトハウスといってよい。地下にあるため地表で核が炸裂しても耐えられるうえ、施設本体を防御する特殊装甲壁により、地下貫通型の核兵器の直撃をくらっても内部に被害がおよばないよう設計されている。
NORADの心臓部である広大な作戦室は、全軍を指揮できるキャパシティをもつ。たとえアメリカ合衆国の地上の都市がすべて焼け野原にされようとも、NORADは衛星を通じて敵を捕捉しつづけ、各国と緊密な連絡をとりあい、あらゆる攻撃を行使できるのだ。
ボーイングVC−25Aがピーターソン空軍基地に到着し、着陸後、格納庫へと誘導される。タラップが接続され、ドアが開いた。
タラップの下では、先んじてNORAD入りをはたしていた北方軍司令官、ポールポート海軍大将が待っていた。すぐうしろに整列していた出迎えの百人ちかい兵隊が、小銃をひかえ、挙手の敬礼を大統領におくる。
タラップを駆け下りたヒットリアを、ポールポートも敬礼でむかえる。
「お待ちしておりました。大統領閣下」
北方軍司令官は、ここ、NORADの司令官も兼任することになっており、副司令はカナダの空軍司令が務めるきまりになっている。だがポールポートの傍らに副司令の姿はなかった。一方的に空軍を引き揚げたアメリカに対しカナダが強い不快感をしめし、NORAD副司令たるカナダ空軍中将を急遽、帰国させてしまったのである。ヒットリアとしてはそれでもかまわなかった。一国専行こそアメリカのあるべき姿だ。
「ごくろう。作戦室は?
「ご案内します。こちらへ」
ポールポートのあとを、大統領を筆頭にした一団がぞろぞろとついていった。
施設と外界とを隔てる重さ二五トンの分厚い防爆扉が仰々しく開かれ、合衆国最高指揮官にしてNORADの最高指揮監督権をもつ主人とその随員をむかえいれた。
NORADは緊急時の核シェルターとして機能するとはいえ、ふだんは留守にされているかというとそうではない。むしろ二十四時間態勢で世界各国の核兵器運用可能な戦略爆撃機やミサイル発射基地を監視している。また毎年きまって十二月になると出現する、世界中の空を時速十万キロでつっ走る謎の未確認飛行物体……コードネーム“サンタクロース”を追跡するのはいまやクリスマス・シーズンにおけるNORADの風物詩である。五〇年ちかく観測されつづけているのに敵性か否かもわからないこれと同様の飛行体がほかにも存在するかもしれないため、NORADは一年中空に監視の目を光らせている。だから大統領たちがハイテクの粋を結集した作戦室に足を踏み入れたときは、すでに各種のデスクトップ・コンピューターや電子機器、それらを駆使する人員はすべてフル稼働の状態に入っていた。その情報集積能力、指揮能力、そしてスピードは、執務室で急造させた臨時の司令室とはとてもくらべものにはならなかった。
さっそく、諸将やスタッフたちは、NORADの職員にまじり、協力しあいながら、それぞれの部署につき仕事をはじめた。
「……より司令部へ。聞こえるか。応答してくれ。当方死傷者多数……救援を求む……」
つながった無線から聞こえてくるのは、マンハッタンにて敵巨大生物と交戦した部隊の生存者のとぎれとぎれの声だった。
「司令部、どこでもいい、はやく救援を……ここは地獄だ、この世の終わりだ」
「こちらNORAD、聞こえている。偵察機にて現状を確認している。大至急救難チームを派遣する。それまでもってくれ」
「衛星にて当該地域の画像を撮影しましたが、煙によりニューヨーク全域がブラックゾーンとなっており、状況確認が不可能です」
「医療班はどのくらいで着く?」
ヒットリアがポールポートに質す。
「無人偵察機での状況確認後、三〇分以内に現地入りさせる手はずです。またメディカル・スタッフとともに、分子生物学の権威などの専門家も同乗させています。破壊された跡を調べれば敵生物がいったいなにものなのかつかめるかも」
傍らで聞き耳をたてていたマヘンドラが口を挟む。
「生物学の権威? そんなものを同行させてなんの役にたつ?」
国防長官をポールポート大将が睨みつける。
「あれとて生物にはちがいありません。われわれにはどんな小さなてがかりでも必要なときなのです」
マヘンドラは大げさに肩をすくめてみせた。
「大統領」チトーがヒットリアに首をめぐらした。「グローバルホーク、二分後にマンハッタンに到着予定」
「メインスクリーンに映せ」
正面のもっとも大きい画面が切り替わり、海と大地を鳥瞰する映像になる。グローバルホーク無人偵察機から衛星経由でリアルタイム送信されてきている映像だ。高高度からの眺めをみているとまるでじぶんが鳥になった気分さえ覚える。
ロウワー湾側から進入したグローバルホークは、ニューヨークを視界に捉えながらマンハッタンに進路をとる。
まず見えたのは、ブルックリン橋……いや、ブルックリン橋だった残骸、とでもいうべきか。典雅なゴシック建築を取り入れたアメリカ最古の吊り橋のひとつはいまや見る影もなく、ブルックリン側の主塔をのこすのみであり、三分の二ほどは消失し、のこった部分もところどころから火の手があがっていた。
さらにマンハッタン島の全容が明らかになるにつれ、その場の全員が息を呑んだ。まず、とてつもない量の黒煙が島全体から立ち昇っていた。まるでマンハッタン島が超巨大なフライパンになってしまったかのようだ。
その煙幕を足下において天の高みから傲然とそびえているのは、ヒットリアたちもエアフォースワンの機上から見たキノコ型の暗雲だ。やや輪郭がぼやけはじめてはいたが、そのぶん広範囲に傘をひろげ、幽玄なからだの丈をさらに高くのばしつつあった。いまでは傘の頭頂は対流圏と成層圏の境目にまでなんなんとしている。キノコ雲のところどころで、稲妻がひらめき、紫電を散らす。雲中の粉塵や微粒子が摩擦しあい、電位差を生じせしめているためと思われた。雷電が閃くたび、巨雲の陰影が明瞭にあらわれて、ぶきみながらもどこか侵しがたい、悪魔的な神秘さを演出する。まさにこのキノコ型の雲こそは地獄の使者だった。こんな恐ろしきものが現出するのは世界の終末のときくらいしかあるまい……みなの心ははやくも敗北感に屈服しそうになっていた。
「グローバルホーク、赤外線探査モードに移行します」
コントローラを握るオペレーターはつとめて事務的にいった。
熱分布を可視化するサーマル・モードなら、朦朦たる煙雲のただなかにつっこんでも明瞭な映像が確保できる。煙に隠れたビルに激突するおそれもないわけだ。
映像が黒煙のなかに突入していく。赤外線探査がはじまり、煙を透かして白と黒のモノクロに塗り分けられた二色の世界に切り替わる。
映されるのは、真っ白に輝くのっぺりとした大地と、まばらにのこるビルの基礎部分のみ。さらに爆心地……五番街へ近づくにつれて瓦礫すらなくなり、ただ平坦なしろい地表が続く。マンハッタンが全滅したという情報は、もはや疑いの余地はなさそうだ。
グローバルホークを遠隔操作していたオペレーターが緊張を帯びた声を上げた。
「レーダーに反応あり。ヨンカース市近郊に二〇〇メートルオーバーの移動体」
「奴だな。捕捉できるか?」
ヒットリアのことばに、オペレーターは了解と返した。
グローバルホークの電子光学ならびに赤外線センサーは、一メートルの分解能と、面積にして七万四〇〇〇平方キロメートルもの広域にわたり監視可能という捜索能力をもつ。つまり、それだけの広範囲の中、一メートル以上の大きさをもつものならその目に捉えられるということだ。二〇〇メートル超ものでかぶつを映像化するくらい造作もない。
はずだった。
「妙だ。レーダーによれば、とっくにIR(赤外線)画像に現れていてもおかしくないんだが……」
オペレーターのとまどいに、一同に不安が影のようにひそやかに広がっていく。
「減速して念入りに確認しろ」
グローバルホークは偵察機として有名なU−2と同様にアスペクト比のきわめて大きい(つまり機体に対してものすごく細長い)直線翼をもっているため、時速八キロ程度の超低速でも失速せずにゆっくりと飛び、じっくり情報収集してまわることができる。自転車よりも遅い速度にまで落としながら、レーダースコープに映る移動物体の彼我との距離、それに方位をたしかめ、慎重にカメラをむける。しかし、やはりなにも映らない。レーダー上では巨大生物は真正面にいて、距離はすでに五〇〇メートルを切っている。ちがうオペレーターがじぶんの席のコンピューターでグローバルホークの機器に異常がないか検分する。すばやくキーボードをたたき、首を横にふった。
「レーダーおよびIRセンサー、すべて正常に作動しています」
ヒットリアが解せぬ表情であごをなで、そしてその双眸に光が走る。
「将軍。たしかきみは、怪獣に対し、赤外線誘導式の兵器が無効である可能性を示唆していたな」
「は。事実、マンハッタンで戦闘した観測ヘリは、FLIR(前方監視赤外線)によるターゲット捕捉ができなかったとの交信をのこしています。FLIRが有効であれば建物越しでも捕捉可能なのですが、それが機能しなかったため、やむなく目標と遮蔽物なしに機体を晒し、レーザーによる精密計測を……」
いいおわる前に、チトーの思考が解答に導かれる。大統領も肯んじる。
やつは、赤外線センサーの類いに映らないのだ。赤外線に対するステルス性をもっているといってもよい。熱をなんらかの方法で隠しているか、あるいは周囲の気温に体温が染まる変温動物か……いずれにせよチトーの懸念が的中してしまったことになる。
「光学モニターに切り替えます」
映像が一瞬真っ白に光り、フルカラーへと遷移していく。
煙で視界がわるいなかでも存在を主張するそれをカメラが捉えた瞬間、作戦室の人間たちから驚嘆の声が洩れた。
映し出されたのは、冥界よりいでし悪魔の獣か、それとも傲る人間を裁くために遣わされた神のしもべか。人間とカミナリ竜をかけあわせたような異形の巨大怪獣が四本の脚で街と大地を踏みしめ歩いていた。いく本も伸びる角をいただく頭部や鋭い爪の生えた四肢はかろうじて爬虫類と類似する意匠があるが、換言すればそれ以外、既存の生物のいずれとも相似をみないまったくの異世界からきた邪神かなにかとしかいいようがなかった。後背からひとつづきに流れる長い尾がたえず左右に振られているのは、ああして巨体が移動するときのバランスをとっているのだろうか。
「目標、計測。全長、二六三メートル。真西の方向に時速六〇キロで移動中」
「出撃可能な兵力は?」
チトーやポールポートらが情報を精査し、協議して解答する。
「航空兵力は爆装完了した爆撃機、攻撃機、ガンシップが待機状態。戦車大隊を筆頭に地上部隊も再編成中。巡洋艦、駆逐艦隊がニューヨーク湾へむけ航行中。そのほか、陸軍、海軍、空軍、海兵隊の四軍の兵すべてが控えております。ご命令とあらばいつでも出動可能です」
ヒットリアは部隊編成を表示したスクリーンを見て、じぶんのからだがわずかに震えるのを感じた。作戦に投入可能な兵器は、F-16戦闘機だけでも九〇〇機をこえ、B-1爆撃機が二〇機、A-10攻撃機は二〇〇機をかぞえる。プレデターやペガサスなどの無人戦闘機も多数ひかえ、F-15Eストライクイーグルが計一七〇機も各基地で出撃命令をまっている。世界最強の制空戦闘機F-22は四個飛行隊がスタンバイし、北大西洋では四八機のF-35Cを艦載した新鋭空母<ジョージ・H・W・ブッシュ>と、護衛と対地攻撃をになう巡洋艦、駆逐艦の艦隊が集結しつつある。さらに陸上では新たな戦車部隊や地上ミサイル部隊も展開をはじめていた。地球上の各国から撤収させた在外米軍をも包含した数十万人規模の大軍。通常兵器だけでさえ、その気になれば世界の半分を石器時代に戻すまで焼き払える戦力が結集している。これほどの火力を総合すれば、たとえ異世界よりの悪竜といえど負ける気がしない。
「ご命令を、ミスター・プレジデント」
チトーがいい、王たるヒットリアがこたえる。
「命令する。このアメリカ合衆国大統領、ジョージ・ヒットリアが命令する。殲滅せよ。われらの同胞を地獄の焔で焼きつくした非道なる悪魔の化身を殲滅せよ。われらの焔はソドムとゴモラを滅ぼす正義の焔、神より授かりし聖なる浄火。その正しき力をもって報復することこそ正義であり、われらの創造主への愛のあかしにして父祖への尊崇のしるしである。われらは悪魔に屈してはならない。それは死したはらからへの最大の裏切りである。われわれのこんにちまでの科学と軍事の進歩は、きょうこの日の試練のために存在していた宿命なのだとわたしは感じてならない。われわれの持てる力とは、あの邪竜にこそ向けられるために神がわれわれに作らせたのだ。なればわれらは神の意思にこたえよう」
ヒットリアの朗朗とした宣言が巨大な作戦室に響きわたる。
「オペレーション・ゲオルギウス、発動。殲滅せよ。総力をもってやつを殲滅し、放埒愚昧なる侵攻を阻止せよ」
「了解!」
作戦室がいっそう喧騒に満ちる。
「セルフリッジ基地へ。F/A-18に出撃命令」
「F-16部隊はただちに離陸せよ。目標への一斉攻撃だ」
「AWACS、空中待機中のB-1ならびにB-2を巡航ミサイルの射程内に移動させろ。空爆を決行する」
「艦を湾内へ移動!」
ニューヨーク港に、戦争のために産み出された船団が集結していた。タンコンデロガ級巡洋艦やアーレイ・バーク級駆逐艦が主だった顔ぶれである。
そのなかに、一隻だけ、周りを取り囲むそれらとはまったく異なる艦容があった。
頭上を航空機が通りすぎていく音がして、アランは空をふりあおいだ。油っぽい煙はだいぶ霽れつつあったが、やはり空は灰いろに色褪せていて、燻煙を通して見える太陽は血を浴びたように赤黒くゆらめいていた。航空機の機影こそ見えなかったが、ジェット音だけはたしかに聞こえた。まだ人類が死滅しきってしまったわけではないらしい。
しかし、アランはまったく安堵できなかった。
――地獄だ。ここは地獄の釜の底だ。
灰の街をあてどもなくさまよった。ジャスミンのアパートに向かわなければならないが、ビルというビルがことごとく崩壊し破壊されつくしたマンハッタンは、もはやアランの知るマンハッタンではなく、じぶんのいまいる現在位置も方角もわからなくなっていたのである。おりしも正午付近である。禍禍しく赤銅いろに光る太陽は中天にあり、東西南北を教えてくれない。
疲労困憊のからだをおして、どこか目印になりうる場所にでるまで歩くほかあるまい。そう判断してアランは足を運んだ。勘だけが頼りである。林立するビルがなくなったので見晴らしだけはすこぶるよいが、余塵が視界をいちじるしく劣悪にしており、なにもかもが薄茶いろの靄に霞んでいて、どちらが海の方向かも見当がつかない。無闇やたらに歩きまわるのは危険と思ったが、じっとしていたからといって事態が好転するようにも思えなかったのだ。
汚れた雪のような灰が音もなく降り、くるぶしくらいまで積もっている。足を踏み出すたびに舞い上がり、地表も空中も灰だらけだ。呼吸とともに灰もいっしょに吸いこんでしまって、喉の水分をたちまち奪って粘膜に張りつく。アランは肺病みのようにはげしく咳き込んだ。からからに乾いた口中の灰を唾液ごと吐き出す。唾は、黒く粘ついて糸をひいた。
まともに息もできないので、アランはハンカチをとりだし、さきほど自販機から盗んだミネラルウォーターですこし濡らして口と鼻にあてがった。だいぶ息が楽になったが、四、五分もすると目詰まりをおこして空気を通しづらくなり、離して見てみると、ハンカチは泥水に浸したように真っ黒になっているのだった。そのたびにアランはペットボトルの水で汚れを洗い落とさなければならなかった。
どこもかしこも灰にまみれていた。ポンペイを滅ぼした火山灰のようなそれらを踏みながら歩いていると、建物の瓦礫か、ちぎれた鉄筋を露出させたコンクリートのかたまりが地平に目立つようになってきた。倒壊したビルの残骸だった。比較的背の高いビルは突き飛ばされたようにぶっ倒れており、二階建てくらいの民家は真上から踏み潰されたようにぺしゃんこになり、屋根が一階部分と化しているような有り様だった。爆発時の衝撃波の圧力によるものと思われた。しらずしらずうつむいていた顔を上げれば一帯は瓦礫の山脈だった。いままでアランが歩いてきたところは瓦礫らしい瓦礫はほとんどなく、火山灰みたいなのが堆積に堆積をかさねた灰褐色の沙漠とでもいうべき光景がひろがっていて、ぶきみなほどなにもなかったが、ここは灰のなかに大小さまざまなコンクリートの岩塊がうずたかく山と積まれていた。コンクリートの墓場というべきかもしれない。
不燃物のはずの瓦礫が燃えていた。すぐ上の空が蠢いている。炎の熱が大気をかき回しているのだろう。いったいなにを燃料に燃えているのか。それはむしろ燃焼という現実の物理現象ではなく、地獄から湧いて出た小鬼が炎の姿をとってそこにあぐらをかいて居座っているかのようだった。炎は瓦礫の山のおちこちに増殖し、燎原の火そのままに燃え広がっていった。悪魔の眷族が饗宴を開いて小躍りしているのだ。悪鬼が笑う声を聞いた。煙に巻かれては命に関わるので、火の手を避けて大きく迂回せざるをえなかった。
歩を進めるにつれて瓦礫はますますその量をふやしていった。アランはなんとはなしに、じぶんがいた場所こそ地獄の扉が開かれた大爆発の爆心地で、その熱のすさまじさに瓦礫すら残らなかった、距離の離れたここらはまるまる消滅するまでにはいたらずに、潰滅状態にはちがいないけれども、瓦礫がのこる程度の威力にまで爆発の力が減殺されたのだろうと考えた。
――運がいい。おれは運がいい!……
アランはじぶんの意思とは関係なしに震えだしたからだを抱きしめた。膝も笑いはじめて、気をぬくとその場にへたりこんでしまいそうだった。
そのとき、瓦礫の渓谷から陽炎のように現れた一団があった。
ゆらゆらと歩きゆく人人は、いずれも全身に煤を塗りたくったように真っ黒だった。衣服ははだけた汚ならしいボロ布をまとっているばかりで、みな一様に両手をだらしなく前に出して、指からやはりボロ布みたいなのを垂らして行進している。足取りは幽霊のようにおぼつかない。かなりの大人数だ。ざっと三、四〇人はいよう。だが、みなひとことも喋らず、ただひたひたと歩を進める音だけがその場に響いているばかりであった。
とまれ生存者だ。アランは久しぶりに人間をみた気がして、一行に駆けよった。
声をかけようとして、かれらを間近に見たアランは絶句した。かれらの着ているボロと見えたのは、布ではなかった。極度に重い火傷で炭化した皮膚が剥がれて、それがかろうじてつながって身体からぶらさがっているのであった。背中をはじめとした上半身は、表皮がむけて、その下の脂肪層や筋肉をあらわにして桃いろに光っていた。光っていたというのはつまり、そこから滲みだした体液が光を反射しているということだった。なかには破れた腹から内臓を半分はみ出させて歩いているものもいる。さらに、両手でボロ布をつまんでいるように見えたのは、重度の熱傷を負って変質した肩や二の腕あたりの皮膚がまるで婦人用の腕カバーを外すときのようにめくれて、それが指先まで到達し、爪の生え際で剥けるのがとまっていたのだ。腕をさげて歩けば垂れた皮が地面にこすれ、引っ張られて痛む。だからみんな自然に両手を胸の前くらいにまであげて歩いているのであった。皮膚の剥離した腕もやはり皮下の筋繊維がさらされ、ぬらぬらと照りかがやいている。
例外なく頭髪は焼かれていた。縮れ毛になっているくらいならまだいいほうで、完全に禿げ上がっているもの、右か左のどちらかが禿げているもの、頭皮までずる剥けになってハムみたいになったのをペロリと垂らし、中の頭蓋骨が丸見えになっているものが大多数だった。みながみなそんな風貌なので男女の区別もつかない。衣服らしい衣服も着ておらず、ほぼ全裸に近い。靴さえ履いていない。まるで亡者だ。どす黒く汚れた血だるまの群衆が無言でしずかに歩く。だがかれらに行くあてがあるようにはアランには思えなかった。例外なく瀕死の重傷である。先頭のものが歩いているからついていっているという、ほとんど原始的な本能だけで逃げているようであった。
見ている前でひとりがなんの前兆もなく倒れ、ぴくりとも動かなくなった。小腸が腹からこぼれていた人だ。うつぶせになったその背中は、肉の桃いろとおびただしい出血の赤と、滲んだ膿の黄緑いろとで鮮やかに毒々しく彩られていた。幽鬼の一群は、なんの気にも留めるふうもなく進んでいく。
アランは、かれらを見ているとそのまま黄泉路に連れられてしまいそうな気がして、どことなく気味が悪くなって、その場を辞した。
瓦礫の下敷きになって息絶えている市民も多く見かけた。必死に這い出そうとしたのかコンクリートの山から上半身だけ出して絶命しているものや、片足だけが外にはみだしているものなどがいた。いまにも動きだしそうだった。
なにかにつまずきそうになって足下に視線を落としたアランは、あッと叫んだ。ひと目見たときには焼け焦げた木炭が横たわっていると思ったが、それには手があり足があり、頭があった。火傷を通り越して炭どうぜんの焼死体となった人間であった。顔はもう落ち窪んだ眼窩と鼻と口がなんとか判別できるくらいで、もとはどんな面立ちをしていたのか想像もできなかった。胸に乳房のふくらみがあったので女とわかったくらいである。全身が黒く焦げたなかで歯だけが白く光っている。死体とわかると、急にムーンとするような臭気が鼻についた。炭となった彼女からは、食肉を焼いたときとはまったくちがう、腐った魚を燃やしているような吐き気をもよおす悪臭が漂っていた。肺のなかがにちゃにちゃになりそうなにおいだ。これほどのひどい焼けかたは、ただ火災に見舞われただけでは説明がつかない。大爆発のさいの強烈な熱をまともに浴びたのだろう。臨終にさいして神に現世の罪の懺悔をする間もなく死んだのだ。各々のパーツがあいまいになった顔がその無念を悔いているかのようだった。
消え入りそうな鼻唄が聞こえた。頭をそちらに動かすと、うずくまっている女がいた。女は瓦礫と向かい合いながらからだをゆるやかに前後に揺らし、子守唄を歌っていた。子供を抱いているらしい。後ろから覗きこんで、アランは顔をしかめた。母の腕に抱かれたまだ小学校にもあがらないくらいの幼子は、熱で白濁した目をむき、口から血のかたまりを吐いていた。いや、血ではない。それは、食道や胃が裏返って口から飛び出していて、しかもそれがひどく充血しているので血塊を吐いているように見えるという式であった。どうすればそんなむごい死にかたになるのだろう。爆発のときの圧力でやわらかい子供のからだが潰され、こうして中身を外に出させたのだろうか。子供を抱く母親も頭部から出血して黒い髪がべとべとになっている。アランの影も目に入らぬようすで、どこか遠くを見るようなうつろな目で子守唄を歌い続ける。……
途中で何人もの死者を見かけ、生存者を見かけた。しかし生きているものも死者と見分けがつかないくらいのひどいありさまである。眉庇して泣きわめく少女、半狂乱になって血まみれにもかかわらず髪を振り乱して走り回るもの。火傷なのか、髪も眉もなくなって、瞼が溶けて癒着し、目を開けられなくなっているもの。からだのどこかの骨を折って痛い痛いと叫ぶもの。精神を錯乱しているらしく虚空にむかって「えっと! えっと……」ばかりいっている男。みな血と泥だらけだった。ここはほんとうにこの世なのか?
瓦礫に背をもたれかけて座りこんでいるのが過半だった。微動だにしないので、真実、死者か生者かわからない。顔をよせてみると、息のあるものは、ほぼかならず水を欲しがった。アランはポケットのペットボトルに手を伸ばしかけて、逡巡した。五〇〇ミリのペットボトルには水はもう半分くらいしかのこっていない。ジェシカとジャスミンのぶんを確保しておかねばならないし、だいいち自分がそこまでたどりつくのにこれで足りるかどうかもあやしいのだ。アランは断腸の思いで立ち去った。
やがて広けた場所に出た。樹木が整列したように並べられて立っている。この時節なら青青と繁っているはずの葉が一枚とてない。熱で焼けたか爆風で吹き飛ばされたか。根っこからへし折れて倒れているのも何本かあった。
死んだ木々をぬけると、滔々たる流れが目に飛びこんできた。川だ。大河だ。川は右から左へ流れている。ということはこの川はハドソン川だ。なら、この川沿いに上流へ向かえばいい。
水のにおいか気配につられた避難民たちが河を見つけ、狂喜して殺到する。河べりに膝をついて両手でからだを支えて、水に顔をつっこんでがぶかぶ飲む。しばらくすると動かなくなった。屈めていた上体が伸び、川面に突っ伏して彼は死んだ。水が飲めた安心感から死んだのか、それとも呼吸するのも忘れて水を飲んでいたので窒息死してしまったのか。アランにはわからなかった。そうして水を飲んで死んだ人人はほかにも大勢いて、河岸は同じように上半身を水中に浸けて絶命している市民であふれていた。それにくわえて、爆発の直後は火傷に苦しんだ人や火からのがれようとした人たちがたくさん河に飛びこみ、そして溺れ死んでいったのか、数百メートルはある川幅を覆いつくさんばかりに水死体が浮いていた。死んだばかりの死体は沈むはずだから、おそらく川底にも死体が山とあってその上に乗りあげているのだろう。そう考えるとじつに何千人、いや一万を超す人間が沈んでいることは想像に難くなかった。
まるで筏だ、とアランは思った。これは、人間の筏だ。
暗憺たるきもちでまた進むと、行く手に火焔がのぼっていた。離れていても刺すような熱気が肌をあぶる。ほうぼうで火災がおこっている。爆発のときに撒き散らされた炎が地上に宿って燃えているのだろうか。延焼とか類焼とかではない、地球が火を噴いて咆哮しているとしかいいようがなかった。
風が出てきた。微風だったのがたちまち髪や衣服をさらう強風になる。炎が風に煽られてますます火勢を強くする。
突如、ゴーッというガスバーナーを噴射するような音がしはじめて、アランは退嬰した。
「神よ……」
畏怖のことばが洩れた。
火焔が、急速に大樹をしのぐ高さにまで成長し、しかも高速で渦を巻いていた。炎の竜巻だ。地獄の炎が渦を巻いて天を突き破らんとしている。
渦はみずからに引き寄せる方向の颶風を生み、あたりのものを手当たりしだいに呑み込んだ。アランはひときわ大きい瓦礫にしがみついて踏んばった。しかしアランの傍らにいた年嵩の男は、見えない手に掴まれたように吸い寄せられ、悲鳴もむなしく転がりながら逆巻く火柱に放りこまれた。彼は生きながらに高熱の火焔で身を焼かれた。呼吸のために息を吸おうとすると気管と肺臓が焼け、異物を吸入せまいと咽頭が自動的に閉じ、自家窒息に陥った。ほかにも多くの人人が奔騰する炎の竜巻に吸いこまれ、なかで揉みくちゃにされながら燃やされた。あとは黒い人形のようになった犠牲者たちが荒ぶる焼却炉にもてあそばれ、おちこちにからだをぶつけ、炭化した手や足がちぎれていくだけだった。
局所的に強い火災が起きると、急激な上昇気流が発生し、ために四方から空気が風となって流れこんでくる。それがちょうど火焔を回すように作用すると、炎が竜巻となって天地を焦がす火災旋風がうまれるのである。
突風に抗しながらアランは火災旋風の手のとどかぬところまでのがれた。
アランはもとよりだれも気づきはしない。火災による上昇気流は火災旋風を生むだけにとどまらず、暗い空で汚れた雲を形成しつつあることを。
行く先々で負傷者がうめき声をあげている。水……水……と壊れたレコードのように繰り返す。
雷鳴が轟いて、手を伸ばせばとどきそうな低いところを黒い雲が五番街の方面から急速に流れこんできた。ぼたり。雲を見上げていたアランの顔に、雨が一滴落ちた。一滴の量がかなり多い。拭った手を見たアランは眉根を寄せた。雨水が重油のように真っ黒だった。真夏なのに震えるほど寒くなった。雨はたちまち大雨になってあたりに降り注いだ。瓦礫も地面も避難民も見る間に黒く染められていく。黒い夕立だ。潦があちこちにできたが、やはり黒い。原油プールみたいだ。おまけにやたらに粘っこい。
ただの雨ではないと思った。しかし渇死寸前だった避難民たちにはどうでもよいことらしく、降ってきた雨でできた濃厚な黒い水溜まりに天の恵みとばかりに殺到し、夢中でむしゃぶりついた。ひとつの潦に何人もが突っ伏して、コールタールのようにとろりとした黒い水をわれがちに飲む。輪に入れてもらえない者やあぶれた者は天にむかって大口を開け、雨粒を受け止めていた。その顔は黒檀のように黒くなっている。
雨はすぐにやんだ。雲もなくなって、その上の粉塵の隙間から青空が薄片のように覗いた。
雨に打たれたアランのからだは黒くまだらに染まっていた。ペットボトルの水で腕を洗ってみたが、付着した黒い汚れはまったく落ちなかった。
「空気中の塵やホコリが雨にまじって落ちてきたんでしょう」
通りがかっただれかがそう声をかけてきた。理屈だが、ではこの汚れの頑固さはどういうことだろう。油でも混じっているのだろうか。
ふと、なにかの気配がして、見てみると、老人が立っていた。身なりはみすぼらしく、破れた上着にズボン、なぜか脚にゲートルを巻きつけている。顔は東洋系の、それも極東の面貌だ。老人はまばたきもせずにアランを見つめている。
「どうかされましたか」
問いかけても弊衣蓬髪の老爺は棒立ちのように動かない。目を離し、ふたたび視線を戻すと、その老人はどこにもいなくなっていた。ふしぎに思いつつも川を辿った。
歩きながらアランにはひとつの懸念が生じていた。建物という建物はどれも木っ端微塵に砕かれている。ジェシカのいるジャスミンのアパートもこれらのようにふっ飛ばされていたら……アランは悪い妄想を振り払うようにかぶりを振った。見もしないでそんな弱気なことを考えてはいけない。
もうセントラルパークを過ぎたころだろうと思われるくらいまできた。ここはさらに爆心地から遠くなっているからか、建物は全部が全部壊されているというほどでもなかった。少なくとも外見だけは原型を留めているのが多数である。しかし、それにしたところで爆発のあった方角に面していた壁面は石炭でできているかのように黒く焦げていて、いまだにぶすぶすと煙をあげていた。窓ガラスもおおかた割られて、アスファルトを踏む靴はしばしばガラスの破片を踏んだ。アスファルトが靴の裏にひっつくように柔らかい。まだ爆発の余熱がのこっている。オフィスが多いからだろう、空に書類が雪か花びらのように舞っていた。
このぶんなら、ジャスミンの六〇階建てのアパートも倒壊というほどの被害はまぬかれたのではないかとアランは淡い期待をいだいた。
角を左に折れてアパートが見える通りに出る。アランはしばし立ちつくした。
「なんてことだ……運命の星よ、なんてことを……」
六〇階建て、地上二〇〇メートルほどの高層アパートは、ピサの斜塔よりも傾いて、街路を挟んだ向かいの同格のビルにもたれかかっていた。アパートからぽろぽろと砂塵だか欠片だかがこぼれ落ちている。いまにも中層あたりがもちこたえられなくなって折れるように倒れてしまいそうだ。頭をかかえて呆然と佇立していたアランは……ビルのエントランスへ駆けこんだ。
二階まで吹き抜けのエントランスは電気が落ちており、廃墟のように真っ暗だった。あたりまえだがエレベーターは使えない。使えたとしてもビルがこんな状態では使いたくない。
アランは迷わず非常階段を駆け上がった。段を飛ばしてひたすら上をめざす。一〇階まで行かないうちに足が棒のようになり、からだに酸素が足りなくなった。空気を求めてあえぐ。思わず水を飲みたくなる。アランはこらえた。この水はジェシカのものであって自分のものではない。
手すりをつかみ、自身のからだを牽引するように昇っていく。二四時間以上も寝ずに働いて、怪獣に追いかけられ、爆発をやりすごし、それから何ブロックも彷徨して、アランの体力はもう限界だった。これ以上無理に動かしたらばらばらになってしまうと全身が悲鳴をあげていた。それでも、たとえ四つん這いでしか階段を昇れないようになっても、アランはとまらない。
「母なるマリアよ、われら罪深き人の子を守りたまえ。われらの行く手を惑わす冷たき闇をあなたの暖かい慈愛と救恤の光で照らしたまえ。わたしの愛するものを守りたまえ。家族こそわたしのすべて。ほかは塵と空気。わたしも含めてむなしい塵と空気……」
斜めに倒れかけたビルの内部は、やはり常軌を逸した迷宮だった。壁が床になりかけている。油断すれば地上一階までまっ逆さまだ。
どれほどの時間を昇りつづけただろうか。階段の踊り場に、次が五五階だと知らせるプレートがあった。
アランは飛ぶようにして鉄扉にしがみつき、掴めるものはなんでも掴み、足で踏んばってドアのほうへ踊りでた。
通路もほとんど四五度ちかく傾斜していた。平衡感覚が狂ってしまいそうだ。
ぼろぼろに崩れた廊下を慎重に進み、ジャスミンの部屋をさがす。あった。ここだ。ドアノブに手をかける。しかし開かない。ドアと枠がゆがんでしまったのだろう。それ以前に鍵が閉まっている。ジャスミンの部屋は傾斜した通路の上側に位置している。アランは半分床と化した壁をあとじさって天井との接線まで距離をとり、助走をつけてドアに体当たりした。だがもともとからだが疲弊しきっているうえに登り坂で速度が殺されて、アランはぶざまに撥ねかえされ転げ落ちた。起きあがるのでさえ苦労するありさまだった。
あきらめずに体当たりを繰り返す。何度からだをぶつけたかしれない。最初は右肩からタックルしていたが激痛がはしりはじめて、服をめくってみると肉が握りこぶしよりも大きくぶよぶよに盛り上がって濃い紫いろになっていた。だがアランはさして気にとめなかった。肩はもうひとつある。
左肩をぶつける。ドアが変形してへこみはじめる。だがドアはなおもアランを拒みつづける。
「邪魔するな!」
雄叫びとともに突進したアランのタックルが、ついに扉に白旗を上げさせた。
登攀するように部屋のなかにはいる。うなりをあげて風が吹き込んでくる。街を一望できる壁一面の窓ガラスがない。ブラインドがむなしく揺れている。ダイニングキッチンもなにもかもめちゃくちゃだ。
手をついて探索していたアランにおぞけが走った。氷のように冷たい液体に右手がふれた。液体はなかば固まり始めていた。アランには見慣れた赤黒い鉄と潮のコロイド。それは引きずったような筋状の跡を曳いて一方向に伸びている。
終点を見てアランはうめいた。魂の脱け殻は見慣れていても、顔を知っているものの骸は見慣れることはない。
女性の上半身が、うつぶせになって息絶えていた。くせの強い長い黒髪が背を覆っている。この部屋の主、ジャスミンに相違なかった。しかしなぜ胴がちぎれているのか。おそらくいまアランがよじ登る取っ掛かりにしている何トンもありそうな瓦礫……かつて天井だったものが落ちてきて、たまたま真下にいて揺れかなにかで転倒していたジャスミンの腰から下を切断するように潰したのだろう。アランはそのときの光景をまざまざと思い浮かべた。上半身だけになりながらも、自身を呼ぶ再従姉妹の声をたよりに躄となって腕を使って這ってむかおうと奮闘したジャスミンの姿を。引きずった血の跡、尾を曳くように腹腔の断面からこぼれている小腸や大腸、肝臓などのはらわたが彼女の死にざまを物語っていた。ジャスミンはこんな姿になりながらもジェシカを助けようとしていたのだ。アランの目尻から涙が落ちた。
さらによく検分してみると、前方へ伸ばされたジャスミンの右手の人差し指が部屋の奥のほうを指していた。ジャスミンは、アランがきっとくると信じて、いまわの際にジェシカがいると思われる場所を教えんと指を指してこと切れたのだった。
ただの偶然かもしれない。だがアランはそうは思わなかった。ジャスミンの意志をつぎ、彼女が無言で教えてくれた方向へと足を伸ばした。
天井が崩落して広かった部屋は見る影もない。ジェシカはほんとうにここにいるのか?
「ジェシー。ジェシカ。どこにいる、返事をしてくれ」
叫んだつもりだったが、疲労と渇きとで声に力が入らず、かすれたようなささやきにしかならなかった。だれの耳にも届くはずがないと思われた。
呼吸音が聞こえた。アランは心臓が高鳴るのを感じながら冷静にその音を聞きさだめた。こっちだ。この瓦礫の下から聞こえた!
砂ぼこりだらけの石膏ボードの破片や土塊を掴んでは投げ捨てる。ひときわ大きい一枚の瓦礫を取り除いたとき……アランは顔をくしゃくしゃにして今度こそ叫んだ。
「ジェシカ!」
土ぼこりで汚れ、砂いろになった豊かな金髪をまとったジェシカのかんばせがあった。目はとじられていて頬は白臘のように色がない。死んでいるようにさえ見える。だが生きている。呼吸をした音をたしかに聞いた。
「ジェシカ、おねがいだ、目を、目を開けてくれ」
アランの懇願に、ジェシカの長い睫毛が小刻みに震え、そして夜明けに日が水平線から昇るようにその瞼がゆっくり開かれる。
深山の木々を彩る緑の瞳がアランを映した。
「アラン……?」
翡翠の瞳に明瞭な意思の光が戻っていく。
「そうだよ、ぼくだよジェシカ。よかった……」
ジェシカも優しくほほえんだ。
「あなたがここにいるなんて……ここは天国?」
「いや、きみもぼくもまだ死んではいないよ。ここはこの世さ」
「ちがうわ、アラン……」頬に血の気が戻ったのか、さっと朱が差した。「あなたがいれば、わたしにはどこだって天国になるってこと」
ふたりは笑いあった。塵や埃がたえず舞うなか、咳をしながらの笑いだった。
「信じられない……またこうしてあなたと逢えるなんて」
「約束しただろう、かならず助けに行くと」
ジェシカが感極まった顔をした。
「まってろ、これを全部どけてやる」
ジェシカのからだを埋めている瓦礫をとっていく。最後の大人くらいある建材をどけたとき、アランは声を失った。
「どうしたの……?」
ジェシカの問いにも答えられない。どう言えばいいかわからない。
指の太さほどの鉄筋が、ジェシカの右脇腹から血に濡れて生えていた。ちぎれた鉄筋が彼女の華奢なからだを背中側から貫いていたのだ。飛び出した鉄筋の長さは一五センチないし二〇センチほどもあった。
夫のようすを不審に思ったジェシカがアランの視線をたどり、残酷な現実を直視する。そして、視覚に捉えたことによって負傷の自覚を芽生えさせる。
それは痛覚を呼び起こし苦しめる冷厳な罠。
「だいじょうぶだ、だいじょうぶだよジェシカ。すぐになんとかしてやる」
うつくしい顔を歪めてうめくジェシカをなだめながらアランは打開策を考えていた。ふつう、こういうときは特殊な工具で鉄筋を根元から切断して、鉄筋が貫通したまま医療施設に搬送し、万全の態勢で細心の注意を払いながら摘出手術をおこなう。だがここには鉄筋を切れる工具もなければ応急措置をとりながら病院へ運べる救急車もない。アランは絶望にうちひしがれた。ニューヨークで指折りの医師などともてはやされていい気になっていたがけっきょくは設備がなければなにもできないのか。
アランは決断した。
「いいかいジェシー、これを口にくわえてて」
アランはシャツの裾をちぎって幾重にも折り畳んだものを猿轡にしてジェシカに噛ませた。ジェシカもおおよその見当がついたらしく覚悟を決めた表情になる。
アランは創部をくわしく確かめた。さいわい重要な血管や内臓はそれている。鉄筋もねじくれてはおらずほぼまっすぐな形状をたもっている。からだに与える負担は最小限に留められるはずだ。
「力を抜いて。いくぞ」
ジェシカが大きく息を吐いた瞬間を狙い、アランは彼女のからだをだきかかえるようにして思い切り持ち上げた。轡を噛むジェシカが喉の奥で絶叫し、からだ越しに鉄筋が抜けていくおぞましい感触が伝わってきた。
痛みをこらえるため、ジェシカがアランをきつく抱きしめる。アランもそれに答えた。彼女の痛みをすべて肩代わりできることをこいねがいながら。
バランスの悪い部屋でジェシカを横抱きにしていたアランは、そっと床に寝かせた。ふたりとも脂汗でびっしょりになり、それが灰や粉塵を引き寄せて顔が泥だらけになっている。
失神寸前だったろう激痛がやがて鈍痛になるまでひいていき、ジェシカの呼吸もしだいに整えられていった。
「しかし、ずいぶん軽くなったな」
アランがいうと、
「むかしは重かったとでも言いたいの?」
微笑を浮かべながら返した。表情にも余裕がでてきている。
予想より出血もすくなかった。それは少なからずアランの迅速な手当ての賜物であったのだが、しかしアランはそう思っていなかった。
――神は、まだおれたちをお見捨てにはなっていない。
アランはのこりすくない水のペットボトルを差し出した。ジェシカが受け取ろうとして手を伸ばしかけ、そして首を横にふった。
「あなたから飲んで……わたしのせいであなたにこんなに迷惑かけてしまった」
「迷惑なものか。それに、家族の重みはありがたいもんさ」
だがジェシカがいちど言い出したら聞かない性分なのはよく知っている。アランは形ばかりひとくち飲んでジェシカにボトルを渡した。こんどは素直に受け取ってくれた。
やはり相当に渇いていたのだろう、ジェシカは喉を鳴らして水を飲んだ。そして、涙を流した。
「ごめんなさい……わたしがこんな幼いせいで……」
アランは遮った。
「言っただろうジェシー。謝らなければならないのはぼくのほうなんだ。だから言わせてくれ」
真正面から向かい合う。
「すまなかった、ジェシカ」
ジェシカの赤くなった両目から涙がとめどなくこぼれた。アランはジェシカの白磁の頬を伝う涙を指で拭いながら語りかけた。
「だから……きみもごめんだなんて言わないでくれ」
ジェシカは泣きながら、しかし朝日のような笑顔をつくった。そして、唇がいま言うべきことばを紡ぐ。
「ありがとう、アラン、助けに来てくれて……。それでチャラね」
ふたりは身も世もなく泣いて、そして笑いながら抱擁した。ふたりが長年求めていた温もりが戻った。
アランはジェシカに肩を貸しながら来た道を引き返した。脇腹を貫かれていたジェシカは足腰に強く力が入らない。そんな状態でのこの狂ったビルを降りるのは困難を極めた。
なんとか踏破し、瓦礫だらけの道を南下する。
アパートから五〇〇メートルも離れたとき、低い断末魔が聞こえて振り返ると、向かいのビルにもたれかかっていたジャスミンのアパートが土ぼこりをあげながら倒壊をはじめていた。建物の真ん中あたりに太いひびが入り、そこから崩れるようにして崩落したのだった。
あと二、三〇分もアランの到着が遅れていれば……アランはともかくジェシカの運命は絶望的なものになっていたにちがいない。まるでジャスミンのアパートがふたりが脱出するまで懸命に持ちこたえてくれていたような光景だった。
ふたりはなにを言うともなく、そびらを返してハドソン川の下流沿いを下った。
何十キロも歩き、落伍しかけながらもアランとジェシカは進んだ。ブルックリン橋は崩壊していたが、となりのマンハッタン橋はなんとか渡れるようすだった。マンハッタン島を脱し、さらに南へ行く。ジェシカの意識が時間とともに途切れがちになり、足も前へ進まなくなっている。
「ついたぞジェシカ。よくがんばった、もうだいじょうぶだぞ!」
そこはロウワー・ニューヨーク湾に面したコニーアイランドにあるコニーアイランド総合病院だった。つぎつぎ運ばれてくる負傷者でごった返している。おりしも入り口付近で負傷者の簡単な診察やけがのレベルに応じたトリアージをつけていたグレースが、満身創痍のふたりの姿を見つけて大慌てで駆けよってきた。
「エイブラムス先生、だいじょうぶですか、それにそちらの女性は……」
「いやなに、落とし物を拾いに行っててね」
アランのことばに、肩を借りてうつむいているジェシカの頭がぴくりと動いた。笑ってみせようとしたらしい。だがもう彼女は限界だ。いや限界などとっくに超えている。
「グレース、家内を頼む。脇腹を鉄筋が貫通していたんだ。ほかにも打撲や脱水症状がひどい。助けてやってくれ」
「わかりました。でもエイブラムス先生もひどく衰弱しています。先生も治療を……」
「ぼくなんか最後でもいい。とにかくぼくの妻を……」
グレースは一瞬だまり、そして強く頷いた。
「わたしが責任をもって治療にあたります。先生も休んでいてください」
アランの顔が輝いた。
「ありがとう」
グレースはどきまぎしながらジェシカを預かり、看護師が滑らせてきたストレッチャーに乗せて病院内へと搬送した。
見送ったアランは、ひとり、こぶしをにぎった。
――おれは、勝ったぞ。
こぶしは、自覚ないまま小さく震えていた。震えは、止まらなかった。