ステップ
僕は小学校に入学してから卒業するまでに、四回もの転校を繰り返しすことになる。
小学校の入学式を迎えた僕は、初めての学校生活の一年間を過ごす。そこでの生活は、近くの保育園や幼稚園から入学してきた人以外は、ほぼ初対面であり、不慣れな生活、環境と境遇も似通っているために、比較的親しい友人を作ることが出来た。初めての小学校生活は一年間で終わりを迎える。
小学二年生へ学年が変わる頃、新たな学校へと転校した。どこを見ても、田園風景の片田舎。坂道が多く、トンボが季節関係なく羽を震わせ飛んでいるのが印象的なところだった。田舎の子供達は人当たりが良く、見知らぬ人達の中心に飛び込んで行く勇気を持たない僕には、とてもありがたかったのを覚えている。
体育の時間だった。勇気を試させてもらうと、今時流行らないだろう熱血教師が、男子生徒全員を崖から海へと、飛び込みをさせたことは忘れない。僕たちは海パンだけを履いて崖に立ち尽くす。
「ここから飛び込めたら、お前達は立派な大人になれるぞ! 」
楽しそうに、僕たちに無茶を強要してきた。
「梅田先生! 無理に決まってんじゃん! 」「梅田先生から飛び込めよ~! 」
口々に不満が漏れるのも当然のことで、崖から海面までの高さは八メートルはあり、人間が恐怖するには十分な重圧があった。
「一番目に飛び込んだ奴はヒーロー扱いだ! 」
不満だらけの男子生徒の群れから、徐々に色めき立つ諸君も現れる。それもそのはずで、眼下に見える青い海の波打際には女子生徒が集まって、僕たちの行く末を見守っていた。
「俺、いってみようかな......」「男見せるチャンスだよな」
と、崖の先端から見下ろすも、尻込みしてこちらに戻って来る。
「こ......こえ~」「無理だわ......」
僕は素知らぬふりで、男子生徒の群れに紛れ込む。もちろん、自殺願望なんてものは僕には無い。
『チャンスよ! 瞬』
聞こえないふりをして、海の水平線で群れるカモメの一群を眺める。
『もし、ここで貴方が飛べたらヒーローだわ』
影子と共に生活する中で、僕なりにわかってきたことを列挙したいと思う。
まず、影子の言葉は僕以外には届かない。
影子と僕の影であるシルエットは違うものの、どれも影子であること。普段の生活の中では、僕に寄り添う普通の影である。しかし、影子は僕に気づかれてしまってからというもの、影子自身の実体でいることのほうが、身体に負担がかからなくなったらしい。周りに人の気配が無い時は影子のシルエットとなり、僕の影としての役割を放棄するようになった。
意外だったが、お腹が空くらしい。自分で食べることはしないが、お腹が空いたら耳が声と一緒に彼方まで持って行かれるんじゃないかというぐらい、大きな声で僕に訴えかける。『お腹空いた! 何か食べろ! 』と主語がおかしい日本語を放つのだ。さらに意外なことには、ケーキを僕が食べると同時に、影子も『おいしーい』と幸せに満ちあふれていた。味覚などを含む、五感が共有が出来るらしい。
もう一つあった。意外と周囲の人々は自分の影に鈍感だということだ。影というものはイレギュラーを頻繁に起こしている。動作が影と一致しないことに度々気づくことがあっのだ。もしかしたら、影子みたいな存在は珍しくないのかと、影子に尋ねた。
『貴方が、一度こちらを意識してしまったからよ。普通は気づくことはないはずなの』
ふーん、そうなんだとだけ返事をしたのを覚えている。さほど興味は湧かず、その時はそれ以上の追求はしなかった。
『早く! 他の人に先越されちゃうじゃない! 』
先端まで足を運ぶ奴が増えはじめていた。確かに他の奴らが飛び込んでしまったら、僕やそれ以外の全員が飛び込むことになってしまうかもしれない。とは言っても、僕は地球がひっくり返っても、先陣を切るつもりは毛頭ない。
「影子だけで飛べよ。僕は死にたくない」と、男子の群れから離れて小声で話す。
『なんでよ! こんな簡単なことでヒーローになれるなんて、そうそう無いわよ? 』
腕組をしながら、梅田先生が名乗りをあげる生徒がいないか待っている。
「お~い。誰か格好良く飛んでくれる奴はいないのか? 」
俺が先に飛び込んじゃうぞ、と残念そうな体育教師の梅田先生。
ここからの景色は絶景だなと、僕は年より臭く黄昏れていた。
『ほら! いこっ! 』
行かないと言ってるのに、と思っていたら、僕の影が動き出した。冗談だろと慌てながらも、僕の影に置いていかれるという不自然なことにはならないように、影子のステップに合わして僕もステップを踏む。
「おー。風間津瞬行くのか! 」と、梅田先生が嬉しそうな声を出すのがわかった。
いや、行きたくないんだけどと、口に出そうとするもやめる。影子と交わした約束が頭の中を過ぎってしまう。
僕は梅田先生を横目に、影子のステップと同時に走っていく。男子生徒の歓声が沸き起こる。影子、止まってくれと思うものの、もちろん口を開けることは出来ない。
『いっくよー! 』と、向かう先は水平線のカモメの一群へ。崖の先端に利き足である右足を踏み込む。僕は、心の準備もなにもせず、飛んだ。無様な姿勢のまま、我が身を空中に放り投げる。身体は海と空の色が混ざり合い、もはや上か下かの判別はつかない。視界の中に、見下ろす男子生徒や梅田先生、そして黄金色の砂浜、女子生徒と様々なものが飛び込んで来る。
『エヘヘヘー』と笑い声をあげる影子。
僕も何となく我慢が出来ずに笑いが込み上げる。
「ニヒヒヒー」と完全に意識が吹っ飛んでしまう。ゆっくりと、そして勢い良く海面に叩き付けられた。
影子が勝手に暴走したって無視すれば済むことだった。海の泡と一緒に薄れる意識の中で、よっぽど影子を失うのが怖くなっていたんだなと思った。